【4月15日(火)】
学校を休みたいと思った、もし俺のような獣が学校に行ってしまえばどうなってしまうかわからない。
しかし、俺の意思と足は学校へと向いていた。
檻に入った獲物をいたぶり快楽を求めるために。
俺の欲求を満たすためにもう1人の俺が俺を学校に連れて行っているかのように。
……
【某】
「よっ」
【二階堂】
「……」
学校へと進む俺の前に、2人が姿を現した。
【一条】
「珍しいな、2人とも通学中に出会うなんて……」
【某】
「いつもなら珍しいんやけど、今日は仕込んだことやから出会って当然なんやで」
【一条】
「仕込んだ?……」
【某】
「簡単に云ってまうと、待ってたっちゅうことや」
【二階堂】
「理由は聞くまでもないだろ」
どうして2人で計画までして俺を待ち伏せしていたのか、考えられることなんて1つしかない。
【一条】
「俺が学校に行かないように2人で止めようとしたのか?」
【某】
「ハズレや、おまえを学校に連れて行くために待ち伏せしとったんや」
【一条】
「は……?」
【某】
「予想が外れて唖然としとるようやのう、まあ予想が外れたのはわいらも同じやけど。
わいらはおまえは今日学校には来ないとにらんどったんやけどな」
【一条】
「俺だって行こうとは思ってなかったさ、だけど気がついたら足が動いててさ……」
俺は学校には行かない方が良いとわかっている、しかし、2人は俺を学校に連れて行こうって云っている。
普通に考えたら俺が家から出ないように止めるんじゃないだろうか?
【某】
「気持ちがどうであれ、体が前にうごいとるんならとりあえず安心やな」
【一条】
「さっきから何が良いんだよ、普通なら俺が学校に行かないように閉じ込めるんじゃないのか?」
【某】
「一条、それは素人の考えやぞ、人は落ち込むような状況に陥った場合
閉じこもってしまうよりも、外に出て人の声をきいとる方がずっとええんや」
【一条】
「どういうことだよ……」
【二階堂】
「人は落ち込むと常に思考がマイナスに向かう、人の存在その物が嫌になり
雑音にさえ神経を逆撫でされる、他人の存在と雑音の両方を消すには部屋に閉じこもっているのが一番簡単だ」
【某】
「そんかわり、自分のイライラを紛らわせる物が全く無くなってしまう
発散されることの無いストレスは溜まり溜まってそのうち爆発する
紛らわせるものが何も無いいじょう、人は己の体を傷つける」
【二階堂】
「傷つけるだけで終れば良いが、場合によっては最期までいってしまう場合もある……」
最期、字のごとく死に際、つまり自ら己の命を絶つ行為、自殺である……
【某】
「そうならんようにするにはできるだけ外に出た方がええ、わいらはそう考えとるんやけど、どや?」
【一条】
「……」
確かにそうなのかもしれない、今の俺は1人で部屋に閉じこもってたらどうなってしまうかわからない。
突然暴れだしてしまうかもしれないし、2人が云うように自ら死を選んでしまうのかもしれない……
いや……確実に死を選んでいただろう。
【某】
「さてどうする、このまま学校に行くか、今日は家に閉じこもるか
後者の場合、わいら2人も一条の家に邪魔させてもらうけどな」
【一条】
「どっちを選んでも1人にはなれないんだな」
【二階堂】
「残念ながらな、おまえにとってはお節介かもしれないが、俺らにも俺らの考えがあるんでな」
やれやれ、2人ともお節介というよりもお人好しだよ……
【一条】
「俺と一緒にいると怪我をするかもしれないぞ?」
【某】
「ま、その時はその時やろ」
【二階堂】
「いざとなったらその時考えれば良いさ、それでどうするんだ?」
【一条】
「ここまでもう来てるんだ、このまま学校に行くよ」
【某】
「よっしゃ、ほんじゃ行きますか」
学校につくまでの間、2人とも昨日の話題を持ち出すことは無かった。
いつもとなんら変わらない態度で2人は俺に接してくれている、2人は眼の前で豹変した俺の姿を見ていたというのに……
……
【美織】
「おはよ」
【一条】
「あぁ……」
【美織】
「何よなんだか元気無いわね、なんかあったの?」
【一条】
「何も……」
【美織】
「ふぅん、昨日体調崩したって聞いたけどそれはもう良いの?」
【一条】
「それほど大したことじゃなかったから」
どうしても素っ気無い対応になってしまう、学校に来るには来たけどやっぱり選択間違いだったかもしれない。
【某】
「今日はちぃとかまわんといてやってや、昨日飲み過ぎて二日酔いなってもうたんや」
【美織】
「なるほど、またあんたたち潰しちゃったんだ、少しは一般人の身体のことも考えなさいよね」
【某】
「せやけどグラス二杯で潰れるなんてわいらも思わんかったから」
美織の注意を廓が逸らしてくれた、廓に感謝しつつ組んだ腕を枕に睡眠をとることにした。
……
【一条】
「ふあぁああ……」
何度か眼が覚めたが、再び眠りにつく、また眼が覚めるの繰り返しで午前中の授業は終了していた。
【某】
「うおっす、起きとるか?」
【一条】
「起きてるよ……」
【某】
「もう昼飯の時間やけど、おまえ腹とか空いてる?」
【一条】
「寝てたから空いてないな、食欲もあんまり無いし、それに……」
【某】
「それに?」
【一条】
「あまり人混みに入りたくない……学校でおかしくなったら警察沙汰になりかねないから」
【某】
「そか、ほんならわいらは飯食うてくるさかいな」
【一条】
「行ってらっしゃい」
手をひらひら振って廓と二階堂を見送る。
【一条】
「さてと……暇になっちゃったな」
午前中全部寝ていたせいでもう眠気は無い、しかし昼休みはまだ始まったばかり、どこかで時間を潰してこないとな。
できるだけ人気がなく、できるだけ静かな所、考えられる場所は1つか2つしかなかった。
……
開け放った扉の先、真っ青な海が見える。
【一条】
「……」
人がいないところでまず思いついたのはこの屋上だった。
案の定人の気配は無い、いないと思っていながらも内心ではホッとしている。
【一条】
「ふぅ……」
溜め息を1つ吐いてベンチに腰を下ろす、陽に照らされていたとはいえまだベンチはひんやりと冷たかった。
【一条】
「…………静かだな」
人の声、車の走る音、鳥の鳴き声、それら全てがこの屋上には存在していない。
あるのは青年の呟く声、それと生きている証でもある呼吸音だけであった……
さすがに何もしないで残りの時間を潰すのは苦痛だ。
俺はポケットからオカリナを取り出し、口につけるとゆっくりと息を吹き込んだ。
オカリナから流れる音楽はいつもと同じ、俺が唯一吹けるあの曲だ。
オカリナの中で息が振るえ、オカリナが陶器独特の音を紡ぎだす。
木管楽器の柔らかい音とも金管楽器の重厚な音とも違う。
日本陶器が持つ耳に沁みるような包み込むような音の響きは他に無い。
静寂に包まれた屋上だからこそオカリナは生きてくる、音の強さでは木管金管には敵わないからな。
曲が終盤に近づき、徐々に小さくなり、そして消える……
【一条】
「……ん?」
オカリナを吹き終え、眼を開けるとそこには1人の少女の姿があった。
以前泣いている所を目撃されて、そのまま何も弁解できずに去られてしまったあの少女だ。
【少女】
「……」
少女は何も語らない、ただジッと俺のことを見ているだけ。
【一条】
「……」
そんな少女にかける言葉はみつからない、2人とも言葉も無く互いを見つめ合うだけの時間が過ぎる。
【少女】
「……」
【一条】
「……」
【少女】
「……くる」
先に動いたのは少女の方、くるりと踵を返して俺の前から立ち去った。
そんな少女の後姿を俺は見ていることしかできなかった、今度もし会ったら前のことを説明しようと思っていたのに。
俺の口は閉じられたまま動くことなく、いや、口だけでなく身体の全ての動きを止められてしまったかのように。
俺は立ち去る少女の姿を見ているだけだった……
【一条】
「あぁ……はぁ、はぁ、はぁ……」
少女が視界から消えると止まっていた全機能が復帰した。
【一条】
「なんだったんだ今の……?」
不思議な感覚を覚えながらも、特に重要なことだとは思えなかった。
俺も屋上を後にしようとその場を去ろうとした時、視線が屋上の西側に向いた。
【一条】
「……ここは」
何かに引かれるように西側へと足が向く、俺が昨日倒れる寸前に見たのがここだった。
こんな何も無いただの空間を見てどうしてバランスを崩してしまったのだろう?
手すりに手をついて中庭の方に視線を向けると、そこには人の影、スカートが確認できるから女子だろう。
【一条】
「あれは……羽子さん?」
遠いのではっきりと断定はできないが、花壇の花に水をやっていることから考えて羽子さんである確立が非常に高い。
羽子さんといえば、昨日の廓の言葉が思い出される。
……
【某】
「あいつが自分以外の誰かと一緒にいることは滅多にあれへんのや」
……
云われてみればそうかもしれない、俺もここに来て今日で一週間。
羽子さんを何度か見かけたけど羽子さんが誰かと一緒にいたり、友達と楽しげにお喋りをしている姿を見たことは無い。
見かける時はいつも1人、そして常にきりりとした顔を崩さない厳格な印象がとても強い。
【一条】
「どうしていつもあんな顔してるんだろう……?」
きりりとした顔は厳格や真面目といった感じを受けるが、逆に云えば少し威圧的で相手から見ると少々怖く映ってしまう。
【一条】
「笑うとあんなに綺麗なのにな……」
笑った羽子さんの顔はきりっとしていながらも威圧的な怖さは微塵も無いというのに。
【一条】
「もしかしたら羽子さんって……」
浮かんだ答えを頭を振るってかき消す、あまり無闇やたらな推測は失礼だよな。
昼休み終了の鐘が鳴るまで、羽子さんは花壇の水遣りを続けていた。
俺もそんな羽子さんの姿を鐘が鳴るまでずっと見続けていた……
……
午後の授業も午前中と同じ、寝て起きての繰り返し、俺は何のために学校に来てるんだ?
【某】
「一条ー、ガッコ終わりやけど、これからどないする?」
【一条】
「そうだな……帰る、気分じゃまだないしな」
【某】
「それやったらわいらに付き合えへんか? おもろいもん見れるで」
【一条】
「おもろいもんって何さ?」
【某】
「聞いて驚くな、まあ驚かんと思うけど……勇に挑戦状が叩きつけられたんや」
もう何も云わないでくれ、何が云いたいのかもう全部わかったから……
【一条】
「見物はパスするよ、なるべくそういったものからは遠ざかっておきたいんだ」
【某】
「あ…………」
前髪に隠れていてよくわからないが、きっと廓は今しまったという顔をしているに違いない。
【某】
「すまんな、おまえのこと考えんとゆうてもうたわ」
【一条】
「気にしてないさ、適当に時間潰して勝手に帰るから待ってたりしなくて良いから」
【某】
「そうか、ほんならまたな」
気にしなくて良いって云ってもやっぱり相手側は気にするよな。
さてと、暇な時間をどこで過ごしますか……
……
【一条】
「失礼しますー」
入ったことの無い教室の扉を抑え気味に開け、軽く挨拶をしてから中に入る。
少し古めかしい紙の匂い、というか辺り一面紙に囲まれているも同じ。
ここは図書室なんだから……
【一条】
「誰もいないんだな……」
長机を利用している生徒はおらず、見渡しても人を確認することはできない。
なるべく人の少ない所を探していた俺にはちょうど良い……
【一条】
「折角来たんだから何か読むか……」
ただの時間潰しのため、内容の濃い本を読む気など毛頭無い。
文化遺産の本でも眺めていれば退屈することは無いだろうと思い、本を探していると……
【羽子】
「……」
羽子さんの姿があった。
腕の中で本を開き、真剣な眼差しで本の中身を眺めている。
そんな羽子さんの周りは空気が違っていた、誰も近づくな、羽子さんの周りにはそんな空気が漂っていた。
【一条】
「……」
邪魔しては悪いと思い、その場を立ち去ろうとした。
が、俺の意思とは逆に、足は羽子さんの元へと向いていた。
【一条】
「こんちは」
突然かけられた声に羽子さんの体がびくりと震える。
しかしそれも一瞬のこと、声の主が俺だとわかるといつものようなきりりとした顔に戻る。
【羽子】
「一条さん、図書室で会うなんて珍しいですね、何か調べ物ですか?」
【一条】
「いえ、特にこれといった目的は無いんですけどね……それで、さっきから何の本を読んでるんですか?」
【羽子】
「これですか? 海外の有名な作家が書いたミステリーですよ」
【一条】
「へえ、羽子さんってそういった本好きなんですか?」
【羽子】
「嫌いではないですけど別段好きでもありません、これも一種の勉強のような物ですから」
【一条】
「勉強、ですか……?」
確かに本を読むことは勉強になるだろうけど、ミステリー小説を読んで勉強になるのだろうか?
と考えていた俺は浅はかだった、羽子さんの読んでいる本が普通とは違う点に気づいたから。
【一条】
「その本もしかして……原本?」
羽子さんの読んでいた本の他との違い、それは書かれている言語にあった。
【羽子】
「詳しくは原本の写しです、ですが他にはなんの手も加えられていないそのままの状態です」
写しの他には何も手の加えられていない状態、つまり言語がそのままということだ。
【一条】
「素人なんで全くわからないんですけど、それって何語なんですか?」
【羽子】
「これはドイツ語です、フランス語も一段落したので滞っていたドイツ語の復習をしようと思いまして」
【一条】
「読めるんですか……?」
【羽子】
「それなりにですけど、たぶん一般の方よりは読めると思います」
そりゃそうだよ、一般の人はドイツ語を進んで勉強しようとは思わないって……
【一条】
「すごいですね、それなりの量だと読み切るのも大変じゃないですか?」
【羽子】
「楽ではないですね、ですがこういった本の方が外国語の勉強は効果的なんですよ」
【一条】
「俺は翻訳されている方で十分です……」
正直翻訳されていてもあの量じゃ嫌になるかもしれない。
【羽子】
「ふふ、慣れると外国語も案外楽しいですよ」
この笑顔、キリっとした中にも優しさの見え隠れするこの笑顔。
普段の学校生活では見せることの無いこの笑顔、それなのに俺はよくこの笑顔に遭遇する。
【一条】
「……」
【羽子】
「……どうかなさいましたか?」
【一条】
「あ、いや……なんでもないですよ、羽子さんはまだ残っていくんですか?」
【羽子】
「はい、今日は宿題も出されましたから少しやってから帰ろうと思っています」
【一条】
「は、え、宿題ですか……?」
【羽子】
「お忘れですか? 5時限目に行った数学で宿題出されたじゃないですか」
【一条】
「あぁ……5時限目は夢の中でした」
【羽子】
「まあ、授業中の居眠りはあまり感心しませんね、提出は明日なんですよ」
【一条】
「ま、マジですか……」
ここ最近の数学はほとんど上の空、右から入った音はそのまま左に抜けて記憶として留まっていない。
このままでは宿題などできる訳も無い……一体どうするよ?
【一条】
「非常に身勝手な相談なんですけど……その……」
【羽子】
「宿題を教えてほしい、ということですか?」
【一条】
「……はい」
【羽子】
「授業を真面目に受けていれば1人でも十分にできる宿題なんですけどね」
【一条】
「駄目……ですか?」
【羽子】
「駄目ですね」
やっぱりか、しょうがないよな、悪いのは俺なんだし。
明日は数学の先生にこってりと絞られよう……
【羽子】
「と云いたいところなんですけど、次回から居眠りなどせずに真面目に授業を受けると云うのであれば
教えて差し上げてもかまいませんよ」
【一条】
「明日からは心を入れ替えます」
光のスピードに勝るとも劣らない速さで口から返答の言葉が述べられた。
【羽子】
「その言葉、有言実行にしてくださいね、それじゃ始めましょうか」
……
【羽子】
「このようにして正弦定理を使えばこの問題は簡単に解けてしまうんですよ」
【一条】
「なるほど……」
羽子さんの教え方は的確でいてスマート、下手な教師陣の無駄の多い説明とは違って非常にわかりやすい物だった。
なんせ俺が理解して納得できるんだから
【羽子】
「次の問題は……まあ、時計の問題ですね」
『4時から5時までの間に長針と短針が重なる時刻は何時何分か?』
……はいぃ? なんだこれは、またなんともとっつきずらそうな問題だな。
【一条】
「さっぱりなんのこっちゃなんですけど……」
【羽子】
「この手の問題は中学数学の応用ですから技術的なものはあまり必要ありませんが
意味を理解して頭の中で整理できないと少し難しいかもしれませんね」
【一条】
「今の中学生はこんな問題できるんだ……俺は中学生以下か」
【羽子】
「落ち込んでないでとりあえず解いてみましょう、わからない物はここで理解すれば良いんですから」
【一条】
「わかりました、で、最初はどうしたら良いんですか?」
【羽子】
「まず短針と長針が1分間にどれだけ動くかを考えます。
短針は1分間に360/12=30度の回転、1分間では30/60で2分の1度の回転移動となります」
【羽子】
「長針の方は1時間に360度の回転移動、つまり1分間に移動する距離は6度ということになります」
【一条】
「短針が毎分2分の1度で長針が毎分6度……」
早くも頭の中はこんがり始めてきた、本当に中学生はこんな問題を平気で解くのだろうか?
中学生恐るべし……
【羽子】
「次は求める時刻を4時X分と置いて方程式を立てます。
4時X分に長短両者が重なるとすれば、短針は1時間に30度回転移動なので、4の位置までに30×4=120度
1分間では2分の1度回転移動なので4の位置から重なる位置までX/2度
つまり12の位置から重なる位置までは120+X/2度ということになりますね」
【羽子】
「長針は1分間に6度回転移動ですからX分間では6X度
移動角度は同じですので、方程式は120+X/2=6Xと成り立つわけです。
後はこの方程式を解けば、答えであるXは求まります、方程式の解き方は覚えてらっしゃいますよね?」
【一条】
「なんとなくですけど、ここま教えてもらったんですからどうにかやってみます……」
羽子さんにここまで教えてもらったんだ、ここでできないと羽子さんに申し訳が立たない。
俺は弱い頭をフル回転させて数字の謎解きへと意識を集中した……
……
【男性】
「お待ちどう」
初老の男性が2人分のコーヒーをトレイに乗せて運んでくる、片方はホット、もう片方はアイスコーヒー。
【男性】
「ごゆっくりどうぞ」
宿題を教えてくれた代わりにお茶をご馳走しようと2人で喫茶店にやって来た。
場所は勿論以前羽子さんが教えてくれた商店街裏のお気に入りの喫茶店。
【一条】
「今日は本当にありがとうございました」
【羽子】
「いえ、私は少し助言を差し上げただけですよ、最後はみんな一条さんの手で解いたじゃないですか」
【一条】
「俺みたいな頭の回転の悪いやつにわかりやすく説明するのは骨が折れたでしょう?」
【羽子】
「そんなことはありませんよ、誰にでもわかりやすく教えられるということは
自分でもそれをしっかりと理解できているということですから、私の復習にもとても役に立ちました」
【一条】
「羽子さんって……」
【羽子】
「私がどうかしましたか?」
【一条】
「そのなんだ……息抜きみたいなことはしてるんですか?」
言葉の間にできてしまった間、それは俺が本当に聞きたかったことではないことを表している。
【羽子】
「それはまあ一応、普通の本を読んだり買い物をしたりとしていますよ」
【一条】
「普通の本ってその、漫画か何かですか?」
【羽子】
「私が『はい』とは云わないと考えていますね?」
【一条】
「わかりますか……?」
【羽子】
「はい、ですが私でも漫画くらいは読みますよ」
なんだか少し意外だな、羽子さんと漫画ってのはどうもしっくりとこない。
羽子さんは参考書や辞典を読んでいる方が俺としてはしっくりくるんだけど。
【羽子】
「漫画は一種のドラマです、演劇や舞台と同じで全て計算されて作り上げられた1つの世界。
キャラクター1人1人の心理描写を読み取ることは、想像力を膨らませることにも役立ちますよ」
なるほどな、羽子さんにとって漫画も参考書のような物なんだ。
俺みたいに暇つぶしに何も考えずに読むのとは訳が違う。
【一条】
「想像力か……やっぱり勉強に想像力は必要ですかね?」
【羽子】
「他の方がどう考えているかはわかりませんが、私は勉強に一番重要なのではないかと考えています。
数学や科学を例にとって考えればわかりやすいと思いますが、数学なら立体の三次元的想像力
科学に至っては全てが想像によって成長してきたと云っても過言ではありません」
羽子さんの考えは全て筋が通っていて迷いが無い。
それに比べて俺は……
【羽子】
「……一条さん?」
【一条】
「は、はい、どうしました?」
【羽子】
「どうというわけではないんですが、なんだか辛そうな顔をしてらっしゃいますよ」
【一条】
「そうですか? 特に何も辛いことはないですけど」
【羽子】
「それなら良いんですけど……それで、今日は持ってらっしゃいますか?」
【一条】
「持ってるって何を……あぁ、これのことですか?」
ポケットからオカリナを取り出す、昨日羽子さんが聴きたいと云っていたけど忘れてきてたんだっけ。
【羽子】
「ご迷惑でなかったらでよろしいんですけど、聴かせて頂けませんか?」
【一条】
「俺はかまいませんけど、お店の中じゃ不味いんじゃ……」
【男性】
「私は一向にかまわんよ、それに私も少し興味があるね」
マスターがカウンターから顔を覗かせてそんなことを云う。
【羽子】
「決まりですね、マスター、バックミュージックの音量を少し落として頂けますか?」
【男性】
「はいよ」
マスターが置くに引っ込むとバックミュージックも沈静化する。
ここまで来たらもう吹くしかなさそうだ。
【一条】
「それじゃあ吹かせてもらいますけど、人様に聞かせるほど上手くはないですからね」
1つ念を押してからオカリナを口に当てる。
オカリナから柔らかい音がもれ店の中に反響する、無論吹いているのはいつもの曲。
【羽子】
「……」
屋上や川原で吹くのとは違い、周りに遮りがあるせいか音がいつもより響いて聞こえてくる。
室内という点ではアパートでも吹いているけど、あことここでも音の響き方は微妙に違う。
楽器は吹く環境吹く状況によって様々な変化を見せる、これが楽器を奏でる楽しみの1つでもあるんだ。
オカリナの音を楽しみながら、曲は終焉を向かえ、最期の音がゆったりと店の中から消えていった……
【一条】
「ふぅ……お粗末さまでした」
パチパチと拍手のなる音、羽子さんとマスターが俺の演奏に評価を下してくれた。
【羽子】
「凄い綺麗な音です、オカリナであんな音が出せるなんて……」
【男性】
「中々神秘的で幻想的な曲だったね、これは君が作曲を?」
【一条】
「どうなんでしょう、物心ついた時には吹いていたんでなんとも云えません」
【羽子】
「誰の曲であったにせよ、一条さんのオカリナはかなりの腕前だと思いますよ」
【一条】
「そんな褒められるほどの腕じゃ……」
【男性】
「演奏者は聞く側よりも自分の腕に鈍感である、これ音楽の世界じゃ常識よ」
そうなのかな…………?
【羽子】
「あの、ご迷惑かもしれないんですけど……もう一度聴かせていただけませんか?」
【男性】
「できることなら私もそう願いたいね」
これはつまりアンコールと受け取って良いのかな?
【一条】
「良いですよ、俺なんかの演奏で良かったらいくらでも吹かせてもらいますよ」
一度幕を閉じた演奏会は再び幕を上げた。
外が暗くなり始める中、店の中では俺1人による演奏会が緩やかに行われていた……
……
【男性】
「またどうぞ」
店を出るころには辺りは夜に足を踏み入れたのか、暗くなり始めていた。
【羽子】
「すみません、私のわがままでこんな遅い時間まで拘束してしまって」
【一条】
「かまいませんよ、音楽は聴いてくれる人がいると過ぎる時間も心地良く感じるものですから
だけど羽子さんの方は親御さんが心配するんじゃないですか?」
【羽子】
「大丈夫ですよ、私は1人暮らしですから」
【一条】
「え、そうなんですか?」
【羽子】
「はい、私の家は両親共に忙しい方々ですから、お2人の邪魔にならぬよう私は1人暮らしをしているんです」
女の子の1人暮らしといえば危険がつき物と相場は決まっている。
もうこんな時間だし、男の俺が送っていくのが当然の選択なんだろう。
【一条】
「女の子1人じゃ危ないですよ、良かったら家まで送りましょうか?」
【羽子】
「そうですか、それじゃおあ言葉に甘えさせていただきます」
……
羽子さんと2人、薄暗くなった歩道を並んで歩く。
【羽子】
「一条さんはお優しい方ですね」
【一条】
「は? どうしてですか?」
【羽子】
「私のような面白みの無い女でも送ってくれるんですから……」
なんだか羽子さんの声が悲しそうな感じがした、俺はそれが勘違いであってほしいと願うだけだった。
【一条】
「何を云ってるんですか、面白い面白くないで人の価値なんか計れませんよ
なんだかいつもの羽子さんらしくない科白ですね」
【羽子】
「……一条さんの中で、同年代の女の子とはどんな印象を持っていますか?」
【一条】
「難しい質問ですね……同年代の女の子か」
俺はこの手の質問に疎い、女の子と話をするのがあまり得意でない俺はこういった質問が苦手なんだよな。
【一条】
「そうですね……まだ大人になりきっていないあどけない少女、とでも云いましょうか」
なんだか云っていて恥ずかしくなる、あどけない少女なんて初めて云ったぞ……
【羽子】
「あどけないですか……」
暗くてよくわからなかったけど、羽子さんの表情が少し悲しげに見えた。
【一条】
「羽子さん……?」
【羽子】
「……」
それきり羽子さんは黙ってしまった、時折上を向いたり下を向いたりと何かを考えているように感じられた……
……
【羽子】
「ここからは灯りも多いのでここでもう結構です、今日はありがとうございました」
【一条】
「礼を云うのはこっちの方ですよ、それじゃ気をつけて」
【羽子】
「はい、ごきげんよう」
礼儀正しく頭をたれて街灯に照らされた歩道を後姿が消えていく。
【一条】
「なんだか羽子さん悲しげだったな……」
会話の途中で見え隠れした羽子さんの表情が、俺の中で少し引っかかっていた。
〜 N E X T 〜
〜 B A C K 〜
〜 T O P 〜