【4月22日(火)】
ぽかぽかと暖かい陽光が肌に気持ち良い。
まだ学校に向かうにはいささか早い時間だが、早くに目が覚めてしまったのですることも無くぶらぶらとゆっくり学校へと向かっている。
【一条】
「ふあぁぁ……」
欠伸が出て涙が溢れてくる、身体は素直に眠気を訴えているのに、どうしてか俺は深い睡眠をとることができずにいる。
理由は考えることが多すぎるせい、前から考えることは多かったけどここ最近はさらに増えてしまった。
中でも1番の考えごとは羽子さんのこと。
昨日の捻挫の件もあるけど、この前羽子さんと休日を過ごしてから考えることが急に多くなってしまった。
プラネタリウムでの羽子さんの言葉や、自分はやりたくもない勉強を続けているということ。
他にも前から気になっていたことが積もり積もって今では1番の考えごとになってしまった。
さらに加えて俺自身のことでも悩みは多い、それら全てが俺の安眠を邪魔しているのだろう……
【一条】
「悩んでばっかりで、気の休まる日が無いよ……」
……
予想通り、というか絶対にこうなるとわかっていたけど、随分と早く学校についてしまった。
前にもこの時間帯に学校に来たことがあったな、あの時は確か中庭で羽子さんに遭ったんだったな。
【一条】
「行ってみるか」
そう何度も何度も遭えるとは思わないけど可能性はゼロじゃない、一応行ってみるだけ行ってみよう。
学校の後ろを抜け、少しずつ散り始めた桜を横手に眺めながら中庭を目指す。
【一条】
「お……」
中庭を視界に捉えると、その世界の中で忙しそうに動く女生徒の姿があった。
遠めでも誰であるかわかる、どうやらゼロじゃない可能性に当たったみたいだな。
【一条】
「おはようございます、今日も早いですね」
【羽子】
「え……?」
俺の声に羽子さんが振り返る、いきなり声をかけたので驚かせてしまったかもしれないが、俺はもっと驚いていた。
【一条】
「え……」
【羽子】
「あ、一条さん、お早うございます」
にっこりと微笑む羽子さん、なのだけど何か違和感がある。
違和感の正体はいつもの羽子さんには無い物が今は有るからである。
【羽子】
「? あの、私の顔に何かついてますでしょうか」
【一条】
「へ、あの、ついていると云えばついてるんですが……どうしたんですか、急に眼鏡なんかかけて?」
そうだ、違和感の正体は今まで一度だって見たことの無い羽子さんの眼鏡姿。
いつもはコンタクトだと云っていたのに、昨日の今日で眼鏡に代わっているとさすがに驚くよ。
【羽子】
「あぁこれですか、今日は病院で眼の検査をしないといけないんです。
あのコンタクトもそろそろ交換時期だったので、気分転換もかねて眼鏡にしてみたんですけど、やっぱり変ですか?」
眼鏡の両フレームを手で押さえて軽く上下してみせる。
今まで眼鏡の無い羽子さんしか見ていなかったから驚きの方が大きかったけど、こうして見るとやっぱり知的な羽子さんに眼鏡はとてもよく似合っている。
銀の細身フレームがシャープな印象を与え、『枯志野 羽子』という人物の格を上げているようにさえも見えてきた。
【一条】
「昨日は似合わないとか云っていましたけど、似合ってるじゃないですか」
【羽子】
「眼鏡は人に与える第一印象が二分されてしまいますからあまり好きじゃないんです。
1つは知的で近づきがたい感じを、もう1つは真面目で硬い印象を与えてしまう……冷たい印象が強くなってしまいますから」
【一条】
「なるほど、だけど俺にとって羽子さんって近づきがたくも硬すぎずもしないですけどね」
【羽子】
「本当に、そう思ってらっしゃるんですか?」
【一条】
「ええまあ、2日間休日を一緒に過ごしましたからね。
その中で俺が見た羽子さんはとても親しみやすくて女の子らしい人でしたよ、怖いのが駄目だったりとか」
【羽子】
「なっ! い、一条さん、そういったことはあんまり口に出して云ってはいけないことですよ!」
あれはきっと羽子さんにとって汚点の1つになっているのかもしれない。
だけど怖いのが苦手な女の子って山ほどいると思うけどな。
【一条】
「それで、もう大丈夫なんですか?」
【羽子】
「な、何がですか?」
【一条】
「腕ですよ腕、昨日捻ったって云ってましたよね」
すでに羽子さんが俺にちょっとした嘘をついたことは知っている。
これは1つの探り、一体羽子さんがどんな返し方をしてくるのか……
【羽子】
「あぁ、これですか……1日したら痛みは引きましたよ」
やっぱり倒れたことは云わないか、やはり何か隠さなければいけない何かがあるのだろう。
ただ単に女の子の日で終るかもしれないけど、そうでないのかもしれない。
【一条】
「そうですか、良かったですね」
【羽子】
「ええ、もしかして心配してくれていたんですか?」
【一条】
「はい」
【羽子】
「っ!」
カァッと羽子さんの顔が赤くなった、俺何か変なこと云ったかな?
【一条】
「羽子さん? どうかしましたか?」
【羽子】
「い、いいえ、な、なな、なんでもありませんよ」
如雨露を手にしたまま逃げるように水汲み場へと行ってしまう、なんか足元がフラフラしてるような気がするけど、大丈夫かな?
羽子さんが水を汲んでいる間に、俺は羽子さんが本来あるべき姿へと戻した花壇に眼をやった。
前に見せてもらった白い花が今でもたくさん咲いている、確か名前は……クロッカスとかいったか。
そのクロッカスの花の他にも、前には見なかった鋭く長く、赤と白が入り混じった大きめの花が咲いていた、この花は?
【羽子】
「グラジオラス、ですよ」
【一条】
「へえ、前には咲いてなかったですよね?」
【羽子】
「はい、昨日咲いたばかりですから、本当は初夏に咲く物が多いんですが、これは春咲きの物なんですよ」
手にした如雨露からとても緩やかなシャワーが花々に浴びせられていく。
如雨露のシャワーを浴びた花々が陽光に照らされてキラキラと光輝き、とても綺麗なビジョンを見せてくれた。
【一条】
「今日はあの口上は無いんですか? 花の命は短くて」
【羽子】
「一条さんはそんなに私に恥ずかしいことを強要させたいんですか?」
【一条】
「ははは、そりゃあ人が見ている前ではやり辛いですよね」
【羽子】
「云っておきますけど、人が見ていないからっていつも云っているわけではないですからね」
【一条】
「わかってますよ」
【羽子】
「本当でしょうか?……ところで、一条さんはどうしてこんな早くに学校へ?
あ、もしかして来月に控えた特別テストの勉強、でしょうか?」
【一条】
「……はぃ?」
羽子さんはいきなり何を云い出すんだ? こんな早くに俺が勉強、まさか。
だけど問題はそこじゃない、羽子さんはさっき来月の特別テストって……
【一条】
「あの、つかぬことを伺いますが、来月の特別テストというのは?」
【羽子】
「昨日先生から連絡があったじゃないですか、聞いてなかったんですか?
あ、もしかしてまた居眠りしていらっしゃったんですか?」
【一条】
「いや、起きてはいましたけど……色々と考え事をしていたら聞きそびれたみたいで」
昨日の午後は考え事が多すぎて先生の話なんか聞いちゃいなかった。
しかしその中で随分と重要な話を聞きそびれてしまったんだな。
【一条】
「特別テストの科目ってなんなんですか?」
【羽子】
「基本である5科目だけですよ」
【一条】
「いつやるんですか、そのテスト?」
【羽子】
「来月の中旬、16日辺りじゃないでしょうか」
16日っていうと後1月も無い、これは相当不味い状況になってしまったな……
基本5科目なら国・社・理は暗記を主に行えばなんとかなる、だけど後2科目の数・英はそれだけで乗り切れる物じゃない。
数学は公式が、英語は文章と単語の読解力が必要になってくる、さらに云うと俺はこの2つが大の苦手でもある。
【一条】
「むむむむ……羽子さん、折り入って頼みたいことがあるんですが」
【羽子】
「お勉強会でも開いてくれって云うんですか?」
【一条】
「恥ずかしながら……」
【羽子】
「期末テストの前座みたいな物なんですから、そこまで意識しなくても大丈夫だと思いますが?」
【一条】
「だからといって手を抜いて良い物じゃないと思いますが」
【羽子】
「……」
如雨露を持ったまま、眼鏡越しの羽子さんの眼が大きく見開かれた。
【羽子】
「珍しいですね、一条さんなら『それなら何もしなくて良い』なんて云うかと思ったんですが」
【一条】
「あら……俺だってそこまで楽天的な人間じゃないですから、酷いですね」
【羽子】
「ふふ、ごめんなさい……ですが一条さんがそこまでやる気でしたら、私が無碍に断るのも失礼ですね」
【一条】
「それじゃあ」
【羽子】
「ええ、お付き合いしますよ」
良かった、これで数英で限りなくゼロに近い点数を取らなくて済むかもしれないな。
【羽子】
「それではこれから教室に戻ってすぐにでも始めましょうか?」
【一条】
「え、今からはちょっと、まだ眼が覚めて間もないですからその」
【羽子】
「ふふ、冗談ですよ」
ペェっと小さく舌を出して微笑んだ、俺と2人でいる時にはよく見せるけど、これが校内に入ってしまうと途端に消えてしまう。
校内に入った時の羽子さんと、今ここでこうやって笑っている羽子さん、どちらが素の羽子さんなのだろう?
それ以前に、どうしてここまで羽子さんの表情には差が生まれてしまうのだろう?
普段教室なので見せるあの表情、あれは他を圧倒しそこに1つの障壁を生み出している。
それとは逆に今の表情、そこには何の障壁も無く、他の人も干渉のしやすい顔をしているというのに、どうして羽子さんはこの顔を消してしまうのだろう?
人付き合いは苦手だといっていたけど、もしかすると解決策はとても簡単なところにあるのかもしれないな。
【羽子】
「どうかなさいましたか?」
【一条】
「いえなんでも、そろそろ教室行きますね、羽子さんはまだ?」
【羽子】
「もう少しだけ花壇の世話をしてから戻りますよ、あ、前のように遅刻はしないですからご心配なく」
【一条】
「そういえばそんなこともありましたね、それじゃあ教室で」
【羽子】
「はい」
……
【一条】
「……お」
【某】
「およ? 一条お前早いのう」
誰もいないだろうとふんで教室に来たんだけど、よりにもよってとんでもないやつが教室にいた。
【一条】
「早いって云うけど、お前だって随分と早いだろう」
【某】
「そうか? わいはいつだってこんくらいの時間に教室におるけどなあ。
それよりどしたんこんな時間帯に、まさか不倫か?」
【一条】
「不倫するような相手もいないし、学校でしようなんて絶対に思わないだろうな」
【某】
「せやったらお前がはようからいる理由ってなんやろ、今日は購買のパンに新作が入るなんて情報は入ってないけどな」
懐から取り出した手帳をパラパラとめくり、何かを確かめている。
だけど購買のパンに新作が入るなんて情報が一体どこから漏れてくるのか知りたいところではあるな。
【某】
「んぉ、ははぁん、なぁるほど」
パンと手帳を閉じ、俺の方を向いて口元を吊り上げる。
あの嫌な顔、きっととんでもない悪いことを思いついた、もしくは俺に関わるこれまたとんでもないことを思い出したかのどちらかだな。
【某】
「おまえ、羽子にでもあっとったんやろ? でやでや?」
【一条】
「あ? 会ってたけどそれが?」
【某】
「うわぁー淡白ーやのぉ、あっさりもあっさり、ヤッコに水かけて食うくらいあっさりや」
一体何が云いたいんだ? だいたいヤッコに水かけて食うやつなんかいないよ。
【一条】
「あっさりってなんの話だよ?」
【某】
「あのなぁ、わいは今己の核心をついたんやないんか、えぇ?」
【一条】
「待て待て、さっきからヤッコだ核心だと云われても話が見えてこないんだけど」
【某】
「くぅぁーもぉーニブチンやのおぉー、せやからね、一条は羽子の奴とラブラブやけど
人目を気にしてこの時間しか会えへんから今会いに行ってたんやろってぇー云いたいわけだ!!」
【一条】
「……」
登場人物は俺と羽子さんか、で、俺と羽子さんが……
【一条】
「はあぁあ!?」
【某】
「ぬあ! いきなりがなるなや、びっくりするやんか」
【一条】
「俺と羽子さんがラブラブって、何を云い出すんだお前は」
【某】
「あれ、ちごたん? せやけどお前最近よう羽子と一緒におるやんけ、昨日だって屋上であっとったやろ?」
【一条】
「ちょ、見てたのか? いつの間に」
【某】
「かっかっか、壁に某障子に某、わいの眼はいつだって情報源を追い求めるブンヤの眼なんやで。
せやけどなんも無いんかい、この歳になってしょーもない」
色々と突っ込んでやらないといけないことが多いんだけど、多すぎでどれから始めたもんか……
【一条】
「ええっとねぇ、とりあえず一発殴らせろ」
【某】
「なんと、暴力を振るおうと云うのか! わいは暴力には屈指ずにペンを執るで!」
ゲイン!
【某】
「のあ!」
【一条】
「あらぬ疑いがかかるから余計なことすんな」
【某】
「なんやもうノリの悪い、でもまあ羽子と一緒におるんは否定でけへんやろ?」
【一条】
「そこは否定できないけど」
【某】
「ほーれみぃや、きっと近いうちに一条の方が我慢できんようになっててぇだすで、うわぁケダモンやんか。
あれでも羽子は外見だけは文句無しやからな、一条がひっかかってまうのもわかるっちゃわかるけど、物好きやのう」
【一条】
「外見だけって、じゃあ中身はどうだってんだよ?」
【某】
「中身なんて一緒におるお前が1番わかっとるやろが、あいつは規律が凝縮されて結晶化されたような奴やぜ。
他人はおろか自分にすらミスを許さない『完璧』を纏うことで存在している、こんなところでどうやろな?」
ほう、案外廓の云う通りかもしれない。
教室の羽子さんのみを知る人間は彼女に対して完璧主義者、規律を重んじる女性として映っていると見て間違いない。
ここに他の人と羽子さんとの間に溝が生まれ、それが羽子さんには近づきがたいということを匂わせているのだろう。
一度近づいてしまえば溝なんて無かったことに気づくのだけど、羽子さん自身が近づかれることをあまり良しとしない。
そのため余計に羽子さんと他の人間の差が広がっていっているのだろうけど……
これは俺が口出ししてはいけない問題だ、人間関係に口を出すのは人付き合いの中で1番やってはいけない。
羽子さん自身そのことに気付いているのかはわからないけど、気付いていたとしてもきっと修復しようとは考えないだろうし。
【一条】
「うぅむぅ……」
【某】
「ま、一条が誰を好きになろうと手を出そうと文句云わんけどな」
【一条】
「手出すって、生々しいこと云うなよ……」
【某】
「けけけ、そう考える方がよっぽど生々しい、ってわかっとるか?」
……
午前中の授業は淀み無く終り、今は昼休み真っ只中。
俺は1人で屋上の給水塔の上で寝転がっている、今日は雲1つ無い快晴の空だからとても晴れ晴れとしている。
【一条】
「むうぅ……」
羽子さんという人物がわからない、どうしてあそこまで羽子さんは学校での顔を保ち続けるのだろう?
学校の敷地内、中庭を除くと羽子さんが笑って顔を見た記憶はほとんど無い。
いや、笑ってはいるんだ、だけどそれは休日に見たような顔ではなく、学校内で用いる顔ばかり。
たぶん休日に見たのが羽子さんの素の顔なんだろうけど、どうしてそれを学校では偽ってしまうのだろうか?
校内の羽子さんは常に膨らみきった風船のように、緊張状態を保ち続けているような気がしてならない。
緊張状態が続くというのはとても危険なこと、ちょっとした衝動で全てが崩壊しかねない綱渡り状態にいるのと同じこと。
きっと羽子さん程の人ならすでにわかっているのだろうけれど……
【一条】
「どうしてなんだろうな……」
羽子さんの考えがわかるほど俺は人を読める人間ではない。
今の状態を続けているのには何か訳があるのだろう、俺みたいな奴にはわからない何か理由が……
考えてばかりだと頭が混乱し続けるので、ポケットを探ってオカリナを探す。
いつもならすぐにみつかるオカリナだけど、今日はポケットの中にあの存在を見つけることができずにいる。
【一条】
「……しまった、忘れて来たかな」
今日は朝早くに起きたせいで頭が覚醒しきっていなかったのだろう。
朝から何か違和感みたいなものがある気がしていたけど、こいつだったか。
【一条】
「はぁ……」
オカリナが吹けないとなると、後は寝るかまた考えるかのどちらかしかない。
こんな快晴空の下で寝るとちょっと暑くなりそうだしな、かといって考え事をするのも、うぅーん……
ギイィ
重い鉄扉が開く音がする、この時間帯に屋上に来る人俺の他には珍しいな。
だけど来たからといってこの上に上がろうなんて考えないだろう、だって校則違反だし。
一体誰が来たのかと思い、縁の方まで近寄って下を覗いてみる。
【一条】
「あ、羽子さんか……」
やってきたのは羽子さんだった、俺のようにここには上らずに壁に背を預けて肩で小さく息を吐いた。
後姿、というわけではないのだけどなんだろう、今の羽子さんの姿がその……とても辛そうに見えてしまう。
【羽子】
「……」
俺が上にいることなんて全く気付いていないだろう、だからこそ無防備になりすぎてしまったのかもしれない。
そこから先の羽子さんの動きは流れるように、他の云い方をすると、嫌な意味で迷いが無かった……
左腕に巻かれた包帯をしゅるしゅると解いていく、羽子さんの白い腕になんだか場違いな赤い線が見えた。
ポケットに手を入れて取り出したペンぐらいの大きさの物、最初はなんだかわからなかったけどチキチキと小さな音がしたので理解できた。
あれはカッターナイフだ……
もう一度羽子さんが小さく息を吐く、そのまま羽子さんの手は……
【羽子】
「あうぅ!」
羽子さんから苦悶の声が漏れた、鋭いカッターの歯が羽子さんの腕に当てられ、そこから赤い鮮血が生々しく手首を染めていた。
フルフルと震えるその両手からカッターナイフが落ち、カタンと乾いた小さな音がした
【一条】
「!」
俺はそんな光景にしばらく思考を止められてしまっていた。
あの羽子さんが、自分で自分の体を痛めつけるなんて、そんな莫迦な?
【羽子】
「っ!」
手首からじわじわと溢れてくる鮮血をハンカチで押さえ、はぁはぁと呼吸を荒げ始めていた。
【羽子】
「くぅ、はぁ、はぁ……」
壁に預けていた背がずるずると下がり、やがてぺたんと尻餅をつく恰好で下までずり落ちてしまった。
【羽子】
「どうして……どうして私が、そこまで……」
消え入りそうな声だったけど、羽子さんの声は俺にははっきりと聞こえていた。
【一条】
「……」
そのまま言葉を無くし、傷口を押さえたまま肩で息を整える羽子さんの姿を、悪いとは思いながらも俺は上からずっと見ていた。
眼が離せなくなってしまっていたんだ、今まで俺が見ていた羽子さんの2つの顔、それとは全く別物の今の羽子さんの顔に。
学校ではいつだって芯が強いのに、そんな芯の強さを微塵も感じられないほどに弱く見える今の姿。
羽子さんの中で、一体何が起こっているというのだろうか……?
キンコーンと昼休みの終了を告げる鐘が鳴り、へたり込んでいた羽子さんが動き始めた。
【羽子】
「急がないと……」
頭を軽く振るい、もう鮮血の止まった傷口につけていた包帯をまた丁寧に被せていく。
取り落としたカッターを再びポケットに納め、いつもの足取りで屋上から去っていった。
……いや、いつものように見せてはいても、違和感を隠すことはできていないようだった。
【一条】
「……」
羽子さんが去り、人気のなくなった屋上へと降りる。
【一条】
「一体どうして……」
考えたって全くわからない、どうして羽子さんが自分の腕を、リストカットなんかしていたのだろうか?
ここに来て傷付ける前にも傷の痕があったことを考えると、あれは初めての行為じゃない。
昨日保健室で見た包帯を巻いた腕、あれは捻挫なんかではなく、傷付けた腕を隠すための物だったんだろう。
だとすれば、昨日授業中に貧血で倒れたというのも納得ができるし、俺にそのことを隠していたのも納得だ。
だけどそんなことは今は小さな問題、1番の問題はやはり羽子さんが行った行為の理由だろう。
【一条】
「うぅん…………ぉ」
羽子さんがへたっていた辺りに赤黒く滲んだシミを見つける、紛れもない羽子さんの血であろう。
ドクン!!
【一条】
「っ!」
心臓が強く大きく打ち始め、身体の中で何かが暴れているような嫌な感じがする。
この嫌な感覚、これは前にも経験したことがある。
2度と味わいたくはなかった、もう1人の俺の目覚めと同じ感覚だ……
【声】
「恐レルナ……全テハオ前ノ意思、後ハ私ニ任セテオケ」
【一条】
「ぐ……!」
いつぞやに聞いたあの嫌な声、あの声が再び俺の頭の中で響き始めた。
必死で頭を押さえるものの、その声止むことなく俺の頭へと語りかけてくる。
【声】
「アノ女ノ細イ体、オ前ノ好キナヨウニシタクハナイノカ?」
【一条】
「や、めろ……」
声と一緒にキーンと嫌な耳鳴りがする、声と音の波状攻撃が俺の思考を着実に奪い始めていく。
【声】
「欲望ヲ溜メ込ムノハ身体ニ悪イ、私ニ任セテオケバ全テ貴様ノ思イ通リニ」
【一条】
「うる、さい……うるさい!」
フラフラと足が屋上の手すりへと向かって行く、この声に支配されてしまう前に、なんとか俺の手で……
【一条】
「ぅあ!」
突然足の力が抜け、その場でがくりと膝が折れてしまった。
不自然な倒れ方をしたせいで身体が痛い、そのかわりさっきまで響いていた声も音ももう聞こえなくなっていた。
【一条】
「はぁ、はぁ……くそ!」
ついに恐れていた最悪の事態、とはまではいかないがそれにとても近いところまできてしまった。
しかもそのもう1人の俺の標的、その標的はよりによって……
キンコーン
午後の授業開始を告げる鐘が鳴り響く中、俺はその場所から一歩も動こうとはしなかった。
今の状態で教室になんか行けるわけがない、学校が終わって皆が帰るまで俺は人前に出てはいけない。
午後の授業はずっと空を見て過ごすだけの退屈な時間になりそうだ。
だけど、今の俺にはそれしか許されてなんていない、こんな獣にいる場所なんて、どこにだって無いんだから……
【某】
「ふあーぁ……さって、どこでサボロかな、お、一条やんけ」
【一条】
「廓!」
しまった、皆が皆真面目に授業を受けるわけじゃない。
中には廓のようにサボってここに来るやつだって考えられた、こんなことなら給水塔の上にいれば良かったな。
【某】
「奇遇やな、お前も午後の授業サボタージュかいや、気ーあうな、なっはっは」
【一条】
「っ……」
まだ膝に力が入りきってはいないけど、なんとか立ち上がって廓に視線を向ける、それは敵意の視線……
【某】
「なしたんやそない怖い顔して? お前あの日か?」
【一条】
「廓……近づくな……」
【某】
「おいおいつれないなぁ、そんなこといわんとなかようさぼろうやないかい」
【一条】
「来るな!!」
【某】
「!」
俺の剣幕に廓の顔が変わる、眼は見えていないからどうだかわからないが、口元はさっきまでのおちゃらけていたものとは違う。
【某】
「一条、お前何があったんや?」
【一条】
「下がれ……今の俺に近づくな、でないと……」
【某】
「一条お前まさか……!」
何が云いたいのかを悟ったのか、廓の足はその場でぴたりと止まってしまった。
【一条】
「はぁ、はぁ……あぁ、また変わりそうなんだよ、あの時の俺に……」
【某】
「なんやと」
【一条】
「甘かったよ、やっぱり俺は学校にいて良い人間じゃないんだ……」
【某】
「こらちと拙いな、わかった、この時間は引かせてもらうわ。
せやけどお前を1人にすることもできん、放課後になったらまた来るわ、それまで1人で帰ったりすんなよ」
【一条】
「すまない……」
【某】
「ええってええって、ほな放課後な」
……
【某】
「よっしゃ、ええで」
廓に偵察を行かせ、誰もいないのを確認してから俺も後を追う。
本当は廓にも近づいて欲しくはないのだけど、俺がそう云ったって聞くようなやつじゃない。
【二階堂】
「……急げ」
俺の後ろにいるこいつもそう、全くこいつらはお人好しなんだから。
廓に前を、勇に後ろを任せてなんとか人と接触せずに教室までたどり着く。
幸い教室には誰もいない、目的の鞄を持ってさっさと教室を後にした。
【某】
「後は学校出るまでが勝負やな、一気に駆け抜けるで!」
言葉が終ると同時に廓が走り出し、俺もそれに続いて足を進める。
廊下を駆け抜け、階段を駆け下り、脇目も振らずに出口を目指した。
途中で何人かの生徒が眼に入ったけど、ギュウッと手を握り締めてもう1人の俺を必死で堪えていた。
そんな俺の中で俺と格闘しながら、なんとか学校を出ることには成功した。
【某】
「ふぅー、ここまで来ればひとまずは安心やろ」
【二階堂】
「……後は人通りの少ない所をどう歩くか、だな」
【一条】
「はぁ、はぁ……何から何まで迷惑かけっぱなしだな」
【某】
「気にすんな、お前に拙いことがおきそうやのに放っておくほど忙しい人間じゃないんでな」
【二階堂】
「……ビシ(指2本)」
2人の心遣いには素直に感謝しているんだけど、それで俺が2人に危害を加えてしまってはどうにもならない。
もし危害を加えてしまったら、俺は一体どういった償いをするのだろうな……
【某】
「……くら!」
ゲイン!
【一条】
「あっ!」
後頭部を殴られた、いきなり殴るなんて随分と理不尽じゃないか。
【某】
「お前まーたつまらんこと考えとったやろ、ああ云うな云うな、聞くだけわいらバカバカしくなるわい」
【二階堂】
「ま、そういうことだ……」
【一条】
「……すまない」
【某】
「礼も要らんわ、それより一条、なんであんな風になったんか心当たり無いんか?」
【一条】
「心当たりと云われても……」
【二階堂】
「その辺りはまた後でゆっくり考えろ、今は一条の部屋まで問題なくたどり着くことを……」
【一条】
「うお!」
いきなり立ち止まられた勇の背中に顔をもろにぶつけてしまう、いきなり立ち止まったりして一体なんなんだ?
【某】
「こいつはまた、とんでもないときに鉢合わせやのう」
廓たちの視線の先、そこにはいかにも柄の悪そうな男の集団がこちらを睨みつけていた。
【二階堂】
「……全部潰すしかあるまいな」
【某】
「そうみたいやな、一条をかばいながらっちゅーのはちときついかもしれんがのう」
廓は指をボキボキと鳴らし、勇の方は首を軽く回している。
どうやらあの集団は2人にとって敵以外の何物でもないようだ。
【男1】
「こんなとこで会うとは奇遇だな、お2人さん」
【某】
「悪いんやけど今は構ってるほど暇じゃないんや、ちゃっちゃっと終らせてもらうで!」
廓の拳が男の1人に命中する、男の身体は一瞬浮き上がってそのまま地面へと倒れこむ。
【男2】
「やぁろぅ!」
【二階堂】
「……」
【男2】
「げふ!」
飛び込んでしまった廓をアシストするように、勇の長い足が男の側頭部を捉える。
男の数は全部で10人、あの2人なら物の数ではないだろう。
【某】
「しつこいのお! 起きてこんと寝とれや!」
【二階堂】
「……」
あの数では2人の敵ではない、1人また1人と男は崩れていく。
【某】
「どうや? まだやるつもりか、わいらをなめん方が良いと思うがな」
【男3】
「ふふふ、何勝ち誇った顔をしているんだ? お前たちは大きなことを見落としていることに気がつかないのか?
【某】
「大きなこと?」
【二階堂】
「……まずい!」
【男3】
「気付いたか? 俺たちのやり方は正攻法じゃないんだぜ、例えば挟み撃ちとかな!」
【二階堂】
「一条!」
……
【一条】
「なっ!」
気がつけば俺の後ろにはあいつらと同じ制服を着た男が7人、どうやら挟撃されたみたいだ。
まずい、今の俺は制御ができるかどうかもわからない状態だっていうのに。
【男4】
「あいつらは強いかもしれんが、お前はどうなんだろうな!」
男の拳が俺の頬を捉える、鈍い痛みがジンジンと余韻を残していく。
【一条】
「ぐぅ!」
【男4】
「思った通り、あいつらとはレベルが違うみたいだな、おら、さっさと立てよ!」
男が俺の襟首を掴んで持ち上げようとする、しかしそんな男の手に対して俺は……
ゴギ!
【男4】
「なっ! ぎやあああああ!」
男の腕が関節を無視して曲がっている、あれでは確実に折れてしまっているであろう。
そしてそれを実行したのが、他でもないこの俺だ……
現れてしまった、人の慈悲というものを全く知らない狂気の眼を持った、もう1人の俺が……
【男5】
「な、こいつなにしやがった!」
【一条】
「……」
唖然とする男の懐に飛び込み、腕を思いっきり捻り上げる。
限界点を突破した腕は堪えきれず、乾いた音を響かせて粉砕された。
ベキン!
【一条】
「ククククク……」
気味の悪い笑い声が不気味に吊上がった口から漏れている、寒気がするようなその口元に以前俺は恐怖を覚えた。
しかし今の俺は、この表情に恐怖を覚えることはなかった。
手足の自由も前と同じように全くきかず、もう1人の俺の行動全てが身体を通して伝わってくる。
まるで俺自身がこの男たちを痛めつけているような感触、これは……
【一条】
「……」
【男6】
「ごぶ!」
鼻骨を打ち抜く感触、ぐずぐずと折れた鼻にめり込む拳の感触、手を汚す血の感触。
それら1つ1つの生々しい感触全てが俺へと伝わってくる。
こんな異常な状態の中で、俺の身体は笑っていた、そして。
俺自身さえも、笑みを漏らしていた……
ゴギン!
腕を折ったり、顔面に拳を放ったり、大勢いた男たちは次々と数を減らし、最後の1人も崩れ去ってしまった。
【一条】
「……」
【男4】
「く、くそぉ!」
腕を折られた男が地面で喚いている、非道く煩く、酷く汚らしい声だ。
男の下へと歩み寄り、見下すように男を下ろした。
【男4】
「やろぉ、このかりは絶対に返してやるからな!」
喚く男の唾が制服を汚す、そんな行為をされて俺が怒らないわけがない。
ニィっと吊上がった口元を見た男から一気に威勢が消え、怪物でも見るような怯えを宿した瞳へと変わっていた。
【男4】
「わ、悪かった、や、止めてくれ!」
【一条】
「……」
スッと持ち上がった俺の足、この足が意味するものはもちろん……制裁!
ズシャ!
【男4】
「かは!」
這いつくばる男の頭を力一杯踏みつける、1回で終るはずもなく、何度も何度も……
踏みつけるたびにぐしゃぐしゃと生々しい音がする、男の顔と地面が擦れて肌をすり切っているのだろう。
男の体がビクビクと奇妙な痙攣を起こし、やがてその痙攣もなくなるとぐったりと動かなくなってしまった。
【一条】
「……」
視線がゆらりと揺れ、俺を見て立ち尽くす2人の男を視線の先に捕らえた。
誰だあいつらは、あいつらも、俺の害なのか……?
思考が移り変わろうとするが、俺の視線は俺の周りに転がる無残な残骸に眼を向ける。
【一条】
「フフハ、ハハハハハ、アハハハハハ……」
【某】
「一、条……」
【一条】
「アハハハハハ……足リナイヨ、コノ程度ジャ少シモ満足デキナイヨ。
モットモットモット、フフフ、アハハハハハハハハハ!!」
静寂に支配された世界に高らかな笑い声が響き渡る、とても気持ちが良く、同時にとても気持ちの悪い何かに魅入られたあの表情。
背筋に走るゾクゾクとした満足感、俺は現状に満足をしているのか……?
もう1人を見ている俺の視界から、俺の姿が消える。
身体の自由が再び俺に明け渡された、自由が入れ替わる際、こんな声を聞いたような気がした……
【声】
「後ハオ前ノ自由ダ、好キナヨウニスルト良イ………」
視界から世界が暗転し、色が全て失われたまるで暗幕を下ろしたような真っ暗な世界へと飲み込まれていた。
次に眼を覚ました時、俺は一体どっちの考えを持って目覚めてくるのだろうか……
……
【羽子】
「!……」
胸元に抱えていた鞄が腕をすり抜け、支えを失った鞄が地面に落ちる。
そんなことにさえ今の私は気がついていない、それ以上に大変なことが目の前で起きているのだから。
【羽子】
「一条、さん……」
あれは一条さんだ、午後の授業のときから見ていなかったからてっきり早退でもしたのかと思っていたのに。
今私の目の前で一条さんがやった行為、それは今までの一条さんからは考えられないくらい酷く、残酷な行為。
一条さんの周りには他校の生徒がたくさん倒れている、それも全部一条さんがやったこと。
あの一条さんがあんなにたくさんの男子を1人で、あんな眼を覆いたくなるような方法で……
【羽子】
「どういうこと、なんですか……」
あまりにもかけ離れている普段の一条さんと今の一条さん、もしかして今の一条さんが本当の彼なの?
わからない、わからない、わからない、わからない、わからない
わからない、わからない、わからない、わからない、わからない
頭でいくら考えても答えが出てこない、出てくるのは一条さんの行為と、あの普段からは想像できないような嫌な顔。
まるで獣が草食動物を力で捻じ伏せるような、容赦といったものを全て取り払った無慈悲な姿。
動けなくなってしまっていた私に、一条さんの笑い声が聞こえてくる。
いつもと違う、とても耳障りなのに、その声は一条さんのものに間違いなくて……
【羽子】
「……っ!」
鞄を落としてしまっていたことをようやく知り、鞄を拾い上げて急いでその場所から走り去った。
もうあんな一条さんを見ているのは辛すぎる、私の前で見せてくれていたあの表情は、全部嘘だったの……?
【羽子】
「いや!……」
走りながら耳を押さえる、あんな声は聞きたくはない。
だけどそんな私の抵抗も無意味でしかない、一度頭に記憶されてしまった声は私が耳を塞ごうとも頭の奥底にこびりついて離れようとはしない。
私の中で、一条さんを形作っていた何かが壊れ始めている。
でもそれは私の中が勝手に作り出した物でしかなく、それが正しい物である保証などはどこにも無い。
今まで私が見てきたもの全てが嘘・偽りであるとも限らないのだけど……
あんなものを見てしまったのに、私の中にはあのでき事全てを否定しようとする自分がいる。
【羽子】
「何かある、きっと何かあるんだ……!」
自己暗示をかけるように深く自分に云い聞かせる。
一条さん、彼方の中で、彼方は一体どうなってしまったんですか……?
……
【一条】
「はぁ!」
【某】
「お目覚めか、せやけどあんまり飛び起きん方がええで」
【一条】
「廓……ここは、俺の部屋?」
【某】
「とりあえずここまで運ばせてもらったわ、放って置いたらいろいろと厄介なことにもなりそうやしな」
【一条】
「そうか……」
【二階堂】
「気分、悪くないか?」
【一条】
「そこまでは……」
吐き気がするとかはないのだけど、俺の着ているシャツが汗でグッシャリと濡れてしまっていた。
きっと意識を失っている間にかいてしまったものだろう、それが肌に張り付いて気持ち悪いといえば気持ちが悪い。
【某】
「やれやれ……結局押さえられんかったな」
【二階堂】
「俺たちの注意力不足、だな」
【一条】
「そんなことはないだろ、あれは俺が勝手に捕まるからいけなかったんだ……」
【某】
「ここでどっちが悪かったを云い合ってもしゃーないやろ、一条、今日はもう寝ちまえ。
これから皆揃って話し合うにも、あんまり良い気分せんやろうしな、疲れもたまっとるやろ?」
【二階堂】
「じゃあな……」
俺の返答など待たず、2人は立ち上がって帰り支度を始めた。
【一条】
「結局また迷惑、かけちゃったな……」
【某】
「辛気臭いは無し話や、今日はぎょーさん寝て、気分を変えてからゆっくり考えようや。
明日学校いくもいかんもお前の好きやけど、わいら朝迎えに来るさかいな」
【二階堂】
「また明日」
俺が眼を覚ましたからもう用は無くなったのか、2人はさっさと部屋から消えてしまった。
2人は気を使ってくれたんだろうけど、あんなことがあった後にそう安眠なんてできるはずもない。
じぃっと手を眺めて見てもそこに血はついていない、あの2人が拭いてくれたんだろうか?
これだけ見れば何事も無かったように見えるけど、俺にはこの手が行ったことの感触を覚えている。
想い出すのも嫌なあの感触、だけどそんな中で、あの感触を喜んでいる俺がいたのもまた事実。
否定する思考と肯定する身体、本来同居するはずの無い2つが俺の中では同居している。
俺の本心が徐々に現れてきたのか、もう1人の俺の思考に少しずつ支配されてきているのかそれはわからないけど。
どちらにせよ、俺の心理の底には異常な感情が存在していることを決定付けている。
【一条】
「……」
フラッシュバックしてきそうな光景を振り切るために、俺は流しで顔を洗う。
冷たい水が思考回路を一瞬だけ止め、混濁していた頭の中がサアっと洗い流される。
流しの縁に手を付いてハァハァと荒い呼吸をする、もう1人の俺は俺の手では止められない。
今日はあいつらに手を出さなかったからまだ良かったものの、いつまた変貌してあいつらに手を出すとも限らない。
どうすれば良いんだ、1番最善な解決策ってなんなんだ……
そんなとき、流しの奥で鈍い光沢を放つあるものに眼が留まる。
手に取ったそれはとても鋭く、この世界では何かを切るためだけに存在しているその物。
それは、包丁。
【一条】
「……」
やはり1番最善な解決策、誰も傷付かずに幕を下ろせる方法はこれなのかもしれない……
包丁の刃を自分の方へと向ける、後は力を込めればそれで全てが終わる。
もう変貌する自分に悩むことも無い、あいつらを傷つけることも無い、俺1人で解決できるんだ……
震える手を押さえるようにもう片方の手で柄をしっかりと握る、そしてその柄を自分の方へ……
…………ガシャン!
【一条】
「はぁ、はぁ……」
流しに落ちた包丁が小さく跳ねる、そこには俺が手にしたときとなんら変わらない同じ姿のままの包丁があった。
【一条】
「できない、やっぱりできない……」
どうしても後一歩、最後の一押しを押すことができない。
俺はもう1人のあいつに怯える以上に、今の生活に対する安らぎが大きくなりすぎてしまっている。
記憶を失った頃と、もう俺は違うんだ。
あの頃のように孤独が1番だった頃とは違う、あいつらといることが、一緒に学校で生活することが今の俺には1番になってしまっている。
気がつけばもう俺の周りには俺を1人にさせてくれる環境が無くなっている、いつの間にここまで来てしまっていたんだろうな。
【一条】
「くそ、くそぉ!」
もう昔の俺には戻れない、そのために得た物もあればそのために壊してしまうかもしれない物もできた。
喜びと悲しみに板ばさみにされながら、流しに向かって涙を流すだけだった……
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