【5月01日(木)】


【羽子】
「お早うございます」

【一条】
「お早うございます、お待たせしましたか?」

【羽子】
「全然、私も先ほど来たばかりですから」

【一条】
「良かった、それじゃあ行きましょうか」

羽子さんと待ち合わせをして2人揃って学校へと向かう、これは羽子さんの提案だった。
昨日の一件以来、羽子さんは本当に変わっていた、まず朝一番からこんな笑顔を見せてくれることなんて今までなかった。

確かに前も笑ってはいたんだけど、それはなんだか『枯志野 羽子』を保つための笑顔のような気がして。

【羽子】
「今日からもう5月なんですね、桜ももう葉桜、なんだか切ないですね」

【一条】
「そうですね、だけど桜が終った後にも次の緑が芽吹いてきますから、感傷に浸っている暇なんてないですよね」

【羽子】
「……」

【一条】
「なんですかその意外だなって顔は?」

【羽子】
「いえ、実際意外に思ったものですから……一条さんでもそういった科白を云うんですね」

【一条】
「ですよね、俺も自分で意外だって思います」

2人して同時に笑みがもれた、こうやって自然に笑うのが一番羽子さんらしい。
それを親の期待から笑うことさえも抑制された偽りを続けるのは楽なことではなかっただろう。
肉体的精神的、両面からの重圧があったはずなのにそれでも羽子さんは自分を保ち続けていた。

本当に凄い女の子なんだな……

【羽子】
「ですがこんな早い時間で良かったんですか、まだ学校が始まるまで1時間半もありますよ?」

【一条】
「このくらいの時間じゃないと羽子さんと2人っていうのは難しいでしょうから。
俺が普段起きる時間だと美織に会ったりしますからね」

【羽子】
「うぅ、宮間さんですか」

眉を少し下げてなんともとっつき辛そうな顔をする。
やっぱり偽りを捨て去っても美織が苦手なことまでは治らないのかな?

【一条】
「でもまああいつのことですから、この時間に会うことはまず無いと思いますよ」

【羽子】
「そ、そうですよね、あの人以前は遅刻の常習犯でしたから。
こんな早い時間に起きて学校に行こうなんて天地がひっくり返りでもしない限り考えないですよね」

そ、そこまで云いますか……

【一条】
「じゃあとりあえずは安心ってことですかね」

【羽子】
「ええ………んぅ」

【一条】
「お」

少しの間俯いてもじもじとしていた羽子さんの手が、俺の手へと絡められた。
突然のことでちょっと驚いてしまったけど、羽子さんの火照った手の温もりですぐ我にかえった。

【羽子】
「だ、誰も見ていないのなら……手、繋いでいても良いですよね……」

【一条】
「どうぞ、羽子さんがしたいようにしてください」

【羽子】
「あ、ありがとうございます……」

昨日は腕を絡めてきたっていうのに、偽りがなくなったせいでさらに初々しくなっちゃったみたいだな。

【羽子】
「も、もうすぐ連休に入りますね……」

【一条】
「そういえばそうですね、土日に噛んでるからあんまり得した気分にならないですけど」

【羽子】
「あ、あの、もしよろしかったらどこかで私と……その、あの」

【一条】
「羽子さんと何をさせたいんですか? 当然のごとく連休は全部空いていますよ」

【羽子】
「それでしたらぁの! もう一度私とその!」

絡められた手にギュウッと力が込められて少し痛い。
あのとかそのが多いせいで話が先に進まない、前から俺の前だと恥ずかしがり屋だったけど
今は手を繋いでいるせいかさらに倍増されてるみたいだ。

【一条】
「もう一度何させたいんですか?」

【羽子】
「わ、私と!」

ガシャコン!

【羽子】
「へ……?」

【一条】
「ん?」

なんだか聞き覚えのある電子音が後ろで聞こえた、羽子さんと一緒に振り返ると……

【美織】
「よ、お2人ともお早いご出勤ですこと」

【一条】
「美織、お前それ」

美織に手にはしっかりと携帯電話が握られている、さっきの音と一緒にそれを合わせて考えると。

【羽子】
「み、みみ、宮間さん!」

美織の姿を確認すると慌てて絡めていた手を振り解く。
今更そんなことをしてもどうしようもないのだけど、ねぇ?

【美織】
「ん、どした? あたしに何か用?」

【羽子】
「い、いきなり声をかけるのはズルいですよ!
大体、ついこの間まで遅刻常習犯だった彼方がどうしてこんな早い時間に!?」

【美織】
「酷い云われようだな、あたしだってたまには早く起きて学校に行くこともあるさ。
あ、そっか、マコとラブラブだったからあたしがいちゃ邪魔だったんだ、しまったしまった」

全然しまったなんて思ってない、そんなのあいつの顔を見れば誰だってわかる……羽子さん以外は。

【羽子】
「そんなことは一言も云っていません!」

【美織】
「あらそう、それじゃああたしが2人の間に割って入っても問題無い訳だ」

無理無理と俺と羽子さんの間をこじ開け、俺にべったりとくっついてくる。

【羽子】
「な、なななななっ!」

【一条】
「そんな無理して割って入らないでも」

【美織】
「気にしない気にしない、云っておいたでしょ隙あらば盗るって。
羽子が大事に持っていないんだったらあたしが」

【羽子】
「だ、駄目駄目駄目ー!」

間に入った美織を弾き出すように後ろからドンと押す、前に飛び出した美織は倒れそうになりながらも何とか体勢を立て直す。

【美織】
「わわっと、ちょっと危ないじゃないのさ」

【羽子】
「彼方はもう少し人の迷惑を考えたらどうですか!」

【美織】
「迷惑って云われてもねえ、マコはあたしがくっついたら迷惑?」

【一条】
「迷惑って程ではないけど……」

【羽子】
「なっ! 一条さんもはっきりしてください!」

ビシィっと指を指されてしまった、ここはきっぱりと否定しないと後でこってり説教されそうな気が……

【一条】
「ふうむ、あっついからとりあえずくっつきすぎるのは勘弁してくれ」

【羽子】
「ほら、一条さんもこう云っているんですから今度からは気をつけてください」

【美織】
「あらあら、マコもそんなこと云ってるけど相手があたしじゃなくて羽子ならどうなのかしらねぇ♪」

【羽子】
「私だって彼方だって同じに決まってます」

【美織】
「くしし、これで同じだとあたしとしては嬉しいのだけど、こーんな結果になっちゃってるわけだしね」

携帯をカコカコといじりだし、目的の状態にできたのか画面をこちらに向けた。
画面の中には俺と羽子さんがしっかりと手を繋いでいる、さっきの場面が抑えられていた。

まあ撮られたんだろうなとは思ったけどさ……

【羽子】
「これ、は!」

【美織】
「さあ焼き回しして教室に張り出そうー♪」

【羽子】
「あ、ああ、あああああ彼方という人は何を考えているんですか!」

必死で美織に飛び掛るも予測していたであろう美織は身体を僅かに逸らすだけで簡単に避けてしまう。

【美織】
「早く取り返さないとクラス中に関係が露呈しちゃうわよー」

【羽子】
「この!」

【美織】
「こっちこっち」

【羽子】
「くううぅ!」

弱みをちらつかせながら美織は羽子さんで遊んでいる、今まででは絶対に考えられないような構図に思わず笑みが漏れた。

【一条】
「2人とも楽しんでるようだから俺はお先に」

【羽子】
「一条さんも人事だと思っていないで宮間さんを捕まえるのを手伝ってください」

【一条】
「別に良いんじゃないですか、笑って誤魔化しましょう」

【美織】
「そうそう羽子もそれくらい軽く考えないと、そんなんじゃいつまで経っても地位安泰とはいかなくなるわよ」

羽子さんを軽くいなしながら、再び俺にくっついて手早く腕を絡めてきた。

【羽子】
「またそうやってすぐに手を出してー!」

【美織】
「ちゃんと捕まえておかないのが悪いのさ」

【一条】
「は、ははは……」

平和だねえ、以前のような顔を合わせるだけで真っ向敵対の雰囲気は微塵も感じられない。
それもこれも全部、昨日のことが全てを上手くまとめてくれたって解釈しても良いのかな……

……

【一条】
「ぼぉー……」

昼休みはいつものように屋上の給水塔の上で一休み。
羽子さんは美織と一緒に今も追いかけっこを続けている、休み時間になると2人で部屋を飛び出していったくらいだもんな。

よほどあの現場を押さえられたのが悔しいのだろう、だけどそうやって熱くなると美織の思うつぼのような気がするんだけど。
まあなんにせよ、羽子さんの態度が俺以外でも明らかに変わり始めているからプラスに動いていると見て良いんだろう。

【一条】
「ふあ、あぁぁ……」

【水鏡】
「眠たそうですね、先輩」

【一条】
「水鏡か、一仕事終えてほっとしたらダレ始めちゃってね」

【水鏡】
「いけませんね、そうやってダレている間にもいつまた次の仕事が来るかわからないんですよ」

【一条】
「それもそうだ、だけど今日くらいゆっくりさせてもらっても罰は当たらないかなと」

【水鏡】
「……じぃー」

声に出しながら俺の顔を眺めている、俺も何度か水鏡の顔を眺めていたことがあるけど、これは結構恥ずかしいもんだ。

【一条】
「俺の顔に何か不審な点でも?」

【水鏡】
「そうではなくて……とても清々しい顔、何かをやり遂げたって顔をしていますね」

【一条】
「一応やり遂げたからね、だけど顔に出てるとは思わなかった」

【水鏡】
「今だったらちょっとやそっとのお願いなら断わらなそうな顔です」

【一条】
「……何かさせようって云うの?」

【水鏡】
「先輩が受けてくれればですけど、受けていただけますよね?」

【一条】
「よほどのことじゃなかったら少しくらいなら良いけど」

【水鏡】
「大丈夫です、彼女さんと別れてほしいとかそう云ったことではありませんから」

前髪で隠れて眼はわからないけど、口元は完全に笑っていた。
美織ほどとは云わないけど、こいつも俺で楽しむことが稀にあるんだよな……

【一条】
「で、俺に何をしてほしいと?」

【水鏡】
「簡単なことです、今日の放課後にここに来てほしい、それだけです。
あ、絶対に1人できてくださいね、彼女さんと一緒には来ないでくださいね」

【一条】
「それくらいだったら別に良いけど、今じゃ駄目なのか?」

まだ昼休みも半分近くあるし、俺と水鏡以外屋上に人影は無い。
それでも放課後が良いと云うのだから何かしら理由があるんだろうけど……

【水鏡】
「今はまだちょっと色々ありまして、あ、もしかして放課後だと彼女さんから離れることができませんか?」

【一条】
「そんなことはない……と思う」

朝が朝だっただけに、俺が他の女の子と会うなんて聞いたら羽子さん怒り狂ったりしないだろうか?

【水鏡】
「もし怒られてしまった際は……素直に謝ってくださいね、私は弁解しませんから」

【一条】
「なんだよそれ」

【水鏡】
「冗談ですよ、それではまた放課後に」

ぺこりと頭を垂れ、水鏡は給水塔を降りていった。
だけど水鏡が放課後に呼び出すだなんて一体何の用だろうな?

【一条】
「ま、放課後になればわかるか……ふああぁぁぁ……」

さっきから欠伸ばっかり出る、適度に暖かいこんな陽気だともう頭の中は昼寝モード。
こうやって眼を瞑れば後数分で眠りの中へ……

【羽子】
「はぁ、やっぱりここだったんですね」

【一条】
「うえ? 羽子さん?」

慌てて体を起こすとそこには羽子さんが心底呆れ顔で立っていた。

【羽子】
「ここは立ち入り禁止場所です、生徒手帳の第23ページにしっかりと記載されていますよ。
こんなところを教師陣に見つかったら停学になってしまいますよ」

【一条】
「……」

【羽子】
「なんですか、随分と不思議そうな顔をしていますが?」

【一条】
「あ、いえ……羽子さんはこんなところになんでまた?」

【羽子】
「一条さんがこんなところにいるのを注意しに来たんです。
さっきも云いましたが、こんなところにいるのが見つかったら停学に」

【一条】
「それは俺だけではなくて羽子さんにも当てはまりますね」

【羽子】
「………ぁ」

自分が今いる状況が理解できたみたいだ、羽子さんもこの給水塔の上に上がってきている。
見つかれば俺だけでなく羽子さんも一緒に停学になるというわけだ。

【一条】
「はは、校則違反ですね」

【羽子】
「くっ、か、返す言葉もありませんね……」

【一条】
「心配しなくても教師陣はこんなところには来ませんよ。
今まで何回もここで過ごしていますけど、一度だって見つかったことないですから」

【羽子】
「つまりは何回も校則を破っていたということですね、私がついていながら……
はぁ、委員長の面目丸潰れですね」

【一条】
「そういえば羽子さんって委員長でしたね、まったく忘れてました」

【羽子】
「うぅ、良いですよ、どうせ私は役立たずのいなくても良い委員長ですから」

つんとそっぽを向かれてしまった、こうして見ると羽子さんって大人びて見えていたけど結構子供っぽいんだな。

【一条】
「そんな怒らないでくださいよ、委員長であろうとなかろうと俺は羽子さんを必要としますけどね」

【羽子】
「ま、またそういうことを云って誤魔化してぇ……」

【一条】
「誤魔化したつもりはないんですけどね」

【羽子】
「……ふぅ、やっぱり一条さんには何をやっても敵いませんね」

俺の隣まで歩み寄り、羽子さんも直接地面へと腰を下ろした。

【羽子】
「今日はお咎め無しにしてあげます、そのかわり、さっきの言葉が嘘じゃないって証明してください」

【一条】
「証明って云われても、また手でも繋ぎますか?」

【羽子】
「それはもう結構です、また宮間さんにカメラで撮られても困りますから……」

【一条】
「そういえばそのカメラの話ってどうなったんですか?」

【羽子】
「何とかデータを削除させはしましたけど、かわりに色々と犠牲も出てしまって」

何を犠牲にしたのか気になったけど聞くのは止めておこう、だって羽子さんの服がやけに乱れている。
取っ組み合いの喧嘩でもしていなければ良いのだけど……

【羽子】
「話を逸らさないでください、さっきの言葉が嘘じゃないっていう証明」

【一条】
「何をしてあげたら良いんですか?」

【羽子】
「うぅん……私の眼を見て逸らさずに、好きって云ってください。
一条さんは朝も宮間さんの返答を誤魔化していました、私がいるんですからはっきりと断わらないと駄目です。
だから今度は私が余計なことをしなくても良いように、はっきりと云って下さい」

弱ったな、まさか今になってしっぺ返しが来るとは思ってなかった。
面と向かって好きと云うのはこの上なく恥ずかしい、まあそれがわかってるから羽子さんもそんな提案をしたのだろうけど。

【羽子】
「……やっぱり私よりも宮間さんの方が良いんですか?」

ぐぅ、そうやって云えるところが女の子ってずるい。
そんなことを云われてしまったら俺にはまともに返すことしかできないじゃないか……

【一条】
「美織よりも、俺は羽子さんの方が好きですよ」

【羽子】
「ふふ、ありがとうございます……これで今回のことは見逃してあげますね。
さあ、教室に戻りましょう、さすがに午後の授業は見逃してあげませんからね」

軽く頬を朱に染めながら微笑み、ゆっくりゆっくりと給水塔を下りていく。
なんだか一歩一歩がおぼつかないみたいだけど……あ、そういえば羽子さん高所恐怖症だったっけ。

【羽子】
「ほぅ……一条さんも下りてきてくださーい」

【一条】
「今行きますよ」

やれやれ、なんだか今までの羽子さんに比べていうことを聞いてあげたくなってしまう。
羽子さんも変わったけど、案外俺自身も変わっているのかもしれないな。

【一条】
「よっと」

【羽子】
「こんな高い所に上るなんて、落ちたら大変なことになりますよ」

【一条】
「落ちないようにしてますから大丈夫ですよ、だけど羽子さん高所恐怖症なのによく上って来れましたね」

【羽子】
「それはまあそうですけ、一条さんが悪い道に行くのをみすみす見逃すのも……ぁ」

羽子さんの足がフルフルと震えだし、そのまま崩れるようにしてペタンと尻餅をついてしまった。

【羽子】
「ぁ、や、やだ……」

我慢していたのだろうけど、緊張状態が解けてしまったから腰が抜けたのかもしれないな。

【一条】
「腰が抜けましたか?」

【羽子】
「み、みたいです……あんなに高い所に上ったのは初めてですから。
ちょっと待っててください、すぐに立ちますから」

足に力を入れて立とうとするもまだ足がフルフルと震えている、これじゃあ1人で立つには相当時間がかかりそうだな。

【一条】
「肩貸しますよ、よっ」

羽子さんの腕を肩に回し、腰を支えるように俺も羽子さんの体へと腕を回す。

【羽子】
「わわ! は、恥ずかしいですよ……1人で大丈夫ですから……」

【一条】
「誰かに見つかったら足を挫いたってことにしておけば問題ないですよ」

【羽子】
「そうかもしれませんけど……うぅ、なんだかとても情けないです……」

怖さから腰が抜けるなんて羽子さんにしたらよほど恥ずかしいのだろう。
だけど羽子さんの違った一面が見れて、俺は結構嬉しいのだけどね。

……

【羽子】
「一条さん、一緒に帰りませんか?」

【一条】
「ぁあすいません、ちょっと待ち合わせの用事がありまして」

【羽子】
「……もしかして女の子ですか?」

【一条】
「だったらどうします?」

【羽子】
「ぅうぅ、浮気は認めませんから」

【一条】
「はは、大丈夫ですよ、女の子をとっかえひっかえできるほど器用じゃないですから」

まあ俺から手を出すことは無い、美織辺りに手を出されるようなことはあるかもしれないけど……

【羽子】
「その言葉、信じて大丈夫ですね?」

【一条】
「そこまで信用無いですか俺は、もし浮気したら腹でも切りましょうか?」

【羽子】
「そんな物騒なことをしなくても、というかもしの話をしないでください。
きっぱり否定してくれないと嫌です」

【一条】
「わかりました、女の子は羽子さんにしか手は出しませんからご安心を」

【羽子】
「うぅん、なんだかそう云われてしまうとなんというか、エッチな感じに聞こえます……」

ポオっと頬を染めるとそのまま恥ずかしげに教室を出て行った、それじゃあ俺も行くとするか。

……

【水鏡】
「あ、来ていただけましたね」

屋上の西側、俺の存在に気がついた水鏡がこちらへと振り返った。

【一条】
「何か用事があるみたいだしね、それで放課後でないと駄目だった用事っていうのは?」

【水鏡】
「……先輩のオカリナ、聴かせていただけますか?」

【一条】
「は? 別に構わないけど、用事ってそれなの?」

【水鏡】
「はい」

それなら別に昼休みでも良かった気がするけど、ちょっと気になったけど俺はオカリナを取り出して吹き口に口を当てる。

息を吹き込んで音を生み出し、それを繋げていつものあの曲名のわからない曲を演奏していく。
オカリナの柔らかい音が屋上の静けさの中に響き、やがて空と一体化して消えていく。
こうやって水鏡の前でこの曲を吹くのも何回目だろう? 結構2人の時に吹いていた記憶が残る。
遅刻してサボってた時、給水塔の上、川原でもそうだ。
この曲を吹いているとどこからともなく水鏡が来ることもあった、俺のオカリナに人を引きつける力があるとは思えないけど……

俺の音の異変に真っ先に気付いたのも水鏡だった、思えば彼女のおかげで俺は過去に悲しむことを止められた。
そのおかげで羽子さんの気持ちに答えることもできた、今の俺に羽子さんがいるのは水鏡のおかげかもしれないな。

後でお礼を云っておこう、きっと水鏡は何でって顔するだろうけどね……

オカリナから音がさあっと消え、先に生み出された音も皆空の幻となって消えていった。
屋上の静寂がオカリナの後味にとても心地良い、ここも俺にとって絶好の演奏舞台だな。

【一条】
「どうだったかな?」

【水鏡】
「いつ聴いても良い音です、それに、もう音が悲しんでいないです」

【一条】
「そう云ってもらえると嬉しいね、これでも水鏡の言葉には悩まされたからね」

【水鏡】
「……先輩、そのオカリナ少し貸していただけますか」

【一条】
「? どうぞ」

水鏡はオカリナを受け取ると迷いもせずにそれに口を当てる。
ついさっきまで俺が吹いていた物なんだからもう少し躊躇してくれても良いと思うのだけど……

【一条】
「え……」

【水鏡】
「……」

オカリナを口にした水鏡から生み出されたのはとても綺麗で、とても透き通るような音色。
俺が吹いて奏でる音とは全く違う、言葉を失ってしまうような、息を呑むようなその音色に俺は聴き入っていた。

そして何より、水鏡が吹いている曲。
これは俺が吹いていたのと全く同じ、曲名もわからない俺の数少ない1つ記憶。

どうして水鏡がこの曲を……?

【一条】
「ぁ……」

【水鏡】
「……」

水鏡の音には一切の迷いが無く、一切の淀みも無い。
何度か吹いては見せたけど一度だってメロディーや音程を教えていないのに、どうしてこの子は?

まるで全てが見えているような、そんな自信の表れが彼女の音を形作っているようで。
この子はこの曲を俺以外から一体どうやって……

【水鏡】
「……」

オカリナの手は止めずにちらりと俺に目配せをする。
もうすぐ曲も終わり、終わってしまうのがひどく名残惜しい、もっと彼女の音を聞いていたい。
だけどそんなことは叶わない、曲には必ず終わりがあっていつかは終わりを迎えてしまう物。

この小節、この小節が終ればもうこの曲には先が……

【一条】
「!」

【水鏡】
「……」

曲は終わらなかった、俺が全く知らない未知の領域へと水鏡は足を踏み入れていた。

急遽とってつけたような違和感の残るメロディーではなく、まるで初めからこの曲はこうだというような
初めから曲の全てを知っていて吹いているような、そんな感じがする。
水鏡が奏でる音の1つ1つが俺の身体の中を駆け巡り、身体の芯を揺さぶるようなこの感覚。

音に惹きつけられ、呼吸をすることも忘れてただ水鏡か奏でる音だけに全神経を集中させていた。
屋上に俺と水鏡、その2人だけが存在して2人だけがこの旋律を耳にしている。
他を寄せ付けないような独特の音色、俺はそんな音色に思考の全てを奪われてしまっていた。

やがてオカリナから発せられる音も小さくなり、水鏡の指が止まるとともに新しい音は生まれてこない。
今度こそ完全に曲は終わりを向かえた、好き好んで吹いていた俺でさえ全く知らなかった世界を残し、水鏡の演奏は終焉を迎えた。

【水鏡】
「ふぅ……」

【一条】
「ぁ……凄いな」

【水鏡】
「ありがとうございます、まだ先輩には遠く及ばないですけどね」

【一条】
「いや、俺なんかでは水鏡とは比べられないよ、だけどどうして水鏡がこの曲……を!」

一瞬眼を疑うようなでき事、水鏡の手の中に納まっているオカリナがやんわりと輝いている。
まるで発光体でも忍ばせているようなぼんやりとした光、どうして俺のオカリナにあんなことが?

【水鏡】
「……もう、時間切れ、みたいですね」

【一条】
「時間切れって一体何を……」

【水鏡】
「今になって私がとやかく云う必要は無い、それが先輩にとっても一番良いことだから」

【一条】
「水鏡、お前何か隠しているな?」

【水鏡】
「隠すことも効力があるうちは意味を成しますが、時期を過ぎてしまうともう隠そうが隠すまいが同じことです。
私がこれ以上余計なことを云って先輩の邪魔をするわけにはいきませんから」

オカリナの光が一際大きくなる、まるでドクンと心臓が打つような強い光。
そして水鏡の手の中、光り輝いていたオカリナの姿がまるで煙か何かのようにスウっと世界に溶け込んで消えてしまった。

【一条】
「なっ……!」

【水鏡】
「先輩、覚えていますか……この世に一度だけ奇跡を起こせる力が備わっているとしたら、という話」

【一条】
「あ、あぁ、だけどそんなことより今は」

【水鏡】
「作為が存在するのならそれはもう奇跡ではない、ですが作為が加えられても奇跡は起こすことができるんです。
……私は想いを伝えたいと云いましたけど、やっぱりそれは間違っていたみたいですね」

水鏡の云わんとしていることは一体何なんだ? 表情からも声色からも水鏡の心情を探ることができない。

【水鏡】
「奇跡が起こせたとしても人が手を加えて起こすものじゃない。
先輩の仰る通りでした、私が余計なことをしなくても自分の力で全てを繋いだんですから」

【水鏡】
「先輩、今までありがとうございました、それから……さようならです」

【一条】
「水鏡、何を……?!」

パチンと頭の奥で不思議な音が響いた、音が鳴り止むと同時に訪れた身体の重さと不快感。
その場に立っていることもできずにガクリと身体が崩れ落ち、意識が泥沼の中へと沈んでいく。

もう視線の中の色は一色、白一色で満たされた別世界のようなところへと俺の全ては飲み込まれていった。

……

【一条】
「んん……」

視界の中に僅かに赤らんだ光とコンクリートの色が飛び込んできた。
倒れていた体を起こすと身体に接していたコンクリートのせいかズキンと痛みが走る。

【一条】
「っ……」

辺りを見渡して見ても水鏡の姿は無い、この空の色からしてあれから結構時間が経っていそうだ。
腕時計に視線を落とすと時間はもう5時をまわっていた。
考えるよりも先に俺の足は動いていた、あいつの最後の言葉が気になって。

まるで永久の別れを告げたようなあの言葉に、どうしても納得がいかなくて。
俺でさえも知らなかったあの曲の全てを知っていて、突然消えてしまったオカリナの秘密を知りたくて。

そして何よりも、俺はまだあいつに……お礼の言葉を伝えていないんだ……

……

【一条】
「ぜぇ、はぁ……」

無我夢中で走り続ける、こんなに長い距離を全力疾走したのは久しぶり。
すでに身体は限界だと訴えるものの、気力だけはいまだ限界知らずに身体を動かし続ける。

今水鏡に会っておかないともう2度と会えないような、そんな気がして。

俺の足は迷うことなくあの場所目指していた、水鏡がいつも屋上から見ていた先。
当然そこにいるという確証は無いのだけど、あそこなら一番会える確率が高いだろう。

あそこにいなかったらもう水鏡に会う手段も可能性も無くなってしまう。
この小道を抜けた先、木々の間からちらちらと見えるその風景の先に彼女がいることを信じて。

開けた視界の先にはあの川原、少しずつ強くなり始めた夕暮れに染められて赤く乱反射する水面の手前。
そこには予想通り水鏡の姿があった、だけど予想外だったのはそこにもう1人の人物がいたこと。

【一条】
「はぁ、はぁ……水鏡!」

【水鏡】
「!」

まさか俺が追ってくるとは思わなかったのだろう、心底驚いたように肩を弾ませて俺へと視線を向ける。
しかしそれはほんの一瞬のこと、すぐに水鏡は一緒にいる人物に視線を戻す。

あれは……どこかで見たことが。

【男性】
「……」

思い出した! あのロングコート、何度か鴉の大群の中から出てきたあの男性だ。
男性はスッと水鏡の頭に手をかざしてそのまま止まってしまう、一体何をしようというのだろうか?

【一条】
「はぁ……はぁ……」

足を引きずるようにして土手を下り、対峙する2人へゆっくりと距離を縮めていく。

【水鏡】
「先輩……」

【一条】
「……水鏡、君に聞きたいことが」

【水鏡】
「さようなら、ですね」

わずかばかり視線をこちらに向け、とても柔らかい口調で俺に告げる。
次の瞬間、男性がロングコートを翻して水鏡の姿がロングコートの奥へと消えた。

水鏡を覆い隠したロングコートが再び男性の身体へと引き戻された時、その先にいたはずの水鏡の姿は消え去っていた。
あのオカリナがふわりと消えてしまったのと同じように、水鏡の姿も霧か靄のように跡形も無く消えてしまっていた。

【一条】
「なっ!」

【男性】
「定刻六時、送還完了……」

ポツリと呟いた男性はコートをなびかせながらその場を立ち去ろうとする。
俺はいてもたってもいられずにその男性へと掴みかかっていた。

【一条】
「あんた……水鏡に何をした!」

【男性】
「……どけ」

ドンと肩を押され、身体に力の入らない俺は力なく倒れてしまう。

【一条】
「答えてくれ、あいつはどこに行ったんだ?」

【男性】
「あいつは死んだ、これで満足か?」

え……水鏡が、死んだ?

【男性】
「……」

【一条】
「ま、待ってくれ! 一体どういうことなんだ!」

【男性】
「君に教える義務も無ければ義理も無い、それだけだ」

男性の背中がどんどん小さくなっていく、が、今の俺には到底追いかけることなんて叶わない。
1人その場に取り残された俺は真っ赤な夕日の中、虚ろな瞳で泣いていた。

声も無く、ただ涙が流れ続けるだけ。
何の意思も持たないそれはまるで人形のように、ただ涙を溢れさせるだけだった。





〜 N E X T 〜

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