【4月29日(火)】


ガタガタと揺れる電車の中、進行方向に向かって景色が流ていく。
こうやってこの景色を見るのも久しぶりだ、前に見た時は確か桜の花が咲き始めていたころだった。

そんな桜ももうほとんど散ってしまい、今はもう葉桜の状態にとても近い。
今年の桜はもうお終い、春の間だけ他のどんな花よりも美しく煌びやかに咲ける桜の命はとても短いもの。

羽子さんの言葉を借りるならば、『花の命は短くて、乙女の命もまた同じ、命短し恋せよ乙女』だったかな。
前半部はどこかで聞いた有名な言葉だけど、後半部はきっと羽子さんが付け加えたんだろう。

【一条】
「……また来年までお預け、かな」

日本人に一番好きな花を上げさせたらきっと桜は上位に食い込んでくるだろう、何故なら桜には他の花には無い煽りがたくさんある。

桜は学校の入学式・卒業式にあわせるように咲き始める、ドラマや小説なんかでも卒業式の場面に桜を舞わせる演出は多い。
単純に綺麗ということもあるのだろうが、小さな花弁が舞う姿はどこか儚くて切なく、卒業というイメージにとてもよく合っているからだろう。
他にも桜には前線という言葉がついてまわってくる、桜前線という言葉はあれど、他の花を用いて前線という言葉を使うことは無い。
花見をするのも桜だけ、あの大きな木一面に薄桃色の花弁が咲き乱れれば、気持ちが高ぶるのも頷ける。

一斉にたくさんの花を咲かせ、僅かばかりの生を全うして潔く散っていくさまはなんて日本人が好みそうだ。
上げていけば切りがないのだが、とにかく桜は他の花よりも日本人に愛されているといえる。

桜の花言葉は『優れた美人』、これは此花咲耶姫からきているのだろう。
此花からこの花、桜を美の象徴として捉えるのならば、『この花、まるで桜のように美しいお姫様』ということではないだろうか?

【一条】
「そうすると、羽子さんの花言葉は桜かもしれないな……」

優れた美人という言葉、それは羽子さんにとても相応しい言葉だろう。
一点の隙も無く、頭脳明晰・容姿端麗の完璧主義者である羽子さんにこれほど合っている言葉も無い。

だけどそれは今の羽子さんであり、つまりは偽りをまとい続ける羽子さんでしかない。

桜の最大の弱点は、他のどんな花よりも儚く散りやすいということ。
強い風が吹けば桜は耐えられずに舞い散るだけ、人の心が折れてしまうのだって同じことだ。

人目を引きつけるような美しさの中に持ちえる脆さと儚さ、それらは羽子さんを体現するのに相応しい。
桜を人間に例えるとしたら、きっと羽子さんみたいな人を指すのではないのかな……

……

散々見ていた飽き飽きしていたけど、こうやって久しぶりに見ると結構懐かしめるものだ。
白一色を基調とし、清潔感とどこか檻のような雰囲気を感じさせるこの建物。

最近来ていなかったせいか酷く感慨深くなってしまうな。

もうここも慣れっこなので迷うこともなく目的の場所へと足が動く。
階段を上って廊下を渡って、辿り着いたのはある部屋の前。

コンコン

【男性】
「どうぞ、空いていますよ」

控えめのノックに中の男性も控えめな返事を返す。

【一条】
「失礼します」

【新藤】
「お待ちしていましたよ、一条君」

迎えてくれたのは新藤先生、ここは俺がこの間まで入院していた病院。
朝のうちに今日伺うと連絡をしておいたので、すれ違いになることもなく診察室で待ってくれていたみたいだ。

【新藤】
「君が私のところに訪ねてくるのは久しぶりだね」

【一条】
「そうですね、ちょっと聞きたいことがありまして」

【新藤】
「私にかい? 私程度の医者に聞くようなことがあるのか疑問だけど、とりあえずお茶を淹れようか」

普通の診察室には絶対に置かないであろうお茶セット。
先生の好きなコーヒー、紅茶がいつでも飲めるようにと看護婦の再三の注意も聞かずに置き続けている。

俺が入院している時は先生と一緒に看護婦さんにこっぴどく怒られたっけ。
一度はお茶セットを全部没収されたはずなのに、翌日には何事も無かったように新しいお茶セットが用意されていたこともあったな。

【新藤】
「お待ちどう、砂糖とミルクも1杯ずつ入れてあるよ」

【一条】
「ありがとうございます」

受け取ったカップの中ではまだミルクを加えられ、透明度を失ったコーヒーがくるくると回っていた。
表面を冷ましてから少しだけすする、ミルクのおかげで苦味の少ないコーヒーは俺にはとても飲みやすい。

【新藤】
「それで、私に話しというのは何かな? もしかして記憶が戻ったのかい?」

【一条】
「残念ながらそれはまだ、だけどそれはもう良いんです。 いつまでも過去過去って云っていてももう戻ってはこないんですから。
戻ってこない過去に悩むよりも、これからを考える方が前向きで良いじゃないですか」

【新藤】
「……決心が、ついたんだね」

【一条】
「ええ、もう過去に悩むことは終わりにしましたから」

過去を悩み続けていたあの頃の俺ではない、それも皆羽子さんや廓たちのおかげ。
あいつらがいなかったら俺はいつまでもこの呪縛の中から抜け出すこともできなかったかもしれない。

過去を失った時は右も左もわからずに進んでいたけど、今の俺はもう迷うことなく前に進んでいける。
迷っている暇なんて俺には無いんだ、俺以上に迷っているあの人を導いてあげるまでは……

【新藤】
「話の腰を折ってすまなかったね、それで君が聞きたいことというのは?」

【一条】
「……先生は、リストカットってどう思いますか?」

リストカットと聞いて先生の目尻がピクリと動く、やはり医者としてあまり聞きたい言葉ではないのだろう。

【新藤】
「これはこれは、穏やかな話じゃないね……まさかとは思うけど、一条君がリストカットを?」

【一条】
「まさか、俺には自分を傷付けるなんてことはできませんよ。
ただ、どうしても知っておきたいことがあるものですから……」

【新藤】
「何か訳有り、と見て良いようだね……しかしリストカットとは、随分と重い話題を持ってきたね。
一条君はリストカットをどの辺りまで知っているんだい?」

【一条】
「どの辺りと云われるとちょっと、自分の腕を傷付けることだということくらいしかわからないです。
どういったことでリストカットをしてしまうのか、ということを聞きたいんです」

【新藤】
「ふむ……」

カップを置き、椅子を軽く回して外の景色に眼を向けた。
しかし外を見ていたのはほんの数秒、すぐにまた椅子を戻して話を開始する。

【新藤】
「私は精神科医ではないからそこまで詳しいことは云えないけど、リストカットは精神的弱さが大部分を占めている。
自分ではどうしようもないと思ってしまい精神的に弱くなる、どうして良いかわからないから自分の体にあたるんだ」

【一条】
「精神的な弱さ……」

【新藤】
「ああ、他人には云えないような秘密を隠している人物に特に多い。
リストカットをする人が人前でリストカットをしないのは、リストカット自体がその人の弱さを示しているからだ。
人は誰だって弱いと云われることを酷く嫌う、だから隠れて自分の体を傷つける」

【一条】
「……」

【新藤】
「傷付けることで頭の中が痛みというもので充満され嫌なことを考える余裕が無くなる。
そうやって精神的な弱さから逃避をすることで、一時の安堵を手に入れることがもしかしたらできるのかもしれない。
しかし痛みなんてものはやがて消えてしまう、するとまた痛みへと逃げるために自らを傷つけてしまう、それの繰り返しだよ」

一度言葉を切って先生はコーヒーに口をつけた。

【新藤】
「もっともこれは私がそう思うだけで、精神科医にしてみればとんでもない話しなのかもしれないけどね」

はははと苦笑い、やはり専門分野ではないためにあまり自信が無いのだろう。
だけど新藤先生の説はリストカットというものの的を見事に射ているような気がする。

【一条】
「リストカットは一種の逃げの行為だということですか?」

【新藤】
「たぶんそうじゃないのかな、もしくは自分の存在を示すための行為。
誰にも自分の存在をわかってもらえないのならば、人の眼を向かせるのに一番簡単な方法だからね」

【一条】
「……自己主張の手段だと?」

【新藤】
「そう考えている人もいるかもしれないね……私は自分で腕を切るようなことをしたことはないから深いところはわからんよ。
ただ、リストカットが生み出す益は何1つ無い、とだけは確信できるけどね」

【一条】
「同意見です、やる側にだって考えればそのくらいわかるはずなのに……」

【新藤】
「そんな考えをめぐらせることができないくらい追い詰められているのかもしれないな。
人間いざその立場に立ってしまうと物事を理論的に考えることなんてできないんだ。
腕を傷付ける、それだけが頭の中で確立されて他の情報を一切排除する、そこまで追い詰められない限りリストカットなんてマネはできんよ」

そこまで追い詰められない限り、だとすると羽子さんはもうどうしようもないところまで追い詰められてしまっていたということだ。

【新藤】
「リストカットは云ってみれば言葉にできない悲痛な叫びなんだ、本人では止めたくても止められない。
誰かが止めてあげないといつまでも終ることもなく、本人も誰かに止めてもらうことを待っている」

そう考えるとむしょうに俺自身に腹が立つ、あの時はまだ羽子さんと付き合ってはいなかったけど俺は間違いなく羽子さんと多くの時間を過ごしていた。

もしかすると、羽子さんは何らかの訴えを俺に向けて出していたのかもしれないと思うと……

【新藤】
「それからリストカットは軽く見られがちかもしれないが、あれでも最悪の展開を迎える可能性は十分にある。
度重なる出血による突然のショック状態、それで死を向かえる人は年間に何人もいるからね」

【一条】
「死ぬって、本人にはそんな意思が無くてもですか?」

【新藤】
「勿論、本人には死ぬつもりも無い一時の逃避のつもりかもしれないが、身体はいきなり反応を示すものなんだ。
リストカットをした数時間後に、突然倒れてそのままなんて話も少なくない。
たかだか一時の逃避のために、永久に戻ってこれない所に行ってしまうんだ……」

ふぅっと眼を細めて深い溜め息、医者として願いもせずにそんな状態になってしまうのがやりきれないのだろう。
だけどリストカットに死の危険性があるのならば、いつまでも放っておくわけにはいかないのだけど……

俺がもしそのことを羽子さんに聞いたら、彼女は一体どんな悲しげな顔をするのだろうか……

【新藤】
「こんなことを君に聞いて良いものかわからないんだが、もしかして君の近くにそういった人が?」

【一条】
「……」

【新藤】
「すまない、気を悪くさせてしまったな……例えそんな人がいたとしても、今の質問はあまりにも軽率だったよ」

【一条】
「いえ、良いんです……いきなり訪ねてきてこんなことを聞かれれば誰だって疑いますよね
………彼女、なんですよ」

【新藤】
「ほぅ……」

彼女と聞いて新藤先生の眼が驚きに満ちる、だけどそんな驚きもすぐに元の表情へと戻った。

【新藤】
「それは初耳だね……本当なら祝ってやりたいところなんだけど、あまり明るい話ではなさそうだね」

【一条】
「情けないですよ、あの時はまだ付き合っていなかったとはいえ、彼女と接する時間はたくさんありました。
それなのに俺は彼女の叫びに気付いてやることができなかった、彼女の訴えを見た後も俺にはどうすることもできなかった」

【新藤】
「……」

【一条】
「彼女を傷付けてしまうのが申し訳なくて、俺は彼女の訴えに気がつかないフリをしていた。
付き合うことになってからなら俺が一番彼女に気付いてやれるはずだったのに、俺は彼氏として最低ですね……」

【新藤】
「なるほどね……だから君は私のところに来たのか」

椅子から立ち上がり、窓際まで足を進めると下りていたブラインドをざあっと勢いよく上げた。

【新藤】
「見たまえ一条君、良い天気じゃないか」

【一条】
「は、え、ええ、良い天気ですけど……」

【新藤】
「こんな天気の良い日は診察なんて丸投げして、ここの掃除でもパァッとやってやりたいとは思わないかい?」

【一条】
「まあ雨の日にやるよりは良いですけど、どうしていきなりそんな話を?」

何でまた掃除の話をするんだろう? それ以前に医者が診察を投げないでください。

【新藤】
「部屋というものは不憫だと思わないかい、どれだけ汚れようと自分ではその汚れを取り除くことができないんだ。
私か、他の誰かの手を借りない限り汚れは永久的に綺麗にはならない、部屋には手が無いからね」

【一条】
「あの、何が云いたいんですか……?」

【新藤】
「それならば手のある私が掃除をする、私が掃除をしてやればこの部屋は綺麗になる」

見事に流されてしまった、先生が云いたいことが終るまでは何を云っても無駄だろう。

【新藤】
「しかしだ、手のある私でさえ掃除をしなかったらこの部屋が綺麗になることはない。
掃除を待ち続ける部屋と、できるけど掃除をしない私、それではずっと汚れが消え去ることはないんだよね」

【一条】
「待ち続ける、できるけどしない……」

先生が何を云わんとしているのか、なんとなく薄っすらだけど見えてきた気がする。
もしかすると部屋と先生は何かの比喩表現に用いられているのかも……

【新藤】
「いつまでも私を待ち続ける部屋、ここは私の部屋なんだ、掃除をしてやれるのは私しかいない。
待ち続ける者には、それに対して最も相応しい者が行ってやらなければならないんだ」

先生は俺のもとへと歩み寄り、両手を俺の両肩へポンと置いた。
先日のマスターと同じように、俺の視線と自分の視線を交差させてとても年季の入った眼で告げる。

【新藤】
「いつまでも待ち続けているのなら、君が行ってやれば良いじゃないか。
彼女が自分に閉じこもっているのなら、君が行って彼女を連れ出してやれば良い、それを君が今からそんなに落ち込んでどうする」

【一条】
「先生……俺は彼女に踏み込んでしまって、良いんでしょうか?」

【新藤】
「云ったでしょう? 彼女は君に踏み込んでもらうのを待っています、それを君が躊躇してどうするんだい。
それとも良いんですか? 君が踏み込まなければきっと彼女はいつまでも今の状態のままですよ?」

【一条】
「それは不味いですね……」

やっぱりもう待ってばかりいられない、羽子さんが行動を待っているのなら俺は行動を起こすまで。

【一条】
「行動、起こしてみようと思います」

【新藤】
「それで良い、それもできるだけ早い方が良いね」

椅子に座りなおし、先生は再び医者としての見解を始めた。

【新藤】
「君の彼女のリストカットが今どこまで進んでいるのかはわからないが
やり続けているのであればそのうち取り返しのつかないところまで行ってしまう」

【一条】
「ええ、できるだけ早く行動を起こすつもりです」

【新藤】
「それともう1つ、リストカットが止めさせられたからといってそこで安心してはいけないよ。
リストカットを止めた後でも、その腕にははっきりとリストカットを行った痕が残ってしまう。
それを見るたびに彼女は悩み続けてしまう、その辺りのケアも怠ることの無いようにね」

腕に深く刻みついた傷の痛みは癒えたとしても、傷の痕跡が腕から消え去ることは無い。
リストカットをしてしまった代償、それはいつまでも肉体に残るやるせない記憶だけ……

そんなものに羽子さんが悩み続けるようなら、一番近いところにいる俺が何とかしてやらないと。
今まで知りながらも何もしてあげられなかった俺には、羽子さんの側で羽子さんを止めてあげるくらいしか償いの方法は無い。

【新藤】
「しかし一条君、君も随分と変わったね……この病院を退院した時とはまるで違う」

【一条】
「え、そうですか?」

【新藤】
「ああ、前に私を訪ねてきた時の君は、なんだか孤独だったよ。
だけど今はどうだ、彼女ができてその子のために必死になって考えられる、良いことじゃないか」

【一条】
「それもこれも、全部あの街で得られたんですよ」

普通の生活、友人、彼女……それから希望。
全てを失くして空っぽになっていた俺に、あの街はあらゆるものを注いでくれた。

今ならはっきりと断言できる、俺を救ってくれた奇跡に感謝をしよう……

……

【一条】
「またいつかお邪魔しますね」

【新藤】
「君ならいつでも歓迎だよ、できることなら一度彼女とやらを紹介してもらいたいくらいだ」

【一条】
「機会があったら連れて来ますよ、それでは失礼します」

新藤先生に一礼し、診察室を後にした。

【一条】
「今まで、1人で苦しませてしまって申し訳ありません……」

看護婦も患者もいない廊下に俺の声だけが小さく響く。

【一条】
「俺で力になれるかはわかりませんが、もう1人で悩ませ続けたりはしないですから。
悩んでいる彼女の力になってあげるもの、彼氏の仕事ですよね」

羽子さんに向けての決意、勿論こんなところでしても羽子さんに届くわけは無いのだけど、どうしてもしておきたかった。
マスターと新藤先生、2人に期待を寄せられて俺の腹はもう決まった。

決行日は明日、明日俺は……羽子さんの一番深いところに踏み込むつもりでいた。
羽子さんを解放するために、偽りをまとった羽子さんを消す手伝いをするために。

そして何より、俺があいつの彼氏として、頼ってもらえるとようになるために……





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