【4月24日(木)】
【一条】
「う……うぅん…」
いつもと少しだけ身体に被さる毛布の質感が違う、家の毛布こんなにふわふわしてなかったような気が……
【一条】
「なんだってこんなふわふわし…て……」
寝返りを打つと、そこには……
【羽子】
「くぅ……くぅ……」
羽子さんが眠っていた、俺と同じベッドの上で羽子さんが毛布に包まって、俺はそれを見ていて……
【一条】
「………うわわ!」
どうして羽子さんが俺のベッドの上で!? いつの間に俺の部屋に……
なんて考えはほんの一瞬だけ、すぐに昨日何があったのかを思い出した。
俺と羽子さんは昨日恋人同士になり、羽子さんが帰らないでくれと云ったので厚意に甘えて泊まらせてもらったんだっけ。
だけど昨日はこっちを見ないでとか云ってたくせに、羽子さんの方が俺の方を向いているじゃないですか。
寝ている羽子さんの顔なんて勿論見たことは無かったけど、思っていた通り可愛らしい顔で眠っていた。
くぅくぅと寝息に合わせて口元が僅かに動く、とても無防備なその顔、昨日の夜と同じ人だと思うとなんだか笑けてしまう。
【一条】
「もう少しだけ、このまま寝かせておきますね……」
羽子さんの微笑ましい寝顔を横目に見つつ、今日からどんな風に接していこうかを考えていた。
俺たちは恋人同士になったけど、きっと羽子さんはあまり周りに知られるのを良しとはしないだろう。
かといって隠し通せるほど安全な人は周りにはいない、廓、美織辺りは勘が良いから隠せても数日ではないだろうか。
【一条】
「さて、どうしたものかねぇ……」
俺の心配をよそに、羽子さんはいまだ眠りの世界の中。
くぅくぅ聞こえる小さな寝息の音が、心配などしてもしょうがないと笑っているように聞こえた。
できるだけ優しい手つきで羽子さんの頭を撫でる、さらりとした髪の毛の感触がとても気持ちの良いものだった。
対して羽子さんはどこかくすぐったいところでもあったのか、少しだけ口を閉じて身じろぎをした。
【一条】
「そうですね、心配するだけ損かもしれませんね」
まるで俺に答えてくれたかのように、僅かに口元に笑みが浮かんでいた。
そんな羽子さんの寝顔を見ながら、はだけてしまっていた毛布を羽子さんへとかけてあげる。
そんな時、俺の視線は羽子さんの左腕、皮膚の色ではない真っ白な羽子さんの腕を見つめていた。
包帯の巻かれたその手首、その下にはあの時屋上で羽子さんが付けた傷がまだ痛々しく残っていることだろう。
【一条】
「どうして、羽子さんはあんなことを……」
【羽子】
「んん……あふぅ………」
眠っていた羽子さんの寝息が不規則になり、やがて薄っすらと閉じられていた眼が開かれていく。
クシクシと目元を擦り、ふあぁと小さな欠伸を漏らした。
【一条】
「あ……眼、覚めましたか?」
【羽子】
「ぁ、一条さん……お早うござい…ま……!」
瞬時に顔を赤く染めた羽子さんはかけられていた毛布を剥ぎ取り、それに包まるようにして自分の体を隠していった。
【羽子】
「ど、どどど、どうして一条さんが私のベッドの中に……」
【一条】
「昨日のことを思い出してもらえると、どうなったか説明しやすいんですが」
【羽子】
「昨日……ぁ、そ、そうでした」
ポォっと、さっきとは頬が違う染まり方をした。
さっきは顔全体が赤くなたけど、今度のは頬だけがやんわりと紅潮していた。
昨日のことを思い出して、思わず赤面してしまったというたところだろうか?
【羽子】
「私たちその、なったんですよね……」
【一条】
「大人になったって云うのなら、確かになりましたね」
【羽子】
「わ、私が云っているのはそういう身体のことではなくて!」
【一条】
「俺は一言も身体がなんて云ってませんよ、付き合い方が前よりも大人になったって云おうとしたんですが。
羽子さんの中では何がどうなっていたんでしょうね?」
【羽子】
「あ、あうぅぅ……」
毛布に身体を包んだまま視線を真下に落として外す、きっと今の顔を見られるのがとても恥ずかしいのだろう。
【羽子】
「やっぱり狡猾です……」
【一条】
「はは、すいません、好きな子には意地悪をするっていうのが定番ですから」
意地悪してしまったのを謝る意味も込めて、毛布に包まる羽子さんの身体を抱きしめた。
羽子さんの体温よりも、毛布のふわふわした感触と暖かさがなんか変な感じ。
【羽子】
「もう……云っておきますが、くれぐれも他の人の前でこんなことはしないでくださいね」
【一条】
「わかってますよ、だけどもう少しだけ良いですか」
【羽子】
「どうぞ……ですが、学校に遅れない程度にお願いします」
笑みを見せる羽子さんの体をギュウっと抱きしめる、ちょっと苦しいかもしれないけど、俺はとても心地が良かった。
【一条】
「……これくらいにしておきますね、あんまりやりすぎると羽子さんに嫌われるかもしれませんから」
【羽子】
「誰も見ていないところでしたら私は絶対に嫌がったりはしませんよ……」
【一条】
「はは、なんかそう云ってもらえると嬉しいですね」
羽子さんの身体を開放し、ベッドから降りて軽く伸びをする。
昨日の今日だからどこか痛いところあるかもと思ったけど、特にそういったところは無いみたいだな。
【羽子】
「ふぁぁ……んんーん」
俺と同じように羽子さんもベッドの上で身体を伸ばす、すると羽子さんの身体を覆っていた毛布がはらりとずれ落ちて。
【一条】
「!……」
羽子さんのその姿、それは昨日色々とあった後そのままの恰好。
下はズボンの類は無く下着が1枚だけ、上は薄手のブラウスを1枚羽織ってはいるもののボタンは1つしか留められておらず。
着やせするタイプの羽子さんの大きめの胸が、ブラウスの隙間からこれでもかと自己主張をして……
俺は見惚れてしまっている、それと同時に昨日の夜のことがフラッシュバックし……うわぁ!
【羽子】
「? どうしたんですか、そんな驚いた顔をして……」
【一条】
「は、羽子さん……その、ええっと…」
【羽子】
「はっきりしないですね、ちゃんと云ってください」
【一条】
「ああっと……胸が…というか下着も……」
【羽子】
「胸? 下……着……?!」
気がついた羽子さんの眼が大きく見開かれ、この後どうなるかは大体予想が……
【羽子】
「い、一条さんの、莫迦ー!!!!!」
清々しい朝は、羽子さんの絶叫で見事に慌ただしいものへと変換された。
……
羽子さんの部屋に泊まってしまったために、俺は一度部屋に戻って制服に着替えて鞄を取ってこなければならない。
折角なので羽子さんも一緒に行くということになり、先に制服に着替えた羽子さんと一緒に俺の部屋へと向かっているのだけど……
【一条】
「むす……」
【羽子】
「あ、あの……お、怒ってますか?」
【一条】
「怒ってないですよ、表向きはですけど」
【羽子】
「あ、あうぅ……す、すいませんでした……」
羽子さんが絶叫した後、手元にあった枕を思いっきり俺の顔めがけて投げつけてきた。
俺は避けられずに顔面に枕の洗礼を受けてしまう破目に……
打ち所が悪かったのか、やけに鼻が痛いのですが……
そんなわけで、さっきから羽子さんは平謝りしっぱなし。
俺が意地悪をして許してあげないために、羽子さんのあたふたがいつまで経っても消えていかなかった。
【一条】
「俺に非はありましたか?」
【羽子】
「……何も無いです、悪いのは全部私だってわかっています。
あの時億劫がらずにちゃんと服を着ておけばあんなことにならなかったのですから」
【一条】
「全面的に羽子さんが悪いということで、良いんですか?」
【羽子】
「そう認めざるをえないですね……」
【一条】
「まああれだけ謝ってもらいましたからもう別に怒ってはいないんですが」
【羽子】
「本当にですか?」
【一条】
「ええ、これ以上意地悪しても可愛そうですから、後1つでチャラにしましょうね」
【羽子】
「?」
後1つとはなんだろうか? といった感じで羽子さんが小さく首をかしげた。
【一条】
「確か前にもこんなことがありましたね」
コキコキと指を鳴らす姿を見て、羽子さんにも何かピンとくるものがあったようだ。
【羽子】
「い、痛くしないでくださいね……」
【一条】
「はは、なんだか昨日からそればっかり聞いている気がしますよ。
一応眼は瞑ってくださいね、見えていると怖いかもしれませんから」
【羽子】
「……」
きゅっと眼を瞑り、緊張があるのか少しだけ肩を強張らせた。
【一条】
「いきますよ、せーの!……」
【羽子】
「……ん、んぅ!」
眼と瞑らせていたおかげで羽子さんは無抵抗のまま俺の意地悪に引っかかってしまう。
羽子さんの後ろ頭を軽く押さえ、離れてしまわないようにして羽子さんの唇へと自分の唇を重ね合わせた。
【羽子】
「ふぁ……い、一条さん…や…止めてください……ぅぁ」
重ね合わさっているところから無理に声を出そうとするので、唇がなんともこそばゆい。
羽子さんの柔らかい唇がもそもそと動いて、これはこれで……
【羽子】
「こんなところでは……んん……」
【一条】
「……はい、お疲れ様でした」
【羽子】
「ぷぁ……はぁ、はぁ……ううう………一条さん!」
顔を真っ赤にしながら怒り心頭、まあいきなりされれば怒って当然か。
【羽子】
「あれほど人気のあるところではこういうことをしないでくださいと云ったのに!」
【一条】
「ちゃんと周りは確かめましたよ、心配しなくても誰も見ていませんよ」
【羽子】
「誰も見ていなかったら所構わずして良いとは一言も云っていません!」
【一条】
「しちゃ駄目ですとも云ってないですよね」
【羽子】
「くっ……」
普段の羽子さんならば俺のこんなジャブは軽く捌けるのだろうけど、なにぶんさっきのキスのせいで動揺しているみたいだ。
学校にいる時の羽子さんしか知らない人が今の羽子さんを見たら、一体どう感じるんだろうな?
【羽子】
「も、もう勝手にしてください!」
【一条】
「そんな怒らないでくださいよ、これで朝のことはチャラになったんですから。
俺の部屋まで付き合ってくださいよ」
【羽子】
「1人で勝手に行けば良いじゃないですか!」
【一条】
「そうですか……それじゃあ今日は家でゆっくり寝てますね、先生にはよろしく伝えてください」
【羽子】
「なっ! サボりはいけませんよ!」
【一条】
「じゃあ俺がサボらないように見張ってください、でないとどっか逃げますからね」
【羽子】
「……ふふ、手のかかる人ですね、だけど……なんだかこういうのも嬉しいものですね。
わかりました、今日1日一条さんが勉学を怠ってしまわないようにしっかり見張っていますから、そのつもりで覚悟しておいてくださいね」
人差し指口元に置き、大人びた印象がとても強い羽子さんらしいキリリとした笑みを見せてくれた。
【一条】
「それじゃ、とりあえず俺の部屋まで行きましょうか」
【羽子】
「はい」
……
【美織】
「ジィー……」
【一条】
「な、なんだよ人の顔ジロジロ見て」
【美織】
「いやなに、マコにしては珍しく居眠りしないなーって思ってさ、栄養ドリンクでも飲んだの?」
【一条】
「たまにはそんな日もあるさ」
【美織】
「そう? 明日の天気崩れなければ良いんだけどね」
……そんなに俺が起きているのが珍しいか?
確かに最近は寝てばかりいたけどさ……前言撤回、まともに起きているのは結構珍しいかも。
これも全部羽子さんのおかげ、時折俺のことを気にかけて視線を向けてくれる。
授業の開始前と終了後、2人の視線は軽く交差をし、わからないようにお互いに笑顔を返していた。
【美織】
「で、どうする?」
【一条】
「何が?」
【美織】
「お昼だよ、お昼。 午前中の授業ずっと起きてたんだからお腹空いてるんじゃないの?」
【一条】
「そういえば……」
4時限目の最中に3回くらいグルグルと腹が鳴ったっけ、起きてるのって体力使うんだな。
【美織】
「購買と学食どっちが良い?」
【一条】
「俺はどっちでも、今なら食えればどっちでも良い」
【音々】
「ふふ、お2人ともお昼の相談ですか?」
【美織】
「この時間ならそれ以外無いって、お、姫は今日のお昼は?」
【音々】
「まだ考え中です、お2人に混ざらせてもらえるととても嬉しいんですけど」
【美織】
「じゃあ購買だね、いざ行かん熱き志渦巻く戦場へ!」
なんとも微妙な口上を口にして大きく腕を突き上げた、音々も小さく「おぉー」と手を上げている。
ここは俺もやっておかないと後で何やかや云われそうだな……
【一条】
「おー」
……
【美織】
「くししし、大量大量」
今日は珍しく購買が混んではいなかった、そのおかげで普段は変えないようなレアなパンも手元にある。
コロッケにメンチに、お好み焼きパンなんて今まで売っていることさえも知らなかったな。
美織も音々も錚々たるパンを手にしているというのに、なんで俺の手にはまたこいつがあるんだよ……
【一条】
「……2度と見ないと思っていたのに」
【音々】
「パンとご飯と焼きソバ、そんなにいっぺんに食べて大丈夫なんでしょうか?」
【美織】
「某が食べてるから大丈夫なんじゃないの?」
【一条】
「あいつを基準に考えられると色々と問題があるんだが……」
【音々】
「男の方ってたくさん食べるんですね」
【一条】
「ははは……」
俺はこいつを食べて、午後の授業も起きていることができるんだろうか?
【美織】
「そんなんばっかり食べてると太るよ……ぉ」
【羽子】
「ん……」
教室に戻ろうとしたところで学食からの戻りであろう羽子さんに出会った。
思わず声をかけそうになるのを必死で堪える、学校の他の人がいる前では今までと同じように接しようと2人で決めたんだった。
【美織】
「食事前にあんたに会うとなんだかげんなりするわ、もたれるかも」
【羽子】
「そうですか、生憎私はもう昼食は済んでいますのでそんな心配は必要ないのですけど。
もし酷いようでしたら一報を、保健室まで付き添ってあげますよ。
彼方がいない方が、教室が静かになってとても過ごしやすいですからね」
【美織】
「なぁんだとぉー(怒)」
ぎりぎりと空いた手で握り拳、プルプルと震えだしたら俺が止めに入らないと不味いかな。
【音々】
「あ、あの2人とも、あんまり廊下の真ん中での喧嘩は周りの迷惑になりますから」
必死で2人をなだめようと頑張る音々、俺がいない時はきっといつもこんなだったんだろうな……
【羽子】
「私たちのいざこざで他の方に不快な思いをさせては申し訳ないですから、私はこれで。
宮間さんもあまり騒がない方が良いですよ、騒ぐと肌にも悪いですから」
ふふふっと羽子さんらしい知的な笑みを見せ、一瞬だけ俺と視線を交わして羽子さんは中庭へと消えていった。
【美織】
「なんだあの女は!」
【音々】
「み、美織ちゃん落ち着いてくださいよー」
【美織】
「……どうやら、いつもの羽子に戻ったみたいだね。
やっぱり羽子はああでないと、私に突っかかって理屈論だけで返してくれないと私も調子が狂う」
【一条】
「なんだ、羽子さんのこと心配してたんだ」
【美織】
「多少也とはね、今まで口喧嘩の絶えなかったあたしたちなのに、急に大人しくなられたらあたしのサイクルが狂っちゃうもの。
良い意味でも悪い意味でも、あたしにとって羽子はああでなくちゃいけないみたいだね」
なんだ、いつも喧嘩ばっかりしているから仲が悪いのかと思ったけど、どうやら俺の勘違いみたいだな。
だけど美織の性格上、羽子さんは美織がどう思っているのかをわかっているのかは疑問だけど。
【音々】
「羽子さんがいつもの調子に戻って良かったですね、一条さん」
【一条】
「へ? 俺? あ、ああ、うん、良かったな」
【音々】
「ふふ、グラジオラスの花言葉、やっぱり正しかったみたいですね」
何かを確信したかのように音々が笑う、このぶんだと音々にはもう俺たちの関係がばれちゃってるかもしれないな。
【美織】
「何、グラジオラスって?」
【音々】
「きっと羽子さんにとてもお似合いの花ですよ、花言葉は『たゆまぬ努力』その他にも諸々」
【美織】
「ふぅん、だけどマコ、羽子と仲直りできたんだ。 一応おめでとう、と云っておいた方が良いのかしら?」
【一条】
「そりゃどうも」
【美織】
「ぉ、急がないとお昼食べる時間無くなるよ、教室までダーッシュー!!」
1人駆け出す美織を追いかけるよう俺たちも駆け出した。
【音々】
「おめでとうございます、お幸せに」
【一条】
「ああ」
美織には聞かれないように小声で音々は祝福の言葉をくれた。
やっぱり全部わかっているみたいだな。
【一条】
「花言葉、教えてくれてありがとな」
【音々】
「どういたしまして、私もお2人が丸く収まって良かったです、それから美織ちゃんと羽子さんのことも」
【一条】
「なるべく黙っておいてくれよ、羽子さん恥ずかしがりやだから」
【音々】
「お任せください、無闇やたらに口外しようなんて思いませんよ、羽子さんとがんばってくださいね」
言葉なんて要らない、俺は出きるだけの笑顔を作って大きく1つ頷くだけだった。
……
キンコーン
6時限目終了の鐘、お腹いっぱいの中での授業は起きているのがやっとだった。
【一条】
「ふああぁぁぁ……」
【羽子】
「ふふふ、お疲れ様でした」
教室内に誰もいなくなったのを見計らって羽子さんが俺のもとへと寄ってくる。
【一条】
「な、何とか居眠りせずに起きていましたよ……」
【羽子】
「そのようですね、ですがそれが学生としての勤めなのですから、褒めるようなことではないと思うのですが」
【一条】
「手厳しいですね……」
【羽子】
「これで学校も終わりですからゆっくりお休みください、と云いたいところなんですがそうも云ってられないですよね」
【一条】
「……なんでですか?」
【羽子】
「お忘れですか? 特別テストの件、勉強会を開いてくれってお願いされましたよ」
おぉぅ、そういえば以前そんな話しをした記憶があるな。
【一条】
「今日は遠慮します……」
【羽子】
「駄目ですよ、今日1日一条さんが勉学を怠らないようにと監視を任されていますから。
無理強いはしませんが、その際には契約違反ということでちょっとした罰を与えてあげますね」
【一条】
「罰って、キスでもするんですか?」
【羽子】
「私はそんなはしたない女ではありません!」
ガーっと漫画で描写されるような怒り方で怒られた、だけど罰って何するつもりなんだろう?
【羽子】
「例えばですね……私が毎日一条さんのお部屋まで出向いて朝まで勉強を教える、とかどうですか?
勿論居眠りなんてしようものなら叩き起こしますからね」
毎日朝までは辛すぎるな、ちょっとした罰のレベルを軽く超えているような気がするぞ。
朝はノリで監視しないと逃げるなんて云ってしまったけど、ここにきて全部害になって帰ってきやがった。
【羽子】
「どちらにしますか? 今から約1時間程度一緒にお勉強するのと、朝まで一条さんお部屋で一緒にお勉強するのでは。
ちなみに、私は特にどちらでも構いませんよ」
【一条】
「お勉強っていうのは……」
【羽子】
「変な方向にとったりしたら怒りますからね」
う、表情は笑顔なんだけど声はどことなく威圧的で、ふざけたことを云ったら烈火のごとく怒られそうだな。
【一条】
「仕方ない……もう少し頑張って勉強します」
【羽子】
「はい、お付き合いしますよ」
はぁ……こうやって笑顔とか見せるのはずるいと思う。
……
【羽子】
「はい、後はそれをここに代入して……こうするとわかりやすくなりますよ」
【一条】
「わかりやすいですか、これで?」
【羽子】
「ここまで紐解ければもう解けてしまったも同然です、もうひと頑張りですよ」
図書室の静寂の中に羽子さんの熱心な声と俺の苦悶の声が響いている。
人気の無い2人だけの図書室は、やけに声が響くものだと改めて実感させた。
【羽子】
「あ、駄目ですよ、そこを先に計算してしまうと最終的に誤差が出てしまいます。
そこではなくて、こちらから計算すると計算量も1回少なくて済みますから簡単に出せますよ」
【一条】
「へえ、なんか初めて聞くことばかりですね」
【羽子】
「うぅん……何度も先生が実演していたのですが、見ていませんでしたか?」
【一条】
「生憎、最近は勉強以上に考えることが多すぎたものですから……」
【羽子】
「ぁ……そう、でしたね」
羽子さんの表情が少し曇りを帯びた、俺が何を云いたいのか理解したのだろう。
【羽子】
「一条さん……」
【一条】
「その話は無しにしましょう、勉強に関係のある話じゃないですよ。
次の問題、教えてください」
【羽子】
「……はい」
1回軽く頭を振り、気持ちを切り替えた羽子さんの顔にはもう暗さは微塵も存在してはいなかった。
その後も羽子さんに教えてもらいながら少しずつ問題を消化していく、やっぱり羽子さんの教え方はわかりやすく覚えやすい。
【羽子】
「ふぅ、初日から焦りすぎてもいけませんから今日はこの辺りで止めにしましょうか」
【一条】
「おぉー疲れたぁー……」
ぐいーっと背中を反り、続いて両腕を前に突き出して逆に反る。
久しぶりにこんな頑張って勉強をした気がするなあ。
【羽子】
「お疲れですね、マスターのお店寄って行きましょうか?」
【一条】
「そうですね、久しぶりにお邪魔させてもらいますか」
【美織】
「おやおや、随分と仲が良いのね、お2人さん」
【羽子】
「!」
本棚の影からひょっこりと美織が顔を見せる、その表情はなんというか……何かたくらんでいるような感じが。
【美織】
「2人で人気の少ない図書室で仲良くお勉強とはね、いやーまいったわね」
【羽子】
「み、宮間さん! あ、彼方いつからそこに!」
【美織】
「ん、あたし? あたしはあんたらが来る前からもうここにいたけど、気付かなかったの?」
【一条】
「いたんなら声ぐらいかけてくれよ」
【美織】
「それは無理、2人で仲良くお勉強しているところに割り込むなんて無粋なことできますかって。
まあそのおかげで、2人のラブラブな密会を1から10まで全部見れたわけだけどねー、にしし」
【羽子】
「なっ!」
さっきのどうしようもないたくらんだ顔はこいつを云うためだったんだな。
俺は大体予想がついていたけど、羽子さんの方は口が開いたまま止まってしまっている。
【美織】
「だけどマコも変わり者だね、なんでまた羽子なんて選んじゃったの?
今からでも遅くないからあたしにのりかえてみない? きっと羽子よりも煩くなくて楽しいよ」
【羽子】
「あ、彼方って人は!」
【美織】
「怒らない怒らない、あんま怒りすぎると肌に悪いよ。
そ・れ・に、マコにそんな怒った顔ばっかり見せてたら愛想付かされちゃうよ〜♪」
【羽子】
「っ!」
【美織】
「マコを他の女に取られないように頑張って守り抜くこと、あたしばっかり気にしてると足元すくわれるぞ
それから、チャンスがあればあたしが取っちゃうからね、マコもいつでもあたしんとこ来て良いよー♪」
【羽子】
「だ、誰が彼方なんかに!」
【美織】
「すぐにのっかって怒らないこと、笑顔笑顔」
こいつは役者が違うな、平常時の羽子さんなら打ち負かすこともできるのかもしれないけど、今の精神状態じゃ分が悪い。
もとより口喧嘩をしたら美織の方が一枚も二枚も上手、真面目と不真面目の差はこういったところで大きく出る。
【羽子】
「と、図書室ですから大きな声は出せませんが、人を小馬鹿にするのもいい加減にしないと」
【美織】
「もう十分に声大きいと思うけど」
【羽子】
「う、煩いです!」
ふーふーと変な息遣いの羽子さんと、余裕綽々で現状を楽しんでいる美織。
2人の力関係は普段なら 羽子さん > 美織 なんだろうけど、こういった時だけは 美織 >>> 羽子さん ぐらいになっていそうだな。
【美織】
「さて、羽子もおちょくったことだしあたしは帰るわ、いちゃつくのも程々にしておきなさいよ」
【羽子】
「誰がいちゃついてなんかいましたか!」
【一条】
「羽子さん、簡単にのせられて怒らないでくださいよ」
結局最後の最後まで美織のペース、美織があの部屋にいたということを知った時点で羽子さんは半パニック状態だったからな。
【羽子】
「はぁー、はぁー……」
【一条】
「たぶん美織にばれましたね」
【羽子】
「うぅ、迂闊でした……1番知られたら不味い人に知られてしまうなんて」
【一条】
「まあ良いじゃないですか、あいつに知られたらもう誰に知られたって怖くないですよ。
これでも大手を振ってイチャイチャできますね」
【羽子】
「一条さんがそういう考えばかりするからすぐにばれてしまったんですよ! 全部一条さんの責任です!」
【一条】
「え、俺のせいですか?」
【羽子】
「私のせいだって云いたいんですか!」
【一条】
「はい……」
【羽子】
「くうぅ、一条さんまで私を莫迦にしてぇ……」
羽子さんの握った拳がわなわなと震え、眼には薄い涙を浮かべている。
100%怒っている、怒らせる原因を作ったのは全部美織なのだけど、当の人物はもういない。
となると、怒りの矛先が向けられるのは自然と俺になるわけで……
【羽子】
「一条さんのぉ……」
【一条】
「!」
【羽子】
「むぐ……んぅ!!」
バタバタと腕を動かして必死で離れようとするも、俺はそれを良しとしない。
羽子さんの怒りのベクトルがどこに向くのかはわからないけど、とりあえずここで怒り狂われても困る。
……なんて考えた俺が莫迦だった。
……
【羽子】
「まったくもう、どうして一条さんは所構わずああいうことをするんですか」
【一条】
「いやぁその、すいません……」
あの直後、顔を離した俺の頬に羽子さんの平手打ち。
手の痕は残っていないけど、いまだに頬からはジンジンした痛みが伝わってくる。
【羽子】
「良いですか? あそこは学校の図書館なんですよ、不特定多数の人が利用する非常に危険な場所です。
そんなところであんな状況になっているところを見られてしまっては、お互いに生活がしづらくなることはわかっていますか?」
【一条】
「俺はそんなに気にしませんが……」
【羽子】
「私が気にするんです!」
【一条】
「す、すいません……」
なんか学校帰りからずっと謝りっぱなしだな、朝とは全く逆のこの立ち位置。
【羽子】
「はぁ……一体1日で何回すれば気が済むんですか。
一条さんはする方ですからなんともないのかもしれませんが、される方の気持ちも考えてください」
【一条】
「羽子さんは、ああいったのは嫌いですか?」
【羽子】
「べ、別に嫌いではありませんが、ああいったふうに何の準備もなくいきなりされるのは……
って、私は怒っているんですよ!」
話の流れを変えられるかと思ったんだけど、すぐにまた戻されてしまった……
【男性】
「はっはっは、随分と楽しそうな話をしているね」
【羽子】
「……私には少しも楽しくないですよ」
【男性】
「そうかい? そのわりにはどこか顔が笑っているような気がするけどね?」
【羽子】
「余計なことは云わなくて良いです!」
【男性】
「はいはい、一条君もあんまり無茶してはいけないよ。
羽子ちゃんこう見えてもかなり初心だから、一条君みたいに大胆になるにはもう少しかかるだろうね」
【羽子】
「マースーターァー(怒)」
【男性】
「ごゆっくり」
後ろ手に手を振りながらカウンターの奥へと戻っていく、羽子さんはマスターにも弱いみたいだ。
【羽子】
「ううぅぅ、皆揃って私を莫迦にしてぇ……」
【一条】
「羽子さんは周りの人の言葉にのせられすぎですよ、もう少し気にしないようにしたらどうですか?」
【羽子】
「そうしようとは努めていますよ、ですがどうしても周りの言葉が気になってしまって」
【一条】
「そんな生活疲れませんか?」
【羽子】
「……疲れますよ、いつも神経を使っている状態ですから。
私も一条さんのようにできたら良いんですが、なにぶんそういった性格なので中々……」
またはぁっと小さく溜め息を漏らし、小さく肩を落とした。
【羽子】
「もう何を怒っていたのかも忘れてしまいました……一条さん、お腹空きませんか?」
【一条】
「空いてないとは云いませんが、腹ペコではないですね」
【羽子】
「それじゃあ何か軽く食べていきませんか、勿論一条さんのおごりですよ」
【一条】
「へ、俺がですか?」
【羽子】
「はい、今日1日一条さんには苛められ続けましたから、私にも何かご褒美のような物が欲しいです」
うっ、またそこでそういう笑顔を見せるんだから……男ってなんでこう意志が弱いのだろう。
【一条】
「わかりました、好きな物頼んでください」
【羽子】
「ふふ、ありがとうございます」
……
【羽子】
「うぅーんん、ごちそうさまでした、一条さん」
【一条】
「結局夕飯も済ませちゃいましたね」
【羽子】
「男性にご馳走してもらうというのは、なんだか嬉しいものですね」
【一条】
「あ、外暗いですから送っていきますよ」
【羽子】
「ありがとうございます、それじゃあお言葉に甘えさせてもらいますね」
【男性】
「一条君、ちょっと良いかな?」
帰ろうとすると、店長がカウンターの奥から来い来いと手招きをする。
【羽子】
「私は外で待っていますね、ごゆっくりどうぞ」
【一条】
「……はい、どうかしましたか?」
【男性】
「とりあえず羽子ちゃんとのこと、おめでとうと云わせてもらうよ」
【一条】
「ありがとうございます、今でも羽子さんが俺のどこを好きになったのかはわからないんですけどね」
【男性】
「どこっていうのはきっと無いだろうね、羽子ちゃんが好きなのは君の全て、全てが揃って羽子ちゃんは君に惹かれたんだ」
マスターの言葉にやけに恥ずかしくなってくる、俺の全体にそんな魅力があるとは思えないんだけどな。
【男性】
「羽子ちゃんのこと、よろしく頼むよ……彼女いつもは強い子に見えているかもしれないけど
本質は全くの逆、同じ年代の子の中で比べたら比較にならないくらい弱い。
小さい頃から彼女を知っている私としては、色々と心配事も多かったのですが……君がいれば、羽子ちゃんも変わるかもしれませんね」
ぽんと両手を俺の肩に置き、真っ直ぐに視線を交差させてマスターは言葉を続ける。
【男性】
「羽子ちゃんのことだ、きっと君に話していないことも多々あるだろう。
だけど、羽子ちゃんにとって何か良くないことがあるのなら、力になってあげてください」
【一条】
「……はい、お任せください」
真剣なマスターの視線に、俺も同じように真剣な視線を返す。
互いに真剣な、どこか睨み合いをしてるような2人の表情のまま、先に表情を崩したのはマスターの方だった。
【男性】
「君ならきっと大丈夫でしょうね、さあ行ってあげてください。
私が長い間引き止めてしまっていては、羽子ちゃんに怒られてしまいますからね」
……
【羽子】
「マスターと何話してらっしゃったんですか?」
【一条】
「それは秘密ですよ、男と男の秘密です」
【羽子】
「女の私は仲間外れですか、2人揃って私の悪口でも云っていたんじゃないでしょうね?」
【一条】
「ははは、隠れて羽子さんに悪口云う必要なんて無いですよ」
【羽子】
「だと良いのですが、一条さんは時折酷く意地悪ですから……」
【一条】
「……あの、羽子さん」
【羽子】
「なんですか?」
マスターの言葉が思い出される、きっと俺に話していないことも多々あるだろうということ。
俺にもいくつか羽子さんの気になるところがあるのだけど、それを羽子さんから云わないということは云いたくないということだ。
恋人になったからといって、無闇に聞いて良いことであるはずはない。
羽子さんから話してくれるのを待つのが1番良いのだろうけど、やはりあの腕のことを放っておくことは……
【羽子】
「一条さん?」
【一条】
「あ、いえ、なんでもないですよ……星、綺麗ですね」
何気無く見上げた空には、まるで砂を撒いたように小さな星が散らばっていた。
以前羽子さんと一緒に見たプラネタリウムに比べると見える星の数も少ないけど、それでも十分に綺麗だった。
【羽子】
「……こうしていると、なんだか嫌なことも忘れてしまいそうですね」
【一条】
「嫌なこと、ですか……そうかも、しれないですね」
【羽子】
「……」
【一条】
「あ……」
空いていた俺の手に、羽子さんが自分の手を絡めてくる。
【羽子】
「恋人同士なんですから、これくらいしても良いですよね」
【一条】
「ええ……」
暗くて羽子さんの表情はよくわからないけど、きっと頬を赤らめていることだろう。
羽子さんの手の温もりを感じながら、俺たちは星空の下をゆっくりと歩き始めた。
やっぱり、羽子さんが話してくれるまで、俺は待つべきなんだろうな……
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