【4月19日(土)】


じりじりと目覚まし時計が朝の到来を告げる。
半分以上意識の無い体に伝達を送り、右腕を音の鳴る方へ伸ばす。

音の発生源を探し、冷たい金属の感触が肌に触れたことで、それが目覚ましということを頭は理解する。

【一条】
「ん……ん……」

指に神経を集中し、音を止めようとするも中々音が止まらない。
まだ覚醒しきっていない体に思考という物は存在しない、標的が自分にとって害であるか否かだけ。

俺の睡眠を妨害するこの音は、紛れもなく害である。

【一条】
「……ムカ」

指から腕に神経の集中を移し、音の発生源を掴んで思いっきり下に叩きつける。
ガチャンと音がした後、音はぷっつりと止んでしまった。

やれやれ、これでやっと煩いのがいなくなったよ……

……

【一条】
「しくしく……」

玄関に立てかけてあったワンコインの箒を手に、散らばった残骸をかき集めている。
ボルトやらナットやら、何らかのスプリングまでもがまるで内部爆発でもしたようにその辺に散らばっていた。

時計の部分なんて、正面のプラスチック板に蜘蛛の巣模様のひびが入り、ほとんど見えなくなっていた。

何故このようになったのか、考えることさえ馬鹿らしくなってくる……

俺が煩いから叩きつけて壊した、単純明快これである。

【一条】
「まったく、自分の思考回路に腹が立つ……」

眼が覚めたのは十一時、気持ちの良い目覚めを迎えたのだけど、ベッドの下には崩壊した目覚まし。
一瞬状況が飲み込めなかったけど、すぐに何があったのかを思い出した。

【一条】
「手を伸ばして、掴んで、叩きつけて……俺か!」

とまあこんな感じで気持ちの良い目覚めはぶち壊されたわけだ。

【一条】
「とほほ、無駄な出費だよ……」

時計一個買うにしても安くないのに、俺はなんでそこまで思考が回らないんだ。
……あ、寝惚けてたからか。

【一条】
「ひとっ走り時計でも買いに……」

行こうと思ったが、ふっと頭をよぎったのはある約束。
そういえば、今日は羽子さんに料理を教えてもらう約束をしていたっけ。

時計を買いに行っている間に羽子さんが来たら、待たせることになる。
俺が頼んでおきながら、頼んだ相手を待たせるような無礼はしたくない。

というわけで、時計を買いに行くのはまた後にしよう。

【一条】
「ついでだ、部屋の掃除でもしようか」

掃除機のコードを乱雑に伸ばし、電源を入れると、本当に動いているのかというほどに音がしなかった。
へぇ、最近の掃除機って騒音対策もできてるんだ。

……

ピンポーン

【一条】
「んあ?」

はたきの柄を口にくわえ、窓拭きをしている後ろからチャイムの呼び出し音。

【一条】
「はいはい」

お呼びを受け、玄関の扉を開けると、予想通り羽子さんの姿があった。

【羽子】
「こんちには、一条……さん?」

語尾が僅かに音色を変え、疑問を示すような口調に変わっていた?

【一条】
「?」

【羽子】
「あの……どうしたんですか? はたきなんかくわえて?」

あ、そういえばそうだった、俺まだはたきをくわえたままだった。
扉を開けて、いきなりはたきなんかくわえてたらそりゃ疑問系にもなるか。

【一条】
「あ、すいません、今ちょっと掃除をしていたものですから」

【羽子】
「ああ、ですからはたきを……」

【一条】
「驚かせてしまってすいません、あまりきれいとは云えませんが、どうぞ」

【羽子】
「はい、お邪魔させていただきます」

フローリングに軽く腰を下ろし、丁寧に靴を脱ぎ揃える。
普段のお客にはまず見られない行動も、相手が羽子さんだと妙に納得してしまう。

【羽子】
「うん…………」

羽子さんが小さく声を上げ、買ってきたものであろう袋を持ち上げる。
普通は気が付くところなんだろうけど、俺は相変わらず気がきかない。

【一条】
「それは俺が持ちますよ」

【羽子】
「そうですか……では、お願いします」

【一条】
「よっ……おっと」

受け取った買い物袋の予想外の重さに、少々間の抜けた声が出てしまった。
男の俺でもこれはちょっと重く感じる、ということは、女の子である羽子さんには相当重かったのではないだろうか?

【一条】
「羽子さん、重くなかったですか?」

【羽子】
「ええと……少しだけ」

【一条】
「嘘つきましたね」

【羽子】
「……」

【一条】
「連絡もらえれば俺が迎えに行ったのに」

【羽子】
「ですが、それでは一条さんに迷惑がかかりますから」

【一条】
「あのですね、俺はもう羽子さんに十分な迷惑をかけているんですから
そのお返し感覚でこき使ってもらって構わないですよ」

【羽子】
「うーん、そういう考え方はあまり好きではないです」

そう云われるともう何も返せない、これが性格の違いという奴なんだろう。
しかしさっきから気になっていたけど、この買い物袋……

【一条】
「これって量多すぎませんか?」

【羽子】
「お、多くても損はしませんよ、きっと……それに、多い方が……」

【一条】
「損はしないでしょうけど」

確かに俺は損をしていない、だけど羽子さんには損が生まれてしまっているわけだ。
羽子さんにとっては、できるだけ量は少ない方が良いはずなのにな。

【一条】
「何を作るつもりだったんですか?」

【羽子】
「か、カレーライス……」

【一条】
「カレーライス?」

まさか羽子さんの口からカレーライスを作る、と云われるとは思ってなかったので面食らってしまった。
だけどカレーにしてもこの量は……

【一条】
「何カレーにするつもりだったんですか?」

【羽子】
「と、とりあえず考えられる物をいろいろと買ってみたんですけれど……何が良いですか?」

【一条】
「特にこれが一番いいって云うのも無いですからね」

【羽子】
「少しずつ、全部入れてみますか……?」

【一条】
「闇カレーでも作るつもりですか」

透けた袋から見えるだけでも、明らかにカレーには合わないだろうと思われる物がいくつか見える。
……カレーに魚の干し物や大根なんて入れますか?

【羽子】
「ノーマルか魚介が妥当な所だと思いますけど」

【一条】
「一般で作るようなノーマルな奴でいいですよ」

【羽子】
「わ、わかりました……」

大きな買い物袋をゴソゴソあさり、肉と各種野菜を選別していく。
肉、ジャガイモ、玉葱、人参……そんなところだろう。

【羽子】
「あんまり期待しないでくださいね」

……

【羽子】
「……むぅ」

小さく唸りを上げる羽子さんの手には左にジャガイモ、右には包丁が握られている。
今はジャガイモの芽をとろうとしているのだが、中々上手くとれないようだ。

【一条】
「俺がやりましょうか?」

【羽子】
「いえ、これくらい私で処理しますから」

きっと俺の家の包丁は使いづらいのだろう、元々何も考えずにワンコインショップで買ってきたものだ。
機能性よりも値段第一で選んだのだから、慣れてる人には使いづらくて当然か。

眉間に小さなしわを寄せ、真剣な表情でジャガイモと格闘すること20分ほど。
ジャガイモの芽は取り除かれ、周りの皮もこそげ落とされた。

【羽子】
「一条さん、これを適当な大きさに割っておいてください」

【一条】
「適当って云われても、口に入るくらいで良いですか?」

【羽子】
「良いと思いますよ、次は……人参」

【一条】
「どうしました? 人参持って止まってますけど?」

【羽子】
「い、いえ、なんでもないです」

人参の尻尾と頭を切り落とし、本体を三等分し、皮むきにかかる。
人参を軸に、周りの皮をくるくると包丁でむいていくことは高等技術らしいが
きっと羽子さんなら難なくやってのけるだろう。

【羽子】
「うぅ……」

また小さな唸り、包丁が大きいのか、あまり上手くむけているとは思えなかった。

【羽子】
「申し訳ありません、上手くむけなくて……」

【一条】
「そんなこと気になりませんよ、俺にはそんなことさえできませんから」

【羽子】
「……一条さんは、女の子は料理ができて当然だと思いますか?」

【一条】
「一概には云えないんじゃないですかね、美織の奴が料理上手いっていうのは意外でしたけど」

【羽子】
「……」

【一条】
「羽子さん?」

【羽子】
「あ、すいません……これもまた適当な大きさに
一条さん、お肉も同じように適当な大きさに切っておいてください」

【一条】
「わかりました」

どうしたんだろう? さっきから羽子さんの手が止まることが多い。
肉を切りながらちらりと羽子さんの様子を伺うと、包丁の進みが遅かった。
それに、なんだか包丁が震えているような……

【羽子】
「一条さん、余所見をしていると手を傷つけますよ」

【一条】
「……羽子さん、包丁震えてませんか?」

【羽子】
「いつ!」

小さな悲鳴が上がり、羽子さんの手から包丁が離れた。

【一条】
「羽子さん! 大丈夫ですか?」

【羽子】
「あ、大丈夫です、ちょっと切ってしまっただけですから……」

【一条】
「消毒するものもってきますから」

【羽子】
「お手数かけます……」

……

【一条】
「指、見せてください」

おずおずと差し出された羽子さんの指はとても白く、ほっそりとしなやかな綺麗な指をしていた。
そんな白い指に、赤い切り傷は酷く不調和に見えた。

【一条】
「沁みると思いますけど、我慢してくださいね」

ガーゼに消毒液を染み込ませ、傷口を軽く叩くように消毒を施す。

【羽子】
「っ……」

【一条】
「我慢ですよ我慢、膏薬は使いますか?」

【羽子】
「いえ、もう結構です、大した傷でもありませんから」

【一条】
「俺もよかったですよ、傷が深くなくて」

【羽子】
「……」

傷口をまじまじと見つめ、少しだけ表情を曇らせた。

【一条】
「もしかして羽子さん……料理苦手ですか?」

【羽子】
「……」

返答は帰ってこない、しかしこの無言が何よりの真実だった。

【一条】
「そっか、そうだったんですね」

【羽子】
「……申し訳ありません、一条さんを騙していました」

【一条】
「騙すってほどのことじゃないと思いますよ、それに、俺が勝手にできるものだと思ってしまっていたんですから」

【羽子】
「それは、はっきりと云わなかった私の落ち度です、私がはっきりと云っていれば」

【一条】
「確認を怠った俺のミスもあると思いますよ」

【羽子】
「一条さんのは私の嘘から発生した副産物です、元凶は私にあるんですから」

【一条】
「まあまあ、そんなことはどうでも良いじゃないですか」

【羽子】
「良くはありません、今回のことで私は一条さんとの信用を壊してしまったんですから
何か償いをして、もう一度一条さんとの信用を修復しないと」

【一条】
「そんなオーバーな……」

俺はこれといって何も感じてはいないが、羽子さんにとっては違うらしい。
自らの嘘で信用関係を壊してしまった、そんな大きなことを考えているようだ。

【羽子】
「私にできることなら、どんな償いでもさせていただきます」

【一条】
「いや、良いですよそんな」

【羽子】
「一条さんは良くても、それでは私が納得できないんです」

【一条】
「よ、弱ったな……」

羽子さんの性格はもうほとんど知っている、ここで俺が何を云っても羽子さんの主張は変わらないだろう。
自分のミスにはそれ相応の償いを行い、物事に決着をつける。
言葉は悪いかもしれないが、強情なまでの完全主義が羽子さんの性格なのだ。

【一条】
「……本当に何でも良いんですか?」

【羽子】
「私にできることでしたら」

【一条】
「うぅん……それじゃあ、眼を閉じておいてもらえますか」

コクンと頷き、羽子さんの眼が閉じられた。

【羽子】
「あの、これから何をなさるんですか?」

【一条】
「前の羽子さんと同じことですよ、眼を開けると怖いと思いますから瞑ったままでいてくださいね」

指の関節をポキポキと鳴らす、何をするのか感じ取った羽子さんの肩がピクリと跳ねた。

【一条】
「行きますよ、せーの!」

【羽子】
「ん……」

……テシ

声だけは威勢が良かったものの、実際にやったことは指で軽く額を小突いただけ。

【羽子】
「んぅ……」

【一条】
「これでお相子ですね、羽子さん」

【羽子】
「あの……これだけなんですか?」

【一条】
「そうですよ、ご不満ですか?」

【羽子】
「不満など勿論無いですけど、こんなことでよろしいんですか?」

【一条】
「羽子さんには色々と見逃してもらったりもしていますから、これで良いじゃないですか」

【羽子】
「……ありがとうございます」

いつも羽子さんの笑みではなく、とても歳相応で可愛らしい笑みを見せた。

【一条】
「お、可愛い顔で笑いますね」

【羽子】
「え、や、やだ、恥ずかしい……」

今度は軽く顔を赤らめ、顔を合わせないようにそっぽを向いた。
人が大勢いる学校ではとても見れない、いつも2人きりのときに羽子さんはこんな顔をするな……

【一条】
「さてと、羽子さんの嘘も解決したことだし、料理どうしましょう?」

【羽子】
「材料も買ってあるんですから、頑張って作りましょう」

【一条】
「そうですね、お互いあまり得意でないもの同士、頑張りますか」

……

【羽子】
「ここまで来れば、後はコトコト煮るだけですね」

2人とも慣れない包丁使いで材料を切り、慣れない手つきでフライパンを振り、慣れない火加減水加減調節を行いながら
なんとかほぼ完成に近づくことができた。

慣れた人がやれば1時間とかからないんだろうけど、俺たちは約倍の時間を費やしてしまった。
だけど、慣れないものが2人揃うと結構なんとかなるもんだな。

【一条】
「はぁ、なんかどっと疲れましたね」

【羽子】
「私もですよ」

【一条】
「まさかカレー作るだけでここまで疲れるとは」

【羽子】
「料理人の人って凄いですね、毎日毎日朝から夜遅くまで厨房に立ちっぱなしで料理を作って
今まで何気無くしか見ていませんでしたけど、これからは尊敬をしていかないといけませんね」

【一条】
「まったくですね、だけどちょっと意外でした、羽子さんが俺と同じく料理苦手だったとは」

【羽子】
「実家では料理をすることはありませんでしたから、一人暮らしをしても料理は外食で済ませることがほとんど
包丁を握ったのだって、今回が本当に久しぶりだったんですよ」

【一条】
「そうなんですか、あ、だから昨日マスターにあんなことを」

【羽子】
「はい、マスターなら一条さんに丁寧に教えていただけると思ったんですけど
断られちゃいましたからね」

【一条】
「ということは、マスターは羽子さんが料理が苦手なことを?」

【羽子】
「当然、知っていましたよ」

知っていながらあえて羽子さんに料理をやらせたんだ、そういえばこんなことも云ってたっけ。

……

【男性】
「私が教えたのでは意味が無いんですよ、彼にも、それから羽子ちゃんにもね」

【男性】
「それにね、私が出ていっては芽を摘み取りかねませんからね、ふふ、ごゆっくり」

……

これはつまり、これを機に羽子さんにも料理を勉強してもらいたいという、マスターの心遣いだったのだろう。
だけど、だったら俺たち2人をマスターが教えてくれれば早かったのじゃないだろうか?
あえてそうしなかったのには、マスターの何らかの意図でもあるのだろうか?

【一条】
「……」

【羽子】
「一条さん?」

【一条】
「え、はい?」

【羽子】
「なんだか難しい顔をなさっていますよ、何か問題でもありますか?」

【一条】
「……いえ、なんでもないですよ」

【羽子】
「そうですか、あ、そろそろ煮込みあがる頃合いだと思いますよ」

トテトテと鍋の元に走りより、軽く蓋を開けて中を確認する。

【羽子】
「……うぅん、できているのでしょうか?」

【一条】
「なんだか怖いですね……」

鍋の中には、ぼこぼこと気泡を上げるカレーソースが煮えていた。
沸き上がる気泡がまるで地方温泉のようだ。

【羽子】
「食べられるでしょうか?」

【一条】
「死にはしないと思いますけど……」

2人とも味には自身が無い、まるでお互いが次の行動を牽制しあっているようだ。
一体どっちが味見をするべきか……

そう考えていると、羽子さんが小皿にカレーを一口分掬い上げた。
そのまま羽子さんが味見をするのかと思ったけど……

【羽子】
「はい、一条さん」

【一条】
「え……俺?」

【羽子】
「はい」

うぅ、そんななんの裏もなさそうな笑顔で云われるともう何も返せない。
ここは潔く、俺が毒味……もとい、味見をしなくちゃならなそうだ。

【一条】
「……」

大丈夫だ、人が食べておかしくなるようなものは何も入っていないはずだ。
最悪、お腹痛くなる程度で終ってくれるだろう、匂いも普通のカレーの匂いだし。

しかしだ、もしかしたら色々入れた物が中で化学反応を起こして害を与えるまでになっている可能性も。
食い合わせによっては生命の危機に陥るものもあるわけだし……

【羽子】
「……いや……ですか?」

あ、そんな眼で見られたらもう俺に拒否することなんてできませんよ……

【一条】
「ん!……」

【羽子】
「あ…………」

【一条】
「……」

【羽子】
「大丈夫……ですか?」

その科白は無いんじゃないですか……

【一条】
「……結構旨いですよ」

【羽子】
「え、本当ですか?」

不安顔だった羽子さんの顔が、今度は驚きの顔に変わっていた。
表情からはまだ少し、信じられないような感じが見て取れた。

【一条】
「羽子さん、料理は苦手なんて云ってますけど、味は良いじゃないですか」

【羽子】
「嘘、ついていませんよね?」

【一条】
「嘘ついてどうなるんですか、羽子さんも一口」

今度は俺が小皿に一口分のカレーを取り分ける。
小皿を受け取った羽子さんは、まず香りを確かめた。

【羽子】
「香りは、悪くないですね……」

【一条】
「味も悪くないですから」

【羽子】
「んぅ……あ……美味しいです」

驚くというよりも、ポカンと口を開けたまましばらく何かを考えているようだった。

【羽子】
「悪くないですね」

考えがまとまったのか、羽子さんは表情を笑みに変えた。

【一条】
「でしょう、それじゃ、遅くなっちゃいましたけど昼ごはんにしますか」

【羽子】
「はい」

……

午後3時過ぎの昼ごはんも終わり、今は2人で後片付け。

【一条】
「だいぶありますね、これ」

【羽子】
「2人で食べる分よりかなり多い量になってしまいましたから……」

鍋を開けてみると、中にはまだまだ大量のカレーが残されていた。
目分量で測量すると、後4食はこれでもちそうな感じかな。

【一条】
「カレーは俺が食べれますけど、残った材料はどうしましょう」

【羽子】
「私は持って帰っても、自分では料理できないですから、一条さんに」

【一条】
「それは俺も全く同じですよ」

野菜はともかくとして、肉魚の類は俺には到底扱える物ではない。
しかもこんなにたくさん、家においておいても腐らせるだけになる……

【一条】
「……2人でどうにか料理しますか?」

【羽子】
「実力以上のものは材料の無駄にしかならないと思いますよ」

【一条】
「ですよね、それじゃあここは購入者である羽子さんが……」

【羽子】
「い、いえ、これは一条さんのために買ってきたんですから一条さんに……」

【一条】
「羽子さんが……」

【羽子】
「一条さんが……」

2人ともいらないいらないのキャッチボール、これじゃらちがあかない。

【一条】
「ここは、仲良く半分ずつ処理しますか?」

【羽子】
「……それが良いかもしれませんね、はぁ、誰か料理してくれるような人がいれば良いのに……あ」

何かを閃いたのか、羽子さんの動きがピタリと止まった。

【羽子】
「そうですよ、そうすれば良かったんですよ」

【一条】
「あの、1人で頷かれても困りますよ」

【羽子】
「時に一条さん、お夕飯のことは何か考えてありますか?」

【一条】
「夕飯? いや、まだ何も考えてはいないですけど、夕飯が何か?」

【羽子】
「ですから、この材料を……」

……

【羽子】
「今晩はー」

古風な扉を開けると、店内からはいつもと同じようなレトロミュージックがもれ出した。

【男性】
「おや、いらっしゃい」

店の中に客の姿は無く、マスターが1人、カウンター席で珈琲を飲んでいた。

【羽子】
「あ、経営者がお客様と同じところにいて良いんですか?」

【男性】
「他店は他店、私は私だよ、それよりも今日はどうしたんだい?
てっきり一条君のところに行っていると思ったのに」

【一条】
「俺もいますよ」

【男性】
「おやおや、これはこれは」

2人の登場がよほど予想外だったのか、マスターは言葉をくり返すだけだった。

【羽子】
「もうお夕飯の時間帯なのに、こんな感じでよく経営できますね」

【男性】
「経営者にもわからない大きな謎だね、それは」

羽子さんの軽い皮肉にも、サラッと笑顔で流してしまった。

【男性】
「で、こんな夕食時に私の店に何の用かな?」

【羽子】
「勿論、マスターの料理を食べに来たんですよ、これお土産です」

羽子さんはニッコリ笑い、マスターに大きな袋を差し出した。

【男性】
「ほう……肉魚野菜、なんでもそろってるね」

【羽子】
「はい、そこでお願いなんですけど、それで料理してもらえませんか」

【男性】
「これだけ揃ってればいろいろとできるけど、良いのかい?
本来なら、羽子ちゃんが彼に作ってあげる予定だったんじゃ?」

【羽子】
「それはもう達成されましたから、私はもうお役ごめんです
ですよね、一条さん?」

【一条】
「そういうことみたいです」

【男性】
「ふふ、何か色々とあったみたいだね、まあそれは後で伺うとして
何かリクエストはありますか? 和洋中なんでもいけますよ」

【羽子】
「マスターのお任せでお願いします」

【男性】
「かしこまりました、お客ももう羽子ちゃんたちで閉めてしまおうか」

OPENとなっていた掛札が、CLOSEへと変えられた。

【男性】
「本日はお2人の貸切ですよ、さて、何を作りましょうかね?」

材料が大量に入った袋を持って、マスターは厨房へと消えた。

【羽子】
「材料、無駄にならなくて済みそうですね」

予定どおり事が進み、満足しているのか羽子さんは小さく微笑んだ。
羽子さんが考えた作戦とは、材料をマスターの所で料理してもらうということだった。
確かに、これなら一切の無駄が無く、俺たちは旨い料理にありつける。

なんで俺はここまで考えが回らなかったかな……

【男性】
「たまには2人ともカウンター席で食べませんか? サービスしますよ?」

【一条】
「どうしますか?」

【羽子】
「折角のマスターのご好意ですから、喜んで受け取りましょう」

俺たちはいつもの一番奥の席ではなく、厨房の中をうかがえるカウンター席に腰を下ろした。

【男性】
「それで一条君、羽子ちゃんの料理はどうでしたか?」

【一条】
「えぇっとですね……食べられる物ができましたよ」

【羽子】
「一条さん、それ酷くないですか……?」

【男性】
「ははは、ですが食べられる物ができたのなら良かったじゃないですか。
何でもできるように見えて、羽子ちゃんは結構苦手な物が多いですからね」

【羽子】
「マスター、いつもいつも一言多いですよ」

【男性】
「まあまあ硬いことは云わず、で、初めて男の子に料理を作ってあげた感想はどうですか?」

【羽子】
「……りょ、料理って難しいなって」

【男性】
「そうですか、ふふ、ははは」

【羽子】
「あうぅ……」

マスターと羽子さんの間で何かが交わされたのであろう、羽子さんは顔を赤らめて視線を下へと落としてしまった。

【一条】
「あの、羽子さん?」

【羽子】
「え? は、はい! なんでしょう?」

【一条】
「今度2人でマスターに料理習いますか?」

【羽子】
「そうですね……私も今でこそ大丈夫ですが、料理ができて損をすることは無いでしょうからね。
それに……」

【一条】
「それに?」

【羽子】
「え? い、いえ! なんでもないですよ」

無理矢理に笑顔を作って顔の前で両手をフリフリ、顔が僅かに赤らまっているからなんでもないことはないのだろう。
だけど前から思ってたけど、普段冷静でキリリとした羽子さんが顔の前で両手を振るような子供みたいな仕草をすると結構……

【羽子】
「あの、一条さん? どうかなさいましたか?」

【一条】
「へ? あ、いや、なんでも」

なんだなんだ、俺まで羽子さんと同じになってるじゃないか。

【男性】
「2人とも若いねえ、そうやって少しずつ気がついていくものなんだよ」

【羽子】
「ま、マスター!」

【一条】
「えっと、何がですか?」

さっきみたいに顔を少し赤くして怒る羽子さんとは対照的に、俺は頭の上に疑問符を浮かべていた。

【男性】
「ふふ、一条君も近いうちに気が付くと思いますよ」

わからないなぁ、俺が一体何に気がつくって云うのだろうか?
羽子さんはなんとなくそれがなんだかわかっているようだけど……

……

【羽子】
「ごちそうさまでした」

【一条】
「いきなり押しかけてすいませんでした」

【男性】
「いえいえ、お客様の注文に応じて料理を作ることが料理人の務めですから。
もう外も暗いですから、後は一条君にお任せしますよ」

マンスターはぽんぽんと肩を叩くと、目じりに皺を寄せた笑みを見せて店の中へと消えていった。
ようは送っていけということだよな。

【一条】
「今日も送らせてもらっても良いですか?」

【羽子】
「ふふ、変わった聞き方をなさるんですね、それでは今回も一条さんに甘えさせていただきます」

羽子さんと2人並んで夜の帳が落ち始め、街頭の光が煌々と灯る世界を歩き始めた。

【一条】
「今日は色々とありがとうございました」

【羽子】
「お礼を云いたいのは私も同じです、私からも、今日はとても充実した1日でした、ありがとうございます」

【一条】
「充実って、俺が厄介ごとを押し付けただけな気がしますが?」

【羽子】
「それでも良いんですよ、私は今日みたいに誰かと一緒に過ごすことは殆どありませんから」

誰かと過ごすことはない、もう結構前から気にはなっていたけどやっぱりそうなのだろうか……

【一条】
「羽子さん、連日で申し訳ないんですけど明日は暇ですか?」

【羽子】
「特にこれといって急ぎの用事は、読書か勉強ぐらいしかすることもありませんから時間は空いていますよ」

【一条】
「明日ちょっと俺に付き合ってくれませんか?
買い物に出かけたいんですが、なにぶん土地勘が全く無いので……」

【羽子】
「そういうことでしたらお手伝いできますけど、私で良いんですか?
姫崎さんや宮間さんと行かれる方が色々と楽しいお店なども見つかると思いますけど」

【一条】
「美織は賑やか過ぎるのでちょっと、かといって音々を誘った場合もれなく美織が付いてくるんです……」

【羽子】
「あの人はそういった賑やかなことが人一倍好きですからね、そうなると消去法で残りは私と」

【一条】
「消去法と云うわけでは」

初めから羽子さんと決めていたんだけど、羽子さんはどうしてそう自分を下に見ようとするのだろうか?

【羽子】
「構いませんよ、お2人のように楽しませることができるかはわかりませんが
街を案内する程度でしたら私でも教えられると思いますし」

【一条】
「それでなんですけどね、電車で1つか2つ先の街に行きたいんですけど」

【羽子】
「その辺りの街でしたら問題はありませんけど、この街では何か問題でも?」

【一条】
「この街だと美織にみつかる可能性があるじゃないですか。
あいつに見つかるとやいのやいの云われますからあんまり……」

【羽子】
「……それも、そうかもしれませんね。
わかりました、では念を入れて2つ先の街にしますね、待ち合わせは駅でよろしいですか?」

【一条】
「大丈夫です、すいませんね連日付き合ってもらっちゃって」

【羽子】
「いえ、それではまた明日遅刻はしないでくださいね、ごきげんよう」

軽く手を上げ、微笑を見せた羽子さんの顔が街灯の明かりによって映し出される。
街灯に照らされた羽子さんの後姿が見えなくなるの確認し、俺も自分のアパートへの帰路につく。

【一条】
「さてと、後は俺が上手く動かなくちゃいけないんだよな……」

全く買い物に出かける必要なんか無いのだけど、何でも良いから口実が欲しかった。
そのために随分と美織を悪者にしてしまったな、今度パンでも奢ってやるか。

今日は俺のために羽子さんの時間を使わせてしまった。
だから明日は、俺ではなく羽子さんのために、時間を楽しんでもらおう。





〜 N E X T 〜

〜 B A C K 〜

〜 T O P 〜