【4月12日(土)】


目覚まし時計がいつもどおりの時間に鳴り響く。
いつもなら起きて学校に行く支度をするんだが今日は土曜日。
学校も休みなので起きる必要はない、開いたまぶたを再び閉じて眠りにつく。
たまには早起きしなくても良いよな。

……

次に眼が覚めた時、目覚まし時計は八時半を指し示していた。
そろそろ起きてもいい時間だがどうしようか……

【一条】
「起きるかな……」

ゆっくりベットから立ち上がり、窓を開け放つ。
日差しが体を刺激し、少しずつ体が目覚めていく。

【一条】
「良い天気だこと……こんな日は掃除日和だな」

何がどうなって掃除日和なのか分からないが、俺の頭に浮かんだのは掃除をすることだった。
よし、今日は掃除をしよう……

……

ほうきではいて、掃除機をかけて、窓を拭いて……
元々あまり汚れてなかったためかあっという間に終ってしまった。

【一条】
「それで今こんなことしてるわけだ……」

折角晴れた休みなので外に出た、ぶらぶらとあても無く気の向くままに散歩をしている。
休日のゆったりした時間の中でする散歩はなぜか気持ち良いのだ。

……

気分気ままに歩いていると、やがて視界に一度見た景色が広がる。
そこは以前俺が迷子になてしまった川原だった。

【一条】
「へえ、こんなところにあったんだ……」

商店街の横道から公園を通り、視界が開けた先がこの川原だった。
前は暗くて分からなかったけど、たぶん同じ道を通って来たのだろう。

【一条】
「夜だから静かなのかと思ったら、昼間でも凄い静かなんだな」

この川原は住宅街、商店街の両方と車道からも離れているせいか雑音が感じられない。
聞こえるのは前と同じく風の音、水の音……

【一条】
「人通りも少ないみたいだし、サボるにはちょうど良い場所かもな」

坂になった土手の中腹辺りまで下り、その場で大の字に寝転がってみる。
瑞々しい草の感触と吹きぬける柔らかい風がとても気持ち良い。
その上この静寂、まだ日差しも弱いこの時季なら昼寝をするにはもってこいの場所だ。

【一条】
「休日に川原でごろ寝か……なんかまったりしてるよな」

上空をゆったりと飛ぶ鳥が、風になびく草花の音が、物静かな水流の音が。
それらによって確立されたこの空間は時間の流れが止まったかのような錯覚を覚えてしまう。

こんな空間だからこそ、オカリナの音がいつもよりも良く聞こえるのかもしれない。

【一条】
「……」

ごそごそとポケットをあさってオカリナを取り出す。
学校に行くときだけではなく、俺は普段からオカリナを携帯している。
軽く上体を起こし、オカリナを口に当てて息を吹き入れる。
いつもと同じ曲を同じように吹いている、立っているのと座っているの違いはあるがその程度。
しかし、いつもとは音の聞こえ方が全く違う。
あの夜と同じ、音が世界と一体となり、そこに違和感や孤立感が全く感じられない。
学校の屋上で吹くとオカリナの音ばかりが強調されて不自然に感じることもあるのに。
ここではそういったものが一切感じられなかった……

【一条】
「ふう…………」

オカリナをポケットに戻し、再び上体を地面へと倒した。

【一条】
「まったく、静かなところだよ……」

軽く眼を閉じると視界が失われる代わりに聴覚が研ぎ澄まされる。
眼を開けているときよりもはっきりと水音や風の音が聞こえてくる。
今時こんな都会でこんなに静かな所は珍しいんじゃないかな……?
少しの間川原でぼーっと時間を過ごしていたが、陽が少し高くなったので散歩を再開した。

……

【一条】
「さてっと……これからどうしたもんかな」

最初からあての無い散歩だったのでどこに行くのかなどは決めていない。
あの川原がどこにあったのか分かっただけで十分な収穫だったし。
これといって行きたいところも無いんだけど……

【一条】
「本屋にでも行ってみるかな」

何もすることの無い日は本屋で雑誌を見るのが定番だよな。
ついでに面白そうな漫画か小説でもみつかれば儲けもんだな……

……

【一条】
「確かあの出版社は……唐沢出版だったかな?」

以前そこの小説が面白かったと記憶していた、病院で新藤先生に勧められたのが始まりだったな。
前に読ませてもらったのは…………あった、これだ。

『墓堀人U・T 〜灼熱の仮面編〜』

なんともなタイトルだけどこれが面白い、内容は少々ハードだが読んでいくうちに世界観に喰われてしまっていた自分がいた。
灼熱の仮面編では、顔に大火傷を負った男が仮面を被って主人公のもとに現れて何やかやする話だった。
その後も増刊していて数えてみると八巻も出ている、さすがにいっぺんに買うわけにもいかないので二巻を買うことにした。

タイトルは……『墓堀人U・T 〜巡礼坊主編〜』

【一条】
「二巻もまたなんともなタイトルで……」

本を手に他の場所を見てまわっていると、1人の少女が眼にとまった。
あの後姿、あの藍色のショートヘアーと少し近づきがたい雰囲気は……

【羽子】
「うーん……うーん……」

羽子さんだ、羽子さんは参考書のコーナーで必死で本に手を伸ばしていた。
しかし、目当ての本は最上段に並んでいて、羽子さんが必死に手を伸ばしても僅かに届かない高さにあった。
あいにく上り台も置いてないみたいだし……

【羽子】
「うーん……うーん……」

必死で手を伸ばすがやっぱり届かない、店員を呼べば済むのだろうが呼ぶ気配は全く感じられなかった。
出会ってからの日数は少ないが、羽子さんの性格はなんとなく分かる。
きっと店員を呼ぶことは無いだろうな……

【羽子】
「うーーん!……駄目か……もう1回」

【一条】
「……っよ」

【羽子】
「あ……」

羽子さんの口から小さな嘆き、目当ての本を他人に取られてしまったと思ったのだろうか?

【一条】
「はいよ、お目当ての本はこちらでよろしいですか?」

【羽子】
「は、はい、ありがとうございま…………あ、一条さん」

【一条】
「や、こんなところで奇遇だね」

【羽子】
「そうですね、一条さんも参考書を?」

【一条】
「いんや、俺はちょっと小説をね……それより本当にこの本で良かったの?」

羽子さんが手を伸ばしていた本、それはフランス語の辞書だった。

【羽子】
「ええ、少しわからない文法があったものですから」

あの学校にはフランス語の授業は無い、となるとプライベートで使うんだろうな。
プライベートでフランス語を使う機会ってあるんだろうか?
羽子さんのような勤勉家でない俺には覚えろと云われても断るだろうな。

【羽子】
「どうして私がフランス語の勉強なんかしているのか、そう云いたそうな顔ですね」

【一条】
「出てました……?」

【羽子】
「はい、はっきりと」

【一条】
「はは、よわったな……」

【羽子】
「普通は不思議に思いますよね、学校ではフランス語の授業は無いですし
英語ならともかく、フランス語を話す機会なんて僅かしかありませんから」

【一条】
「ならどうして?」

【羽子】
「私の父がそういった関係の仕事をしているものですから、父の仕事柄私もそういった方々と会う機会が少なからずあるんです
フランス語だけでなく、ドイツ語や中国語、他にも色々と」

【一条】
「すご……羽子さんの親父さんの仕事って海外関係ですか?」

【羽子】
「そういうことになりますね、一応外交官をさせていただいています」

驚いた、外交官っていうと頭脳明晰で勤勉・努力家なエリートがなれる職業じゃないか。
家の親父じゃ逆立ちしてもなれる職業じゃないな……

【一条】
「それでフランス語の辞書を、でも色々と大変じゃない?」

【羽子】
「楽ではないですけど、人前で恥をさらすよりは良いじゃないですか」

俺には絶対に云えない科白。
恥をさらしまくっている俺にはそんなことは絶対に云えないよ……

【羽子】
「それで、一条さんはどんな本を買われたのですか?」

【一条】
「俺はこれを……」

【羽子】
「あ、その小説は……」

【一条】
「羽子さんも読んだことあった?」

【羽子】
「少しだけ読んだんですけど、ちょっと表現が過激なところが多かったので……」

そういえばそうだった、この小説の魅力はストーリーと場面を盛り上げる過激な演出と表現だった。
血なんて当たり前、猟奇的殺人当たり前、薬物当たり前ととんでもない表現が多かった。

読みながら絶対にアニメ化や映画化はされないと思ってたっけ。

【一条】
「確かに女の子にはちょっと向かないかな」

【羽子】
「そんなこと気にしないで読む女の子もいますけどね……」

マジですか、正直女の子がこの本を楽しげに読んでたらひくぞ……
その女の子変わってるんだな……

【一条】
「誰かが気になるところだけど、とりあえずお会計しますか」

【羽子】
「そうですね」

……

【羽子】
「一条さんはこれから何かご予定はありますか?」

【一条】
「これが何も無いんだ、彼女もいませんから…………」

【羽子】
「でしたら私と喫茶店にでも行きませんか? 静かな所知ってますよ」

【一条】
「俺が一緒で羽子さんが迷惑でないのなら、喜んでお供しますよ」

……

羽子さんと一緒に商店街を歩く。
途中で小さな脇道を抜けると、商店街の雑踏とは少しだけ雰囲気の違う空間に出る。

【羽子】
「こちらのお店なんです」

羽子さんが案内してくれた喫茶店は少し古めの店だった。
しかし、なんとも味のある隠れ処的なところが逆に新鮮に感じる。

【羽子】
「失礼します」

扉に付けられた呼び鈴がカランカランと鳴り、客の到来を店に告げる。

【男性】
「いらっしゃい」

現れたのは白い髭が印象的な見るからに年配の男。

【男性】
「おや、羽子ちゃんかい」

【羽子】
「お久しぶりですマスター、いつもの席お借りしてよろしいですか?」

【男性】
「どうぞ、飲み物はいつものやつでかまわないかい?」

【羽子】
「お願いします」

会話を聞く限り、どうやら羽子さんと店主は顔見知りのようだ。
お互いに『いつもの』で会話が成立しているということは、結構長いのかもしれない。

【男性】
「それで、そっちの彼は羽子ちゃんの彼氏?」

【羽子】
「違いますよ、彼は私の同級生でクラスメイトなんです」

【一条】
「ども」

【男性】
「クラスメイトから始まって行く末はってこともありうるもんだよ」

【羽子】
「お生憎さま、あまりそういったことには興味が無いものですから」

【男性】
「おやおや……それで、そちらの君のご注文は?
コーヒー、紅茶から軽いカクテルまで色々とできますよ」

【一条】
「それじゃあ紅茶を」

【男性】
「かしこまりました、お席の方……案内はいらないか」

はっはと1つ笑い、マスターは奥の方に下がっていった。
しかしまだ未成年なのにカクテルを勧めるってのはどうなんだろう?

【羽子】
「まったくマスターは…………一条さん、こちらですよ」

羽子さんが指定したいつもの席とは店の一番奥。
照明が届かずに少し暗くなっているが、店内を一望できる良い席だ。

【一条】
「へえ……未だにこんな雰囲気の店ってあるんだ」

【羽子】
「こういった感じのお店はお嫌いですか?」

【一条】
「とんでもない、むしろこんな店の方が好きかな」

レトロなライトが店内を照らし、クラシックミュージックがかけられている。
ライトだけじゃない、店の中全体がレトロな世界を作り上げている。

店内にあるあれは……水だしコーヒーのウォータードリッパーじゃないか。

【一条】
「変にやかましい街中の喫茶店より、こんな静かな店の方が俺は良いな」

【羽子】
「気に入っていただけて良かったです、ここは私のお気に入りなんですよ」

【男性】
「お待ちどうさま」

俺たちの会話が一旦切れるのと同時にマスターが注文の品を持ってくる。
渡されたティーカップからもあもあと湯気が昇る、なんだか変わった香りがするな。

【男性】
「お代わり自由、何時間粘ってもらっても良いからね」

マスターは味のある笑みを見せると奥に戻っていった。

【一条】
「何時間粘っても良いって……それじゃ儲け出ないんじゃ?」

【羽子】
「そう思いますよね、ですけど一度も赤字になったことは無いらしいですよ」

【一条】
「マジですか……」

普通何時間も粘られたら帰ってくれと云われるはずなのに……
見たところ客は俺たちだけみたいだし、一体どこに儲けの秘密が?

【一条】
「不思議な話もあるもんだ……ん?」

紅茶を一口飲んでみると、普通の紅茶とは違う不思議な香りがする。
見た感じは普通のストレートティーなんだけど、紅茶の香り以外に何か別の香りが混ざっている。
ハーブや香料の香りではないこの香り、それになんだか体が暖かくなってくるこの感じ、これは……

【一条】
「これってもしかしてブランデーティー?」

【羽子】
「お気づきになりましたか? マスターの自信作らしいですよ
なんでも紅茶とブランデーの香りが共に引き立つ配合を見つけ出すのに何年もかかったって」

【一条】
「確かに、これは自信作って云って申し分ない味してるよ」

ブランデーティーは数回しか飲んだことはないが、ここまで香りが引き立てあっているのは初めてだ。
大概どちらかが遅れをとって酒臭くなったり、茶葉が生きていなかったりするんだけど、これは完璧だな。

【羽子】
「その言葉、マスターに直接云ってあげると喜びますよ」

ふふっと小さく笑って羽子さんはガラスコップに差し込まれたストローに口をつける。

【一条】
「羽子さんが飲んでるいつものってのは何のこと?」

【羽子】
「これですか、これはアイスコーヒーですよ、もっとも普通のコーヒーではないですけど」

【一条】
「水だしコーヒー?」

【羽子】
「良くお気づきになりましたね、どうして分かったんですか?」

【一条】
「あの器材が置いてあるから、あのウォータードリッパーがさ」

【羽子】
「……」

俺の言葉に羽子さんは驚いたのか、眼がさっきまでより大きく開けられた。

【羽子】
「良くご存知ですね、あれがウォータードリッパーだとわかる人はそういないのに」

【一条】
「ちょっとコーヒーにうるさい人が知り合いにいてさ、それでだよ」

うるさい人というのは云うまでもない新藤先生のことだ。
入院中に散々コーヒーや紅茶のイロハを聞かされたっけ……

【一条】
「だけど水だしだと余計に儲けが出ないんじゃ……」

水だしコーヒーが普通のコーヒーと違う点、それは書いて字のごとく水からだすところにある。
熱い熱湯からではなく、水からだすとコーヒーその物が持つ鮮烈な香りを失わずに淹れることができる。
香りだけでなく、味の方も余計な雑味の無い素晴らしい味だと聞いた。

ではどうして儲けにならないのか、それはコーヒーができるまでの時間にある。
熱湯で淹れればあっという間に淹れられるコーヒーが、水からだそうとすると半日近くもかかってしまう。

しかも量がこなせないために、コストパフォーマンスが非常に悪いのだ。

【男性】
「不思議かい?」

いつの間にか横に来ていたマスターが訊ねてくる。

【一条】
「あ、はい、水だしコーヒーは儲けが薄いから出さない店も多いと聞きますから」

【男性】
「確かに、この街で水だしをやっているのは私の店だけかな。
最近はどこの店でも市販の粉に熱湯で淹れただけの簡単な物しか出さないからね」

【一条】
「市販の粉ってことは……ここでは豆から?」

【男性】
「勿論、水だしのために先日のうちにミルで挽いて使っているよ」

【一条】
「はぁー……」

【羽子】
「それだけこだわって生まれたのがこの味なんですよね」

【男性】
「羽子ちゃんにそう云ってもらえると嬉しいねえ」

【一条】
「だけど……本当に儲かってるんですか?」

【男性】
「そこなんだよ、本当ならこんなことでは儲かるはずが無いのに。
月終りに集計してみるとちゃんと利益になっているんだ、こればっかりは私にもわからないね」

高笑いをしてマスターはまた奥に戻っていった。

【一条】
「なんか凄いミステリー……」

【羽子】
「ですよね、だけど美味しいコーヒーが飲めるのなら、私はミステリーでも良いと思いますよ」

【一条】
「それはいえてるね」

【羽子】
「ふふ……」

急ぎ足で進む外の世界とは異なった、穏やかに時間が流れる店内の中。
俺たちはゆったりとお茶をしながら時間を過ごした……

……

【男性】
「またどうぞ」

店を出るころにはもうすっかり夕日に染め上げられた赤色の世界へと変わっていた。

【羽子】
「すっかり長居してしまいましたね」

【一条】
「そうですね、もう帰るんだったら送っていきますよ」

【羽子】
「ありがとうございます、ですがもう少しだけ寄らねばならないところがありますので……」

【一条】
「そうですか、それじゃここでお別れですね」

【羽子】
「はい、ではまた学校で、ごきげんよう」

キリッとした柔らかな微笑を残し、羽子さんは夕暮れの街へと消えていった。
しかしごきげんようって……初めて聞いたな。

……

夕食を済ませて今日買ってきた小説に眼を通す。
一巻のラストでちらりと顔を覗かせた坊主キャラが二巻の主軸になっているみたいだ。

【一条】
「うわ……そんなことするんだ……」

中身は一巻の世界観と流れを保ったまま、より過激でバイオレンスに仕上がっていた。
坊主が経文を読んだら首が吹き飛ぶって……アニメ化・映画化が遠のいていくな……





〜 N E X T 〜

〜 T O P 〜