【4月30日(水)】


【一条】
「……お」

【美織】
「ふああぁぁ……ねむ、ぁ……」

学校に向かう途中、美織とばったり遭遇してしまった。
この道で出会うのは久しぶりだ、美織も予想外だったのか隠しもせずに大きな欠伸を見られてしまうはめに。

【一条】
「……少しは恥らえよ」

【美織】
「煩いな、女の子が誰だって羽子と一緒だと思ったら大間違いだぞ。
それより月曜はどうしたの? 普通にサボってたの?」

【一条】
「まあ学校には行ってないわな」

【美織】
「そんなの知ってるよ、だけどサボるのも程々にしなさいよ。
マコがいないとなんか羽子にも覇気が無いんだから、あれじゃあたしがいじれない」

【一条】
「だから変にいじるなよ」

【美織】
「それはできない相談ね、羽子をいじるのはあたしの不満の解消にぴったりなのだよ」

こいつのどこに不満なんて物があるのかはわからないけど、本人がそう云ってるんだからそうなのだろう。
いじられる羽子さんは少しかわいそうだけど、そんな羽子さんを見るのも案外楽しかったりする。
羽子さんがこんなことを聞いたら間違いなく怒るだろうけどな。

【美織】
「そういえばさ、あれからなんか進展あった?」

【一条】
「進展といえば進展みたいなものは」

【美織】
「おぉ意味深な科白、お姉さんに少しばかり聞かせてみなさい」

【一条】
「話すようなことは無い、ただ気の持ちようが変わった、かもな」

【美織】
「おぉー大人の発言だよ、羽子にリードされてばっかりじゃ情けないからってこと?
いやーんマコったら朝一番からエロいねー」

自分で自分を抱きしめながらグネグネと身悶え始める、エロいのはどっちだよ。
大体こいつの頭の中の羽子さんと俺はエロでまとめられていること自体なんかおかしいよな。

【一条】
「お、お先に」

【美織】
「あ、置いていくなんて酷いぞ!」

誰だっていきなり身悶えられたら置いて行きたくなるよ……

【美織】
「真面目なやつほどなる時はなるって云うしね、マコは特に気にしなくても良いんじゃないの?」

【一条】
「何が?」

【美織】
「夜伽」

スパーン!

【美織】
「いた! いきなり頭叩かないでよ」

【一条】
「お前が余計なこと云うからだろ!」

【美織】
「余計って夜伽のこと? ふっふっふ、誠人君、君は何を勘違いしているのかしら?
夜伽っていうのは夜通し退屈しのぎの話し相手になる人のこととしても使うのだよ。
何も情事に対してのみ使われる言葉ではないのだ、だ・け・ど、マコは何を想像したのかしらねぇ♪」

くっ、こいつの頭の中はエロで汚染されていると先入観があったせいで勇み足を踏んでしまった。

【美織】
「エロエロだなあ誠人君は♪ これじゃあ羽子も大変だわね」

また身体を抱きしめながらグネグネと身悶え始めた、こいつは発情期の猫か?

【美織】
「とまあ冗談と茶化しはこれくらいにして、気の持ちようがどう変わったって?」

【一条】
「切り替え早いな……まあ、一応彼氏としての、ね?」

【美織】
「やっぱり情事の話じゃないの」

【一条】
「もういっぺん手が出るぞ?」

【美織】
「それは遠慮しておこう、でも彼氏としての気の持ちようって変わる必要あったの?
羽子もマコも彼氏と彼女しているように見えたんだけどな」

【一条】
「一歩踏み込んでってことだよ、羽子さんガード固いから」

【美織】
「ふむ、ああいった鉄壁は付き合ってる側からしたら邪魔以外の何物でもないしね。
良いんじゃないかな、あたしとしても羽子が毎日ポカやってくれるようになればいじりがいあるし」

いじらないって選択肢が無いところが美織らしい。
通常はどんなところでも羽子さんの方が上手だけど、そういったことになると羽子さんに勝ち目は無いからな。

【美織】
「まあ頑張りなさいな、影ながら応援してあげる」

【一条】
「表立って応援してくれないんだ」

【美織】
「そりゃあ羽子の手前ね、そ・れ・と、羽子に隙があったらマコ奪っちゃうから。
あたしは結構しつこいよ、チャンスがあったら逃がさないからね」

女の子に好かれるのは悪い気しないんだけど、なんか美織にそう云われても嬉しさが弱い。

【美織】
「露骨に嫌な顔するな!」

ベギ!

【一条】
「ほわ!」

鞄の角で殴打された、もう天にも上るような嫌な痛みが頭の先から足の先までジィーンと……

【美織】
「前言撤回! 羽子なんかとは破局してしまえ!」

ベェーっ!っと舌を出して悪態をつきながらさっさと走っていってしまった。

あいつは羽子さんと違って思ったことを口に出し、思った通りに行動している。
自分を偽らないからこちらとしても接しやすく、悩みもきっと薄いだろう。

それが必ずしも良いというわけではないが、羽子さんにはそういった要素が無さすぎる。
羽子さんも美織のように偽ることを止め、常に自分の本心で過ごせるようになれれば変わると思うのだけど。

【一条】
「……大丈夫、上手くいくよな」

行動を前にして、俺にもそれなりの覚悟を決める必要がある。
もしかすると羽子さんと終わりになるかもしれないけど、このまま偽り続ける羽子さんと付き合うのも辛いから……

全ては行動を起こしてみてから、駄目になった時はその時考えれば良いさ。

……

【羽子】
「お早うございます」

【一条】
「あ、お早うございます」

まだ時間にも余裕があったので中庭に出てみると、予想通り羽子さんが花壇の手入れをしていた。

【羽子】
「月曜日はお休みされていたようですけど、お体の方は大丈夫なんですか?」

【一条】
「心配無用です、サボっただけですから」

【羽子】
「むぅ……学生なんですから何の理由も無く学校を休むのは良いこととは云えないですよ」

少しだけ眉を上げて怒っている意思表示をするが、裏を返せば本気で怒ってはいないということになる。

【羽子】
「こんなことでは来月のテストは散々な結果になってしまいますよ……」

【一条】
「それは大丈夫です、だって羽子さんがいるじゃないですか」

【羽子】
「む、私頼りなんですか……自分でやらないと力になりませんよ」

【一条】
「それじゃあ羽子さんは俺が赤点取って留年しても良いですか?」

【羽子】
「そ、それは嫌ですけど……ズルイです、意地悪ですよ」

少しだけ肩を竦めてしゅんと消沈する、何を云っても無駄だとわかっているせいかそれ以上言葉は続かない。

【一条】
「はは、冗談ですよ、これからはよほどのことが無い限りサボったりはしないと思います」

【羽子】
「うぅ、一条さんはそう云っていつも嘘をつきますから」

【一条】
「それはそれで酷いですね……落ち込みますよ」

大げさに肩を落として落胆を色濃く表現してみせる、本当は少しも落胆などしていないのだけど。

【羽子】
「あ、嘘です嘘、冗談ですからそんな落ち込まないで」

【一条】
「良いですよ……どうせ俺は上辺だけで中身の無い男ですから、詐欺師とでも呼んでください」

【羽子】
「あうぅ、そんなつもりで云ったんじゃないんですけど……」

【一条】
「今日から1人寂しく裏街道まっしぐら、短い付き合いでしたけどもう会うことも無いでしょう。
裏の世界でもし見かけても声はかけないでやってください、それじゃあ……」

【羽子】
「そんな大袈裟な、あぁ待ってくださいよ」

俺の腕をギュッと掴んで行ってしまわないように拘束する、勿論どこかに行く気などさらさら無い。
わたわたと軽いパニック状態におちてしまっている今の羽子さん、こいつが最初の好機だ。

【羽子】
「私の発言で傷付かれてしまったのでしたら謝りますから、ですから……」

【一条】
「謝ってもらう必要は無いんですけど……そうですね、それじゃあちょっとわがままをきいてもらいましょうか」

【羽子】
「わがまま?」

【一条】
「ええ、今日の昼休みちょっと俺に付き合ってください。
あ、ついでに鞄も持ってきてください、それでちゃらにしますよ」

【羽子】
「鞄、ですか? 少し気になりますけど、そんなことでしたら喜んでお付き合いしますよ」

【一条】
「契約成立ですね、もうどうやっても覆りませんからね」

【羽子】
「ぅ、なんだかそう云われるとそこはかとなく不安なんですが……」

少しだけ不信感を見せるものの、ホームルームを告げる鐘の音にすぐに表情を元に戻した。

【羽子】
「いけない、急がないとホームルームに遅刻してしまいます!」

【一条】
「みたいですね、急ぎますか」

駆け出す羽子さんを追うようにして俺も駆け出した。

基盤の上で、王様は着実に逃げ道を塞がれ始めている。
もっとも王様はそんなことを知る由も無いだろうが、気が着いた時にはもう逃げ道は無くなっている。

だけど机上の計算は何よりも苦手だから、どこかで大きなミスを出さなければ良いのだけど……

……

休み時間の間に待ち合わせ場所は玄関で、ということにしておいた。
人気が無くて2人で会っていてもばれにくいという建前があるのだけど、これは嘘。

一足先に玄関で待っていると、鞄を持ってパタパタとは駆けてくる羽子さんが視界に入った。

【羽子】
「はぁ、はぁ……お待たせしました」

【一条】
「いえいえ、それじゃあ行きますか」

【羽子】
「行くって、休み時間に校外に出るのは原則不可なんですが?」

【一条】
「ですからそれを破るんですよ、たまには羽子さんも一緒にサボってみませんか」

最初は何を云っているのだろうと眼をパチクリさせていたけど、云いたいことがなんであるのか理解するとすぐに表情が曇った。

【羽子】
「だ、駄目ですよ……午後の授業もちゃんと出ないと」

【一条】
「残念ですが拒否はできないですね、これが俺のわがままですから」

羽子さんも一緒に午後の授業をサボる、これが王様を追い詰めるための小さな一手。

【羽子】
「そんなあ……何か他のことでは駄目なんですか?」

【一条】
「駄目です、というよりも羽子さんだって帰る準備万端じゃないですか」

【羽子】
「こ、これは一条さんが持ってこいって云うから……」

【一条】
「折角そこまで準備してきたんですから今日は帰りましょう、もとより羽子さんが駄目だと云っても俺は帰りますけどね」

【羽子】
「よほどのことがない限りサボらないって云ったじゃないですか」

【一条】
「羽子さんに嘘つきだと云われたのは結構ショックでしたけど」

【羽子】
「ですからあれは言葉のあやで、本当にそんな風に思っているわけでは」

優先権が俺の方にあるために羽子さんが何を云っても空回り。
朝と同じようにわたわたと慌て始め、慌てれば慌てるほど俺が優勢になっていく。

【一条】
「一緒に帰ってくれないと……無理矢理にでも抱いて帰りますよ?」

【羽子】
「ううぅ……わ、わかりました、元はといえば私が悪いんですから、お付き合いさせていただきます」

しぶしぶ了承してくれた羽子さんが靴を履き替えるのを待ち、履き終ったところで羽子さんの手を引いた。

【羽子】
「わわ! い、一条さん?」

【一条】
「教師陣にみつかると不味いですから、校門抜けるまで走りますよ!」

手を引いたまま羽子さんが転ばない程度に走り出す、最初は少しバランスを崩したみたいだったけどすぐに立て直して歩調を合わせてくれた。
しかしまあ女の子の手を引いて学校早退するなんて、これじゃあまるで逃避行だよな。

……

【羽子】
「はぁ、はぁ、はぁ………」

【一条】
「この辺まで来ればもう誰かにみつかることはないですかね」

【羽子】
「はぁ、はぁ……もう、いきなり走り出すなんて酷いですよ」

【一条】
「ゆっくりしてると人目につきますから、美織辺りに見られると明日から辛いですよ?」

【羽子】
「う、それは確かに嫌ですね……だけど、学校を無断早退するなんて初めての経験ですよ」

初めはしぶしぶだったのに、いつの間にか羽子さんの表情には笑みが表れていた。

【羽子】
「たまにはこうやって、好きな人と学校をズル休みするのも良いかもしれないですね」

【一条】
「はは、1回味わうとクセになりますよ」

【羽子】
「あんまり浸りすぎるのもいけないですから、1ヵ月に1回程度が許容範囲ですね。
一条さんも、今日は特別ですからね……」

スッと羽子さんの腕が俺の腕に絡みつく、いきなりのことでかなり驚いてしまった。

【一条】
「は、羽子さん?」

【羽子】
「特別って云ったじゃないですか、誰かに見られることもないんですからこれくらいしてあげますよ」

【一条】
「そうですか……なんだか照れますね」

【羽子】
「私だって恥ずかしくないわけではないですよ、ですが折角いけないことをしているんですから。
いつもとはちょっと違ったことをしてみるのも楽しくありませんか?」

空いた手を口元に当ててクスクスと笑う、もしかするとこうやって羽子さんの笑顔を見られるのも最後かもしれないんだよな。

【羽子】
「それで、これからどこに行くのかとかは決まっているんですか?」

【一条】
「まあ一応は、あんまり面白くないと思いますけど俺の部屋に来てもらえますか?」

【羽子】
「はい、一条さんが良いと云うのなら私はお供しますよ」

王様の逃げ道はもうほとんど残されていない、兵士は着実に王の逃げ道を塞ぎ始めていた。

……

【一条】
「どうぞ、適当な所で楽にしててください」

【羽子】
「お邪魔します……なんだか久しぶりですね、一条さんの部屋で2人きりというのは」

【一条】
「そういえばそうですね、料理をしに来てもらった時以来ですか」

あの時の料理は本当に凄かった、羽子さんが料理下手というのを実際に感じた瞬間だったな。
カレーをするのに何故あんな材料を買ってきたのかいまだに疑問として残っている。

【羽子】
「あの時は一条さんに嘘をついてご迷惑をかけてしまいましたから、あれから少しですが料理の勉強もしてるんですよ」

【一条】
「へえ、じゃあ今度作ってくださいよ……どうぞ」

【羽子】
「ありがとうございます、頂きます」

冷蔵庫で冷やしておいたアイスティーを受け取り、まずは羽子さんが1口。

【羽子】
「んく…………ぁ、良い香りです、それになんだかとても甘いです」

【一条】
「うん、中々良い味ですね」

大量に作って冷蔵庫に常備することが少ないから上手くできてるか心配だったけど
まあ合格点と云って良いんじゃないだろうか、クリームダウンも起きていないみたいだし。

【羽子】
「なんだか不思議ですよね……本来なら学校で午後の授業を受けているはずなのに。
こうやって一条さんと紅茶を飲むことになっているなんて、普段では考えられないことですよ」

【一条】
「そうですね……だけど俺にはこうなると予想できていましたよ」

【羽子】
「え? それはどういうことですか?」

【一条】
「今日は最初から羽子さんをここに呼ぶつもりでいましたから」

【羽子】
「私をですか? でもそれでしたら今でなく学校が終わってからでも」

【一条】
「もうそこまで待てない、いえ、待たせ続けていられないと云った方が良いですかね」

意味深な俺の科白に羽子さんが小さく首を傾げる。
瞳には素直な疑問の感情が見て取れる、まだどうして自分が呼び出されたのか見当がついていないのだろう。

【一条】
「いくつか聞かせてもらいたいことがあるんですよ、そのために今日は呼び出させてもらいました」

【羽子】
「私に聞きたいこと? 私に答えられる範囲の話でしたら何でも良いですよ」

さぁ、準備は全て整った。
ここからが大一番、これの結果如何では俺と羽子さんの関係は終わりを向かえる。

お互いに傷付く可能性も十分にある大きな賭けに、俺は手をかけた。

【一条】
「どうしてそこまで、自分を誤魔化してすごしているんですか?」

【羽子】
「ぇ……?」

なるべく直球で、それでいて芯のところはぼかしながら最初の疑問を尋ねてみた。
芯は最後の手段、きっとあれを持ち出せば羽子さんの支えは崩れてしまうはずだから。

【羽子】
「おっしゃってる意味がよくわからないんですが……」

【一条】
「普段学校にいる時の羽子さんの顔と、こうやって俺と2人になっている時の顔には明らかな差があります。
それがどうしてなのか、教えてもらえますか?」

【羽子】
「それは……私にとって一条さんと他の方では少し立場が違いますから」

【一条】
「確かにそうかもしれません、だけどそうじゃないかもしれない。
俺には、羽子さんが無理をしているようにしか見えないんですよ」

【羽子】
「無理なんてそんなことは……」

【一条】
「していないと、断言できますか?」

羽子さんは軽く唇を噛み、その後の言葉が続いて出てこない。
これは自分の中でもどこかに無理をしているという自覚があるからこその沈黙。

【羽子】
「他の方からしたら無理に見えるかもしれませんが、私は別に」

【一条】
「だったらどうして、学校の中ではあそこまで人を避けるようなことをしているんですか?
無理しているのを知られたくないから人を遠ざけているんじゃないんですか?」

【羽子】
「だとしたら、どうだって云うんですか?」

【一条】
「そうだとしたら、無理をしているということになりますね」

【羽子】
「たとえ私が無理をしていたとしても、そんなことは一条さんには関係ないじゃないですか。
私がこれで良いと思っているのならそれで良いじゃないですか」

【一条】
「それがそうも云っていられないんですよ……」

手にしていたコップを放し、羽子さんの眼を真っ直ぐに見据える。
俺のいつもとは違う言動に羽子さんの眼は少し怯えているような、何かを隠すような混濁を示していた。

【一条】
「羽子さん、いい加減無理をするのはやめにしませんか?」

【羽子】
「どうしてそんなことを一条さんに云われないといけないんですか、私は今の状態を悪いことだとは思っていないですから。
それに無理無理とさっきから云いますけど、何が無理だって云うんですか?」

【一条】
「それじゃあお尋ねします、好きでもない勉強を続ける理由はなんなんですか?」

前に一度だけ羽子さんの本心に触れた瞬間、以前羽子さんは勉強ばかりの生活を止めてしまいたいと云っていた。
それなのに羽子さんはその勉強を続けている、止めたくても止められない勉強なんてただの重荷ではないのだろうか?

【羽子】
「それは……一条さんが知らなくても良いことですから」

【一条】
「そうですか、じゃあそれも無理をしているってことですね」

【羽子】
「どうしてそうなるんですか!」

急に羽子さんの剣幕が変わる、怒りの線に触れてしまったようだがこんなことは当に想定済み。
俺は臆することなく言葉を続ける。

【一条】
「前に羽子さんが云ってたじゃないですか、悩みは1人で悩むよりも誰かと一緒に分け合った方が解決も早いって。
それを話してくれないということは、結果的には無理をしているということにはなりませんか?」

【羽子】
「そんなのはこじつけです、悩みだって人に話せる悩みと話せない悩みがあるんです。
私の悩みは一条さんに話してもしょうがないこと……」

【一条】
「しょうがないかどうかは話してもらった後に俺が決めますよ」

【羽子】
「いい加減にしてください! そんなことを話すために私を呼び出したんですか?
そんなどうでもいい話をするために呼び出すなんて、一条さんには失望しました!」

怒りが沸点に達したのか、羽子さんは強い口調で言葉を繋ぎ、もう話すことは無いといった感じに出て行こうとする。

【一条】
「おっと、まだ帰ってもらうわけにはいかないんですよ」

【羽子】
「放してください! もう一条さんと話すことなんてありませんから」

【一条】
「本当にそうですか? それも無理から出た強がりなんじゃないんですか?」

【羽子】
「ふざけないでください、私はいつだって自分で正しいと思う行動をしているつもりです。
全部一条さんの勝手な思い込みじゃないですか!」

【一条】
「思い込み、ですか……それじゃあ最後にもう1つ。
自分を偽り続けていて、本当に楽しいんですか?」

【羽子】
「っ!」

パシン!

頬に鋭く刺すような痛みが走り、肌と肌が激しくぶつかる衝突音が部屋の中に響いた。
羽子さんの手が俺の頬を張った、真っ直ぐに見据えたままのその瞳の奥、そこにいつもの羽子さんはいない。

羽子さんから向けられたのは敵意の視線、今の羽子さんにとって俺の存在は邪魔者以外の何者でもないのだろう。

だけど、これが羽子さんにとっては命取り。
俺を敵視して手を出してしまった、これは俺の言葉全てが的を射ていること、そして羽子さんが無理をしていることの証明へと繋がった。

今王様は残された一本道を必死に逃げている、その先に道が繋がっていると信じて……

【羽子】
「何もわからないのに、勝手なことを云わないでください……」

【一条】
「何もわからないと思っているのは、羽子さんだけですよ」

【羽子】
「それじゃあ一条さんに、彼方なんかに私の何がわかるって云うんですか!」

【一条】
「俺には手に取るようにわかります、羽子さんが自分を偽り、そのことで悩み続けていることが」

【羽子】
「でたらめです! 彼方は私のことなんて何もわかっていない。
わかるはずなんかない、彼方なんかにわかるはずがないんです!」

いつもの羽子さんでは考えられないほどに感情的になっている、それは自分の弱点をさらしていることに他ならない。
俺に残されたのは一番鋭く確実なナイフ、こいつを突き刺せば、『枯志野 羽子』は崩壊する。

【一条】
「彼方は弱い人間ですね、羽子さん……自分の言葉さえも自分では実現できないような、とても弱い人」

【羽子】
「私は弱くなんかない、私に弱さなんてない!」

【一条】
「それじゃあどうして……こんなことをするんですか」

【羽子】
「なっ!」

ガシっと羽子さんの左腕を掴み、2人の視線の高さまでグイと持ってくる。

【一条】
「この包帯の下、解いて見せてくれますか?」

【羽子】
「そ……それはできません」

【一条】
「そうですか……では見せれないというのであれば無理矢理にでも解かせてもらいますよ」

【羽子】
「ぁ! だ、駄目!」

必死で俺の手を振り解こうとするもそんなことは叶わず、腕に巻かれた包帯は2人の眼の高さでしゅるりと解かれた。

羽子さんの白い腕の中に所々赤い筋が走っている、全てがリストカットを示す傷跡。
無数に入った場違いな筋が、白い腕の中ではとても痛々しく映っていた。

【羽子】
「っ!」

【一条】
「これでもまだ、自分が弱くない人間だと云えますか?」

【羽子】
「わ、私は……弱い人間なんかじゃ……」

【一条】
「いい加減認めたらどうですか、私はリストカットをするような弱い人間ですと!」

ナイフは今王様へと突き立てられた、逃げ道を失った王様の眼にはもう強い意思などは微塵も感じられなかった。

【一条】
「いつまでも1人で悩み続けて、抑えきれなくなったら自分の腕を傷付けて。
それが強い人間のすることですか?」

【羽子】
「こ、これは……」

【一条】
「偽りを被り続けるには、自分の腕を犠牲にまでしないといけないんですか?
そうまでして完璧を保ちたいんですか? それが彼方にとって一番良いことなんですか?」

【羽子】
「そんなこと……」

【一条】
「リストカットに頼らないとどうすることもできないのなら、あなたは最低な人ですよ……羽子さん」

【羽子】
「ぁ、ぅ……」

完璧を壊されてしまった今の羽子さんに考える余裕なんて無いだろう。
瞳には涙を溢れさせ、言葉にならない小さな声を漏らすだけだった。

【一条】
「気づいていなかったかもしれないですが、羽子さんが屋上でリストカットをした時、俺もその場にいたんですよ」

【羽子】
「ぇ……?」

【一条】
「周りには結構注意していたみたいですけど、給水塔の上までは注意がまわらなかったですか?」

【羽子】
「給水塔の……上……」

【一条】
「あの時からずっと俺は羽子さんがリストカットをしたことを知っていました、だけどそれには触れないで気付かないフリをしていた。
あの時はそれが最善なんだと思っていたけど、そんなことはせずに俺がもっと早いうちに問い詰めてあげれば良かった」

【羽子】
「ぁぁ……」

羽子さんの腕から力が無くなり、そのまま崩れるように膝を折ってペタンと尻餅をついた。

【一条】
「羽子さんが必死に隠そうとした気持ちもわかりますが、ただでさえ自分を偽り続ける羽子さんにも限度があります。
お願いします……リストカット、それから自分を偽り続けることはもう、止めにしませんか……」

【羽子】
「……」

尻餅をついたまま両手で顔を覆って声無く泣き始めた。
王様に突き立てられたナイフは偽りの外套を崩壊させ、1人の存在を殺してしまった。
だけどそれは決して悲しむことではなく、むしろ先へ進むために一種の通過儀礼のようなものだったと思いたい。

羽子さんが泣き止むころ、きっとそこには外套を失った裸同然の羽子さんに変わっていると信じて。
俺は羽子さんが泣き止むのを待っていた。

ずっとずっと長い間、今まで積み上げてきた偽りの全てが掻き消えてしまうまで……

……

【一条】
「さ、どうぞ」

羽子さんの手が顔から離れ、ようやく泣き止んだことを知った俺は冷蔵庫から新しい紅茶を出してきた。
泣いたことで失われた涙の代わりに紅茶で身体を潤してもらえれば良いんだけど。

【羽子】
「ありがとう、ございます……」

消え入りそうな声だったけど、そこが逆に羽子さんの偽りが消えてしまたことを示していた。

【羽子】
「コク………」

【一条】
「泣き疲れましたか?」

【羽子】
「あれだけ長い間泣いたんですから疲れていないと云うことの方が信じられないですよ。
あんなに長い間泣いていたのも本当に久しぶり……」

長い間声も無く、無言のまま泣き続けていた。
その泣いていた時間が今まで作り上げた偽りの量なのかと考えると、本当に長い間偽りの時間を過ごしてきたのだろう。

【羽子】
「人前で涙を見せることは弱者の表れ、そう云われて育ってきた私には人前で泣くことなんて許されなかった。
だけど、泣きたくても泣けない辛さがいつも私の心を寒く冷たくしていった……」

【一条】
「1つ聞かせてもらっても良いですか?」

【羽子】
「どうぞ」

【一条】
「羽子さんが完璧を保とうとした原因って、親御さんが?」

【羽子】
「……何でもお見通しなんですね……マスターですか?」

【一条】
「ええ」

【羽子】
「そうですか……あれだけ話さないでって云っておいたのに、約束破られてしまいましたね」

無理矢理笑顔を作って苦笑いを見せるものの、なんだかその表情は生き生きとして見えた。

【羽子】
「自分で云うのもなんですけど私の両親はとても才能に恵まれた方たちでした。
そんな2人の娘であることは私の誇りでもありましたし、それと同時に私が理想とする人物でもあった……」

【一条】
「そんな理想とする2人の親御さんが、どうしてまた?」

【羽子】
「私の両親は家の内外で一切の弱点を見せず『完璧』とまで云われていました。
娘の私から見ても確かに2人は完璧だった、いえ、完璧すぎたんです」

【一条】
「え?」

【羽子】
「そんな完璧な2人を見て育ち、それを理想としてきた私は何とか2人に近付こうと完璧を目指そうとしました。
ですが、私では到底2人の位置に行けることなんてできなかった……」

ギュッとコップを握り締め、琥珀色した紅茶の水面がゆらゆら揺れるのを見ながら小さく息を吐く。
きっとここから先は羽子さんが今まで隠してきた偽りの『枯志野 羽子』誕生の秘密。

躊躇いがあるのかしばらく紅茶の水面を眺めていたが、決心したように羽子さんは言葉を紡いだ。

【羽子】
「私には両親と肩を並べれるような力は無かった、ですが2人をはそれを許さなかった……
小さい頃よく云われました『お前は私たちの娘だろう』って、『私たちの娘なんだからなんでもできて当然』、そう云われ続けた」

【一条】
「私たちの娘っていうのも随分と乱暴ですね」

【羽子】
「ええ、完璧な2人から生まれたのなら、その子供も完璧である。
そんなどこかの神話か御伽噺のような考えを持った両親でしたから……だけど現実はそう上手くはいきません。
親の遺伝子が持つ才能が必ずしも子供に受け継がれるとは限らない、むしろ受け継がれない方が普通なんです」

【一条】
「……」

【羽子】
「実際私は両親にあるような『完璧』を継承することができなかった。
それが両親にはたまらなく不愉快だったみたいです」

【一条】
「不愉快って、そんな絶対でもないうえに相当確率が低いことに」

【羽子】
「そう思うのが普通です、でも私の両親は違った。
才能が無いと云われることなんて日常茶飯事、2人の遺伝子が無駄になったとも云われました。
本当に子供ながら、あの時期は嫌なことの連続でした……」

三つ子の魂百までということわざがあるように、幼少期の生活はその後の人格形成において大方反映される。
そんな大事な時期に両親からの重荷を背負わせられれば逃げ道を見つけようとするのは当然のことだよな……

【羽子】
「完璧を持たない私にできることといえば、周りに完璧ではないことを悟られないようにすること。
完璧を演じ、周囲の眼に完璧であると錯覚させる、そのくらいしかできることはなかった。
そんなことでも、一応親は満足してくれたから……」

【一条】
「親の期待から逃げるために、偽り始めたんですね」

【羽子】
「はい……私の両親は私が産まれる前から相当期待をしていたようです。
優れた2人の遺伝子から産まれるのだから、その子供は2人分の才能を持って生まれてくる。
そんな親の勝手な妄想から産まれてきたのが私、現実には2人の才能を受け継げなかったでき損ない」

【一条】
「でき損ないなんかじゃない、羽子さんは羽子さんじゃないですか」

【羽子】
「ありがとうございます……親がどうであろうと私は私、そう考えられればどれだけ楽だったのか。
あの2人にとって私は、才能を受け継がせるためのいわゆる『苗床』としか見ていないんですから……
私の中で才能は芽生えなかったけど、才能の苗は私の中にある、2人はそれを重要視していた」

【羽子】
「愛情の無い中で私は育てられ、ますます偽りの壁は厚くなっていった。
自由も許されず、やらされることといえば知識をつけることだけ。
そうやって偽りの完璧を保ち続けることだけを親は私に要求した、それがこの歳まで続いたんですから……」

俺なんかでは到底耐えることのできない生活を親に押し付けられた。
それでもどこかで道をそれず、ここまでちゃんと育ってきた羽子さんの忍耐力は相当のものだ。

どうやら俺とマスターの見解はまるで違っていたようだ。
寂しさから、ではなく親の期待そのものから逃げるために偽りを産み出させていたんだ……

だけどそうすると、リストカットの件も話が変わってくる。
あれが寂しさから逃げるための行為ではないとすると一体……?

【一条】
「それじゃあその、その腕はどうして……?」

【羽子】
「これですか……」

スッと捲くった白い腕、そしてそこに走る無数の傷跡。
まじまじと見たのはさっきが初めてだけど、やはり何度見ても痛々しい。

【羽子】
「無様ですよね……周りには完璧に見せているようでも、内面ではこんなことをしないと耐えることができないほど弱いのに。
それでも完璧を演じ続けなければならない、それだけがあの2人が私に望むこと」

【一条】
「それだけ……」

【羽子】
「完璧な2人が欲しかったのは2人分の完璧を受け継いだ子供、だけどそれは私ではない。
完璧を演じるだけの私なんて2人には必要が無い、そう考えてしまうと、もう私には抑えが効かなくなってしまって……」

ジッと傷付いた腕を見つめながら羽子さんは言葉を続ける、その傷に何を宿し何を見ているのかは俺にはわからない。
だけど、そこにも羽子さんの両親が何かしらで係わっているのだろうとということだけは容易に想像できた。

【羽子】
「私が腕を傷付けるのは小さな抵抗、完璧な私を望む親への反発なんです……」

【一条】
「!」

俺の説は何から何まで間違っていた、寂しさから自分を偽り、抑えきれない寂しさから自分を傷つけているのだと思っていたけど。
真実は全くの逆、産み出された偽りは親からの逃避、そしてリストカットはそんな親に対する羽子さん也の抵抗。

羽子さんのことをわかったような気でいたけど、俺は何1つ羽子さんのことなんてわかっちゃいなかった……

【羽子】
「屋上で腕を切り付けた時も、あの時は親から電話があったんです。
もう何年も顔を合わせていないというのに、親から出る言葉は勉強やら振る舞いのことばかり。
その後はフラフラと誰もいないであろう屋上に向かって、その先は一条さんも知っている通りです……」

自分が隠してきた全てを話したであろう羽子さんは俺に肩を預け、小さく息を吐いた。
触れる2人の肩から伝わってくる小刻みな震え、それはとても無防備で、小さく感じられた羽子さんの本当の姿だった。

【羽子】
「莫迦ですよね、私がそんなことをしたって親は一切そのことを知ることはないのに。
私には痛みと自分に対する空虚感だけが重くのしかかってくるだけなのに」

【一条】
「……」

震える肩が何かを求めているようで、俺の腕は羽子さんを包み込むようにやんわりと抱きしめていた。

【一条】
「もうそうやって1人で抱え込む必要は無いんですよ。
ありがとうございます……話したくないことであるはずなのに話してくれて」

【羽子】
「いえ……私1人ではもうどうすることのできないところまできていましたから。
私からも云わせてもらいます、本当に、ありがとうございました……」

腕に伝わる震えが少しだけ大きく、そして不規則になった。
羽子さんは腕の中で泣いている、泣きたければ泣きたいだけ泣けば良いんだ。

偽りを失って裸同然の羽子さんを隠すための薄い外套、それが今の涙なんだから。

【羽子】
「一条さん……1人に……しないでください……」

【一条】
「大丈夫です、1人にはさせませんよ」

【羽子】
「……良かった」

いつものように腕の中でもそもそと動き、2人して向かい合うようになるとすぐに唇を交わらせてきた。

【羽子】
「あむ…………一条さん、お願い……できますか?」

【一条】
「……ええ」

……

【羽子】
「はぅ……」

ワイシャツに袖を通し、スカートとブレザーを着こなして普段の姿へと戻る。
さっきまでのとても小さく壊れてしまいそうだった羽子さんはそこにはおらず、自信に満ちた全く新しい羽子さんの笑顔があった。

【羽子】
「今日は色々とありがとうございました、今までずっと1人で悩んでいましたけど、もう迷ったりはできないですね」

【一条】
「迷いそうになったらいつでも相談してください、俺は羽子さんの彼氏ですから」

【羽子】
「ふふ、そう云ってもらえる関係ってなんだか嬉しいですね。
それじゃあ私はこれで失礼します、明日は2人でお説教受けましょうね」

【一条】
「……今まで辛い思いに気付いてあげられないで、申し訳ありません」

【羽子】
「良いんですよ、それにその話はもう止めにしましょう。
ほんの数時間前のことですがそのころの私はもういませんから、今の私は今の私なんですから」

偽りを断ち切った羽子さんの顔を見ていると、どうしても離れてしまうのが惜しくなる。
もう一度だけ羽子さんの身体を抱き寄せ、今度は俺から唇を交わさせた。

【一条】
「もう少しだけ、このままでも良いですか……」

【羽子】
「はい……」

抱きしめた羽子さんからふわりと香る花の香り、それがなんとも心地良く、なんともやわらかい。
この時間がいつまでも続けば良いと、そんなことを願うだけだった……

……

【水鏡】
「……」

夕日に正面から照らされ、少女の背中からはとても長い影がすうっと伸びていた。
さわさわと流れる川の音色の中、少女の長い髪が風に遊ばれて小さく躍動する。

【水鏡】
「……」

少女の耳に川や風の音とは違う、何かと何かが擦れる音がして軽く首を捻った。
その先にいたのは1人の男性、黒のロングコートと眼深に被った帽子が特徴的で表現のしづらいな雰囲気を出していた。

【男性】
「……」

男性は少女のやや後ろで歩みを止め、溜め息じみたものを1つだけ吐いてから少女に声をかけた。

【男性】
「こんなところでじっとしていて良いのか?」

【水鏡】
「……」

【男性】
「お前はまだ何も語っちゃいない、本当にそれで良いのか?
お前が語ってやらなければ、彼はこれからもずっと悩み続けるかもしれないんだぞ?」

【水鏡】
「……その心配は必要ありません。
あの人には最初から助力なんて必要なかった、あの人だけで全てを乗り越えるだけの力があった。
それに、あの人を後押ししてくれる人もあの人の周りにたくさんいらっしゃいますから、私が口出しする必要は無い……」

【男性】
「そうかい、まあお前がそれで良いというのなら私は何も云わん。
時計の針もあと僅かだ、それだけを気にしてくれてれば良い……」

2人にしかわからない会話、男性は云いたいことを云い終えるとさっさと踵を返してこの静寂から姿を消した。

【水鏡】
「……桜の季節ももう終り、か……」

少女の声に珍しく感情が宿る、それは決して起きてはいけない感情。
軽く頭を振って感情を打ち消すように唇を噛んだ、私にこんな感情は要らない。

感情の欠片が一片も残らず消えてしまうまで、少女は川岸に立ち尽くしていた……





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