【4月16日(水)】


【一条】
「うぅぅぅん……」

寝惚け眼を擦りながら時計を確認する。
まだ目覚ましが鳴っていないので少し早かったかもしれない。

【一条】
「……6時?」

目覚ましの設定時間は7時半、1時間も早く起きてしまった。
もう一度寝ようにも、俺は二度寝をすると九割方起きることができない体をしている

【一条】
「早いけど起きるしかないのか……」

もそもそとベットから這い出し、洗面所の冷たい水で顔を洗った。

……

【一条】
「……」

支度も終え、ぼけーっと朝のニュースを眺めていた。
花見日和だとか、春野菜が豊作だとか、バイク事故があったとか、ニュースって案外かわりばえしないもんだな。
時間はまだ7時をまわったばかり、まだ1時間近く暇な時間が続く……

【一条】
「家にいても暇だし、もう学校行こう」

退屈なうえに眠気まで襲ってきたら俺は確実に遅刻する。
それだったら学校寝てしまうほうがずっと良いもんな。

……

まだ7時過ぎのせいか、生徒の姿はほとんどない。
部活の朝練に出るのであろう体育着を着た生徒を数人見ただけだ。

【一条】
「1時間違うだけでこうも静かなんだな」

生徒もいないが一般人もいない、まあサラリーマンはまだ仕事の時間には早いしな。
ぼんやりと空を眺めていると一匹の鳥が頭の上で旋回を始めた。

あの色からして鴉かな……?

【一条】
「鴉か?……あ、向こうにも」

頭の上で旋回していた鴉のもとにもう一匹鴉が飛んでくる。
鴉は集団行動を好む鳥だから別に不思議ではないんだけど……

【一条】
「あっちにもいるよ……うぇあっちにも」

なんだか俺の頭の上の鴉の近くにたくさん集まり始めた、もしかしてあの鴉がボスなのか?

……

【一条】
「うわうわうわうわうわ!」

なんだあれは、俺の頭上に黒い塊が存在している、勿論全て鴉である。
最初は一羽しかいなかったのに、あれよあれよという間に三、四十羽に膨れ上がっている。

日本は鴉が多い国だから数は気にならない、だけどどうしてまた俺の頭上に集まるんだよ。

【一条】
「……呪われてるのか?」

俺に恨みを持つ誰かが鴉を使って始末しようとしてるんじゃ……考えるだけでゾッとする。
しかも俺が移動するとやつらも同じ方向へと移動をする。
マンション住民が窓開けて最初に見る映像がこれだと腰抜かすぞ。

【一条】
「こいつらどこまでついて……ん?」

ついてくるんだと云おうとすると、一羽の鴉が降下を始めた。
あれはひょっとしてボス……?

【一条】
「ちょちょちょちょちょ!」

一羽に続いて一斉に鴉が降下を始める、いよいよ俺の最期の時か!

ボスを先頭に黒い塊が俺に向かって……いや違う、このぶんだと落下点は少しずれるな。
二本先の交差路に先頭が降り立つと、その他の鴉も一斉にその道へと下りる。
予想通り鴉の群れが俺を攻撃することは無かった。

【一条】
「良かった……ってあの道には鴉の群れが」

もしかして待ち構えているのだろうか……
あの道の奥は鴉で真っ黒……怪談話にでも使われそうだよ、足まで震えてきたし。
暇だからって早く学校に行くのは失敗だったかもしれない。

【一条】
「ひきかえすわけにもいかないし、覚悟を決めて……」

一歩一歩が酷く重い、断頭台へと向かう人の気持ちってこんなものだったのだろうか?
もうすうぐ交差路へさしかかろうとしたその時、黒い塊が一斉に空へと飛び出した。

飛び立った鴉たちから一呼吸置いて、その交差路から1人の男が姿を現した。

【男性】
「……」

男はかなりの長身で黒いフリースに焦げ茶色のロングコート、帽子を目深に被ったちょっと強面の男性だった。
突然の登場に驚いていた俺は、男性とすれ違う際に僅かに肩がぶつかってしまった。

【一条】
「あ……」

まずいなぁ、こういった人って結構危ない仕事の方が多いと聞く。
このままだと後ろからブッスリなんてことになりかねないぞ、とりあえず謝っておこう。

【一条】
「あ、すいません、ぼうっとしてて」

【男性】
「……」

男はさほど気にしていないのか、俺の方を振り返ることも無く歩いて行ってしまった。

【一条】
「っほ……良かった」

時々鉄砲玉と呼ばれるタイプがいる、それだったら間違いなくブッスリだったろうな。
だけど変わった人だったな、見た目は勿論だけど……

【一条】
「……あの鴉の山の中からどうやって?」

もう通りに鴉の姿は無い、だけどさっきまでは大量にいたわけで。
男性がここから出てきたってことは男性もその中にいたことになるわな。

【一条】
「餌付けでもしてたのか……それともやっぱり呪い!」

自分でも莫迦な考えだと思ってるさ、まだ朝早いから思考がとんでるんだろうな。
もう一度男性の方を振り返ると、すでに男性の姿を眼にとらえることはできなかった。

【一条】
「俺もさっさと学校行こう……」

……

学校につくまでの間、制服を着た一般生徒に出会うことはなかった。
校舎に備え付けられた時計はまだ7時40分、ちょっとしたでき事はあったけどまだだいぶ早い。

【一条】
「さすがに早すぎたな……」

今教室に行けばきっと誰もいないだろう、そこでゆっくりと寝て過ごすのも良いんだけど……
見上げた空は雲もない快晴の空、こんな時に教室でゆっくり眠るのもなんだか損してる感じがする。

【一条】
「……散歩でもしようかな」

学校の周りには陸上部がトラック代わりに使うジョギングコース、というか散歩コースがある。
校舎とグラウンドを囲むように設置された散歩コースは授業の無い教師陣が散歩をしていると廓が云ってたっけ。
授業が無いからといって散歩してて良いって訳でもないと思うんだけどな……

……

【一条】
「ううぅぅぅん…………」

柔らかく暖かい日差しがまだ春真っ只中の世界を照らしていく。
グラウンドには数人の陸上部であろう生徒が筋トレのようなことをしていた。

【一条】
「体育の授業でもないのにこんな所歩くのは初めてだな」

体育の時はなんとも感じなかった道が、何も無い時に歩くとえらく良いものに感じる。
コースの周りにはご丁寧に桜まで植えられている、風が吹くたびに数枚の花びらが俺の前や横を飛んでいく。
朝一で気味悪い物を見たから気分的には沈んでいたんだけど、結構朝も良いもんだな。

……

グランドを抜けて校舎周りに入る、このまま真っ直ぐ行けば中庭に行ける。
中庭には桜は咲いていない、しかし羽子さんの植えた花が咲いているから見劣りすることは無いだろうな。

【一条】
「花壇の花も桜に負けず綺麗……ん?」

花壇を視界にとらえると、そこに映ったのは人影だった。
藍色のショートヘアーをした女の子、見間違えるはずもない羽子さんの姿だった。

一昨日の昼、それから昨日の昼と同じく羽子さんは花に水をやっていた。

【羽子】
「陽射しだけでは貴方たちも辛いでしょ、ほら、潤いを分け与えてあげますから」

花に語りかけ、如雨露の中の水を花々に振りかけていく。

【羽子】
「気持ち良い? ふふ、与えられた時間は限りなく短いの
その中で自分ができる一番良い表情を見せてください、皆がんばれ」

【一条】
「……」

水を撒きながら次々と優しい言葉を花たちにかけていく。
そんな羽子さんの表情はいつものようなキリリとした固めの表情ではない。
あの柔らかい笑顔、あれが本当の羽子さんの表情なのではないだろうか……?

【羽子】
「花の命は短くて、乙女の命もまた同じ、命短し恋せよ乙女……」

言葉を口ずさみながら、羽子さんは花壇に咲く花たちに水を振りかけてまわっていた。

【一条】
「……精が出ますね」

【羽子】
「!……」

急に声をかけられた羽子さんの肩がびくりと跳ね、一呼吸置いて恐る恐るこちらを振り返る。

【羽子】
「い、一条さん……」

【一条】
「ども、お早うございます」

【羽子】
「お、お早うございます……はぁ、脅かさないでくださいよ」

【一条】
「驚きました?」

【羽子】
「当たり前です、いきなり後ろから声をかけられれば誰だって驚きます」

【一条】
「はは、すいません、だけど羽子さん早いんですね、いつもこんな時間に?」

【羽子】
「ええまあ、朝が一番時間の余裕がありますから、それに静かですし……」

静かか……体育館は中庭の間逆、グラウンドとも結構離れているから朝練をしている生徒の声は聞こえない。

【羽子】
「一条さんこそ今日はお早いんですね」

【一条】
「ちょと早く眼が覚めまして、早起きは三文の得とはよく云ったものです」

【羽子】
「何か良い事でもありましたか?」

【一条】
「ええ、ここでこうして羽子さんに会えましたから」

【羽子】
「私に、ですか? 私になら教室で毎日のように会っているじゃないですか」

【一条】
「教室で会うのとは違うんですよ、羽子さん凄く良い笑顔していましたから」

【羽子】
「っな!」

いつも冷静沈着で人前では焦りのかけらも見せない羽子さんの顔がパァッと赤くなった。

【羽子】
「い、一条さん! ぬ、盗み見はいけないことですよ!」

【一条】
「はは、今度からは気をつけますよ」

【羽子】
「そこは笑う所ではありません!」

【一条】
「わかってますよ、ですから今度から気をつけます」

【羽子】
「全然わかってないじゃないですか!」

……

【羽子】
「はぁ……」

【一条】
「どうしたんですか、溜め息なんかついて?」

【羽子】
「どうしたもこうしたも、溜め息の原因を作ったのは一条さんなんですよ」

【一条】
「だから云ってるじゃないですか、今度からは気をつけますって
だけど、羽子さんでも慌てたりすることあるんですね」

【羽子】
「私だって人間なんですから当たり前じゃないですか、ですがなるべく人前での焦りや油断は見せないよう心がけてはいます
他人に態々弱点を見せるような真似はしたくありませんから」

【一条】
「羽子さんらしいですね」

【羽子】
「いえ、云ってみればこれも私に与えられた宿命のような物ですから……」

なんだろう、羽子さんの声から性格が消えた。
さっきまでは常に厳格、常に完璧主義を貫くいつもの羽子さんの声だったのに。
急に羽子さんの声には性格が消え、機械のような変化の無い無感情な声色へと変わってしまった。

【一条】
「……羽子さん?」

【羽子】
「どうかしましたか?」

【一条】
「あ、いえ、すいませんなんでもないです……」

しかしそれはほんの一瞬のこと、次にはまたいつもの羽子さんの声に戻っていた。

……

【美織】
「あ、おーい、マコー」

羽子さんと2人で教室に戻る際、美織に出くわした。
大きく手を振り回しながらパタパタと廊下を駆けてくる、そんな美織を見て横にいる羽子さんは表情を強張らせた。

【美織】
「おはよ……ってなんだ、羽子もいたんだ」

羽子さんと同じように、美織も羽子さんの存在を確認すると顔を強張らせた。

【羽子】
「私がいたら何か問題でもおありかしら?」

【美織】
「別に、あんたのことなんか気にもならないからそっちも気にしないで」

【羽子】
「本当はそうしたいところなんですが、貴女の生活態度には納得できない点が多々ありますので
クラス委員としては見過ごすわけにはいきません」

【美織】
「ご苦労なことね、それであたしのどこに納得がいかないって?」

【羽子】
「貴女は友人……知人の方を見かけるとすぐに廊下を駆ける癖があります
廊下は硬いコンクリートです、もし貴女の前方不注意で誰かとぶつかってしまったらどうなるかはおわかりでしょう?」

【美織】
「そうならないようにちゃんと前くらい見てるわよ、第一今まで一回でもあたしが誰かとぶつかったかしら?」

【羽子】
「今まではなかったかもしれませんが、これからもそうならないという保障はどこにもありませんから
それ以前に廊下を走ったら危ないというのは小さな子供でもわかる一般常識ですよ」

【美織】
「さすがクラス委員長様だこと、適切な説明ありがとう」

【羽子】
「……」

【美織】
「……」

【2人】
「ふん!」

2人ともこれ以上顔を合わせるのも嫌なのかそっぽを向いてしまう。

【一条】
「2人とももっと穏やかに……」

【美織】
「うるさいわね、マコはどうせ羽子の味方なんでしょ」

【一条】
「なんでそうなる」

【羽子】
「味方だ敵だと云う前に、貴女の考え方は根本からすでに間違っているんです」

【美織】
「ふん、どうせあたしは莫迦ですよ、あんたみたいに頭のできが良くないからね」

【羽子】
「む、宮間さん!」

冷静だった羽子さんが声を荒げた、これはこのまま2人に喧嘩をさせていてはまずそうだ。

【一条】
「ストップ!ストップ! 2人とももっと冷静に」

【美織】
「あたしはいつだって冷静よ!」

【羽子】
「私もです!」

どこがだよ……

【一条】
「とりあえずこの場は静まってくれ、廊下で大きな声出してたら他のクラスにも迷惑がかかるだろ」

【羽子】
「っあ……」

【美織】
「むぅ……ふん!」

廊下ということを思い出したのか羽子さんは口に手を当ててしまったというような表情を見せている。
美織の方はそんなことはおかまいなし、私は悪くないと云わんばかりの態度のままその場を立ち去った。

【一条】
「廊下の真ん中で口喧嘩なんて、羽子さんらしくないですね」

【羽子】
「……」

自分の失態を悔いているのか、羽子さんは俯き加減になってしまった。

【一条】
「あいつ苦手ですか?」

【羽子】
「苦手というと少し違うんですけど……」

【一条】
「あまり好感は持てないと、そんなところですか?」

【羽子】
「……そうかもしれません、これといった用事が無くても私を見かけたら突っかかってくる
宮間さんにとって私の存在そのものが気に入らないんでしょうね」

素早く分析を済ませ、さらりとそんなことを云うが実際にはかなりきついことを云っている。

【一条】
「あいつもどうしてそこまで羽子さんに突っかかるんだろう……」

【羽子】
「それは……」

何かを云おうとしたが、フルフルと頭を振るって言葉を押し留めた。
ここで俺が聞いてはいけない、本人が喋りたくないことを他人が無理矢理聞くことはできない。
俺が実際そうだから、喋りたくないことを聞かれるのは辛すぎるから……

……

【一条】
「……」

ぼけーっと屋上から下に広がる下界を眺めていた。
キャッチボールをしている男子生徒や、仲睦ましくお弁当を囲んでいる女子生徒の姿が見て取れる。

【一条】
「皆楽しそうだな……」

楽しい
人の良さがもっとも表れる感情、人が最も求める感情、人が一番好きな感情。
楽しければ自然に人は笑う、この笑うという行動、これは世界に存在する数ある種の中でも人間だけが持ち合わせた行動。
知性を与えられた人間だけに認められた崇高なる行為。

しかし、そんな感情を全て崩壊させかねない人物が存在する……

【一条】
「俺にはもうあんなふうに笑うことはできないかな……」

俺は一般人とは違う、心のどこかで人の悲を望み、それを餌に己を満たそうとする捻じ曲がった考えが存在する。
姿形や思考回路、常人では考えられないような行動をとる人物を、世間では『怪物』と呼ぶ。

【一条】
「異形の怪物は滅びるのみ、世界が望むは我等のいない世界……そんな台詞があったな」

小説『墓堀人U・T 〜灼熱の仮面編〜』で火傷を負った大男シェインが最後に残した台詞。
その台詞の後、シェインは人体発火で消滅したんだっけ……

俺もいつかはそんな日が来るのだろうか?
莫迦莫迦しいという気持ちが半分、もしかしたらという気持ちが半分、天秤はきっちりとつりあっている。

【一条】
「……?」

聞こえるか聞こえないかそんな微妙な感じだが、後ろで物音がした気がする。
そう思って後ろを振り返ると……

【少女】
「……」

少女の姿、何度も俺の前に現れては何も云わずに去ってしまうあの少女の姿があった。

【一条】
「……」

【少女】
「……」

【一条】
「……」

【少女】
「今日は……吹かないんですか?」

【一条】
「え……?」

【少女】
「オカリナです、屋上にいる時はいつも吹いているじゃないですか」

確かにそうさ、確かに屋上にいる時は大概吹いているけど。
どうしてこの子がそのことを……?

【少女】
「今日は吹かないんですか?」

【一条】
「……吹いた方が良いのか?」

【少女】
「こくん……」

自分でもおかしな返答だったと思う、俺はなんで知りもしない少女に疑問系で返したのだろうな。
しかしそんな俺の返答に少女は首を縦に振った、だったら俺はそれに答えるしかない。
ポケットからオカリナを取り出し、一呼吸置いてからゆっくりと息を吹き入れた。

オカリナから産声が上がった、いつもと何も変わらないおなじみの曲。

【少女】
「……」

眼を閉じているのでわからないが、少女は一体どんな表情をしているのだろう?

曲が終焉に近づき、ゆっくりと最後の音がデクレッシェンドしながら消えていく。
曲が終わると同時に眼を開く、眼の前にはさっきと同じままの少女の姿があった。

【一条】
「ふぅ……」

【少女】
「綺麗な音ですね……だけど」

【一条】
「?」

【少女】
「とても悲しげな音がします、まるで今の貴方の気持ちがそのまま乗り移ったよう……」

それだけ云い残して少女は屋上を去ろうとする。
そんな少女の背中に、俺は咽の奥から声を絞り出して1つだけ訪ねた。

【一条】
「君…………名前は?」

少女の足がピタリと止まる、しかしこちらを振り返ることは無く。

【少女】
「……水鏡」

とだけ云い残し、再び歩みを再開した。

【一条】
「水鏡……」

少女が発した名前を反復する、何度か顔を合わせたが知ることができなかった名前。
ようやく少女の名前を知ることができた、しかし……

【一条】
「とても悲しげな音……?」

水鏡が俺のオカリナに対する感想、それが俺にはさっぱりわからなかった……

……

【一条】
「……」

午後の授業は半分以上頭になど残っていない。
考えていたのは水鏡が残した感想、どうしてあいつはそんなふうに感じたのだろう?
最初に綺麗な音と云った、その後に続けるように悲しい音と云った。
しかもそれは俺の気持ちが乗り移った音だと云う。

【一条】
「もしかして心の奥が詠めるとかいうんじゃないだろうな?」

【美織】
「おーい」

【一条】
「はは、そんな訳無いか」

【美織】
「何急に笑ってんの、もしかして壊れた?」

【一条】
「魔法じゃあるまいし、そんなことできる訳無いよな」

【美織】
「うわわわわわ……なんだか危ないこと云い出したよ、おーい誠人!」

【一条】
「うわ!……急に大きな声出すなよ!」

【美織】
「何云ってるの、さっきから呼んでるのに全然気付かなかったくせに」

【一条】
「呼んでたの……?」

大きく首を縦に振る、全然気付かなかった。

【美織】
「それでさっきから何を悩んでんの? 魔法とか心が詠めるとか変なことばっかり云ってたけど」

【一条】
「声に出てた?」

【美織】
「ええ、はっきりと、まさかとは思うけどさ魔法で心が詠めるとか云い出すんじゃないでしょうね?」

【一条】
「は、ははははは……ロマンティックだろ」

【美織】
「はあぁー…………ばっかじゃないの」

肩を大袈裟にすくめて呆れたといったポーズをとり
付き合いきれないといった感じで教室から去ってしまった。

【一条】
「莫迦か……俺も帰ろう」

……

学校を出て、真っ直ぐ家に帰ろうと思っていたが足は全くの逆方向に向く。
向いた先は商店街、ではなくその隣の小道、その先にある場所が目的地だ。

【一条】
「……」

久しぶりにやって来たのはあの川原、オカリナが一番良く聞こえる静寂率の高い空間。
人がいないからこそ静寂率が高いのだが、今日は俺より前に先客がいた。

長い髪の毛が地面すれすれの所を撫でるように風が吹き付けている。
あの長い髪の毛、俺はつい最近あの髪の毛の人物と顔を合わせている。
…………水鏡だ。

川の淵に立ちジッと川を見つめている、川の中を見ているのか川面を見ているのかはわからないが
川を見ていることは間違いないだろう。
その後姿が酷く寂しげに見えるのは気のせいだろうか?……

【一条】
「……」

なんだか見ているのが辛くなり、その場を立ち去ろうとすると。

【男性】
「……」

俺と同じように土手の上から水鏡を見つめる男の姿が会った。
この男も見覚えがある、今日の朝鴉の山の中から現れた謎の男性。
その男性が朝見たのとまったく同じ恰好で水鏡の姿を見つめていた。

何か関係があるのだろうか?
そう考えたが他人のことにあまり首を突っ込むものじゃないよな……

男の後ろを素通りして、俺は商店街へと足を向けた。

……

【一条】
「こんにちはー」

カランカランと扉の上につけられた呼び鈴が客の来店を告げる。

【男性】
「いらっしゃい、おや、君かい」

【一条】
「どうも、連日来ちゃいました」

【男性】
「かまうことはないよ、毎日のようにお客さんが来てくれるのは客商売としてはありがたいことだよ
さっき羽子ちゃんも来たところなんだ、いつものところにいるよ」

【一条】
「そうなんですか、わざわざすいません」

【男性】
「なぁに、それで今日のご注文は?」

【一条】
「それじゃあ今日はアッサムのロイヤルを」

【男性】
「了解」

注文を聞き終えたマスターが一度厨房の奥へと消える。

【一条】
「いたいた、今日も羽子さん来てるんだ」

マスターが云っていたとおり、いつもと同じ席に羽子さんは座っていた。
テーブルに食いつくようにして、広げられたいくつかの本に眼を通していた。

【一条】
「この席よろしいですか?」

【羽子】
「え? あ、あの…………」

声をかけられて羽子さんは戸惑うような仕草を見せるが、相手が俺だとわかると表情を緩ませた。

【羽子】
「一条さん、ごめんなさいちっとも気付かなくて」

【一条】
「気付かないって事はそれだけ熱中してたってことですよ、ここ良いですか?」

【羽子】
「ええ勿論、どうぞ」

羽子さんの向かい側に腰を下ろす、テーブルの上にはいくつかの参考書が並べられ。
その中央にはノートとシャープペンシルが転がっていた。

【一条】
「今日も何かの勉強ですか?」

【羽子】
「はい、家でやるよりもここでやった方がはかどりますから、一条さんはティータイムですか?」

【一条】
「そんなところです、ついでに読書の時間かな」

前に買った小説が手付かずだったので静かなこの店で読んでしまおうと思ってここに来たんだ。

【羽子】
「そうですか、確かにここはお茶をするにも読書をするにもとても適した環境ですしね」

【一条】
「羽子さんにとっては勉強をするにも良い環境、でしょ?」

【羽子】
「ふふ、そうですね」

顎に手を当ててクスクスと笑みを漏らす。

【男性】
「アッサムロイヤルお待ちどう」

トレイにのって運ばれてきたミルクティーからもあもあと湯気が立ち上る。
湯気と一緒に紅茶の芳香と牛乳の香りが混ざった香りのカクテルが鼻をくすぐる。

【一条】
「ずず……ふぅ、牛乳もそうですけど、ここはどの茶葉も皆良い物ばかりですね」

【男性】
「お客様に本物を味わってもらおうとするとどうしても良い茶葉が必要になりますからね。
下手な茶葉では本物の味は出せない、それにそんな物じゃお客様に飲んでいただく価値もありませんから」

普通そこまでこだわる店は赤字になるのが普通なんだけど、この店はどうして黒字続きなんだろうな?

【羽子】
「ふふ、一条さんもすっかりここの常連ですね」

一度だけにっこりと笑い、羽子さんは勉強の続きに取り掛かった。
俺も小説を読むことにしよう……

……

【一条】
「……」

【羽子】
「……」

ページをめくる音、シャープペンシルの芯が走る音、飲み物をすする音。
2人の間に流れるのはマスターのかけるバックミュージックと数種類の効果音だけ。

音は平常を保ったままゆっくりと流れて行く、それこそ音も無く、ひっそりと。
俺の小説と羽子さんの勉強が一段楽したころ、2人が気付いた時にはもう外は暗がりに飲み込まれかけていた。

【羽子】
「あらら、もうこんな時間なんですね」

【一条】
「そうですね、少し長いし過ぎましたかね……」

時計の針はもう8時をしめそうかという時間だった。

【羽子】
「あ、いけない……まだ晩ご飯の支度何もしていない」

【一条】
「そういえば俺も……」

店から帰る途中で何か買って帰るつもりだったのに、この時間ではめぼしい物はみつからないだろう……
コンビニ弁当で済ませてしまっても良いんだけど、どうしようかな……

【男性】
「2人とも夕食の予定が無いんだったら私が作っても良いですよ」

【一条】
「え、そんな悪いですよ、マスターもそろそろ閉店時間じゃないですか」

【男性】
「私1人でやっている店ですからいつ終ろうと誰も困りませんよ
今から帰って夕食の支度というのも難でしょう」

【羽子】
「それはそうですけど……」

【男性】
「だったら良いじゃないですか、すぐに作りますからそのままくつろいでいてください」

一言もYESと云っていないのに、マスターは厨房の奥に引っ込んでしまった。

【一条】
「……どうしましょう」

【羽子】
「どうしましょうって云われても……マスターのことだからもう準備にはいっていると思いますし
マスターもああ云ってくれているんですから、いただいていきましょうか」

【一条】
「……そうですね」

羽子さんも良いみたいだし、俺もマスターの好意に甘えさせてもらおう。

……

【一条】
「色々とありがとうございます、夕食までごちそうになっちゃって」

【男性】
「ははは、私なんかの小さな店に足を運んでくれるお礼ですよ」

マスターが作ってくれた夕食はかなり本格的なものだった。
あの腕なら喫茶店よりも大きなレストランでもやった方がたんまりと儲かると思うけどなあ。

しかもその夕食、マスターの好意ということでお代は要らないとまで云ってくれた。

【男性】
「もう遅いから気を付けて帰ってくださいね、それから」

マスターは俺だけに聞こえるように、耳元で小さく。

【男性】
「姫君を送るのは騎士の務めです、頼みましたよ」

【一条】
「はい……」

【男性】
「それじゃ、本日の営業時間も終了ですね」

……

【一条】
「どうもありがとうございました」

【羽子】
「マスター、お休みなさい」

【男性】
「またのおこしを」

俺たちが店を出ると、店内の明かりと看板の灯りがスッと消えた。

【羽子】
「得、しちゃいましたね」

ぺろりと舌を出してそんなことを云う。

【一条】
「そうですね、だけどマスターって何でもできるんですね、一体何者なんですか?」

【羽子】
「ただの小父様です、料理に人一倍こだわる初老の小父様ですよ」

【一条】
「前から少し気になっていたんですけど、羽子さんとマスターって昔からの知り合いか何かなんですか?」

【羽子】
「ええ、小さいころからのお知り合いです、もっとも私はおまけで父の方がマスターと親しかったんです」

【一条】
「へえ、どおりで……」

何気に見上げた空一面に星が散りばめられていた。
まるでバケツをひっくり返してしまったかというほど大量の星が輝いていた。

【羽子】
「……綺麗な空ですね、ここでもこんなに星が見えるんですね」

【一条】
「ここは街灯も届いていないですからね、上ばかり見てないで足元も注意してくださいね」

【羽子】
「わかってますよ、だけどいくら暗いと云ってもこのような平面で転ぶようなこと……わわ!」

云ってるそばから羽子さんは体勢を崩してしまった、咄嗟に俺は羽子さんの腰へと腕を伸ばした。

【羽子】
「きゃ!」

【一条】
「とと……云わんこっちゃない、平面でも転ぶ時は転ぶものですよ」

【羽子】
「あぁぁ……あ、ありがとう……ございます……」

羽子さんの声がしどろもどろになっている、それになんだか恥ずかしそうな困ったような顔をしている。

【羽子】
「ぁ、あの……」

【一条】
「どうしました?」

【羽子】
「そ、そろそろ離して……いただけませんか……」

もじもじといった表現がぴったりと今の羽子さんにははまっていた。

【一条】
「あ……」

つくづく気のまわせ方を知らない男だと思った。
普通女の子が男に腰に手を回されたら恥ずかしいってことぐらい考えればわかるものなのに。

【一条】
「失礼しました、やっぱりその嫌でしたか?」

【羽子】
「いえ、嫌なんていうことはありません、一条さんは私を助けてくれたんですから」

【一条】
「そう云っていただければ俺も安心ですよ」

……

【一条】
「そしたらあいつ、俺を変態扱いですよ」

【羽子】
「……」

【一条】
「……羽子さん?」

【羽子】
「え、あ、は、はい……やっぱりそうですよね」

さっきから羽子さんはずっとこの調子だ、話を振ると突然慌てだして全く食い違ったことを話し出す。
しかも今のは俺が変態ということを羽子さんも認めているわけで……

【一条】
「俺ってやっぱり変態ですか?」

【羽子】
「は? どうしていきなりそんなことを云い出すんですか?」

【一条】
「今、羽子さんそうですよねって」

【羽子】
「え……わ、私そんなこと云いましたか?」

【一条】
「断言しましたね……」

【羽子】
「ご、ごめんなさい、私ちょっとぼぉっとしていて」

【一条】
「良いですよ、どうせ俺は変態止まりなんですから……」

もういじけます、ああいじけてやるさ……

【羽子】
「はやまっちゃいけません、何事もすぐに決め付けるのは良くないことですよ」

【一条】
「そうですか……?」

【羽子】
「はい、誰が云ったかは知りませんけど、私は一条さんを良識のある真面目な生徒だと思っていますから」

俺は今の言葉で救われました、これでもう部屋に引き篭もって人格崩壊者になる必用もないんだ。

【羽子】
「……」

会話が続いている間は普通なんだけど、一度会話が途切れると羽子さんはまた思いにふけるような物憂げな顔に変わる。

【一条】
「……」

なんだかこれ以上話しかけ辛くて俺も黙ってしまう。
2人の間に微妙な空気が流れる、羽子さんどうしちゃったんだろうな……

……

【羽子】
「それじゃあまた、明日お会いしましょう」

【一条】
「ええ、お休みなさい」

【羽子】
「ごきげんよう」

マンション近くまで来て羽子さんと別れる。
ピシッと背筋が伸びて綺麗な歩き方をする後姿を見るだけならいつもと同じなのに。
羽子さんの表情はどこか落ちつかないような、困惑色な表情をしていた。

【一条】
「どうしたんだろうな?」

そんな羽子さんの後姿が見えなくなるまで、俺は羽子さんの背中を見つめていた。





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〜 B A C K 〜

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