【4月14日(月)】


廓に当たってもしょうがない、元はと云えば俺が遅刻したのが悪いんだから。
財布の中身を確認すると、まだ少しばかり余裕がある。
パンにはめられたのでパンを食べるのは気分が悪いんだよな……

……

となると学食だな。

購買より多少人が少ないが、空いているとはとても云えない状況だった。
そんなことより昼食を買うことが先決だ、座る場所は後で考えれば良いか。

【一条】
「とは云ったものの……そんなに余裕があるわけじゃないんだよな」

財布の中には数枚の紙幣と千円程度の小銭、あまり贅沢ができるような状況じゃない。
上限額を300円とすると……買えるのは250円のうどんか300円のカレー。
俺の好みはどっちかというとカレーだな、よし……

【一条】
「……うどんください」

どうしてだろう、頭の中でカレーって決めたはずなのに俺の口は安いうどんを注文してしまった。
もしや、これが金の持つ魔力?!

……違うよ、せこいだけだよ。

【一条】
「今天の声が聞こえた気が……?」

そんな訳無いか、俺は50円の差にも敏感なおちょこ人間なんかじゃない……と思いたい……であってほしいな。
でき上がったうどんを受け取って席を探す、どこか適当な席は……

……

【一条】
「なんじゃこりゃ……」

見回しても人人人、どこもかしこも満席で座る場所が無い。
数箇所空いている席があるにはあるが、四方八方女子だらけ、空いている席は皆そんなところばっかりだ。

【一条】
「空くまで待ってたらうどんのびるし……立ち食いもやむなしか?」

このまま立って食べようと決心しかけた時、1人だけで食事をしているテーブルが眼にはいった。

【一条】
「あの席、おじゃまさせてもらうか」

うどんを持ってその席を目指す、だけどどうしてあの席空いてるんだろう?

【一条】
「前失礼します」

【羽子】
「え……?」

1人で食事をしていたのは羽子さんだった、俺の登場に眼を皿のようにして驚いている。

【一条】
「あ、羽子さん」

【羽子】
「一条さん、どうしてここに?」

【一条】
「どうしてって云われても、食事をしに来たとしか云えないよ、前失礼させてもらっても良いかな?」

【羽子】
「ええ、どうぞ」

【一条】
「それじゃ、お言葉に甘えて」

羽子さんの前の席に腰を下ろす、当然のことながら羽子さんとは向かい合う恰好になる。

【羽子】
「一条さんは今日もおうどんですか?」

【一条】
「ええ、安いですから」

俺とは対照的に羽子さんが食べているのは日替わり定食、今日のメインはフライのようだ。

【羽子】
「いくら安いと云っても、いつもそんなものでは栄養も偏ってしまいますよ」

【一条】
「わかってはいるんですけどね、どうしてもこう安い方に流れちゃうっていうか……」

俺だって羽振りが良ければ毎日バランスの取れた食事をするけど、倹約生活がモットーですからそんなことはできません。

【羽子】
「……よろしかったら私のおかず、分けてさしあげましょうか?」

【一条】
「え……マジですか?」

【羽子】
「ええどうぞ、元々小食の私には量が多いですし、遠慮なさらずにどうぞ」

【一条】
「そ、そうですか…………それじゃ、ありがたく頂戴します」

……

羽子さんからおかずを分けてもらったおかげで久しぶりに豪勢な昼食にありつけた。

【羽子】
「お腹の方は満足しましたか?」

【一条】
「無論です、ほんと感謝してます」

【羽子】
「いえ、私の方こそお礼を云いたいくらいですから……」

【一条】
「……?」

どういうことだ、俺が礼を云うのは当然として、どうして羽子さんがお礼を云いたいなんて云うのだろう?
俺何かしたっけかな……?

【羽子】
「どうかなさいましたか?」

【一条】
「あ、いえ、なんでも……あ、食器の方は俺が片しておきますね」

【羽子】
「そうですか、それではお願いします」

両手に空になった食器を抱え、勝手口へと戻しに行く。
食器を戻し終え、羽子さんの姿を探すと羽子さんは出入り口の方で小さく手を振っていた。

……

【羽子】
「良いお天気……」

羽子さんと一緒に廊下を歩いていると、窓の外を眺めてポツリともらす。

【一条】
「天気予報で今日は快晴だって云ってましたからね」

遅刻しそうになっても天気予報だけはチェックしている、天気予報見なかったら遅刻しなかったのかもな。

【羽子】
「少し、中庭を散歩していきませんか?」

【一条】
「お付き合いしますよ」

……

雲一つ無い快晴の空から陽光が降り注ぐ。
まだ春先なので陽光も熱くなく、ぽかぽかした気持ちの良い暖かさが身に沁みる。

【羽子】
「やっぱり食後の散歩というのは気持ちが良いものですね」

【一条】
「そうですね、まだ陽射しも熱くないし、散歩にはもってこいかもしれませんね」

【羽子】
「これだけ日光を浴びれば、あの子たちも美しく育つでしょうね?」

【一条】
「あの子たち?」

聞き捨てならないその科白、もしかして羽子さんって見かけに寄らず……

【一条】
「この歳で子持ちなんですか……?」

【羽子】
「え?」

ん? なんだこの反応、俺と羽子さんの間で微妙に会話が成立してないな。

【羽子】
「なんですか急に、私はこの歳で子供を産んだ女に見えますか?」

【一条】
「見えないですね、だったらあの子たちって云うのは?」

【羽子】
「ああ、そのことですか」

顎に手を当てて愉快そうに笑う、美織辺りがやるとなんかムッとするが。
羽子さんがするとキリッとしていかにも羽子さんらしい笑い方のように感じてしまう。

【羽子】
「こちらへどうぞ、あの子たちがなんであるのかお見せしますよ」

……

【羽子】
「これが私の自慢の子供たちです、とは云っても人間ではありませんけどね」

【一条】
「これは、花……?」

羽子さんに連れられてやって来たのは中庭に設けられた花壇。
そこには真っ白な花が一面に咲き乱れていた。

【羽子】
「クロッカスの花です、花言葉は歓喜、青春の喜び……」

【一条】
「もしかしてこの花、全部羽子さんが植えたんですか?」

【羽子】
「はい、1年前までは何も植えられていない寂しい状態だったんですが
学校側の許可を貰って植えさせていただいたんです」

【一条】
「これ全部ですか……凄いな」

中庭の花壇とはいえ結構広い、ここに1人で球根を植えるのは重労働だろう。

【一条】
「それじゃあここの管理は全部羽子さんが?」

【羽子】
「ええ、生憎この学校には花に興味のある人が少ないみたいですから」

さっきまで横にいたはずなのに、いつの間にか羽子さんの手には如雨露が握られていた。

【羽子】
「一条さんは、花はお好きですか?」

そう云いながら手にした如雨露で花々に水を振りかけ始めた。

【一条】
「嫌いではないですよ、何度か花に囲まれて生活しましたから」

【羽子】
「まぁ……」

俺が目覚めた時、何人もの医者や看護婦がお見舞いの花束をくれた。
それからしばらくの間、俺の病室は花だらけにされてしまった。

【一条】
「羽子さんはどうして使われていなかった花壇に花を植えようと思ったんです?」

【羽子】
「そのものが持つ役割が果たされていなかったからです。
花壇は何のためにあるのか、花を咲かせて世界を彩るためにあるんですよ」

【一条】
「なるほどね」

【羽子】
「花は四季を伝える一種のサインです、それに花壇があるのに花が一厘も咲いていなかったら
なんだか寂しいじゃないですか」

これは羽子さんの性格の表れなのではないかと思う。
完璧……完全を目指す羽子さんの性格上、そこに無意味が存在することを嫌っているのかもしれない。

楽しげに水を与える羽子さんを尻目に、俺はベンチへと腰掛けた。
まだ羽子さんの水やりは終りそうになかったので、俺はゆっくりオカリナでも……

……あれ、ない?

ポケットを探ってみてもオカリナをとらえることができない。
もしかして落とした!…………いや、違うな。

【一条】
「朝バタバタしてたから忘れてきたな……」

天気予報を見る余裕はあったくせに、オカリナを入れることは忘れていた。

【一条】
「はぁ……なんか憂鬱」

【羽子】
「なんだか落ち込んでらっしゃるようですけど、どうかなさったんですか?」

【一条】
「そんなふうに見えますか?」

【羽子】
「はい、はっきりと」

他人が見てもわかるくらい落ち込んでたんだ……なんか暗い人間だな。

【一条】
「朝バタバタしていたら大事な物を忘れてしまって……」

【羽子】
「そういえば一条さん、今朝のホームルーム途中参加でしたね」

【一条】
「う、知ってたんですか……」

【羽子】
「廓さんが紙飛行機を飛ばした本当の理由、それは一条さんの手助けだったんじゃないんですか?」

【一条】
「……全部ばれてるんですね」

【羽子】
「残念ながら、本当でしたら先生に報告するのがクラス委員としての役目なんですけど」

【一条】
「見逃してもらえないでしょうか……?」

【羽子】
「決まりは決まりですから、駄目です」

そりゃそうだよな、俺がやったのはインチキなんだ。
やっぱりインチキだと上手くいかないんだな、良くできた世界だよ……

【羽子】
「と、云いたいところなんですが、今日はまだ1回目だったので見逃してあげます」

【一条】
「え、それマジですか?」

【羽子】
「はい、その代わり、今度からは見逃せませんから遅刻はなさらないようにお願いします」

前言撤回、世界って結構融通が利くのかもしれない。

【羽子】
「話を戻しますけど、一体何を忘れてきたんですか?」

【一条】
「大した物じゃないんですけど、オカリナを……」

【羽子】
「一条さんはオカリナを吹かれるんですか?」

【一条】
「ちょっとだけ気分転換程度にですけどね」

【羽子】
「そうだったんですか、ぜひ一度聞かせてもらいたいです」

【一条】
「あまり上手くはないですけど、聞きたかったらいつでもどうぞ、もっとも今日は無いですけど」

羽子さんは少しだけ残念そうな顔をする、そこまで残念がるようなオカリナじゃないんだけどな……

【羽子】
「一条さん、1つお伺いしてもよろしいですか?」

【一条】
「俺に答えられることだったらどうぞ」

【羽子】
「差し支えなければで結構なんですけれど……一条さんはどうしてここに転校を?」

【一条】
「……」

それは一番聞かれたくない質問だった、以前美織と音々には経緯を少しばかり話したけれど。
その後気まずい空気が流れてしまったからである。

【一条】
「やっぱり、気になりますか?」

【羽子】
「気にならないと云うと嘘になってしまいますが……プライベートのことですから
一条さんが聞くなとおっしゃるのなら、私に聞くことはできませんね」

【一条】
「……詳しくは云えませんけど、少しだけならお話しますよ」

【羽子】
「一条さんが話してもよろしいのなら、聞かせていただけますか?」

もう一度喋ってしまっていることだ、今更隠す必要もないだろう。
美織たちに話したことと同じ内容を、羽子さんにも話した。

【羽子】
「……」

話を聞き終えた羽子さんは驚いたような悲しんでいるような、なんとも複雑な表情をしていた。
その顔はあの時の美織や音々と同じような顔だった……

【一条】
「なんて顔してるんですか、まるで幽霊でも見たような顔になってますよ」

場の空気をひっくり返そうとちょっとした小細工をしたんだけど……

【羽子】
「一条さんはその選択は正しかったとお思いですか?」

羽子さんには全く通じなかったようで、真剣な眼差しのまま問いかけられた。

【一条】
「どうでしょうね、そもそも正しいとか正しくないかとかあるのかも疑問ですし……」

【羽子】
「本当にそれで良かったんですか、後悔してからでは何も元通りにはならないんですよ」

【一条】
「俺にはよくわかりません、ただ、いつかはこれで良かったんだって云える日が来るんじゃないですか」

【羽子】
「そんな無計画な……」

無計画か、確かにそうだったのかもしれない。
しかし、無計画なのもしょうがない、俺には計画を練る時間さえ無かったんだから……

【一条】
「この話はもう止めましょう、もう時間も無いことですし……」

昼休みももう終盤、鐘が鳴る前に教室に戻ろうとベンチを立ち上がった。
中庭から校舎へと戻るその刹那、背中に何か奇妙な気配を感じた。

しかし、それは水平方向からではなく、垂直方向、上から感じる気配だった。

【一条】
「屋上か……?」

屋上にふと眼をやる、次の瞬間、視界に映る世界がグニャリと捻じ曲がったような感覚を覚えた。

【一条】
「うぁ!……ぅ……」

【羽子】
「一条さん!」

バランスを崩し倒れそうになったが、膝に力を入れてなんとか持ちこたえる。

【一条】
「はぁ……はぁ……」

【羽子】
「なんだか顔色が優れないようですが、具合悪いんですか?」

【一条】
「大丈夫です、大丈夫ですから……ぅ」

必死で誤魔化そうとしたが、体にはもうそんな余力は残されていなかった。
重力に逆らいきれず膝が折れ、片膝が地面についてしまう。

【羽子】
「大丈夫ではなさそうですね、幸いにも保健室も近いですから」

言葉を続けながら、羽子さんは俺の腕を自分の肩にまわす。

【一条】
「ちょ、ちょっと、羽子さん…………」

【羽子】
「どうかしましたか?」

【一条】
「肩なんて貸してもらわなくても1人で行けますから」

【羽子】
「無理をなさると余計に悪くなりかねませんよ、それに倒れるのを見ているんですから
大丈夫と云われても信じることはできませんね」

羽子さんの言葉は全て筋が通っている、俺が何を云っても羽子さんは引いてくれないだろう。

【一条】
「迷惑ではありませんか?」

【羽子】
「眼の前で面識のある方が困っているのを見捨てるほど私は冷血ではありませんよ」

【一条】
「……迷惑かけます」

【羽子】
「気になさならないでください、女の私では肩を貸すくらいしかできませんけど」

羽子さんに肩を貸してもらいながら、重い足取りで保健室まで向かうことにした。
女の子に肩を貸してもらわないと歩けないなんてなんか情けない、それ以上に人目が気になってしまう。
羽子さんは全く気にしてないようだけど……

……

【羽子】
「失礼します」

なんとか保健室にたどりついたのだが、保健室に先生の姿は無かった。

【羽子】
「そういえば今日保健の先生はお休みでしたね、とりあえずベットに横になっていてください」

【一条】
「横になるほど酷くは」

【羽子】
「倒れておきながら大丈夫は通じませんよ」

【一条】
「は、はい……」

大人しくベットに横になる、羽子さんは何かをカリカリと書いている。

【羽子】
「よし、こんなもので良いでしょう」

カツンと静かな部屋にボールペンを置く音が鳴る。

【羽子】
「それで、先ほどは一体どうなされたんですか?」

【一条】
「どうといわれると難しいんですけど、急に体が重くなったというか……」

【羽子】
「目眩か貧血でしょうか? 朝ご飯は……食べていませんね?」

【一条】
「お察しの通りです」

【羽子】
「だけどお昼ご飯を食べたすぐ後に貧血というのも……」

顎に手を当てて色々と思考をめぐらせているようである。

【一条】
「俺のことなんですからそんな深く考えなくても」

【羽子】
「たとえ他人のことであれ、はっきりとしないのは好きではありませんから」

これも完璧を基本に考える羽子さんの性格の表れなんだろうな。

【羽子】
「とりあえず原因がなんであれ、倒れたことには変わりありませんから午後の授業は休んだ方が良いですね」

【一条】
「……はい」

ここで出るって云っても羽子さんに休んだ方が良いと促されるのは明白だ。
大人しく休んでおいた方が良さそうだな……

【羽子】
「効果があるかどうかはわかりませんが、何も無いよりは良いと思いますから」

そう云って羽子さんは寝ている俺の額に濡れタオルを被せてくれた。

【一条】
「色々とありがとうございます、羽子さんって優しいんですね」

【羽子】
「いいえ、これが人としての勤めですから、私は授業に出ますのでこれで失礼します」

軽くお辞儀をして保健室を後にする、かしこまった動作が羽子さんにピタリとはまっている。

【羽子】
「それに……」

【羽子】
「私は優しくなんかありませんよ」

【一条】
「え……?」

保健室を出る一瞬、羽子さんはそんな言葉を残したように俺の耳には聞こえた。

……

【一条】
「……」

ベット横の窓から風が入ってきて体を撫でる。
柔らかく、心地良い涼しさを体に与えて一波が終わり、また次の風が窓から入ってくる。

【一条】
「……どうしてあんなことを?」

頭に思い浮かぶのは去り際の羽子さんの言葉。

……

【羽子】
「私は優しくなんかありませんよ」

……

優しくない人間が、出会って間もない男と保健室まで付き合ってくれるだろうか?
しかも肩を貸してくれて、タオルまで被せていってくれた。

【一条】
「もしかして至極当前のことだったのかな?」

羽子さんにとってこれは優しさではなく、人として至極当前の行動。
羽子さんの性格から考えて、そう仮説を立てることもできるけど……

【一条】
「……」

本人でない俺に、納得のいく答えなんてみつかるわけもなかった。
それに人のことを分析するのはあまり良い趣味とは云えないしな……

羽子さんの言葉も不思議だったけど、それ以上に不思議なのは俺の体に起きた異変。
屋上に眼をやった瞬間、体にかかる奇妙な圧迫感、あんなことは今まで体験したことがない。

【一条】
「屋上になんかあるのかな?」

何かあったとしても、それで体が重くなるとは考えられない。
ただ1つ、体が重くなる前に感じたあの気配、あれは一体……

……

【?】
「……さん」

【?】
「……うさん」

なんだろう、どこからか声が聞こえる。
白くぼやけた世界の中、姿は見えないが声は存在している。

【?】
「い……ょうさん」

【羽子】
「一条さん、起きてください」

はっきりとした声で俺を呼ぶ声が聞こえた。
俺が声を認識すると同時に白い世界は徐々に消え、はっきりとした世界に造り変わっていく。

【一条】
「う……ん」

【羽子】
「お目覚めですか? もう今日の授業は終了しましたよ」

【一条】
「わざわざ起こしに来てくれたんですか?」

【羽子】
「はい、一条さんが起きないで私が帰ってしまったら後々大変ですから
それに、うけもったものは最後までやり終えないといけませんから」

【一条】
「ありがとうございます、やっぱり羽子さんは優しい人ですね」

【羽子】
「そんなことはありませんよ……はい、鞄です」

鞄を渡す時にはいつもの顔だったのに、優しいと云われた時の羽子さんの顔。
気のせいかもしれないけど、なんだか悲しげな表情をしていた……

【一条】
「羽子さんは今日はもう帰りますか?」

【羽子】
「いえ、私は少し図書室で調べ物をしてから帰ろうと思っています」

【一条】
「図書室ですか…………俺も一緒に……」

【某】
「一条ー」

場所をわきまえない微妙な音程の声が俺の邪魔をする。

【一条】
「どうしたんだよ、保健室とおまえはあんまり似つかわしくないんだけど」

【某】
「んなことはどうでもええんや、午後の授業1人だけボイしよってからに」

【一条】
「ボイ?……」

ボイってなんだよ、話の流れから考えて……

【一条】
「ボイコットのことか?」

【某】
「他に何があんねや」

あのなあ、ボイコットを略してボイって縮めるやつなんかいないって……おまえを除いてな。

【某】
「ほんで、なんで羽子がここにおんねや、わいに放課後保健室に行けゆうたくせに」

【羽子】
「もしもってこともありますから、廓さんが忘れている可能性も否定できないので
私も念のために来てみたら、案の定私の方が早かったようで……」

【某】
「しゃーないやないか、志蔵センセに説教くらってたんやから」

【羽子】
「お説教を受けなくて良いようになってもらえるのがクラス委員としてはありがたいんですけどね
それじゃ私はこれで、一条さんお大事に」

【一条】
「はい……」

頭をたれて羽子さんは保健室を出ていく。

【一条】
「はぁ……」

【某】
「何溜め息ついとんねん、2時間も休んだんやから体はもうええやろうに」

【一条】
「体は良いんだけど……」

【某】
「ほんならかえろか、校門で勇も待ってるさかいな」

【一条】
「……邪魔すんなよ」

【某】
「あん? なんかゆうた?」

【一条】
「……何も」

……

校門を出るところで二階堂と合流して3人で帰路につく。

【某】
「しかしなんでまた急に倒れてもうたんや?」

【一条】
「なんでだろうな、体調が悪かったわけでもないんだけど」

【某】
「案外自分の知らん所で無理しとったのかもしれんな
せやけど、あの羽子が男を介抱するなんてなぁ……」

【一条】
「羽子さんが男を介抱するのがそんなに珍しいことなのか?」

【某】
「珍しいな、第一羽子が自分以外のやつと一緒におること自体珍しいんやから?」

【一条】
「え……それってどういうことだ?」

【某】
「まだこっちに来たばかりのおまえにはわからんかもしれんけど
あいつが自分以外の誰かと一緒にいることは滅多にあれへんのや」

【一条】
「……そうなのか?」

【某】
「嘘ついてどないすんねん、わいなんてよほどのことが無い限り話しかけられもせえへんのに」

廓の発言だけでは信憑性にかけるのでちらりと二階堂に視線を送ると。
二階堂もまた小さく頷くだけ、どうやら廓の云っていることは本当らしいな。

だけどどうしてだろう、羽子さんみたいな人ならクラスの人気も高いように思うけど……

【某】
「どしたんやむつかしい顔して?」

【一条】
「いや……別に」

【某】
「そんならええけど、あんまり羽子には関わらん方がええと思うけどな」

最後の方はほとんど聞き取ることができなかった、いや、聞き取れなくて良かったのかもしれない……

……

踏み外す要因なんて何1つ無かったはずなのに、俺は踏み板を見事に踏み外してしまった。
もう思い出したくもない、狂気に魅入られたあの瞳の色、あれは常人のそれじゃない……

人を傷つけ快楽を得る怪物、そんな表現がぴったりではなかろうか?

この日、俺は初めて自分を恐ろしいと感じた。
この手が、この口が、この眼が、俺の全てが狂気を求めていた。

俺の中に巣食う俺の知らない怪物、怪物を飼う人間なんて存在するのだろうか?

何者なんだ、『一条 誠人』という人物は……




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