【4月23日(水)】


ピンポーン

【一条】
「ぅ……」

玄関のチャイムが浅い眠りについていた俺を現実世界へと連れ戻していく。

【一条】
「っ、いたた……」

ベッドには戻らず、流し台を背にして座りながら眠ってしまっていたため背中が痛い。

【某】
「一条ー、おきとんかー? おきとったらあけたってー」

【一条】
「廓か、そういえば昨日来るとか云ってたっけ……」

痛む背中を軽く叩きながら玄関へと向かう、扉を開けるとそこには廓と勇2人の姿。

【某】
「よー眠れた……ワケないはな、しっかし酷い顔やな、なんやぼろぼろやぞ」

【一条】
「眠れなくてさ……で、今何時なんだ?」

【二階堂】
「6時半だ」

【某】
「まだじゅーぶん時間あるさかい、風呂でも入って身嗜みきちんとしたらどや?」

【一条】
「そこまで酷い顔か……?」

【某】
「酷い、化粧した後に濡れ布巾で拭いたみたいに酷いな」

化粧したことが無いからわからないけど、とりあえず人前に出るような顔じゃないってことか。

【一条】
「とりあえず入っててくれるか、外で待たせるのも悪い」

【某】
「そか、ほんならお言葉に甘えまして、お邪魔ー」

【二階堂】
「すまんな」

……

【某】
「さっぱりしたやんか、わいの次に男前やで」

【一条】
「そりゃどうも……」

この男は恥ずかしげも無くよくそんなこと云えるな。
頭から被ったバスタオルでワシワシと髪を拭きながら、そんな自信たっぷりな廓君に敬礼。

【某】
「で、1日経ってみてどうやった? 気持ちの整理はついたんか?」

【一条】
「整理って云われてもな、何から整理したら良いかもわからないからまだ何も手付かずの状態、かな」

【某】
「まあよほど無神経じゃない普通の人間やったらそうなるやろうな、結構結構」

【一条】
「何が結構なんだか」

【二階堂】
「悩めるということは、お前には迷いがあるということ。
つまりは完全に別人格のお前に支配されてはいない、ということじゃないのか?」

【一条】
「……そうなら、良いんだけどな」

確かに俺自身は悩んでいる、しかしこれが偽りである可能性は否定できない。

【某】
「ガッコどうする? 昨日の今日やから行きたくなかったら行かんでええと思うけど」

【一条】
「……」

俺は学校に行って良いんだろうか? 学校に行って俺が完全に覚醒してしまったら止められる人はいない。
無慈悲に無差別に、俺の気の向くまま欲望に従うまま、俺は行動してしまうことだろう。

学校に放たれた怪物に生徒は皆悲鳴を上げ、校内を逃げ回る生徒を追いかける俺。
まるで先日、羽子さんと一緒に見た映画の怪物にでもなったみたいな気分なんだろうな……

【二階堂】
「お前が行かないというのなら俺たちも付き合おう」

【一条】
「勇……」

【二階堂】
「何も云うな、俺たちのお節介だ……ん」

台所にある何かの異変に気付いたのか、勇は流しをじいっと見つめていた。

【二階堂】
「……一条」

いつもの勇の声とは違うとても低く、まるで怒りを滲ませたようなその声。

【二階堂】
「気分を悪くするかもしれんがその際はすまん……これはなんだ」

勇の手に握られていたのは、昨日1つの解決策として導き出した包丁だった。

【二階堂】
「まさかとは思うがお前、こいつで何をしようとしていた?」

【一条】
「何って……それは……」

【二階堂】
「自殺、なんて云うんじゃなかろうな?」

【一条】
「……」

俺は無言、しかしそれは勇の言葉が真実であり、それを肯定していることに他ならない。

【某】
「なるほどな……一条、ちょっと立ってみよか」

廓に脇を担がれ、無理矢理立たされてしまう。

【二階堂】
「こんなの刺さったら痛いだろうな、場所が悪かったら命も助かりはしない……こんなふうに!」

【一条】
「!」

俺と勇の間にあった距離が一気に縮まり、包丁を握った勇の手が俺の腹部めがけて一直線に……

ドス!

【一条】
「がは!」

激しい痛みが腹を突き抜けて頭の先まで痺れるように伝わっていく。
あまりの痛みに膝を突き、腹から溢れているであろう血を必死で押さえ……血が、出ていない?

【一条】
「ど、どうして……」

【二階堂】
「痛いだろう? こっちだったらもっと痛かっただろうさ」

勇の手にはさっきと同じように包丁が握られている、しかし俺の腹にはあいつを刺されたような跡は見つからなかった。

【某】
「心配要らんて、なんも持ってない逆の手で殴られただけや。
今は痛いかもしれんけどそのうち痛みも引くやろう、せやけど、包丁だったらこうはいかんのやで?」

【二階堂】
「こんな物が腹に刺されば、痛みは引くどころか少しずつ酷くなっていくんだろうな」

【某】
「いつもならわいがかましてやるところなんやけど、勇が手ーだすっちゅーことはよっぽど頭きてるんやろな」

【二階堂】
「ああ……」

うずくまる俺を見下ろす2人の視線がとても冷たい、まるで哀れんでいるようなその視線……

【某】
「やれやれ、なんで自殺なんか考えるんかねえ、悲劇のヒーローにでもなりたいんか?」

【一条】
「何が、云いたいんだ……」

【某】
「そうやろうが、お前のことやからどーせ自分がいなくなれば丸く収まるなんて考えしたんやろ? しょーもない低脳やのう」

【一条】
「だってそうだろうが、俺がいなくなればだれも傷付くことはない……」

【某】
「肉体的にはな、せやけど精神的っちゅーことになったら話は180度以上の変化をするんやろな」

【一条】
「同じことだろ、俺がいなくなれば皆安心して……」

【某】
「脳たりんはこれだから困る、ええか、お前が自殺しました、誰も怪我せずに済みました、お前の読み通りになりました。
それじゃあ次や、お前が自殺しました、わいらがそれを聞きました、さぁ、わいらが喜ぶと思うか?
もし喜ぶようならわいらは人間として失格やろうな、そんな奴の方が世界にはいらんわ」

ポイポイとゴミを捨てるようなジェスチャーを見せる、廓の云いたいこと、少しだけどわかってきた……

【某】
「死んだ方と死なれた方の解釈はいつだって間逆を向いてしまうんや。
お前は良かれと思ってやるのかもしれんが、こっちにしてみれば迷惑以外の何物でもない、ありがた迷惑っちゅーやつか」

【二階堂】
「死ぬ方は死なれた側のことを考えようとしない、最低だらけの自殺の中で最も最低な所だ」

【某】
「そういうこっちゃ」

いまだうずくまる俺と視線を近づけるように、廓が俺の隣にしゃがみこむ。

【某】
「1人で塞ぎこむんも程々にしとけや、なんのためにわいらのベル番知っとんねん。
1人でどーしょーもなくなったら時間なんか気にせず電話せえ、朝まで愚痴ぐらい付き合ってやるさかいな」

【二階堂】
「俺も、某に同意見だ……一条、お前が俺たちと一緒に莫迦やるやつだろうが、狂気に魅入られて暴れるやつだろうが関係無い。
お前はお前だ、俺たちがそう思っている以上、お前は余計な気なんか使うな」

【某】
「せやで、前にもゆうたろうが、お前になんかあったらそん時はそん時、そん時になったら考えればええやんけ」

【一条】
「2人とも……」

ようやく痛みの引いてきた腹部を擦りながら、2人と視線を交わせるように起き上がった。

【一条】
「俺自身甘いと思っていたけど、2人は俺以上に甘いんだな……」

【某】
「はっはっは、それはもうサッカリン並みにな」

ショ糖の数百倍甘いっていうあれのことか、これはもう手がつけられないな……

【某】
「でや、そろそろガッコ行かんと不味い時間なんやけど、どうする?」

【一条】
「学校か………よし、行くか」

迷いは無い、俺のことを信じてくれるこいつらに迷惑かけてばかりではいけないだろう。
それに、ここに閉じこもって押さえつけていたって状況は好転していかないんだから。

好転させようと思うのなら、自分でその鍵を外で見つけなければ駄目なんだ。

【某】
「よっしゃ! お前ならそうゆうてくれると思っとったで、くぅーお父さん嬉しいわぁ!」

【一条】
「おわ! 朝っぱらから抱きつくな、気色悪い!」

【二階堂】
「ははは、朝から仲の良いことだ」

勇も笑ってないで、この色魔を引っぺがしてくれよ!

……

こいつらと揃って学校に行くのも久しぶりだ、確か前も俺が変わってしまった翌日のことだったな。

【某】
「一条、お前もうつれはおんのか?」

【一条】
「つれって、知り合いってこと?」

【某】
「アホ、なんでそんなしょーもないことをここで聞くんや、つれゆうたら女に決まっとろーが、お・ん・な!」

【一条】
「いるわけないだろ、俺は暗いから女なんて寄ってこないんだ」

自分で暗いって云っちゃ駄目な気もするけど、まあ廓ほど明るくはないしな。

【某】
「マジか! お前顔だけ見たらわいの次に二枚目やから女がぎょーさん寄ってくるおもとったのに」

【一条】
「残念ながら予想は大外れだな」

【某】
「ふむ、おかしいのぉ……お、そうかわかったわ、そういうことか」

【一条】
「1人で納得するなよ、何がわかったって?」

【某】
「お前に女が寄らんのは当然や、お前羽子とよっく一緒におるやないか、それじゃあ女どころか男も寄り付いてこんわな。
一点集中型やと色々と損するで? たまには他の女と豪遊するぐらいの気でおらんとな!」

反り返った胸が自信の表れなんだろうけど、そんな考えだとそのうち刺されるぞ……

【一条】
「あのなあ、俺と羽子さんは何も無いって何回云えばわかるんだよ」

【某】
「はいはい何も無いですね、良かったね」

こいつ聞く気も無いんだから……

【二階堂】
「さっきから色々と講釈をくれているようだが、お前自身浮いた話しは1つも無いだろ」

【某】
「ゴ――――――ン……………」

あ、廓が真っ白な備長炭みたいになった、がっしょー………

……

【二階堂】
「いささか早くついてしまったな」

学校の門が見えてきた辺りで時間はまだ8時、ホームルールまで十分な時間があるな。

【某】
「お、今日の昼飯こうていかんと、2人とも先行ってて構わんわ」

【二階堂】
「そうか、それじゃあ俺も付き合おう……一条はどうする?」

【一条】
「別に欲しい物も無いし、教室で昼寝でもしてるよ」

【某】
「ほんなら一っ走り行ってくるわ、わいらがおらんうちにあんまおいたすんなや」

【二階堂】
「なに、一条なら大丈夫だろう」

2人とも俺を信用してくれている、こんな日常を見るとやはりここには来辛くなってしまうんだけど2人はそれを良しとしない。
2人の考えがそうならば、俺は2人に応えなければならないだろう。

【一条】
「俺も頑張らないとな……」

拳をギュッと握り締め、自分の中で小さな誓いをたてた。
俺が俺であり続けるために、俺が逃げてはいけないんだ……だって、もう1人の俺だって俺なんだから。

いくら早いとはいえ、早すぎるということはなくグラウンドの方からは朝練に勤しむ生徒たちの声が聞こえていた。
校舎の中に入っても体操着のままダンボールを抱えて走る女子生徒などの姿を見かけられる、そんな中でばったりと。

【羽子】
「ぁ……」

羽子さんに遭遇してしまった、これから中庭にでも行くところだろうか?

【一条】
「お早うございます、羽子さん」

【羽子】
「お、お早うございます……」

【一条】
「これからまた中庭ですか?」

【羽子】
「あ、えぇっと、すいません、急ぎますのでこれで……」

答えをうやむやにしたままそそくさと行ってしまった、体調でも悪いのだろうか?
中庭だと断定していないところ考えると、あまり人に云うようなところではないのかもしれないな。

【一条】
「ふぅ……なんとか普通に接せれるみたいだな」

羽子さんと話をしても何の変化もなかったことにホッと胸を撫で下ろした。
何気無く眺めた窓の外はとても良い天気、こんな日に教室で寝ていたらなんだか損した気分になりそうだな。

【一条】
「屋上でも行くか」

……

【一条】
「ううぅうん!……」

陽の光を全身に浴びながらぐいーっと身体を伸ばす、暑すぎないから汗も出なくて気持ちが良い。
ベンチに寝転がってゴロ寝も良いもんだけど、なんだか眠気が飛んじゃったな。

手すりに体を預けながら、ぐでーっと思いっきり気を抜いて陽光をいっぱいに浴びる、これは結構な贅沢だ。

【一条】
「この街には雨って概念が無いのかねえ」

俺がこの街に越してきてから一度だって雨が降ったことはない。
ここまで雨が降らないと何か秘術めいた力が働いているような気が……したら俺の頭は沸きまくってるんだろうな。

【一条】
「ほふぅ………ん」

視線を下へと移すと、そこにはいつもの中庭、そしてその中を忙しなく動き回る女生徒の姿。
羽子さんだ、羽子さんなんだけど……

【一条】
「中庭に行くんならどうしてさっき誤魔化したんだ?」

はっきりと行きますって云えば良かったのに、というかあの羽子さんにしてはっきりと云わないのはなんだか不自然だ。
羽子さんに言葉に断定感が無い時、何度かそんな姿を見たからなんとなくわかる。

何か……

【水鏡】
「わっ」

【一条】
「うわ!」

気を抜ききっていたせいか、後ろからかけられた声に心臓が止まるかと思った。
声で誰だっていうのはもうわかっているけど、あんまりそういったイメージが彼女には無いんだよな。

【一条】
「水鏡……驚かせないでくれよ」

【水鏡】
「先輩は気を抜きすぎです、状況は刻一刻と変わるんですから悠長にしていると置いていかれますよ」

【一条】
「大丈夫、最初から付いて行く気無いから」

【水鏡】
「ぅ……それはそれで問題ありな気もしますが」

【一条】
「問題の無い人間なんていないよ、だけどどうしたんだこんな時間帯に?」

【水鏡】
「教室に誰もいませんでしたから、ここなら静かと思って来てみたら先輩がぐたーっと」

だらーんと腕を伸ばして俺が気を抜きすぎていたところを再現してくれる、そんなところ再現されても嬉しくない。

【一条】
「あんまり真似しないでくれるか、恥ずかしい」

【水鏡】
「そうですか、では止めます」

水鏡は俺の真似を止め、同じように手すりに腕を当て、そこに顔をトンと置く。
前髪が被さっていて表情はよくわからないけど、なんとも物憂げな横顔だな……

【水鏡】
「どうかしましたか?」

【一条】
「いや、なんでも……」

【水鏡】
「……暗い顔をしていますね、何かありましたか?」

【一条】
「何かあったんだけど、相談できるようなことじゃないんだ」

【水鏡】
「私では役不足、ということですね……残念です」

【一条】
「役不足とか云うわけじゃないけどさ、あんまり人に云えるような話じゃないんだわ」

俺の近辺で、もう1人の俺のことを知っているのは廓と勇の2人だけ。
あいつらは俺のことを信用してくれているけど、皆が皆あいつらと同じ思考とは限らない。
というよりも、あいつらの思考の方が比率で見たら圧倒的に少ないだろうな……

【水鏡】
「それでは私が無理矢理聞くわけにもいきませんね、これは私の推測なんですけど。
先輩の悩みってもしかすると、恋愛感情云々の話だったりするんですか?」

【一条】
「なんでまたそんな突拍子もないことを?」

【水鏡】
「こんな人気の無いところで何をしているのかと思いましたけど、あれを見れば大体見当はつきますよ。
中庭で花壇の手入れをしている女生徒さん、先輩の彼女さんですよね?」

【一条】
「……は?」

【水鏡】
「惚けましたか? お2人が一緒にいるところばかりよく見かけますよ。
とても知り合いの段階を超えて親しげに見えましたよ」

なんてこった、美織、廓に続いて水鏡までそんなこと云うんだ……

【一条】
「あのさぁ、俺と羽子さんは別に何の関係も無いって……」

【水鏡】
「って普通は云いますよね、大っぴらに付き合っていると先輩が云うとは思えませんから。
この時間でしたら、昨日もお2人はご一緒だったじゃないですか」

【一条】
「見てたのか?」

【水鏡】
「それはもう、屋上からでは死角が少ないですから、ですが今日の先輩はここにいて。
彼女さんと喧嘩でもしたんですか? それでお互いに顔を合わせ辛いというところでしょうか。
確かに、彼女さんとの喧嘩なんて軽々しく相談できませんよね、惚気話になってしまいますから」

廓以上の想像力だな、こいつは廓よりも手強いかもしれないな。

【一条】
「はぁ、なんで俺の周りにはこんなのばっかりなんだ……」

【水鏡】
「あ、図星でしたか?」

【一条】
「その想像力には感服するよ」

【水鏡】
「ありがとうございます」

……

そろそろホームルームも始まる時間なので教室へと足を急がせる、屋上から去り際に。

【水鏡】
「早く仲直りできると良いですね、ファイトファイトです」

なんて云われてしまった、仲直りも何も喧嘩なんてしてないし第一俺たちは付き合ってもいない。
これで俺たちが付き合っていると誤解している人間が3人にもなってしまった……

だけど、俺たちってはたから見たらそんな風に見えているのだろうか?

羽子さんとは確かに一緒にいる時間も多い、それは認めるしかないだろう。
だからといってそれが = 付き合っている、にはならないとよな。

羽子さんは綺麗な人だし、学校から一歩外に出るととても親しみやすい人だと思う、それは俺もよく知っている。
今までそういった方向からは羽子さんを見ていなかったけど、少し見方を変えて異性の対象として考えてみると……

【一条】
「俺と羽子さんが……」

むうぅ、なんかつり合ってないよな、勿論俺が。
こんな妄想をいくらしていても仕方が無い、それにもし俺たちが付き合うことになってしまうと色々と障害も出てきてしまう。

俺はもう1人の自分のことや記憶のこと、そして羽子さんはあの、屋上でのでき事のこと……

【一条】
「あ……」

【羽子】
「ぁ……」

なんてことを考えていたら羽子さんとばったり、考えていることが考えていることだったので羽子さんの顔を直視できずにいる。

【羽子】
「あの…ホームルームも始まりますので、これで……」

視線を外していた俺の横をすすすっと抜けていく、話が長引かずに終ってちょっと一安心。
きっと今の俺の顔、誰が見てもどうしたと云いたくなるほど引きつっている気がするから。

俺のそんな安心とは別に、羽子さんの方には全く別の想いが交差していたことを、俺はまだ気付けずにいた……

……

【美織】
「おーい、いつまで寝てるつもりだー?」

【一条】
「おぉ……」

身体を乱暴にゆさゆさと揺らされ、折角居心地よさそうにしていた睡魔が退散してしまう。

【美織】
「もうお昼の時間だぞー、食べないと身体に悪いよ」

【一条】
「もうそんな時間か……」

【美織】
「呆れる位よく寝るのね、先生も頭抱えてたよ」

【一条】
「昨日あんまり眠れなかったから、反動が来てるんじゃないのか」

【美織】
「また夜中までエッチな番組見てたんだ、若いのも程々にしておきなさいよ。
まあマコがどうしようもない色魔になって羽子と大喧嘩でも始めるのなら、私は率先して協力するけど」

むぅ……むぎゅ!

【美織】
「むいぃいーーー!」

頬を思いっきり引っ張ってやった、だから何度も云うけど付き合ってないですから!

【美織】
「あうぅぅ、痛いよー……」

【一条】
「お前は余計なこと云いすぎだ、それから勘違いも度を越して酷い」

【美織】
「あながち間違ってないと思うけどぉ……だけど羽子のどこが良いんだろ?
あんなギッチギチに硬くて、遊びも無くて退屈で、真面目と威厳だけが取得みたいなの羽子のどこに惚れたの?」

むぎゅ! むぎいぃ!!

【美織】
「ひゃいいぃーーーーー!!」

両頬を思いっきり引っ張ってやった、よほど痛かったのか眼が薄っすらと涙目になっていた。

【美織】
「理不尽な暴力だよー……」

【一条】
「他人をそうやって貶すのは良くないだろ」

【美織】
「だってー…………羽子ばっかりずるいんだもん」

最後の方はわざとボソボソ云って聞こえないように誤魔化したな、一体何を云いやがったのか。

【一条】
「パン買ってくるわ」

【美織】
「あ、ちょっと待ってあたしも行くよー」

美織と2人で購買に向かい、揉みくちゃにされながらもなんとか昼食を手に入れた。

【美織】
「ふむ、まあこれなら上々かな」

髪の毛は激しく乱れているものの、買えた物がそれなりの物だったようでとても満足顔だった。

【美織】
「屋上にでも行く? それとも教室にする?」

【一条】
「俺はどこでも、教室なら音々もいるんじゃないか?」

【美織】
「そんじゃ教室だね、だけどマコは羽子と一緒の方が1番良いんじゃないのかなー?」

【一条】
「また頬っぺた引っ張ってやろうか」

【美織】
「じょ、冗談だよ、第一乙女の肌をそんな気安く引っ張ったらいけないんだぞ」

【一条】
「お前が余計なこと云わないんなら別に引っ張らねえよ」

ああだこうだと云い合いをしていると、またしても遭遇してしまった。

【羽子】
「ぁ……」

【美織】
「噂をすれば何とか、だねまったく」

【一条】
「だからそういうこと云うなって云ったろ」

【美織】
「あーぁやっぱりあたし1人が悪者だよ、マコは羽子の味方だもんね、まあそういう関係なんだからしょうがないけど」

この女には何回云っても通じないみたいだ、これはもう実力行使で忘れてもらうしかないのだろうか。

【美織】
「邪魔したら悪いしあたしは戻るわ、どうぞ、ご・ゆ・っく・り」

語尾には明らかな敵意の色、いつもなら羽子さんも食って掛かるんだけど……

【羽子】
「ごめんなさい、用事がありますのでこれで……」

【美織】
「おろ?」

【一条】
「あ、羽子さん……」

俺たちの前から逃げるようにさっさと行ってしまった、なんだろう、いつもの羽子さんらしくないな。

【一条】
「どうしたんだろ?」

【美織】
「……ねえマコ、羽子と喧嘩か何かしたの?」

【一条】
「は? 別に何も無かったけど?」

【美織】
「だとしたらちょっとおかしいね、普段の羽子ならあたしの言葉に反論しないはずが無いもの。
だけどそれが無いってことは……マコ、本当に何にも無かったの?」

【一条】
「無かったと、思うんだけど」

【美織】
「なんか羽子のやつ、マコのことを避けてるように感じられたよ……」

避けられている……確かに美織の云うとおり、羽子さんが美織に何も返さないで去るというのはちょっと首を傾げてしまう。
考えても見れば、朝から数えてこれで3度目の遭遇なのに一度もまともに会話をしてはいなかったな。

これはひょっとすると美織の云うとおり、避けられているのかもしれない、のか?

【一条】
「俺、羽子さんに何したんだろ?」

【美織】
「マコにはどうってことのないことでも、羽子には何か耐えられないことでもあったんじゃないの?
年頃の男子がエッチな本の1冊や2冊持ってても不思議じゃないと思うんだけどね」

【一条】
「……ちょい待ち、それだと俺が持ってるってことになるじゃないか」

【美織】
「何焦ってるのさ、今頃の年頃なら興味無いって方がおかしいような気もするけど。
あ、あたしは別にマコがそういうの持ってても気にしないから」

【一条】
「だから1人で勝手話を進めるな!」

パシィン!!

……

午後の授業などまったく聞かずにシャープペンシルをくるくると回しながら、俺は羽子さんについて考えていた。

昼休み、あの後昼食をとり終り、1人中庭へと足を運ぶと予想通り羽子さんが花壇の手入れをしていた。
俺の声に僅かに肩を揺らし、ゆっくりとこちらに振り返った。

【一条】
「羽子さん」

【羽子】
「一条、さん……」

【一条】
「こんちわ、お邪魔でしたか?」

【羽子】
「そ、そんなことは無いんですが……申し訳ありません、先程先生に呼ばれてしまって」

【一条】
「そうですか、俺のことなんて気にせず行ってください」

【羽子】
「すいません、では……」

これまで3度の遭遇とまったく同じ、あまり会話を交わそうとはせずにすぐにどこかへ去ってしまう。
どうやら美織の予想通り、俺は避けられているようだ。

【一条】
「ふうむ……」

昨日も羽子さんと話をしたけど、今日みたいに俺を避ける場面は1回も無かった。
それが今日になったら急によそよそしくなって、俺昨日羽子さんに何かしたのだろうか?

くるくると回るシャープペンシルが指にぶつかり、真っ白なノートの上を転がった。
そこでちょうど6時限目終了の鐘の音、羽子さんの号令で一斉に立ち上がって礼をする。
教師が去り、生徒は皆帰り支度やら部活の準備にと移っていた。

【一条】
「……」

羽子さんの机に眼を向けると、手早く教科書を詰めてさっさと教室を後にするところだった。
教室を出る際、一瞬だけ視線が交差したような気がしたけど、羽子さんはそんなことは気にも留めずに出ていってしまった

【音々】
「……どうか、されましたか?」

【一条】
「音々、いやなに……ちょっと人間関係でトラブルが、ね」

【音々】
「羽子さんのこと、ですよね?」

【一条】
「まあね……なんか朝から避けられてるみたいなんだ」

【音々】
「お昼に美織ちゃんも云っていました、羽子さんの様子がちょっとおかしいと。
どうも原因は誠人さんにあるようなことを聞いたんですが、そうなんですか?」

【一条】
「そうかもしれないしそうじゃないかもしれない、そこがわかればここまで悩まなくて済むだけどね……」

【音々】
「誠人さんに原因がわからないとなると、ちょっと問題解決は難しいですね」

俺のどこが悪いかわかれば羽子さんに謝れるんだけど、何が悪いかわからないからどうしようもないんだよな……

【音々】
「こうなったらもう羽子さんに直接聞くのが1番じゃないでしょうか?
羽子さんはああいった性格ですから、何も無く誠人さんを避けるようなことは無いはずですよ」

【一条】
「それはそうだけど、会いに行ってもすぐ逃げられちゃうし……」

【音々】
「そんな時は羽子さんの肩を捕まえて、真っ直ぐ眼を見てあげてください。
きっと羽子さんも話したいことがあるんだと思いますよ、だけど、何かが邪魔をして話ができないでいる。
そんな時こそ男の子が頑張らなきゃ駄目ですよ、それに、こんな状態が続くのは誠人さんも嫌ですよね」

人差し指をピッと立て、にっこりと微笑んだ。
やっぱり音々の云うとおり、直接聞かなければ問題解決は訪れないのかもしれないな。

【一条】
「そうだな、俺としてもこんなギクシャクした状況は即刻終ってもらいたいしな」

【音々】
「お役に立てたようですね、羽子さんなら中庭にいると思いますから行ってあげてください」

【一条】
「ありがとう、それじゃあ行ってくるわ」

……

中庭に出ると、いつもと同じように羽子さんが如雨露を持って花壇に水を振りまいていた。
気付かれたら逃げられてしまうかもと考えたけど、その時はその時だ、俺は足音を消すこともせずに羽子さんのもとへ近寄った。

【一条】
「そろそろ、話をしてくれますか?」

【羽子】
「一条さん、ですね……」

振り返ることは無い、背中越しだけど俺は羽子さんとの会話を続けた。

【一条】
「云ってください、俺は羽子さんに何か迷惑なことしましたか?」

【羽子】
「一条さん……そんなことは……」

何かを云いかけるが、首を左右に振って話す意思が無いことを誇示する。

【羽子】
「少しだけ待っていてください」

そう云うと羽子さんは花壇の中で一際大きく咲いている花を摘み始めた。
赤と白が入り混じったあの花、グラジオラスとか云ってたな。

【羽子】
「これをどうぞ……」

摘まれた花の束を俺に渡すと、羽子さんは今までと同じように逃げるように俺の横を抜けた。

【一条】
「羽子さん、これは……あ」

なんで花なんか、と聞く前に羽子さんは小走りに駆けて行ってしまっていた。

……

【一条】
「どうして俺にこんな物を?」

羽子さんにもらった花を眺めながら、どうしてこんな物を俺に渡したのかを考えていたのだけど、なんにもわからない。
もしかすると、これをあげるからもう近づかないでということなのだろうか?

いや、羽子さんに限ってそれは無いな、羽子さんだったらそんなことを口で云わないはずが無い。
だとしたら何故……

【一条】
「……」

【音々】
「あ、誠人さん、どうでした、羽子さんと仲直りできましたか?」

【一条】
「残念ながらまだ、話もほとんどしてくれなかったし」

【音々】
「そうでしたか……あら、そのお花どうしたんですか?」

【一条】
「羽子さんに貰ったんだ、話をするかわりにこれくれたんだけど……」

【音々】
「グラジオラスですね、花言葉は確か……うぅん、なんだったかな」

こめかみの辺りに指を当て、うんうんと記憶を頼りの思い出そうとしていた。

【みなよ】
「あぁー、誠人くーん」

なんとも気の抜けた声、あの声は大宇宙先輩だよな。

【みなよ】
「2日ぶりだねー、音々ちゃんも久しぶりー」

【音々】
「お久しぶりです、みなよ先輩」

【みなよ】
「あ、もしかしてデートの邪魔しちゃった? ごめんねー、これお詫びのしるしだよー」

袋をがさがささせてお馴染みの月餅を1つずつ俺たちに渡してくれる。

【音々】
「ありがとうございます、ですが私たちはデートじゃありませんからご心配なく。
それに、誠人さんにはもう思いを決めた異性がいるみたいですし……」

【みなよ】
「ああー、前に美織ちゃんが云ってた子だぁ、確か羽子ちゃんって云ってたよね、はも」

【一条】
「美織に何云われたか知りませんが、俺たちは付き合ってないから、それに今は会話すらろくにできない状態だし」

【みなよ】
「誠人君喧嘩しちゃったんだ、そういう時は男の子から謝る方が女の子もすんなり許してくれるよ。
はもはも……あ、誠人君お花なんか持ってどうしたの? お葬式?」

ガク……花 = 葬式って、大宇宙先輩、もう少し女の子らしい想像してください……

【一条】
「違いますよ、さっきから話に出てる件の子から貰ったんです」

【みなよ】
「ふうん……それじゃあ今日誠人君はその子に誘われたんだ、なんかエッチだよ」

【一条】
「あの、誘われたって、何がですか?」

【みなよ】
「花言葉だよ、グラジオラスの花言葉は『密会』だよ」

【音々】
「そうでした、そういう意味でしたね……誠人さん、羽子さんとの関係、進展するかもしれませんよ」

【一条】
「そんなこと云われても、密会の場所もわからないし時間だって」

【みなよ】
「大丈夫、渡されたグラジオラスの花一厘を一時間と数えて待ち合わせをするんだよ。
1、2、3……全部で8本だから夜の8時だね、場所はたぶん彼女の部屋だと思うよ」

つまりこの花が意味するのは、『8時に部屋に来てくれ』ということだろうか。
あくまで羽子さんが花言葉を用いて俺にそのことを伝えようとしたと仮定してだけど。

【音々】
「花言葉で想いを伝えるなんて羽子さんらしいですね、こうなると誠人さんも覚悟を決めた方が良いですよ」

【みなよ】
「初めては男の子がエスコートとしてあげないと駄目だよぉ」

月餅をほおばりながら先輩はきわどい発言をしてくる、だから初めても何も付き合ってないってのにもぉ……

……

夕日も沈み、夜の帳がやんわりと世界に侵食を始める中、街灯に彩られた道を1人歩いていく。
8時ちょうどにつくのは無理かもしれないけど、それに近いタイミングになるように速さを調節しながら羽子さんのアパートを目指す。

あのグラジオラスが花言葉通りの意味ならこれで良いんだけど、はたして羽子さんがそういった意味であの花を渡してくれたのか……

羽子さんのアパートに着いた時、腕時計の時間は8時02分を示していた。

【一条】
「……」

部屋の中からポーンとこもった音が聞こえる、予想が正しければ良いのだけど……

【羽子】
「……お待ちしておりました、一条さん」

【一条】
「どうも」

【羽子】
「ここで話すのもなんですから、私の部屋で待っていてください、すぐに飲み物をお持ちしますから」

【一条】
「あ、はい……」

学校にいる時は俺を避け話なんかしてもくれなかったのに、今の羽子さんは全然違う。
話もちゃんとしてくれるし、なによりも羽子さんの顔、笑っていた……

あの笑顔を1日見ないだけで、なんだか随分長いこと見ていないような気にさえなってくる。
今の羽子さん、これは昨日まで俺に接してくれていた羽子さんの態度と同じだった。

云われた通り羽子さんの部屋で1人待っているのだけど、やはり女の子の部屋というのは苦手だな。
この部屋の中で、俺は一度羽子さんを押し倒すような形になった。
あれが偶然なのか、それとももう1人の俺が意図的に引き起こしたことなのかはわからない。
だけどどちらにせよ、羽子さんの顔をあんなに間近で見たのはそれが初めてだった。

とても端整な顔立ちで、鼻を掠める香水のような香りが、いつまでも頭には残って……

【一条】
「何想い出して浸ってるんだ俺は!」

【羽子】
「あの、どうかなさいましたか?」

【一条】
「へ? あ、い、いやその……な、なんでもないですよ」

【羽子】
「そうですか、お待たせしてしまってすいません、どうぞ」

いきなりの登場だったのであたふたして心臓が滅茶苦茶に鼓動している、落ち着け、落ち着くんだ。
羽子さんが淹れてきてくれたお茶を貰い、咽の奥に流し込む。

冷たく冷えたお茶が咽の奥に清涼感を与え、あわてふためく身体にビシっと喝をいれた。

…………落ち着いてきた、後は小さく深呼吸、すぅ、はぁ……

【一条】
「ふぅ……」

【羽子】
「落ち着かれましたか?」

【一条】
「はい、なんとか……」

【羽子】
「……今日は1日申し訳ありませんでした、会うたびに私が避けてしまって」

避けられているのは行動でわかっていたけど、こうやって口に出して云われるとまた違った感じを受けるな。

【一条】
「教えてください、羽子さんが俺を避けていた原因って、なんなんですか?」

【羽子】
「それは……」

コップを両手で抱くようにして持ち、それをギュッウと握り締めた。
何かの決意が合ったのだろう、次に俺を見る羽子さんの眼が、いつも以上に真剣に俺を捉えていた。

【羽子】
「教えてください……昨日のあれは本当に、一条さんなんですか?」

【一条】
「え……」

一瞬何を云われたのかわからなかったけど、『昨日のあれ』という単語には心当たりがある。
しかし、まさか羽子さん……あの時の、豹変してしまった俺のことを。

【一条】
「なんの、ことですか?」

【羽子】
「隠さないでください、偶然でしたけど見てしまいましたから……あの怖い、一条さんの眼を…」

【一条】
「!」

やっぱりか、廓たち以外の知り合いには見られていないと思っていたのに、まさか羽子さんに見られていたなんて……

【羽子】
「普段の一条さんとはとても思えないあの表情、あれは本当に、一条さんなんですか……?」

嘘だと云ってほしい、羽子さんの視線は俺にそんなことを訴えかけている。
だけど、ここまできてはもう隠し通すこともできそうにないかもな……

【一条】
「あれは、間違いなく俺ですよ……」

【羽子】
「でも、それでは納得のいかないところが多すぎます」

【一条】
「納得がいかなくて当然ですよ、俺自身、何もわかっていないんですから……」

【羽子】
「え……それは、どういうこと……」

……

【一条】
「……こんな、ところですよ」

羽子さんに俺の中に潜むもう1人の俺のことを告げた、最初は眼を丸くして信じてはいないようだったけど……今でも丸いまんまだな。

【羽子】
「そんな、そんなことって……」

【一条】
「聞いただけだと嘘にしか聞こえませんよね、ですが、あの俺の姿を見てしまったのならわかるはずです。
俺の中には俺にもわからない何かがいる、そいつが時折出てしまうんです、出てしまうともう俺には手がつけられない」

【羽子】
「二重人格、ということなんですか……?」

【一条】
「かもしれませんね……」

【羽子】
「一条さんの中に、彼方とは違うもう1人の彼方が……」

【一条】
「いや、もしかするとその考えは間違っているかもしれませんよ」

【羽子】
「間違っている、ですか……?」

【一条】
「ええ、俺の中にもう1人の俺がいるんじゃなくて……俺自身がもう1人の俺かもしれないってことですよ。
今現れている方がもう1人の俺で、羽子さんも見た姿が本当の俺なのかもしれません」

【羽子】
「!」

俺が影なのか、それとももう1人の俺が影なのか、それは誰にもわからない。
どちらが先に生まれ、どちらが後に作られてしまったのか……はたまたどちらも作られてしまった偶像なのか。

【一条】
「できれば知られたくはなかったんですが、こうなってしまってはもう隠し通すこともできませんから」

隠し切れないのと同時に、俺にはもっと辛いことが待っている。
それは……もう羽子さんと今までと同じように接することはできないということ。

【一条】
「俺が狂気に魅入られてしまったら、もう自分で止めることはできません。
だからこれからは、俺には関わらないでおいてください……羽子さんを傷付けてしまうことは、避けなければいけないですから」

今日まで先送りにしてきた1つの事実、俺には人との交わりを断たなければいけなかったんだ。
それを自分の弱さから受け入れることもできず今の今まできてしまったが、それももうお終いだ。

【一条】
「それじゃ……」

1人の友人を失ってしまったが、俺に後悔なんてことは許されない。
これが現実、これが真実、これが答えなんだ……

【羽子】
「待ってください!」

【一条】
「……」

【羽子】
「そんなの、身勝手すぎますよ……一方的に突き放して、もう関わるななんて」

【一条】
「これ以上俺に関わって、もし羽子さんに手をかけないともわかりませんから。
羽子さんが傷付いてしまってからでは遅いんですよ」

【羽子】
「だからって、私の気も知らないでそんなこと云うなんて、身勝手すぎますよ!」

後ろに聞く羽子さんの声、少し荒い口調の奥で、彼女の声は震えていた……

【羽子】
「彼方はそれで満足なのかもしれない、だけど、それじゃあ私の気持ちはどうなるんですか!」

【一条】
「羽子……さん?」

【羽子】
「っ!」

【一条】
「!」

ガバ!

振り返った先にいると思っていた羽子さんはなく、代わりにあったのは羽子さんの……

【羽子】
「ん……」

【一条】
「!……」

口に当たる柔らかい感触、そして視界いっぱいに広がる眼を閉じた羽子さんの顔。
完全に跳んでしまった思考回路では何も理解することはできない。

一体今、何が起きているんだ……

羽子さんの重心全てが俺にかかり、身体は流れるように後ろへと倒れていく。
そんな中でも、俺の腕は無意識のうちに羽子さんの身体を、少しでも衝撃が和らぐようにと。

抱きしめていた……

【一条】
「ぅ……」

背中に軽い衝撃、下になる俺に覆い被さるように羽子さんの身体が重なり、紡がれたままの唇が一層強く押し付けられた。

【羽子】
「んむ……んぅ……ぷあぁ」

唇を離した羽子さんの表情が、ぽやーっと焦点が上手く定まらずに俺の瞳を捕らえていた。
俺は、羽子さんとその……キスをしていたのか。

【羽子】
「グス……」

【一条】
「ぇ……」

【羽子】
「これが、私の気持ちなんです、一条さん……」

眼にうっすらと浮かんだ涙、前にも映画館で羽子さんの涙を見ていたけど、これとは理屈が違う。
あの時の涙は怯えから来たものだったが、この涙は。

【羽子】
「私にはこんな想いがあるのに、自分の都合で近付くななんて……酷いですよ」

【一条】
「一体何がどうなって……」

【羽子】
「鈍いんですから………私は彼方に好意を持っている、ということですよ。
それも親しい友人に対してではなく、異性の対称としての好意……」

【一条】
「! それは……」

【羽子】
「もう、最後まで私に云わせてしまうんですね……好きなんです、彼方のことが、一条さん……ん」

突然の告白、そしてその余韻に浸る間も無く、再び羽子さんの唇が俺に重なった……

【羽子】
「ぁむ……ん……」

頭の後ろを押さえられてしまい、俺に羽子さんの唇を拒むことはできずにいる。
とても柔らかく薄っすらと湿った唇の感触、それが少しずつ潤いを帯びていく。

【羽子】
「はぁ……はぁ、ふぅ…」

放された2人の唇から、ツゥっと透明な一筋の橋が結ばれる。
僅かばかりの滑りを帯びたその橋が、重力に逆らえずに俺の口元へと降り注ぐ。
はんなりと暖かいその橋は、とても官能的で、とても愛おしくて……

【羽子】
「これが私の気持ち……一条さんがどう想っていようと、私には私の想いがあるんです」

【一条】
「こんな俺を、ですか……?」

【羽子】
「こんななんて、云わないでください……例え一条さんの中に、説明できない何かがあったとしても
私は、私の気持ちを変えることなんて、できないんですから……」

【一条】
「……」

【羽子】
「教えてください、一条さんは私のことは、私が側にいては迷惑……なんですか……?」

瞳を潤ませながら、震える声でそんなことを訪ねてくる。
あんな俺の姿を見てしまったというのに、それでも想いを変えることはないという彼女のその瞳……

はたして俺に、彼女の想いに応える権利があるのだろうか?
俺が近くにいれば羽子さんに危害を加える可能性が生まれてしまう、羽子さんの気持ちを知りながらもう1人の俺が暴れださないとも限らない。

羽子さんがいくら好意を寄せてくれていても、俺はそれに応えてあげる権利なんて無いはずだ。
無いはず、なんだけど……

【一条】
「……」

【羽子】
「ぁ……」

羽子さんの細い身体に腕が回り、力を込めて羽子さんの身体を抱きしめた。

【一条】
「ありがとうございます……こんな俺相手に、そこまで想ってもらって」

【羽子】
「一条、さん……んぅ!」

羽子さんから行われ続けたキスを、今度は俺から羽子さんの唇へと自分を重ねていく。
視界の中では瞳を大きくして驚く羽子さんの顔と、ぎこちなく動く2人の唇が小さな水音を優しく奏でていた。

俺は、羽子さんの気持ちを裏切ることなんてできやしない。
だって、俺も羽子さんと同じように、彼女を異性の対象として好意を抱いているのだから……

【羽子】
「ぷぁ……彼方は私のような女でも、よろしいのですか?」

【一条】
「……ようなは無しにしましょうよ、羽子さんはとても魅力的ですよ。
俺も、羽子さんのことを……」

【羽子】
「嬉い、嬉しいです……」

羽子さんの背に腕を回して抱きしめる俺と、俺の首に腕を回して抱きつく羽子さん。
倒れあいながらも、それでも2人の想いが1つになって抱きしめあっているのに変わりは無い。

【羽子】
「あ、ごめんなさい……私が上になっていたら、重たいですよね」

ようやく俺の上に倒れていること気がついたのか、いそいそと上から退いてくれる。

【羽子】
「あ、あの……一条さん、今日はこれからその、ご予定とかは……」

【一条】
「何も無いですよ」

【羽子】
「それでしたらその、まだ、帰らないでいただけますか……」

【一条】
「……良いんですか? これでも男ですから、告白された後に平常心でいられる保証は無いですよ」

ほんの意地悪のつもりだった、こう云えば羽子さんが顔を赤くして照れるかもと思ったんだけど……

【羽子】
「……良いですよ」

【一条】
「うぇ?!」

【羽子】
「こんな時でなければ、一線を越えることなんてできそうにないですから……」

しなだれかかってきた羽子さんの身体を受け止め、上目遣いに見上げる瞳がとても可愛らしかった。
今までこんな表情は見せたこと無いのではないだろうか、というくらい予想外のその瞳。

【羽子】
「一条さんが連れて行ってください、男の子の役目、お願いします……」

【一条】
「冗談じゃ、すまないですよ?」

【羽子】
「冗談でこんなことを云えるほど、私は恥知らずな女ではないですよ……」

頬を紅潮させて視線を外す、本気、みたいだな……

【一条】
「……よっと」

ヒョイ

【羽子】
「はぅ……」

羽子さんの身体を抱え、ベッドの上へと連れて行く、まさかお姫様抱っこなんて俺がするとはな。

【羽子】
「あ、案外、恥ずかしいものですね……」

【一条】
「心配しなくて大丈夫ですよ、俺だって恥ずかしいですから」

【羽子】
「そう、なんですか……ふふ、良かった……ぁ」

羽子さんの身体をベッドの上に寝かせ、とりあえず上から見下ろすようなかたちで見ているのだけど。
緊張しているのか、胸の上下運動が不規則で、俺を見る眼には言葉とは違って怯えのようなものが見て取れる。

【羽子】
「お、男の方にこんなところを見られることは無かったので、は、恥ずかしいです……」

【一条】
「止めますか?」

【羽子】
「それは、一条さんが決めてください……」

にっこりと優しく微笑み、スゥッと両手が差し出される。
この手を取ってしまえばもう後戻りはできない、そんな重大な選択肢だというのに、俺の手はあっけなく。

羽子さんの手を握り返していた……

……

【羽子】
「一条さん……折角ですから、帰るのは止めにしませんか?」

【一条】
「良いんですか? 年頃の女の子の部屋に男なんか置いて、親御さんにばれたら不味いんじゃないですか?」

【羽子】
「親のことなんて云わないでください……親なんて、一条さんに比べたら重要度もずっと下なんですから」

【一条】
「はは、そうですか……わかりました、羽子さんがそう云ってくれるのなら泊まらせてもらいますよ。
俺は床で眠らせてもらいますね、羽子さんもそれで良いですか?」

【羽子】
「駄目ですよ床で眠るなんて、それじゃあ風邪を引きかねないです。
折角ベッドがあるんですからここを使って頂いて結構ですよ、勿論私も同席させてもらいますけど」

【一条】
「……ふ」

思わず笑いが漏れてしまった、まさかこんな展開になるなんてな。

【羽子】
「どうかなさいましたか?」

【一条】
「いえ、羽子さんって結構大胆な人だったんだなって」

【羽子】
「なっ!」

自分ではそう思っていなくても、他人に云われたのがよほど恥ずかしかったのか羽子さんは顔を真っ赤にして慌てて顔の向きを変えた。

【一条】
「こっち向いてくださいよ」

【羽子】
「嫌です! 断っておきますけど、いつもの私がそうだと誤解しないでくださいね!」

【一条】
「わかってますよ、あんな羽子さんは俺の前でだけにしてくださいね。
俺だけが知ってるって、なんだか独り占めした感じで嬉しいです」

【羽子】
「もう……前から思っていましたが、時々狡猾ですよ、一条さんは」

【一条】
「ははは、まあ良いじゃないですか、俺の前でだけ大胆な羽子さんと、羽子さんの前でだけ狡猾な俺。
2人ともお互いを独り占めできているんですから……」

【羽子】
「ふふ、そうかもしれないですね……一条さん」

【一条】
「なんですか?」

【羽子】
「これからも、よろしくお願いします……」

【一条】
「……はい」

視線はお互いに交わしていないけど、きっと2人とも表情は笑っている。
明日からは2人ともちょっとだけ今までとは立場が変わってくるんだ、2人とも、お互いの想いを知る者同士に。

これからはきっと今まで以上に忙しい生活になってしまうんだろうな。
だけど、今日だけは一時のお休み、余韻に浸る時間を貰ってもかまわないだろう。

グラジオラスが繋いでくれた2人の想い。
8本の花に導かれ、俺たちはお互いの気持ちを『恋人』へと関係を昇華させていった……





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〜 T O P 〜