【4月20日(日)】


強すぎることのない日差しがやんわりと顔を照らす。
はんなりした温かさと、軽い眩しさがとても気持ち良い。

天気予報では終日こんな天気ということだったので、外出するにはもってこいの天気だろう。

【一条】
「まだ随分と早かったかな……」

羽子さんとの待ち合わせは10時ちょうど、遅れては失礼なので早めに家を出てきたんだけどいささか早すぎたかな。
腕時計はまだ時間よりも30分も早い、ゆっくり行けば大丈夫かと思ったら案外早くついてしまいそうだ。

すでに視界の先に駅は見えている、この近辺にはコンビニも無いので時間を潰すこともできそうにない。

【一条】
「仕方が無い、羽子さんが来るまで待合室にでもいるか」

駅をくぐり、切符売り場を素通りしてその奥の待合室へ行くと……

【一条】
「……はぇ?」

待合室にいたのは数人の男女、その中に良く見知った顔を見つけたので変な声が出た。

【羽子】
「……」

羽子さんだった、後ろのベンチに腰を下ろし、スカートの上で広げた小説大の本を眺めていた。
まだ待ち合わせまでは30分もあるというのに、こんな早くから羽子さんは待ち合わせ場所に来てるんだ。

【一条】
「お早うございます、羽子さん」

【羽子】
「へ? あ、一条さん、お早うございます、随分とはお早い到着ですね」

【一条】
「それはこっちの科白ですよ、まさかこんな時間から来ているとは思いもしませんでした」

【羽子】
「あまりぎりぎりになってバタバタするのは好きではありませんから。
なるべく余裕を持って行動するようにしていますので」

余裕ありすぎな気もするんだけど……

【一条】
「どうしますか? 2人とももう揃っちゃいましたし、出かけますか?」

【羽子】
「私は構いませんよ、後30分ゆっくり待とうと思いましたけど一条さんが早く着ていただけましたから。
あんまり時間を無駄にするのも勿体ないですから、行きましょうか」

……

電車に揺られること30分、普段の景色とは全く違う景色が駅を降りた視界に広がった。
何街だったかよく覚えていないけど、なんか小難しい名前の街だったな。

【羽子】
「ここからが私のお仕事ですね、今日の一条さんのお買い物とはなんなのでしょうか?」

【一条】
「特にこれが欲しい、というのは無いんですけど。
とりあえず店の配置と服を少し見てみたいなと」

【羽子】
「服、ですか。 どういったタイプの服がお好きとかあるんですか?」

【一条】
「派手でなければ案外なんでも着ますよ、Tシャツでもワイシャツでも」

【羽子】
「男性物の洋服が売っているお店はあんまり詳しくないんですが、私が行くお店の近くにあったと思いますので
とりあえずそこから先に行ってみましょうか」

羽子さんよりも一歩下がって後ろをついて行く。
この街はまったくの初心者、羽子さんの姿を見失ったらもうお巡りさんの厄介になるしか残されていない。
手でも繋いでれば見失うことはないだろうけど、さすがに羽子さんが嫌だよなそれは。

……

通りを歩く途中、羽子さんはよく利用するという店の店員に男性物の服飾店を訪ねていた。

【羽子】
「そうですか、ありがとうございます。
はい、またお時間があったらよらせていただきます、では」

女性の店員さんに丁寧にお辞儀をし、軽い足取りでとてとてと外で待つ俺のところへと戻ってきた。

【羽子】
「お待たせしました、この通りを真っ直ぐ行けば右手にあるそうですよ」

【一条】
「わざわざ聞いてもらってすいません」

【羽子】
「気にしないでください、これも案内役の務めですよ、行きましょう」

羽子さんについて歩くと、ややあってから右手側に若者向けの服飾専門店が見つかった。
店の名前は英語で書かれていて読めないが、結構シンプルな物を扱っていそうな店だった。

【羽子】
「『Non decora』、イタリア語で飾らないという意味ですね」

英語じゃなくてイタリア語だったんだ、なんかちょっと恥ずかしい……

そんなことは置いといて、とりあえず2人でその店へと入ってみる。
中は店名通り白を基調としたとてもシンプルなつくりで、奥で作業する定員さんが着ている服も飾りが無く素っ気ない物だった

【羽子】
「一条さんのご期待に添えれたのかはわからないんですけど、どうでしょうか?」

【一条】
「こういうの好きですよ、飾りが多くてキラキラと喧しすぎるのはあまり好きじゃないですから」

一番近く似合ったシャツを手にとって見る、黒の生地にとても淡くロゴがプリントされていた。
値段も手ごろでこれからは結構世話になる店かもしれないな。

【店員】
「いらっしゃいませ、何かお探しの物でもおありですか?」

【一条】
「あ、これからの季節にあった涼しげな長袖ってありますか?」

【店員】
「そうですね、それでしたらこちらなどいかがでしょう?
生地は黒ですが薄くできておりますので風の通りも良いですよ、吸水性もありますので暑い季節にぴったりだと思いますが」

店員さんが勧めてくれたシャツを触ってみると、見た目には結構厚そうに見えるけど確かに薄くできている。
かといって肌が透けるほどというわけでもないので確かにこれからの季節には合いそうだ、値段も十分許容範囲だし。

【一条】
「一着いただけますか、それと申し訳ないのですが取り置きをお願いできますか?」

【店員】
「かしこまりました、店は私1人しかいませんのでもう一度ご来店いただければすぐにお渡しできますよ」

お会計を済ませると、店員さんが服をレジ後ろのハンガーラックへとかけた。

【店員】
「こちらポイントカードになっていますのでまたのご利用の際にお使いください、ありがとうございました」

深々と頭を下げ、店員さんは愛想の良い笑みを見せた。

【羽子】
「次はどうしますか? 街の案内ならすぐにでもできますけど」

【一条】
「そうですね……この街を回るにはどのくらいかかるんですか?」

【羽子】
「一時間半もあれば足りると思います、やはり少し早く着すぎてしまいましたね」

この街に着てまだ30分程度しか経っていない、このまま街を回りきってしまうと
昼を少し過ぎた辺りですることがなくなってしまいそうだな。

【一条】
「どこかゆっくりできる娯楽施設のようなものは無いんですか?」

【羽子】
「娯楽ですか……生憎私はそういった方には疎いので。
探せばあるのかもしれませんけど、私には映画館くらいしか……」

【一条】
「映画館……良いですね、そこ行きましょうか」

【羽子】
「え、ですがここから結構歩きますけど、よろしいですか?」

【一条】
「大丈夫ですよ、何も急ぐ1日じゃないですから、ゆっくり過ごしませんか?」

【羽子】
「わかりました、一条さんがそれで良いというのならご案内しますね」

……

羽子さんに連れられておよそ30分歩き続けると、目的地であろう映画館らしき建物が眼に入る。
入り口には新しく入ったのであろう新作映画の看板がどっかりと立てかけられていた。

【羽子】
「到着です、一条さんは何か見たいジャンルとかはありますか?」

【一条】
「何でも大丈夫ですよ、何か面白そうな物ありますか?」

【羽子】
「ちょっと待ってください、今の時間ですと………ぁ」

上映時刻と上映映画を照らし合わせていた羽子さんから小さな声が漏れた。
視線と追っていた指が止まり、小さく口を開いたまま止まってしまった。

【一条】
「羽子さん? どうかしましたか?」

【羽子】
「い、いえ、なんでもありません……1番早い映画だとこれになるみたいです」

羽子さんの指差したポスターは、真っ暗な景色の中で女の子がこちらに向かって手を振っている構図。
タイトルは太字で『鬼さんこちら』と打たれ、その文字が不自然に歪んで変わった彩色が施されていた。

前にテレビで宣伝しているのを見たな、確か廃病院に閉じ込められた男女が気のふれた殺人鬼から逃げ惑う話だったか。
結構有名な監督が撮った全く新しいサイコサスペンス物だとかで、大々的に宣伝していた気がするな。

【一条】
「結構面白そうですね、これにしましょうか」

【羽子】
「ぇ!………」

【一条】
「羽子さん怖いの駄目ですか?」

【羽子】
「い、いいえ、そんなことあるわけないじゃないですか子供じゃないんですから!」

笑顔を見せるもののどう見てもぎこちない、これはひょっとするとひょっとしそうな……

【一条】
「やっぱり他の物に……」

【羽子】
「大丈夫です! 時間が勿体ないですから早く行きましょう!」

【一条】
「おぁ!」

俺の手を引いてグイグイと進んでいく、いつもとは明らかに違う羽子さんの態度から考えて無理をしているのは明白だろうな。
それでも弱点をさらすまいとしているのだから、ここで俺が止めるのは失礼……なのか?

……

【男性】
「はぁ、はぁ……」

あいつらとはぐれてからどれくらいの時間が経ったのだろう?
階段を何度も上ったり下ったり、廊下を駆け抜けたりを続けているが一向に誰かに合う気配が無い。

1人で逃げ回るにはあまりにも広すぎて、あまりにも怖すぎるこの病院。
眼の前で知り合いを惨殺され、皆散り散りに逃げたは良いけど皆今どうしているのだろうか?

誰かに会いたいという期待もあるが、その会ってしまたのがあの殺人鬼という怯えもある。
会いたいが会いたくない、そんな矛盾した考えが図と頭の中をまわっていた。

【男性】
「はぁ、はぁ……」

なるべく音が聞こえないように小さく息を整え、周りの音に神経を集中させる。
あいつの足音を、布ズレの音を、呼吸の音を聞き逃してしまわないように……



【羽子】
「ぅぅ……」

展開されていく映画の画面を眺める羽子さんの表情はとても暗い、落ち着けるために胸の前で手をギュウッと硬く握りしめていた。
ここで俺が肩でも触ろうもんなら大声を上げてしまうかもしれないほどに緊張しているのが伝わってくる。

【一条】
「あの、大丈夫ですか?」

【羽子】
「も、勿論ですよ……お話なんですから、怖いとかそういったのは全然全く」

笑顔を作ろうとしたのだろうが、どうにも上手く表情が作れないらしい。
まだ作品が始まって30分、あと2時間これで乗り切れるのだろうか?



【男性】
「……人か?」

薄暗い廊下の先をジッと眺めてみると、ぼんやりと人影のようなものが見えた。
逃げ切れた誰かだろうか? 確証は何も無いのだが俺はその人影の方へと足を進める。

少しずつ近づくことで影がはっきりしてくる、どうやらあの殺人鬼ではない、ないのだが……

【男性】
「……だれだ?」

徐々に近づく人影の縮尺がどうにもおかしい、あれはどう見てもまだ子供の大きさじゃないだろうか?
俺たちはもう大学生、1番小さな女子でもあそこまで小さくはない、だとするとあれは一体?

【男性】
「あ……」

俺の接近に気がついたのか、小さな人影は薄暗い廊下の先へと消えてしまった。
慌てて追いかけようとしたが、廊下の途中にある階段からもっと大きな影が飛び出した。

【男性】
「!」

【女性】
「!……なんだ、良かった」

飛び出してきたのは女性、一緒に病院に入った仲間の1人だった。

【女性】
「やっと誰かに会えたよ、ずっと1人で怖かったんだよ……」

【男性】
「俺も怖かったさ、他のやつらは見てないか」

【女性】
「残念ながら……」

ガックリと女性は肩を落とした、いつもは明るい子なのにこの異常な状況下だとさすがにそうもいかないようだ。

【男性】
「なあ、俺たちの他に子供くらいの奴って見なかった?」

【女性】
「子供? 見る訳無いよ、だってここ廃病院だよ、私達以外いる訳無いよ……後あいつも」

そうだよな、ここは廃病院だ、子供がいるはずがないんだ。
だとしたら俺がさっき見た人影は一体……?

【女性】
「だけど君と会えて安心した、1人だったらきっと殺されちゃうって思ったから」

【男性】
「それは俺も同じだ、後の奴も早く見つけないと」

【女性】
「そうだね、皆無事だと良いけど……とりあえず一緒に行動しよ」

女性は俺と会えたことで安心したのか、少しだけいつもの調子を取り戻していた。
辺りに気を配りながらゆっくりと前へ前へと足を進め、T字の廊下へと差し掛かると……

ガシャン!!


【羽子】
「ひゃううぅ!」

ガラスの割れる音が館内に響き、それと同時に観客の悲鳴も色々な所から聞こえてきた。
俺の横で必死に堪えていた羽子さんも、不意打ちのような崩壊音に堪えが耐え切れなくなってしまったらしい。

【羽子】
「あうぅぅ……」

【一条】
「は、羽子さん?」

【羽子】
「い、嫌です……怖いの、駄目なんですよぉ……」

館内が暗いので良くはわからないけど、なんだか羽子さんの眼が泣いているように見える。
ビクビクと肩を震わせ、頭を腕で覆うようにして必死に何かから逃げようとしていた。
泣くほど嫌いだというのに……まぁ、これが『枯志野 羽子』という人物なのだろう。

【一条】
「あ、あの……」

【羽子】
「ひぅ!」

肩をぽんと叩くと、予想以上の反応速度で羽子さんの肩がビクリと震える。

【羽子】
「お、終るまで、あ、後どのくらいかかるんですかぁ……」

【一条】
「あと1時間くらいは……」

【羽子】
「そ、そんなぁ……」

いつものように凛とした声ではなく、とても弱々しく子供のように怯えた羽子さんの声がとても新鮮だった。
映画よりもそんな羽子さんを見ている方が楽しいのだけど、さすがにそれはかわいそうだよな。

【一条】
「……」

【羽子】
「ふぁ!…………ぁ」

頭を覆っていた羽子さん腕をとり、片方の手に俺の指を絡めさせていく。
指を絡め終わるとそのまま指に力を込め、じっとりと汗をかいた羽子さんの手を握り締めた。

【一条】
「これで、少しは怖さも薄れませんか?」

【羽子】
「あ……あぅ…………」

怯えきっていた羽子さんの眼に、少しだけ余裕が戻ったそんな感じがした。
まぁいまだに泣き顔であることには変わりないのだけど。

そうこうしている間にも物語りは進み続ける。
あれだけ怖がっていた羽子さんだけど、なんとかスクリーンを見続けることはできているようだ。
時折俺の手が強く握られる圧迫感と、羽子さんの驚いた際の震えが繋がれた手をとおして伝わってくる。

本来であればいきなり手なんて繋ごうものなら羽子さんのことだ、長いお説教が待っていることだろうけど。
さすがに状況が状況なので羽子さんも文句を行ってはこない。

………この映画、案外役得だったかもしれないな。

……

【羽子】
「はうぅ……」

なんとか映画を見終わり、映画館を出た羽子さんの顔はまるで映画のヒロインのように憔悴しきっていた。

【一条】
「よく持ちましたね」

【羽子】
「えぇまぁ…………あ、あの、お恥ずかしい所をお見せしてしまってその……私怖い物が苦手で」

【一条】
「あれで全然大丈夫ですって云われても信用性ゼロですよ」

【羽子】
「も、申し訳ありません……いつもの癖で強がってしまって」

【一条】
「まあ映画を見る前から気付いていましたけどね」

【羽子】
「え……」

俺の言葉を聞いた羽子さんの眼が大きく見開かれた。

【一条】
「映画のポスターを見た時から苦手なんじゃないかって思ってたんですけど、案の定」

【羽子】
「な、なな、ななななな!」

口の端がぴくぴく震え、キリリとした眼がさらに鋭さを増し、顔がみるみる赤くなっていった。

【羽子】
「なんでそう思ったのなら止めてくれなかったんですか!」

思いっきり怒鳴られた、通行人の何人かが何事かとこちらを見る視線がとても痛い。

【一条】
「は、羽子さんもう少し声を小さく……いや、止めようとしたら羽子さんが」

【羽子】
「私のせいだって云うんですか!」

うぅむ、どうやら少々過去がこんがらがってしまっているようだ。
羽子さんの中では俺は止めることもせずにいたことになっているけど、俺ちゃんと止めたよな?

【羽子】
「私が怖い物が駄目なことをしていて止めなかったんですね! それは外道な行為ですよ!」

拙いな、外道とか羽子さんらしくない言葉が出始めている、少々興奮気味と見て良いだろう。

【一条】
「わ、わかりましたよ、謝りますからとりあえずどこかでゆっくり話しましょう」

【羽子】
「ええ良いですよ、一条さんがどれだけ人を思いやる心のない酷い人かということをみっちり教えてあげますから!」

云いたいことを云い終えたのか、ふんとそっぽを向いて1人で歩き出してしまった。
ちょっと置いていかないで、こんな所に置いて行かれたら確実に迷子になるじゃないですか!

……

【羽子】
「うぅ……」

時間も昼をまわったあたりだったので、俺たちは近場の喫茶店で軽い昼食をとることにした。
そこで映画館に入るところから1つ1つ細かく説明をしていくと
最初は話も聞いてくれなかった羽子さんも、今では下を向いたまま小さく声を漏らすだけになってしまっていた。

どうやら興奮状態が治まったのか、じっくり考えてみると羽子さんも自分がどういう行動をとったのかを思い出してきたのだろう。

【一条】
「で、俺は他のものをって云ったんですが、羽子さんが俺の手を引っ張ってグイグイと」

【羽子】
「そ、そんなことをしたような気がします……」

【一条】
「ふぅ、やっと思い出してくれましたか」

【羽子】
「はい……あ、あのその……申し訳ありません」

非が自分にあることを理解したのか、羽子さんは深く頭を下げてお詫びをする。

【羽子】
「街中で大きな声出したり、一条さん1人を悪者にしたり」

【一条】
「いえいえ、気になんてしてはいませんよ、ただ……」

【羽子】
「ただ……?」

【一条】
「………泣いてた羽子さん可愛かったですよ」

【羽子】
「!」

一瞬にして顔がカァっと赤くなり、再び視線を下へと落としてしまった。
肩からピーンと伸びた腕がコチコチに緊張状態にあることを主張していた。

【羽子】
「そ、そのことは忘れてください……他人の前で涙を見せるような経験は生まれて初めてですから」

【一条】
「なるほど、俺が初めてな人のわけですね、儲けもんですよ」

【羽子】
「ちゃ、茶化さないでください……」

耳まで真っ赤にして羽子さんは言葉を続ける、よほど泣いている所を見られたのが恥ずかしかったのだろう。

……こうして見ると、とても学校での『枯志野 羽子』という人物と同じ人だとは思えないんだよな。

……

軽い昼食を済ませた俺たちは、再び羽子さんの案内で街を回ることにした。
服飾店や書店など、よく羽子さんが利用するという店を中心に生活に必要ありそうな店を細かく教えてもらった。

【羽子】
「こんなところですかね、どこかもう一度行きたいとことはありましたか、お付き合いしますよ?」

【一条】
「今すぐ早急に欲しい物も特に無いですから、羽子さんこそ何か欲しい物があるならお付き合いしますよ」

【羽子】
「そうですか……それじゃあ一箇所付き合ってもらえますか? 一条さんにはちょっと退屈かもしれませんが」

【一条】
「気にする必要無いですよ、羽子さんが行きたいところへ案内してください」

それではと短く継げ、はぐれてしまわないように俺の横に並んで先導してくれる。
今までは俺が後ろからついて行く恰好だったのに、いきなり横に並ばれるとなんだか照れくさいな。

羽子さんが導いてくれたのは少し大通りからは外れた、あの喫茶店のようにひっそりと騒音から離れた路地の先。
人の通りはほとんどなく、とてもあの路地から枝分かれした路地とは思えないほどに騒音が遠くなっていく。

一体こんな静かなところに何があるというのだろうか?
なんか黒猫でも飛び出して来そうなちょっと不気味な路地なのに、羽子さんはこういったの駄目じゃなかったのだろうか?

【羽子】
「到着ですよ」

羽子さんの声で足を止め、目的である建物の看板を見上げた。

『星雲世界』と看板にはレトロな文字で書かれていた。
ええと、名前からではちょっと何関連の店なのか想像つかないな、随分くたびれた感じのする建物だし。

【羽子】
「プラネタリウムです、ご存知ありませんか?」

【一条】
「プラネタリウムって云うと、天井に星を映すあれですよね。
羽子さんプラネタリウム好きだったんですか?」

【羽子】
「ええ、意外に思われてしまうかもしれないんですけどね。
星を見ていると、色々と考えることを忘れさせてくれるような感じがするんです……」

羽子さんの眼がとても優しい、それなのに声はなんだか悲しげな音色で頭へと響いてきた。

【羽子】
「行きましょうか」

次の言葉にはすでに悲しげな音色は含まれてはいなかった、あれはちょっとした油断が見せた羽子さんの本心だったのかもしれないな。
羽子さんに連れられてホールへと入っていくとまだ部屋は暗くなく、2人隣同士で空いている席へと腰を下ろして待つ。

だけどこの施設、全く人気が無いんだな。
日曜日の昼過ぎだというのに、お客は俺たち2人の他には白い顎鬚が立派な老人が1人。
今時の人はあまり映像で星なんて見ないのだろうか? 俺自身見に来た記憶は無い、あったかもしれないがきっとそれほど好きではなかっただろう。

がらがらのホールの中、上を見続けられるようにゆったりと背もたれの倒された椅子の上で羽子さんは目を瞑っていた。
まだ星も何も映されていないややくすんだ白い天井の奥、さらには薄暗い瞳の奥で一体どんな映像を見ているのだろうか?

まるで眠っているようなその表情、それはとても綺麗で、舞台で眠り姫なんてやらせたらきっと相当似合うのではないかな。
しかしこの表情も学校で見せることはない、俺が知る『枯志野 羽子』という人物は完全に二面の顔を持っている。

はたしてどちらが『作り物』の顔であるのだろうか……

【羽子】
「どうかなさいましたか?」

椅子にゆったりと背を垂らしたまま、顔を僅かにこちらに向けてたずねてきた。
なんだか恥ずかしくなって慌てて視線を外し、白くくすんだ天井を眺めることしかできなかった。

【羽子】
「もうすぐ始まりますよ、楽しんでくださいね」

羽子さんが喋り終わるのと同時にフッと辺りが暗くなり、録音された物であろう若い女性のアナウンスが流された。
アナウンスが終ると暗い天上にぼんやりと星が映し出され始めた、どうやらプラネタリウムの開始らしい。

不規則に並んだいくつかの星が線で結ばれ、それを骨格にするように様々なモノが縁取られていく。
大熊、天秤、琴、水瓶……次々と形を変え、その都度それにまつわる逸話や由来などが解説されていく。

【羽子】
「……」

【一条】
「……」

当然2人の間には会話はおろか声を交わすことさえもない。
薄暗いホールの中、少しだけ首を捻って羽子さんに目を向ける、暗くてはっきりとはわからないがとても穏やかでぼんやりと天を眺めていた。
先ほどの映画館とは大違い、少なくともプラスの印象だけしか存在はしていないだろう。

とりあえずはこれで良かったかな、折角の休みに悪い印象だけで終らせてしまっては今日わざわざ連れ出した意味が無いじゃないか……

…

【羽子】
「お疲れ様でした、退屈しなかったですか?」

【一条】
「そんなまさか、とても楽しかったですよ」

【羽子】
「ふふ、口元、涎の痕が残っていますよ」

ちょんちょんと自分の口元で示してくれる、どうやら全部ばれているみたいだな。
残念ながら俺は開始後30分程度で眠ってしまった、あんな暗い中で子守唄みたいな話しを聞かされてついうとうとと……

【一条】
「は、ははは……すいません」

【羽子】
「謝る必要なんて無いですよ、とても気持ち良さそうに寝息を立てていらっしゃいましたから。
それだけよく眠れているということは、少なくとも不快ではないということなんですから」

【一条】
「羽子さんはよく見に来るんですか?」

【羽子】
「そうですね、テスト勉強に行き詰ってしまったりするとたまにお邪魔させてもらっています。
……それに、あそこは人を飾らなくて良い唯一の場所ですから」

【一条】
「?」

今の科白、きっと何か重要なことを云ったのではないかと思う。
しかし今の俺にその科白が理解できるはずがない、だって俺と羽子さんは互いに秘密を共有しあう仲ではないのだから。

【羽子】
「私のわがままも聞いてもらいましたし、もう結構な時間が経ってしまいましたね。
後は一条さんの洋服を取りに戻って、それで今日はお終いにしましょうか?」

【一条】
「そうしますか……あ、街に戻ったら一箇所だけ付き合ってもらいたい場所があるんですが、よろしいですか?」

【羽子】
「ええ、かまいませんよ」

……

【一条】
「うぅーん……あぁ!」

電車を降りて盛大に伸びをし、一気に緊張を解くとなんとも間の抜けた声が漏れてしまった。
慌てて横に気を配ると、口元に手を当てて羽子さんが笑みを見せていた。

【一条】
「あ、すいません、だらしなかったですね」

【羽子】
「いえ、充実したお休みになって良かったですね。
それで、私に付き合ってもらいたい場所とは?」

【一条】
「ご案内しますよ」

羽子半よりも一歩手前を歩いて先導する、これは先導の意味もあるが、何より横に並んでいないということで会話をしなくて済む利点がある。
今はまだ会話をする必要は無い、まだ聞くにはいささか早すぎるんだ……

【羽子】
「あ、ここは」

羽子さんを連れてきたのはいつの日だったか迷子になったあの川原だ。

【一条】
「ここに来るのは初めてですか?」

【羽子】
「初めてというわけではないですが、1回か2回ほどしかないですね」

【一条】
「ここは何も無いですからね……何も無いから良いのかもしれませんけど」

ポケットからオカリナを取り出し、吹き口を軽く含んで息を吹き入れる。

【羽子】
「ぁ……」

静かな世界に突如として聞こえたオカリナの音に羽子さんが小さく声を漏らした。
とても静かで雑音の無い世界、そこにオカリナの音はやかましくなく柔らかく日々手はその存在を消していく。
それほど長くはない旋律はやがて終わりを向かえ、最期の音がやんわりと夕焼けで赤色に彩られて世界へと消えていった。

【羽子】
「いつ聞かせていただいても、綺麗な音ですね」

【一条】
「そう云ってもらえると嬉しいですよ、中には俺のオカリナは悲しい音だって云う人もいますから」

【羽子】
「悲しい、ですか………」

【一条】
「吹いている俺としては特に思わないんですけど、羽子さんにはそう聴こえていますか?」

【羽子】
「私は特には、悲しいというよりもなんでしょう……もっと別の、上手く言葉にはできないんですけど」

顎に指を当ててうんうんと頭を捻っている、何も俺のオカリナ程度でそこまで悩まなくても。

【一条】
「音なんて人によって様々な聴こえ方がしますからね、あながちその意見も間違ってはいないのかもしれませんね」

赤で彩られた緑の土手の上にごろんと寝転がり、夕焼けに煌々と燃える空を眺めていた。

【羽子】
「あ、そんなところで寝られると服が汚れてしまいますよ」

【一条】
「そんなことは気にはなりませんよ、こうしているとなんだか酷く落ち着くんですよ……」

羽子さんが何か考えごとをするのにプラネタリウムを使うなら、俺は人の少ない場所でこうして空を見ていることが多い。
最近色々合ってそんなことをしている暇も無かったけど、俺には考えなければいけないことが山ほどあるんだよな。

過去の記憶もそうだけど、なによりあの豹変してしまった俺のこと、あれは一体どうしてああなってしまったんだろうな。

ぼんやりと空を見ながら考えていると、俺が寝転がるその横で僅かな物音。
視線を動かすと、俺の横で羽子さんが腰を下ろしてキラキラと照り返しを放つ川面を眺めていた。

【羽子】
「夕焼け、とても綺麗ですね」

【一条】
「そうですね」

【羽子】
「街の真ん中で見るのとは全然違う、きっとここで見ているから余計に綺麗に見えているのかもしれませんね」

さわさわと流れる風が羽子さんのショートカットを僅かに揺らす。
こうして見ているとやっぱりとても綺麗な人だ、学校にいれば人気もありそうな気もするのに……

【一条】
「2日間も付き合わせてしまって迷惑じゃなかったですか?」

【羽子】
「とんでもないですよ、久しぶりに連休をゆっくりと過ごせましたから。
こんなに楽しく過ごせたのも、本当に久しぶりです……」

【一条】
「あの……こんなこと云ったら失礼だと思うんですが」

【羽子】
「何でも云ってください、今日なら何を云っても許してあげますよ」

【一条】
「羽子さんって、休日に人と遊んだりすることってあるんですか?」

【羽子】
「………痛いところをつかれてしまいましたね」

今の科白、それは俺が今まで疑問に思ってきたものの肯定へと繋がった。

【羽子】
「ここで話してしまっても良いんですけど、折角ですから私の部屋に行きましょうか」

【一条】
「あ、いえ、話してもらわなくても別に……」

【羽子】
「嘘はいけませんよ、それに、今日ぐらいしか私も話してあげようなんて思わないでしょうから」

立ち上がった羽子さんがポンポンとスカートの汚れを叩いて落とす。
汚れを落とし終わるとスッと俺へと手を差し出してくれた。

【一条】
「すいません、よっと」

【羽子】
「行きましょう」

……

アパートの前までは何度か来たことがあるが、こうやって中へ入るのは初めてだ。
それ以前に『女の子の部屋』というものに入ること自体初めての可能性が極めて高いんだよな。

【羽子】
「飲み物持ってきますからくつろいでいてください」

くつろいでくれと云われても、どこに腰を下ろして良いのかすらわからないんだけどな……

【一条】
「むうぅ……」

俺の部屋とは明らかに違うその部屋の内装、これが女の子の部屋というものなのだろうか?

本棚に並べられたのはどう見てもマンガや雑誌の類ではない分厚く場所をとる辞書の類ばかり。
机の上も綺麗に整頓され、教科書やら何やらが乱雑に散らかっているなんてことはない。

それにこの部屋に入った時から僅かに漂っている香水のような香り、普段の羽子さんからは香水の香りはしてこないのにな。

【羽子】
「お待たせしました……って、どうしたんですか? ボォっと立ってらっしゃいますけど?」

【一条】
「あ、その、女の子の部屋って初めてなもので、どこに座ったら良いのかなーって」

【羽子】
「まあ、そんな緊張なさらずにどこでも好きなところに腰を下ろしてください」

【一条】
「そうですか? それじゃあまあ……」

どこでもと云われたが、思考回路が回らなかったのでとりあえずその場に腰を下ろした。

【羽子】
「……それで、いつごろから気付いていたんですか?」

【一条】
「学校にいる時の羽子さんを見ていたらなんとなく、いつも1人でいることが多いなって」

【羽子】
「1人でいることが多いというのはちょっと間違いですね、1人でいることしかできないという方が正しいでしょうね」

【一条】
「……」

【羽子】
「私には心を許せるような友人は1人もいません、ですからいつも1人でいるんです」

結構口にするのは辛い言葉、羽子さんの口調は表現の難しい困惑の色をしている。

【羽子】
「元々人付き合いの得意な方ではありませんし、加えてこの性格ですから、好き好んで私のような女に近づく人はいないんですよ」

【一条】
「寂しかったりは、しないんですか?」

【羽子】
「もう何年もこの状態ですから良い加減慣れてしまいましたよ。
私のように変に固く、規律にうるさいだけの女は1人でいる方が自他共に1番良い距離なんです」

【一条】
「……」

【羽子】
「ですから休日に他の人と外に出かけたり、楽しくお話をしあうなんて休日は私にはありません。
それに、私は外で遊んでいるよりも他にもやらないといけないことが色々とありますから」

他にもやらなければいけないこと、それはきっと勉強の類のことなんだろう。
一週間の内5日は学校に行き、残りの休みも勉強をしていてストレスになったりはしないのだろうか?

【一条】
「そんなことばかり続けていて楽しいんですか?」

【羽子】
「………楽しい訳無いじゃないですか」

【一条】
「え……!」

まさかの返答だった、羽子さんのことだから例え本心ではそう思っていても楽しくないなどと答えるはずがないと思っていた。
しかし俺の予想は見事に大外れ、それに羽子さんの声、困惑の色を通り越して暗さを帯びた声へと変わっていた。

【羽子】
「私もできることなら、勉強を続けて行くだけの生活なんて止めてしまいたい。
ですが、止めたくても止めれないことというのはどうしても存在するものなんですよ……」

【一条】
「羽子、さん……」

【羽子】
「あ、ごめんなさい……一条さんに愚痴を云ったところで迷惑でしたよね、今のは忘れてください」

無理矢理作った笑顔は違和感だけが強調された、見ているのが苦しくなるような笑顔だった。

PrrrrrrrrPrrrrrrrr……

携帯の音に作り笑顔がふっと消え、いつもの、学校で見る羽子さん顔へと変わっていた。

【羽子】
「少しだけ失礼してきますね」

携帯を持って部屋を出て行く、1人では何もできない俺は羽子さんが持ってきてくれたお茶に手を付けた。

【一条】
「はぁ……」

そうだよな、こんな勉強漬けの生活楽しい訳無いよな。
羽子さんも本心では止めたがっている、それでも止めることのできない何か理由があるみたいだし。

完璧主義者で隙の見せない羽子さんだけど、本当は悩むこともたくさんあるのだろう。
人付き合いにしても、勉強にしても……

【羽子】
「……」

電話を終えた羽子さんが部屋へと戻り、大きな本棚の本を下から1つずつ眺めていく。

【羽子】
「おかしいなぁ、どこにしまったんだろう」

下から眺めていき上の棚も全て見終わるが、目的の本が無かったのかもう一度下から探す行為をやり直していく。

【羽子】
「やっぱり無い、一体どこに……ぁ」

何度か下と上に視線を行き来させ、ようやく目的の物を見つけたのか羽子さんの視線が止まった。
それは一番上の棚よりもさらに上、何段にもなる本棚自体の1番上に目的の物はあったようだ。

しかしあの高さ、一番上の棚が手を伸ばしてやっとなのだから普通じゃ絶対に届かないだろうな。

【羽子】
「んん……うぅん!……」

爪先立ちで背を伸ばし、そこから腕をめいいっぱい上に上げても目的の本にはあと少しだけ届いていなかった。

【羽子】
「ぅん!……んんん!……」

何度やってみてもやっぱり届かない、前にも本屋で似たような光景を見た気がするな。

【一条】
「椅子があるんですから使ったらどうですか?」

【羽子】
「椅子はちょっと……高いの駄目なんです」

【一条】
「は……椅子高いですか?」

【羽子】
「わ、私は高所恐怖症なんです!」

【一条】
「高所って云うほど高い椅子じゃないと思うんですけど、でも椅子が駄目だったらどうやって上に上げたんですか?」

【羽子】
「一応縁までは届きますから、そこから少し力を込めて奥へ……」

で、奥にやったら取れなくなったと……ドジなのか抜けてるのか、なんだかなぁ。

【一条】
「俺がやりますよ」

【羽子】
「あぅ、申し訳ないんですがお願いします……」

当然羽子さんより背の高い俺は背伸びなどせずとも腕を伸ばせば届く。

【羽子】
「あ、その本です」

【一条】
「これですね……ん? 何か引っ掛かってるか?」

引っ張ってみても本が前に出てこない、奥の方で何か引っ掛かっているのだろうか?
片手で引っ張っても前に出てこないので両手で引っ張ってみる……両手でも出てこない。

【羽子】
「奥の方で何か引っ掛かっているのでしょうか?」

【一条】
「たぶんそうだと思います、む!」

【羽子】
「あまり力を入れると外れたとき突然力の行き先がなくなり……」

【一条】
「んぉ!」

「ますよ」と羽子さんが云い終わる前に本のつっかえが外れ、行き場の無い力は後ろへと。

…………拙い! 後ろには羽子さんがいるじゃないか!

【一条】
「うぁ!」

【羽子】
「きゃ!」

どんと背中が羽子さんにぶつかる、それでも俺の身体は止まらずに後方へと倒れて行く。

【一条】
「くっ!」

羽子さんに乗っかってしまうことだけは避けなければならない、俺は倒れつつも身体を後ろから前へと方向転換させる。

ポフン!

柔らかい感触へと手が沈む、後ろにあったベッドに手を付いてなんとか羽子さんの上に乗っかることを避けることができた。
ふぅ、これでなんとか一安心、かな………

【羽子】
「ぁ……」

【一条】
「……?」

視界には羽子さんの驚いた顔が広がっている、頬がやや紅潮し、眼が大きく見開かれていた。
俺はそんな羽子さんの綺麗な顔を上から見下ろしているわけで……

そのまま思考回路が停止する。

落ち着いてゆっくり整理してみよう、今の体勢から考えて俺は羽子さんの上にいる。
羽子さんはベッドに仰向けに倒れこむ状態で、それを上から見下ろす俺。

今からこの状態を見た人は、俺が羽子さんを押し倒したように見えるかもしれないな。

【羽子】
「ぁ……あの……」

【一条】
「……」

【羽子】
「この体勢はちょっと、は、恥ずかしいのですが……」

【一条】
「ぇ……」

……………………………うぁあ!!!

【一条】
「わ!」

一気に伝達回路から俺の全身に指令が伝わり、慌てて俺は羽子さんから離れた。
どうやら突然のことで全てが停止に近い状態になってしまっていたようだ、まさかあんな近くで羽子さんの顔を見ることになるとは……

今更ながら心臓がバクバクいい始める、同時に羽子さんになんて謝ったら良いかを必死に考え始めた。

【一条】
「あ、あの、その……ご、ごめんなさい!」

【羽子】
「い、いえ、これは事故みたいなものですから、気になさらないでください」

2人とも視線は交わさず、全く関係のない方を向きながら会話を繋げる。
事故とはいえあんな状況になって冷静でいられるほど俺には免疫が無い。

【羽子】
「本あ、ありがとうございます、た、助かりました」

【一条】
「そ、そうですか、あはは、ど、どういたしましてです」

なんだこの会話、2人とも動揺し過ぎで変なところで会話が切れてしまうな……

【一条】
「あ、俺そろそろおいとまします!」

この空気の中にいることが耐えられず、俺は逃げるようにして羽子さんに別れを告げた。

……

【羽子】
「……」

男性が慌ただしく去っていった扉の先を、ポォッと眺めていた。

もうそれなりの時間生きてきたけど、今まであんな近くで男性の顔を見たことなんてなかった。
例えそれが事故とはいえ、私が男性に押し倒されてしまったような感じ、しかもそこはベッドの上だった。

【羽子】
「ぁぅ……」

自分でさっきのでき事を想像しなおしてみると、カァッと顔が赤くなるのがすぐにわかった。
なんだか顔が熱い、私ったら何考えているんだろう。

【羽子】
「中学生でもあるまいし、こんなことくらいで私ってば……」

ベッドに置いてある大きなクッションを抱きかかえ、そこに顔を埋めてしまう。
誰も見ていないのはわかっているのだけど、どうにも安心できずにそんなことをしてしまった。

【羽子】
「一条、さん……」

早く治まって、この心臓のドキドキ……

そうでないと、勘違いしてしまうかもしれないから。

1人になった部屋の中で打つ私の心臓の音は、外に漏れてしまうのではないかと思うほど大きく私の中では響いていた。





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