【4月18日(金)】


寝惚け眼を擦りながら目覚ましの呼び出しに答える。

【一条】
「……」

目覚ましの音が泣き止むと共に俺の意識も消えていく。
あぁ、なんか良い気分……

……

【一条】
「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ……」

今日も通学路を走行中、一週間に3回も走って登校することになるとは思わなかった。
今日の原因は二度寝をしてしまったから、目覚ましが鳴らない、起きるのが遅い、そして二度寝。
遅刻の3パターンを一週間で全部やってしまうとはな……

【一条】
「低血圧て辛いな……」

全く低血圧の気なんてないんだけど……

……

【一条】
「ぐうぅ……」

急いでる時の信号ほど煩わしいものはない。
学校の前にある交差路、廓に聞いたところここは別名『遅刻送り』というらしい。
名前の響きからして廓が勝手につけた感じがしなくもないが……

眼の前の信号は赤、しかし車なんか一台も通らない。
それどころか車の気配すら感じられない。

1分1秒が運命を分けるこんな時は、信号無視をしても釈迦様は許してくれるだろう。
ちゃんと左右の確認をして車が来ないことを確かめてから道路に躍り出る。

ピピィー!

突如後ろから響く笛の音に体が止まる、振り返るとそこにはやれやれといった感じの婦警さんが立っていた。

【婦警】
「まだ信号は赤よ、飛び出してダンプに跳ねられたら親御さん泣くわよ」

【一条】
「はぁ……すいません」

【婦警】
「ここは変わったところでね、こんなに見通しがいいのに年間の死亡事故20件を超える難所なの
赤信号の間はどんな状況であっても待つことをお勧めするわ」

【一条】
「はい……」

【婦警】
「なんか気のない返事ね、ちゃんとあたしの話聞いてる?」

【一条】
「はい……」

【婦警】
「……ほらほら、黒猫が番で戯れてるよ」

【一条】
「はい……」

【婦警】
「なんも聞いてないじゃないのー!」

うるさい婦警さんだな、今はそれどころじゃないんだ、急がないと鐘が鳴ってしまうっていうのに。

【婦警】
「あたしがキャリア浅いからって莫迦にしてー、公務執行妨害で逮捕するよ!」

【一条】
「職権の乱用は止めてください……」

【婦警】
「うぅ、うるさいうるさいうるさーい!」

なんかどんどん婦警さんのテンション上がってきてるよ。
早く解放してくれないと内申書にペケがつくっていうのに。

【婦警】
「問答無用で確保ー!」

【一条】
「ちょ、ちょっと待って、それ本物の手錠!」

半泣きで手錠をブンブン振り回す、あんなもんされたら逃げるに逃げれないじゃないか。
テンションがハイになっている婦警さんとやりあっているうちに、耳に届く嫌な音。

キーンコーン

ホームルームを告げる鐘が鳴る、これで今日は遅刻決定だ。
なんで俺はこんな所で婦警さんとやりあって遅刻せにゃならんのだ……

【一条】
「あーぁ……」

へなへなと膝から力が抜け、その場にへたり込む。

【婦警】
「お、どしたの? 急に元気なくなっちゃって?」

【一条】
「いや……なんでも……」

【婦警】
「まあ大人しくなってくれればこっちとしては助かるかな
ちょっとこっち来てくれる」

どうせもう遅刻なんだ、煮るなり焼くなり好きにしてくれ……

……

【一条】
「ひでぇめにあった……」

確かに遅刻だったさ、確かに遅刻だったけど……1時限目の半分まで食い込むのはどうだろう?
あの婦警さん若いくせに相当の説教好きのようで、俺が少しでも聞いてないとまた初めから話をするんだもん……

【一条】
「今更1時限目に出てもな……」

学校の規則で授業開始20分以内に登場すれば遅刻、20分を超えての登場は欠席扱いになる。
もう時間は30分以上経過している、欠席扱いになっているのでもはや行く意味はない。

【一条】
「屋上にでも行きますか……」

……

屋上の重い鉄扉を開けるといつもと同じ藍い空が出迎える。

【一条】
「はあ……」

誰かいるかと思い東側を見るも人影はない、当然といえば当然だ。
西側にも勿論人の姿はなく、さっさと給水塔の上に上ってしまう。

【一条】
「うぇ…………?」

思わず声を上げる、今は授業中だ。
真面目な生徒は教室で授業を受けているはずだ。
俺のような偏屈なやつでない限りこの時間ここにいることは考え辛いのに……

【水鏡】
「……」

給水塔の上には少女の姿があった。
給水塔の縁に腰を下ろし、体はこちらを向けて顔は街の方を向いていた。

【水鏡】
「……」

物憂げに、と云ったら良いのだろうか。
水鏡は俺の登場にすら気付いていないようだった。

【一条】
「……何を、見ているんだ?」

【水鏡】
「え?……」

【一条】
「っよ」

【水鏡】
「どうも……」

俺の顔を確認すると再び街に視線を戻した。

【一条】
「隣、良いかな?」

【水鏡】
「……どうぞ」

やや間があってから了承を促す返事、俺も水鏡と同じように縁に腰を下ろした。
2人の間を気持ちの良い風が流れる、その度に水鏡の長い髪が風に遊ばれている。

その光景はまるで映画の1シーンにでも使えそうなほど美しい場面だった。
息を呑む光景、そんな言葉があるがまさにこの場面に相応しいのではないだろうか?

【水鏡】
「……何か?」

【一条】
「ん?」

【水鏡】
「私の顔に何かついていますか?」

うっかり見とれてしまっていた、見られている方にすれば不信がるはもっともだ。

【一条】
「いや、ちょっと見とれてて……」

【水鏡】
「そうですか……」

疑問のとれた水鏡は再び街を見る、一体少女はこの街の風景に何を見ているのだろう?

【水鏡】
「良いんですか……?」

【一条】
「何が?」

【水鏡】
「授業受けなくて……」

【一条】
「ああそのこと、どうせ今から行っても欠席扱いだから、水鏡の方はどうして?」

【水鏡】
「気分が優れなかったものですから……」

2人とも理由は違えどやっている行動自体はおなじ、なんだか似た者同士だな。

街をただジッと眺めているのも飽きてきたのでオカリナを取り出す。
この時間から吹くのもどうかと思うけど、まあ大丈夫だろう。

口に当てたオカリナにゆっくりと息を吹き込んだ……

……

【一条】
「……ふぅ」

オカリナを吹き終え、数秒の間があってから1時限目の終わりを告げる鐘が鳴る。

【水鏡】
「良いタイミングでしたね……」

【一条】
「そうみたいだな、さてと2時限眼からは真面目に受けますか、水鏡は?」

【水鏡】
「私も行きます、体調も回復していますから」

……

【一条】
「ういっす」

【美織】
「あー重役出勤だー、不良ー」

【音々】
「お早うございます、誠人さん」

通常登校よりも1時間以上遅い参上に美織は茶化しを、音々はいつも通りの挨拶で迎えてくれる。

【美織】
「それで、今日の原因は何?」

【一条】
「ちょっと桜の大門の厄介に……」

【音々】
「え! 誠人さん、それって……」

【美織】
「ははぁん、マコってロリコンだもんねー
ちっちゃい子に何かしようとしてお巡りさんに捕まったんでしょ、やーらしぃー」

【一条】
「む……」

【美織】
「はきゅ!」

頭にきたのでポニーテールを引っ張ってやった、重心がずれたせいで妙な声を上げる。

【美織】
「ちょっと何すんのよ!」

【一条】
「それはこっちの科白だ、誰がロリコンだって!」

【美織】
「君のことだよ♪」

【一条】
「もう許さんぞ!」

【美織】
「おっと、残念でしたー」

俺が飛び掛るのを見越していたのか、俺が動くよりも先に音々の背後へと身を潜めた。

【一条】
「ぐ、手が出せんじゃないか……」

【美織】
「やーい、ローリコーン♪」

【音々】
「あ、あはははは…………」

……

【一条】
「ったく……」

結局ロリコン疑惑を訂正することもできずにもう昼休み。
クラスの中で俺を特殊趣味な人間と誤解する人間が何人いることか……

突っ込まれたらその都度訂正していくしかなさそうだな。

【一条】
「はぁ……」

ベンチに腰掛けてスティック型のパンを頬張る。
朝の一件の後、どうせ間に合わないのでコンビニに行って買ってきた物だ。

【一条】
「最近こんな食事ばかりだな……」

でき合いの物と生の野菜、それと水が俺の主な食料だったりする。
野菜と水を取っているから死ぬことはないだろうけど、倒れることはあるかもしれない。

やはり自炊を考えた方が良いのだろうか?

しかし、しかしである、俺には自炊ができない訳がある。
1つ目は俺が料理下手であるということ…………たぶん最重要部であろう。

1つ目とは云ったものの、実際にはそれ以外には何もない。
とりあえず1つ目って云っておけば盛り上がるかなって思っただけだ……

なにくだらないことしてるんだろう、悲しくてわらけてくる……

【一条】
「誰かに聞くにもなぁ……」

確か美織と音々が料理が上手かったと記憶している。
しかしだ、美織に頭を下げることはなるべく回避したい、かといって音々に聞くとあの美織のことだ
おもしろがってちょっかいを出してくるに決まっている。

【一条】
「どうしたもんかねぇ……」

ぼぉっとパンをくわえながら天を仰いだ。
空は雲ひとつない快晴の空、なんだかここまで綺麗だと腹が立ってくるな。

ギイィと鉄扉の開く音が聞こえる、誰か来客者が現れたようだ。

【羽子】
「あら、一条さん」

来客者は羽子さんだった、左手に本を持っているところから考えて読書をするつもりだったのだろう。

【羽子】
「お食事中にお邪魔してしまってすいません、私がいてはご迷惑でしょうか?」

【一条】
「とんでもないですよ、どうぞ」

【羽子】
「はい、失礼します」

俺の横にチョンと腰を下ろし、持っていた本を開いた。

【一条】
「……そうだ!」

【羽子】
「きゃ!」

【一条】
「あぁすいません」

【羽子】
「と、突然どうなさったんですか?」

そうだよ、こんな身近に頼れる人がいるじゃないか。

【一条】
「羽子さん、折り入って1つ教えて欲しいものあるんですけど」

【羽子】
「なんでしょうか? 私にできることでしたらお手伝いしますよ」

【一条】
「それじゃあの云いにくいことなんですが……料理を教えてもらえますか?」

【羽子】
「うぇ……りょ、料理……ですか?」

予想外の答えに驚きの声を上げる、普通教えて欲しいって云ったら勉強だよな……

【羽子】
「わ、私でなく姫崎さんに頼んだ方が……」

【一条】
「音々に頼むとおまけであいつがくっつくのでできません……」

【羽子】
「宮間さんですか……」

【一条】
「迷惑なのは承知の上です、ですが羽子さんしか頼れる人がいないんです」

【羽子】
「う、うぅーん……」

あごに軽く指を当てて思案するポーズを見せる、返事の早い羽子さんにしては珍しくうんうんと唸っている。

【羽子】
「……わかりました」

【一条】
「え、本当ですか?」

【羽子】
「その代わりです、1つだけ約束していただけますか?」

【一条】
「なんでしょうか?」

【羽子】
「遅刻しても授業はサボらない、これが条件です」

【一条】
「う……バレてるんですか?」

【羽子】
「当たり前です、屋上なんて静かな場所でオカリナを吹いていたら誰だって気が付きますよ」

やっぱりか、どうせ誰にも聞こえないと思っていたのは俺だけか……

【羽子】
「遅刻や欠席になろうとも、授業を受けれる状態であるのなら授業を受ける
学生として当然の心構えですよ」

【一条】
「肝に銘じておきます」

【羽子】
「銘じておくだけじゃなく、実行していただけるとありがたいんですけどね」

【一条】
「努力します、それでさっきの話ですけど、明日時間ありますか?」

【羽子】
「ええ、空いてますが…………もしかして明日ですか?!」

【一条】
「ちょうど休みですから、もっとも羽子さんが良いんならですが」

再びあごに指を当てて思案のポーズ、今度はさっきよりも唸る声が大きい。

【羽子】
「わ、わかりました、明日は時間も空いてますから」

【一条】
「ありがとうございます、それじゃあ何時にお邪魔したら良いですか?」

【羽子】
「ふぇ? もしかして私の部屋でやるんですか?」

【一条】
「教わる立場の人間が講師を呼びつけるわけにはいきませんから
材料とか指定してもらえれば買って行きますから心配しないでください」

【羽子】
「あ、ぁ、えぇっと……」

急に羽子さんの挙動が変になる、おろおろといった表現が適切ではないだろうか。

【羽子】
「ざ、材料などは私が買いますから、一条さんのお宅でやりましょう」

【一条】
「それだと羽子さんの負担が大きいじゃないですか」

【羽子】
「私のことは気になさらないでください、一応私の方が講師役なんですから
私の云うことを聞いてください!」

【一条】
「は、はぁ……」

おろおろした挙動は完全に威圧的な態度に変わっていた。
俺なんかまずいこと云ったかな?

……

その後、俺の家の住所と何時ごろに始めるのかを話し合った。
料理の話をしている間、羽子さんの挙動はどこか落ち着かないような不自然な物だった。

【羽子】
「……」

【一条】
「……羽子さん?」

【羽子】
「え……は、はい?」

【一条】
「なんか難しい顔してますよ、やっぱり迷惑でしたか?」

【羽子】
「い、いえ……そうではないんですけど……」

どう見てもそうではないって顔じゃないんだけどなぁ。

【羽子】
「あ、チャイムです」

【一条】
「そうですね、教室戻りますか」

【羽子】
「はい、午後の授業は居眠りをして過ごすなんてことはしないでくださいね」

【一条】
「はは……バレバレですね」

……

滞りなく進む午後の授業、羽子さんとの約束があったので一応起きてはいる。
とはいっても黒板の文字をノートに写すことはない、授業も聞いてはいるが聞いたそばから忘れていっている。

結局の所、起きているだけでそれ以外は何の変化もない……

【一条】
「ねむ……」

何も考えない頭に入る教師の言葉はちょっとした子守唄感覚。
しかも授業は異国語である英語、これはもう子守唄の次元を超えた一種の催眠術だ。

意識が飛んでカクンと頭が落ちると眼が覚める、さっきからこれの繰り返し。

【一条】
「……」

この授業のタイムリミットは後10分、後10分耐え切ればその後は放課だ。
がんばれ俺、負けるな……

……

【?】
「……さん」

【?】
「一条さん」

呼びかける声と体を揺する感覚、まるで揺り椅子のように心地良い小さな揺れだ……

【?】
「一条さん、起きてください、もう放課の時間ですよ」

【一条】
「んぁ……?」

【羽子】
「お早うございます、一条さん」

【一条】
「お早うございます……」

【羽子】
「もう教室に残っているのは一条さんだけですよ?」

【一条】
「…………は?」

教室の中を見渡してもそこに他の生徒の姿はなく、時計を見ると六時限目が終って30分はたとうかというところだった。

【一条】
「うわぁ……取り残されてる」

【羽子】
「あれだけ気持ちの良さそうな寝顔をしていれば起こすのもためらわれますよね……」

きっとあいつらに羽子さんのような考えはできないと思いますよ。
特に美織と廓のアホは……

【羽子】
「はぁ、あれだけ午後の授業は寝ないでくださいと云っておきましたのに……」

【一条】
「終了10分前まではちゃんと起きてましたよ」

【羽子】
「最後の10分だけでも寝てしまっては同じことです……」

やれやれといった感じで小さく肩を落とす。

【羽子】
「約束違反ですね、違反者には罰というのが世界の決まりごとですが」

【一条】
「どんな罰を下すんでしょうか?」

【羽子】
「そうですね、やはりここは古来より伝わる方法が一番良いかと」

【一条】
「それって……?」

にっこりと笑った羽子さんは軽く拳を握り、ハァと息を吹きかけた。

【一条】
「もしかしてゲンコツですか?」

【羽子】
「眼を閉じてください、開けたままだと怖いですよ?」

【一条】
「う……」

羽子さんの眼、笑ってはいるけどその裏にはなんとも云えない威圧感がある。
ここでこじれても困るので、云われるがままに眼を閉じた。

【羽子】
「素直ですね、それじゃいきますよ、せーの!」

思わず瞬間的に身を強張らせる、女の子のゲンコツとはいえ全く痛くないわけはない。
羽子さんが手加減してくれれば良いんだけど……

コツン

【一条】
「……ん?」

予想していた痛みとは程遠い、というか痛みなんて感じないほどの衝撃が額に走る。
眼を開けてみると、羽子さんの手の甲が視界に広がった。

【羽子】
「はい、罰終りましたよ」

さっきと同じ笑み、しかしそこにはさっきのような威圧感は微塵も感じられなかった。

【一条】
「それだけ……ですか?」

【羽子】
「勿論です、もしかして一条さんには私がすぐに手をあげるような女に見えますか?」

【一条】
「見えませんね、はぁ、一安心です」

【羽子】
「ふふ、私も一条さんに間違った認識を持たれずに一安心です」

【一条】
「ははは」

【羽子】
「ふふっ」

2人に自然と笑みがもれた、まさか羽子さんにこんな茶目っ気があるとはな……

……

【羽子】
「そこに必用なのは関係代名詞ですよ」

【一条】
「ああ、なるほど」

あの後すぐに帰ろうとしたのだが、羽子さんから英語の宿題を指摘された。
午後の最終授業であった英語は9割9部9厘上の空だったので、当然そんな話は聞いていなかった。

提出期限は来週の頭らしいが、俺ひとりで終わる可能性は限りなくゼロに近い数値だろう。
そんな訳で、今日も羽子さんの力を借りているわけだ。

【羽子】
「長文は1つ1つの短文に句切って、それぞれで解読すれば何も難しいことは無いんですよ
初めの一文、訳してみてください」

書かれていた一文は
『She did not understand whether by herself is who』

【一条】
「whetherから先が良くわからないんですけど……」

【羽子】
「ううん、確かにこの文章は少し分かり辛いですね、ですがこの文章こうも書けるんですよ」

『She did not understand who oneself was』

【一条】
「oneselfは『自分』だから、彼女は自分が誰なのか分からなかった?」

【羽子】
「はい、正解です」

羽子さんが分かりやすい単語にしてくれたおかげで何とか訳すことができた。

【羽子】
「この要領で1つずつ消化して、最後に1つの文章にまとめれば問題は解けてしまったも同然です」

【一条】
「まだまだ1人でそこまで行ける自信ないですけどね」

【羽子】
「後は反復練習と授業を真面目に聞くことです
特に一条さんの場合は後者の方が重要だと思われますよ」

【一条】
「これからは真面目に聞いて勉強してみますよ」

【羽子】
「ふふ、期待していますからね」

柔らかく微笑み、シャープペンシルの上部でコツンと眉間を押された。

【一条】
「?」

【羽子】
「眉間にしわ、よってますよ」

【一条】
「英語を真面目に考えたのも久しぶりですから、ちょっと疲れましたね」

【羽子】
「マスターのお店、よって帰りますか」

【一条】
「そうしますか、羽子さんに家の場所も教えないといけませんし」

【羽子】
「あぅ……」

羽子さんの表情がにわかに曇った、俺何か不味いこと云ったかな?

【一条】
「どうかしましたか?」

【羽子】
「あ、い、いえ……なんでもありません」

笑っていはいるんだけど、どこかぎこちない笑顔だった。

……

【一条】
「で、ここの角を曲がってすぐ目に付くアパートですから
そこの二階、一番奥の部屋が俺の借りている部屋になります」

最近はほぼ毎日聞いているお馴染みのバックミュージックを聴きながら、簡単な地図を描く。
あまり絵心があるわけでもないので、道路と目印になるものだけを簡潔に描いていく。

【一条】
「えっと、こんな説明ですけどわかりました?」

【羽子】
「大体は、後はその辺りに実際行って見ればきっとわかると思います」

【一条】
「……やっぱり俺が行きましょうか?」

俺はすでに羽子さんのアパートを知っている。
俺が買出しを済ませて羽子さんのアパートまで行く方が無駄は無いと思うんだけど……

【羽子】
「大丈夫です、私が行きますから心配しないでください」

【一条】
「羽子さんがそう云うなら良いですけど……」

【羽子】
「ですが一条さん、本当に私なんかで良いんですか……?」

【一条】
「羽子さんしか頼める人がいないんですよ、お願いします」

【羽子】
「頼っていただけるのは嬉しいですけど、私は……」

羽子さんが何かを云い淀み、言葉につまると、そのタイミングを待っていたかのようにマスターがお茶を運んでくる。

【男性】
「お待ちどう様、なにやら面白そうなお話をしているようですね」

【羽子】
「マスター、盗み聞きはあまり感心しませんよ」

【男性】
「これは失礼、だけど羽子ちゃんが男の子に料理をねえ……」

【羽子】
「マ、マスター! 用が済んだのなら下がって……そうだ、マスターに教えていただいたらどうですか?」

【男性】
「おや、私がですか……?」

【羽子】
「一条さん、私が教えるよりもマスターに教えていただいてはどうでしょうか?
マスターの料理の腕が優れているのは一条さんも知っていると思いますから、何の心配も無いと思いますが」

さっきまであまり乗り気でなかった羽子さんが急に口調を早めてまくしたてる。

【一条】
「ど、どうしたんですか急に?」

【男性】
「ふふ、相変わらずそういったところは変わっていませんね」

何か思い当たる節があるのか、マスターは口元に手を当てて含み笑いをした。

【羽子】
「よ、余計なことは云わなくて良いですから……」

【男性】
「私のお粗末な腕を褒めていただけるのは嬉しいですが、私はお断りしますよ」

【羽子】
「ど、どうしてですか、私よりもマスターの方が……」

【男性】
「だから、ですよ」

羽子さんが何かを云い終わる前に、マスターが横槍を入れて言葉を区切る。

【男性】
「私が教えたのでは意味が無いんですよ、彼にも、それから羽子ちゃんにもね」

【一条】
「……どういうことですか?」

【男性】
「それはそのときになればわかりますよ、ね、羽子ちゃん」

【羽子】
「う……」

【男性】
「それにね、私が出ていっては芽を摘み取りかねませんからね、ふふ、ごゆっくり」

後ろ手に小さく手を振り、マスターは奥へと引っ込んだ。

【一条】
「?」

【羽子】
「はぁ……ダメでしたか」

【一条】
「どうかしましたか?」

【羽子】
「い、いえ……なんでもないですよ」

両手を振り振りしてなんでもないと意思表示をするが、逆に不自然になってしまっている。
それに、さっきのマスターの台詞、あれは一体どういう意味なんだろうな?

……

【男性】
「またどうぞー」

店を出る頃には、空から赤みはほとんど消え、夜の色に侵食され始めていた。

【一条】
「もう夜も近いですね、送りますよ」

【羽子】
「……」

途中から羽子さんは口数が少なくなった、じっと下を向いて何かを考えるような仕草も見せていたっけ。
ちょうど今も俺の声は聞こえていないようだった。

【一条】
「羽子さん?」

【羽子】
「……え、は、はい、なんでしょう?」

【一条】
「さっきから考え事でもしてるようですけど、何か悩み事ですか?」

【羽子】
「あぁ……悩みといえば、悩みなのかもしれませんね」

ふうと小さく息を吐き、軽めに肩を落とした。

【一条】
「やっぱり明日の話は止めましょうか?」

【羽子】
「え?」

【一条】
「何か悩みがあるのに俺が無理に頼むの迷惑でしょうから
羽子さんがやっぱり嫌だというなら、この話は取り消してもらっても良いんですけど」

【羽子】
「いえ、嫌と云うわけではないんですけど……では、もう一度聞いておきますね
本当に、本当に私なんかに頼んでよろしいんですか?」

【一条】
「羽子さんしか頼れる人がいないんです、お願いします」

【羽子】
「わかりました、そこまで頼りにしていただけるのであれば、お受けします
ですが……期待はなさらないでくださいね」

【一条】
「羽子さんにしてはご謙遜ですね」

【羽子】
「してはってどういうことですか、それでは私はいつも自信家のように聞こえるじゃないですか」

【一条】
「そうはいいませんけど、羽子さんっていつも自分の意見に自信を持って主張していますから
俺もそんなふうに、自分に自信を持てるようになりたいですよ」

【羽子】
「……自身なんて、持たない方が良いんですよ」

消え入りそうな声で、羽子さんはポツリと呟いた。

【一条】
「……それって、どういう……」

【羽子】
「一条さん、ここでもう結構ですよ」

どういうことかと聞こうとしたが、羽子さんはいつものキリリとした笑みを見せた。

【羽子】
「いつも私のようなつまらない女に付き添っていただいてありがとうございます」

【一条】
「いえいえ、俺はいつも楽しんでいるから心配しないでください
それに、俺は羽子さんがつまらない女だとは思いませんよ」

【羽子】
「ふふ、ありがとうございます……それではまた明日、ごきげんよう」

軽く頭を垂れ、いつもの挨拶を交わしてひとり歩き出す。
ピンと背筋を伸ばした美しいシルエットが街灯に照らされて浮かび上がった。

【一条】
「……」

徐々に小さくなる美しいシルエットを見つめながら、羽子さんの言葉に思いをはせるも
当人でない俺には、納得のいく意味合いなんて思い浮かぶはずも無かった。

【一条】
「帰ろうか……」

明日が休みということもあってか、いつもよりも帰り道は少しだけ賑やかだった。





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