【5月10日(土)】


【羽子】
「あ、こっちですよー」

駅につくと俺を発見した羽子さんが手を上げて合図をしてくれた。
まだ待ち合わせの時間には幾分か早いのだけど、やっぱり今日も早く来てたんだ。

【一条】
「すいません、待たせてしまいましたか?」

【羽子】
「いえ、私も先ほど来たばかりですから。
ですがまだ待ち合わせには30分以上ありますよ、せっかちさんですね」

【一条】
「それは俺よりも早く来ていた羽子さんにも当てはまると思いますけど?」

【羽子】
「それもそうですね、2人ともせっかちみたいですね」

2人そろって同時に笑みが漏れた、変わったところで俺たちって似た者同士だな。

……

前と同じ電車に乗り、前と同じ駅で降りる。
変わったところといえば俺たちの関係が、かな。

【一条】
「さてと、今日は羽子さんのわがままに1日付き合うということになっていますから、好きなところにどうぞ」

【羽子】
「私のわがままというのはちょっと語弊がありますよ。
私は別に2人でゆっくりできればそれで良いんですから」

【一条】
「だけどここに誘ったってことはどこか行きたい場所があるんじゃないんですか?」

【羽子】
「ぅ、鋭いですね……確かにここに誘ったんですからそれ相応の理由があって然りですよね。
でもまだ大丈夫です、今日の終わりに行かせてもらえればそれで十分ですから」

【一条】
「そうなんですか?」

【羽子】
「はい、それよりも一条さんが行きたいところに行ってください。
ここ最近勉強詰めでしたから、鬱憤が溜まってるんじゃないんですか?」

【一条】
「うぅん……それほどでもないですかね」

俺の言葉に羽子さんが大きく眼を見開いた、なんかよほど意外って感じだ。

【一条】
「心底驚いたって顔してますね」

【羽子】
「あ、いえその、ちょっと意外だったものですから。
初めのころはあんなに嫌がっていましたから、ストレスも溜まるんじゃないかなと思ったんですが」

【一条】
「そりゃまあ勉強はストレスが溜まりますね」

【羽子】
「ではどうして?」

【一条】
「わかりませんか? 教室の中で集まって勉強するのと、羽子さんの部屋で2人で勉強するのは違うってことですよ。
好きな人と一緒ならそこまで苦にならないですからね」

【羽子】
「そんな恥ずかしいことを正面きって云わないでくださいよ……」

頬を紅潮させ、視線を横へ逸らせて俺と眼が合わないようにされた。

【一条】
「照れてるんですか? なんだかそうやって照れる羽子さんって可愛いですね」

【羽子】
「もう、本当にずるいんですから……」

【一条】
「拗ねないでくださいよ。 でも行きたいところに行っても良いと云うのなら」

やっぱり最初はあれかな……

……

ガシャン!!

【羽子】
「ひぅ!!」

大音響で響き渡るガラスの決壊音に羽子さんが短く悲鳴を漏らす。

【一条】
「怖いですか?」

【羽子】
「怖い、です……」

スクリーンの中では大型のナイフを持った怪人が執拗に女性を追い掛け回している。
今日入った新作のホラー映画らしいのだけど、結構良く作りこまれているな。

【羽子】
「も、もぅ、どうしてまたホラー映画なんか……」

【一条】
「もう1回羽子さんが怖がるのが見てみたかったものですから」

【羽子】
「意地悪しないでくださ、ひゃう!」

要所に散りばめられた恐怖ポイント1つ1つ全部に対して悲鳴であったり身体の震えであったりで反応を見せる。
ここまでホラー映画を怖がる子も珍しいかも。

【羽子】
「うぅぅぅ……もう帰りたいです……」

【一条】
「まだ始まって間もないですよ、あと1時間以上は我慢ですね」

【羽子】
「そんなぁ……私が怖いの苦手なの知ってるくせに、一条さんの莫迦……」

【一条】
「はは、すいませんでした」

【羽子】
「もぅ、全然そんなこと思っていないくせに……」

弱々しく文句を云いながらもスクリーンから眼を放すことはない、ちょっとは慣れてきてるのかな?

【羽子】
「……」

羽子さんの手が何かを探すように俺の腕の辺りを行ったり来たり。
ようやく目的の場所が見つかったのか、羽子さんの手が俺の手をしっかりと握り締めた。

【羽子】
「映画が終るまで、このままでいさせてくださいね……」

【一条】
「ええ、良いですよ」

しっとりと汗が滲み始めた羽子さんの手を俺もぎゅっと握り返し、少しでも羽子さんの不安の解消させてあげる。
元々こんな映画を選ばなければこんなことをしなくても良かったんだけど、まあそれは俺のちょっとした意地悪ということで。

……

【羽子】
「あふうぅ……」

【一条】
「すっかり消沈気味ですね、やっぱりまだ慣れませんか?」

【羽子】
「何度見ても駄目ですね、一条さんが云い出さなかったら2度と見ることも無いと思っていたのに。
大体あんなふうに人の恐怖心を煽るような過剰な演出を映画にする意味がわかりません」

【一条】
「ホラー映画は結構需要がありますからね」

【羽子】
「嘘です、あんな怖いだけの物がどうして需要があるんですか」

【一条】
「映画の中でしかできないから、じゃないですか?
羽子さんだってあんな怪物にナイフ持って追い回されたら嫌ですよね?」

【羽子】
「当たり前じゃないですか、どこにナイフで追いかけ回されて喜ぶ人がいるんですか」

【一条】
「ですよね、そういったところにスリルなんかを求めてできたのがああいった映画なんじゃないんですかね。
もっとも、羽子さんのように苦手な人には信じがたいことかもしれないですが」

【羽子】
「……人間って愚かです」

うわ、完全否定だよ、まあそれも羽子さんらしくて良いけどさ。

【羽子】
「一条さんもそっち派の人なんですか?」

【一条】
「俺は別に、暇があれば見る程度でほとんどああいったのは見ないですね、耳が痛いじゃないですか」

【羽子】
「でしたら、もし今度また私と見ることがあれば、その時はああいったのではないのを選んでください。
面白半分とか、ましてや私の怖がるのを見たいからっていうのは止めてくださいね……」

【一条】
「羽子さんが怖がるのを見ているととても和むんですけどね」

【羽子】
「もう、一条さん!」

ガーっと飛び掛りそうな顔で怒られた、やっぱり意地悪も程々にした方が良いのかな。

【一条】
「まあまあ落ち着いてくださいよ、今度は羽子さんが行きたいところにお供しますから」

【羽子】
「私が行きたいところ……ふふ」

怒っていた羽子さんの顔に不敵な笑みが漏れる、なんだかちょっと悪い予感が……

……

【羽子】
「ほらほら何してるんですか、早く入りましょうよ」

【一条】
「嫌ですってば!」

必死に抵抗するもぐいぐいと腕を引っ張られて少しずつ店の方へと連れて行かれてしまう。
先にあるのはケーキが美味しいと評判の店なのだが、外からでも良く見える店の内装がどうにも……

【店員】
「いらっしゃいませぇ」

とうとう抵抗も空しく入ってしまった、白を基調とした衣装をまとった女の店員さんが柔らかい笑顔で迎えてくれた。

【店員】
「2名様でよろしいですかぁ?」

【羽子】
「はい、お願いします」

【店員】
「かしこまりましたぁ、お席の方ご案内いたしますねぇ」

店員さんに案内されるなか、周りの視線がなんだか痛い。
内装がどうにもこう女の子向けに可愛らしくされているせいか、男性客は1人もいない。
そんな中に男は俺1人、周りからくる女の子の視線が突き刺さるように痛い……

【店員】
「こちらにお願いしますぅ、ご注文の方お決まりになりましたらお呼びくださいませぇ」

ぺこりと可愛らしく礼をして店員さんは持ち場へと戻っていった。

【羽子】
「ふふ、男性客は一条さんの1人だけですね」

【一条】
「わかっててやったんじゃないんですか……?」

【羽子】
「さあ、どうでしょう」

口元に手を当ててクスクスと楽しげに笑う、絶対に確信犯だ……

【羽子】
「先ほどは私もいじめられてしまいましたから、今度は私がいじめ返す番ですよ」

【一条】
「結構根に持つタイプだったんですね……」

【羽子】
「はい、ゆっくりしていきましょうね」

おおぉぉぉ……郷に入ってはというけど、俺はそんな悟りを開けるような人間じゃない。
女の子の痛い視線を受けながら、晒し者のようにされた気分のまま時間は過ぎていく……

……

【店員】
「ありがとうございましたぁ、またお越しくださいませぇ」

店員さんの声を後ろに聞きながら、ようやくほっと安堵の溜め息が漏れる。

【羽子】
「お疲れ様でした、ですがそんな緊張しなくても良かったのに」

【一条】
「男はああやって女の子の中に1人にされるとどうしようもなくなるんです」

【羽子】
「そんなことでは食べたケーキの味なんて覚えていないんじゃないんですか?」

【一条】
「何食べたかさえも良く覚えていないですよ……」

【羽子】
「あらら、評判通り良い味でしたのに、ちょっと残念でしたね」

いやもうこうやって外に出れたことでもう満足ですから。
あんまり面白がって羽子さんに意地悪するのはもう止めよう。

【羽子】
「あ、時間も良い頃合いですね……それじゃあ、私の最後のわがままに付き合ってもらいますね」

【一条】
「結局何が目的でこの街を選んだんですか?」

【羽子】
「それはですね……一条さんともう1回、星が見たかったなって」

【一条】
「星……あぁ、プラネタリウムの」

そういえば以前プラネタリウムが好きだって云ってたっけ。
前に一緒に行ったけど、失礼にも俺は途中で寝てしまってた。

【一条】
「今度はなるべく眠ってしまわないよう頑張りますね」

【羽子】
「頑張ってくださいね」

……

部屋の明かりがフッと暗くなり、中央に置かれた映写装置から頭上へと星空が作り上げられていく。
今日もここはガラガラ、俺たちの他には老夫婦が1組いるだけのほぼ貸し切り状態だった。

【羽子】
「こうやって一条さんとプラネタリウムに来るのも、あの時は2度と無いと思っていたんですけどね」

【一条】
「あの時はまだお互いによそよそしかったですからね。
羽子さんのこともほとんど知らなかったし、何より自分が羽子さんを好きでいることさえわからなかったわけですから」

【羽子】
「それが今では恋人同士、なんですよね……」

偽りの星空の下、羽子さんの手がもそもそと動いて何かを探す。
俺も羽子さんの手を探し、お互いに相手の手を見つけるとギュウッと握り締める。

【羽子】
「本当に幸せですよ、一条さん……」

【一条】
「……ありがとうございます」

【羽子】
「もしかしたら、最後かもしれませんから……」

ぽそりと呟いた羽子さんの言葉は星のナレーションで掻き消されて聞き取ることができなかった。
握り返される羽子さんの手の圧力だけがとても温かく、それでいてなんだかとても儚いような感じに伝わってくる。

満天の星空の下で語られる物語、それを聞きながら羽子さんの想いが少しだけ揺らいでしまっていることに
俺はまだ気づくことができずにいた……

……

【羽子】
「今日は居眠りせずに最後まで起きていましたね」

【一条】
「寝そうになったら羽子さんが手握るから寝れなかったですよ」

【羽子】
「だって、折角手を繋いでいたんですからそれくらいしても良いかなって」

プラネタリウムから出た後も2人の手はしっかりと握られている。
暗い部屋の中で握るのとは違い、人ごみの中でもこうやっていると結構恥ずかしいな。

【一条】
「もうそれなりの時間ですけど、これから先はどうしますか?」

【羽子】
「私のわがままは全て終わりましたから、後は一条さんのお好きなようにしていただいて結構ですよ」

【一条】
「そうですね、それじゃあ……羽子さんの部屋に、行きましょうか」

【羽子】
「私の部屋なんかでよろしいんですか? 特別面白いことも無いと思いますよ?」

【一条】
「良いんですよ、羽子さんの部屋の方がゆっくりと話せますからね」

【羽子】
「そういうことでしたら喜んで……でも一条さん、どうして私の顔を見て話してくれないんですか?」

さっきからずっと俺の視線は羽子さんから外れている、大した意味は無いのだけど……

【一条】
「なんだか羽子さんの方に振り返ったら冥界に連れて行かれてしまいそうで」

【羽子】
「まあ……こと座の神話、ですね」

こと座の神話、オルフェウスとエウリディケの2人の物語。
さっきのプラネタリウムで解説された話がずっと頭に残っていた。

【羽子】
「妻を失ったオルフェウスが単身冥界に乗り込み、自慢の琴でハデスのもとから妻を取り返し。
最後の最後で決まりを破ってしまい妻は再び冥界の果てへ……とても悲しい物語ですよね」

【一条】
「誰も救われないっていうのがまさにあれですよね」

【羽子】
「結局妻は助からず、オルフェウス自身もその後自ら命を絶った」

ぴょんと俺の前に回るように躍り出て俺と視線を交差させる。

【羽子】
「だけど一条さん、心配しなくても私は振り返ってもらっても冥界になんて連れては行かれませんから。
むしろ振り返ってもらえる方が私としては嬉しいですよ」

【一条】
「……嬉しいことを云ってくれますね、抱きしめても良いですか?」

【羽子】
「へ、い、今ここではちょっと……せめて私の部屋に戻るまでは、お預けですよ」

困ったような嬉しいような、なんだかちょっと変わった表情がとても可愛らしい。
よくよく考えてみれば、これってデートなんだよな。

【一条】
「さ、行きましょうか」

【羽子】
「はい」

差し出した手を何の躊躇いも無く繋ぎ返してくれる、羽子さんと付き合いだしてから様々なものが変わり始めている。
ちょっと大胆になったり、急に可愛らしくなったり、こうやって手を繋ぐのだって前の羽子さんなら絶対に許してはくれなかっただろう。

人ってきっかけ1つで全く別人にも変わるものなんだな。
羽子さんにしたってそう、勿論俺にしたってそう。

そういったことを再確認しながら2人は少し赤らみ始めた空の下、言葉にせずともお互いの温もりだけがしっかりと交わされていた。

……

【羽子】
「……」

なんだか羽子さんの様子がおかしい、街にいる時はあんなに楽しげな顔をしていたのに
羽子さんの部屋に来ると急にしょんぼりと下を向いて俯き、言葉少なになってしまった。

【一条】
「羽子さん……?」

【羽子】
「え、は、はい」

【一条】
「なんだか羽子さんの部屋に来てからちょっと変ですよ、気分悪いですか?」

【羽子】
「いえ、そういうわけではないんですけど……」

なんとも歯切れが悪い、経験上何か隠し事をしているのだろうと容易に推測できた。

【一条】
「また何か悩み事、ですか?」

【羽子】
「……悩み事というよりは、悩むことさえも許されないこと、と云った方が良いかもしれないですね」

【一条】
「悩むことさえも許されない?」

【羽子】
「ええ、残念だけど私にはどうすることもできないこと……」

【一条】
「俺に話しては、もらえないですか?」

【羽子】
「できることなら話したくはないんですけど……でも、一条さんにも少なからず関係のあることですから」

俺が羽子さんの悩みに関係しているとはちょっと意外だな、一体どう俺が絡んでしまっているのだろうか?

【羽子】
「近いうちに、たぶん今月中になると思うんですが……日本を離れなければならないんです」

【一条】
「え……」

すぐには理解ができない羽子さんの言葉、俺はポカンと口を開けたまま硬直してしまっていた。

【羽子】
「両親の都合で私も向こうに行かなければならないんです。
たぶんこっちに戻ってこられるのももうずっと先になるんじゃないのかと」

【一条】
「……」

【羽子】
「だからもう、こうやって一条さんと過ごせるのも後少し……話したらお互いに辛くなるから
最後まで黙っておきたかったんですけど、やはりそれはずるいですよね……」

顔では笑顔を見せてはいるものの、声にそんな力は込められていない。
たぶん笑顔の方が作り物で、声が羽子さんの本心だろう……

【羽子】
「一条さんのおかげで折角両親からの絡めを切ることができたのに、やっぱり駄目でした。
あんな親でも、こうして生活を送れているのはあの人たちのおかげですから……悔しいですけど、仕方が無いんです」

そうかもしれない、確かにそうなのかもしれないけど。

【一条】
「その考えはもう覆らないんですか……?」

【羽子】
「残念ですけど……もう結構前から云われてはいたんですが、そのつど断わっていて。
先日ついにこちらに来ないのなら生活費を止めるとまで云われてしまいましたから、もう断わることもできないですよ」

【一条】
「もしかすると、昨日電話で話していたのは……?」

【羽子】
「やはり聞かれてしまっていたんですね、私も大きな声を出してしまいましたから聞こえてしまったかとは思っていたんですが」

予想通り、羽子さんがあれだけ敵意をみせるのは親御さん以外考えられなかったけど
こうやって直接聞かされるとズシンと響いてくる。

【羽子】
「一条さんにはとても申し訳ないですけど、私たちの関係も近いうちに終わりを……」

最後まで言葉が終ってしまわないうちに、俺は羽子さんを押し倒すようにして上から覆い被さった。
言葉が終ってしまうのをどうしても聞きたくはなかったから……

【羽子】
「きゃ! い、一条さん……」

視線の下では羽子さんがなんだか怯えたような眼で俺を見ていた。

【一条】
「それは……羽子さんも納得しての決断なんですか?」

【羽子】
「……」

【一条】
「羽子さんが何か決心をもって向こうに行くのなら何も云いません。
だけど、そんな親のいいなりみたいなものでここを離れるというのなら、俺は許さないですよ」

【羽子】
「でも……」

【一条】
「答えてください……向こうへ行くというのは羽子さんの意思なんですか?」

ずっと俺に覆い被さられて身動きの取れない羽子さんの眼が少しずつ変わっていく。
怯えたような眼だったのが、少しずつ潤いに溢れてきて……

【羽子】
「納得なんて、してるわけないじゃないですか……」

眼を閉じて、そのまま堪えきれなくなった瞳の端から涙が零れ落ちる。

【羽子】
「私だって、ここを離れたくなんてない……一条さんがいるこの街を離れたくなんかない。
でも、私にはどうすることも……」

【一条】
「親と向き合って、自分の意思をしっかりと伝えたら良いじゃないですか。
親が向き合ってくれないのなら羽子さんも自分の意思を崩す必要は無い、子は親の『物』ではないんですから」

【羽子】
「一条さんは、どうしても私を向こうには行かせてはくれないんですね……」

【一条】
「きっと羽子さんが行きたいと云っても阻止すると思いますよ、相当迷惑な男ですね俺は」

【羽子】
「いえ……嬉しいですよ、とても……」

羽子さんの伸ばした腕が俺の頭の後ろで交差され、そのまま羽子さんは下へと力を込める。

【羽子】
「んちゅ……」

自然と重なった唇がとても熱く、羽子さんが震えているのも全て感じ取れる。

【羽子】
「こんなふう押し倒されてしまったら、もう抑えなんて効かないですよ……」

【一条】
「それはつまり……」

【羽子】
「抱いてください……私の中の迷いが全て消え去ってしまうように強く、お願いします」

笑顔で懇願する羽子さんにもう1回キスを交わし、俺は羽子さんの身体を抱き寄せた。

……

【羽子】
「はぅ……なんだか今までの中で一番疲れてしまいました」

【一条】
「あれだけのことをやればそれは疲れるでしょうね、実際俺もクタクタですよ」

【羽子】
「だけどその分だけ、今までで一番一条さんを感じることもできましたから、その点ではとても嬉しかったですよ。
それに、彼方のおかげで気持ちの整理もつけることができましたから」

【一条】
「向こうに行きます、とか云わないでしょうね?」

【羽子】
「違いますよ……もう親のいいなりになるのはお終いです、私は私の意見をちゃんと親に伝えてみます。
一条さんのことを話したらきっとあちらでは打つ手も無いと思いますから」

【一条】
「いきなり俺のことなんか話したらきっと怒られますよ?」

【羽子】
「良いんですよ、好きな人がいるから私は行けない、立派な拒絶理由じゃないですか」

ベッドの縁に腰を下ろした羽子さんがクスクスと笑みを漏らす、どうやら完全に吹っ切れたみたいだな。

【羽子】
「だけど、それでももし親が納得してくれない時は、一条さんも力になってくださいね」

【一条】
「勿論ですよ、俺も羽子さんと離れるのは嫌ですからね」

【羽子】
「ありがとうございます……あのもう一度、キス、していただけますか……」

【一条】
「ええ」

羽子さんの顎を軽く上げ、上を向いた唇にそっと唇を交わらせる。
しっとりと濡れた唇の感触は非常に艶かしく、強くしたら壊れてしまいそうな脆さを直に感じさせてくれた。

【羽子】
「ぷぁ…………私が負けそうになったとしても、離さないでくださいね」

俺の前でだけ見せる羽子さんの小さな弱み、それはそれだけ信頼されているということの裏返しでもある。
羽子さんの信頼に答えられるよう、俺も羽子さんの力になってやろう。

夕暮れももう終り、2人を照らし出していた赤い光は少しずつその明るさに幕を下ろし始めていた。





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