【プロローグ】
白……
見渡す限り、一面の白……
瞳に広がるのは白い草原と、白い大空……
世界に存在するはずの色という色が姿を消し、辺りは全て純白の白
この世に天国なんてものが存在するなら、きっとこんな世界なんだろう
白という色はなんて良い色だろう、全てを無に返す始まりと終わりの色
この世界の生き物全てにおとずれる安眠の色、心の落ち着く色
そんな世界に存在する自分、俺は白の世界の住人になったんだ……
……
【女】
「……さ……、おき……だ……い」
【男】
「う……ん?」
【女】
「一条さん、起きてください、もう朝ですよ」
瞳の中にまたも白の世界が広がる。
しかし、それはさっきみたいな無の白ではなく、形ある白の世界だった。
白い天井、白い寝台、白いカーテン、そして白い制服を身にまとった女性、看護婦だ。
【看護婦】
「もう、何時まで寝てるんですか、今日は大事な日なんですから、こんな日に寝坊なんていけませんよ」
【一条】
「ああ、すいません、ちょっと夢を見てまして……」
【看護婦】
「起きれないくらい良い夢だったんですか?」
【一条】
「どうなんでしょう、良いと云えば良いのかもしれませんね」
【看護婦】
「ふーん、良い悪いを置いても、夢を見れるってことはよく眠れたってことですよ。
一条さん、ここ何日も満足に眠れてなかったんですから、よかったじゃないですか」
看護婦さんは笑顔を見せてくれた。
【看護婦】
「今日は一条さんにとって最高の日なんですよ。
ほら、太陽もこの日を祝福してくれてるみたいですよ」
笑顔のまま看護婦さんはカーテンを開けた。
眩しい光が俺の眼に差し込み、寝ぼけ眼の俺の眼に喝を入れる。
眼が慣れてくると、瞳に様々な色が主張を始めた。
木々の翠、海の藍、住宅のまだら模様、そのなかでも俺の眼に一番印象を与えたのは、空の蒼だった。
【一条】
「……綺麗ですね……」
【看護婦】
「そうですね、今日は快晴だから特に綺麗ですよ、それに、最初に眼が覚めた時は雨が降ってましたからね」
看護婦さんの言葉の最後は悲しげな声に聞こえた。
確かに、他の人にはそう感じるのかもしれないな……
【一条】
「それで、今日はどうしたんですか、何か急ぎの予定ありましたっけ?」
【看護婦】
「もぅ、忘れちゃったんですか?
朝から大事な話があるからって、昨日新藤先生に云われたじゃないですか」
【一条】
「新藤先生が……朝から……大事な話……?
……ああ!!!!」
【看護婦】
「わ、びっくりした、もぅ本当に忘れちゃってたんですか」
【一条】
「ころっと忘れてました」
【看護婦】
「だったら早く行ったほうがいいですよ、もう先生との約束の時間から一時間近く経ちますよ」
【一条】
「ええー!もうそんな時間、新藤先生怒ってますかね?」
【看護婦】
「それは無いと思いますけど、遅すぎると変な注射撃たれるかもしれませんよ」
物凄く怖いことを云っている、早く行かないと俺の命がまたも危なくなる。
【一条】
「すいません、ひとっ走り行ってきますんで、シーツとかお願いできますか?」
【看護婦】
「別に大丈夫よ、でも……」
【一条】
「じゃあすいません、お願いします!」
【看護婦】
「あ、一条さん……」
俺はさっそうと部屋を飛び出して新藤先生の所へと向かう
【看護婦】
「病院内の廊下は走らないでねー!」
看護婦さんの言葉はもっともだ、いつもなら俺だって病院内を走ったりはしない。
しかし今は別だ、俺の命がかかってるんだ。
(看護婦さん、すいません)一応心の中で謝っておく、ちょっとした罪悪感だ。
……
新藤先生
俺がこの病院に入った時に、主治医をしてくれた先生のことだ。
先生は脳外科が専門で医者としての腕もピカイチ、看護婦さんや患者さんからの評判もよく
この病院の名物先生みたいなものにもなっている。
俺の執刀を真っ先にかってでてくれて、俺にとっては大恩人の人だ。
『脳外科……第二診察室』
先生のねぐらの一つで、俺も先生に会う時は決まってこの部屋に呼ばれている。
軽いノックを二、三度してみる。
【男】
「はい、どなたでしょう」
【一条】
「新藤先生俺です、一条です」
【男】
「おぉ一条君か、入ってきたまえ」
扉を開けると視線の先に初老の男性が眼に映る、新藤先生だ。
【新藤】
「やあやあ一条君、待ちかねたよ、67分の遅刻だぞ」
67分、相変わらず几帳面な先生だ、きっちりと一秒のずれも無い。
【一条】
「すいません、ちょっと寝坊をしてしまって」
【新藤】
「寝坊? はっはっは、そうかよかった、昨日はよく眠れたようだね」
よく眠れた、ごくごく普通の人ならこの言葉に特別な感じを持つことは無いだろう。
しかし、今の俺にとっては、この言葉が救いの言葉になっていた。
【一条】
「それで先生、今日俺に用事と云うのは?」
【新藤】
「勿論君にとってプラスの話だよ、その話は後にして、とりあえずいつもの検診を始めようか?」
新藤先生は俺と会うといつも検診をする、検診といっても簡単な質問を返すだけのものだ。
【新藤】
「一条君、今日の体調はどうだね?」
【一条】
「これといって変わりません、いつもどおりに元気です」
【新藤】
「なるほどね、それで、食欲はどうだね?」
【一条】
「さっき起きたばかりですからね、もうちょっとすれば腹も鳴ると思います」
【新藤】
「食欲もあるっと、でもねーここの食事はあまり美味くないだろう、食事係には云ってるんだよ
『もうちょっと美味くならんのか』ってね、多分病人ってことを意識しすぎてるんだろうな。
病人だからやれ味を薄くしろだ、柔らかくしろと…………」
きた、先生の名物「脱線話」だ。
途中まではちゃんとした質問だったのによく先生の話はずれていってしまう。
この前は病室の衛生面について話していたはずなのに、いつのまにか寿司を回す意義について話がずれていた。
いや、もうずれてるなんてもんじゃない、とんでるんだ、ぶっとんでるんだ…………
【新藤】
「私はダージリンが良いと思うんだが、一条君はどう思うかね?」
突然話を振られても、考えてない以前に聞いてなかったぞ
まずいな、こんな時は無難に……
【一条】
「えっ?……お、俺もダージリンが良いと思います」
【新藤】
「そうかそうか、一条君もダージリン派か、うんうん」
病院内の食事の話をしていたはずなのに、いきなり紅茶の話ですか、やっぱりぶっとんでる。
それに、正直なところ俺はダージリンよりアップルティーの方が好きだ、すいません先生。
【新藤】
「よし、いつもどおり、どこも異常なしだね」
先生はカルテを描く手を止め、俺に向き直る
【新藤】
「さてそれじゃあ本題に入ろうか一条君、君がこの病院に来てからもう四ヶ月だ、その間病院暮らしはどうだったかね?」
【一条】
「最初のころは大変でしたけど、今はもうこれといって不自由してないですよ。
ここはよそとちがって堅苦しくなくて、かえって家より住みやすかったです」
【新藤】
「そうか、そう云って貰えると私も嬉しいよ、それで今日が何の日か解るかね?」
先生は俺に悪戯っぽくそんな質問を投げかけた
【一条】
「退院、でしょうか?」
【新藤】
「ふふっそうだよ一条君、今日は君が退院する日だ、ここ最近の君の体の調子はよさそうだし。
睡眠も昨日はよく眠れたようだし、もう実生活に戻っても体の面では何の問題も無いよ」
体の面では問題ない、しかしそれは体以外のところに何かしらあるということでもある。
その何かしらがなんであるかも俺には解っていた。
【新藤】
「それで一条君、まだ戻らないのかね?」
【一条】
「残念ながら、まだ」
【新藤】
「確かにあれだけの大手術をしたんだ、問題がゼロで終わる確立は低かった何か起こる覚悟もしていた
でもよりによって、残酷すぎたね君の記憶が……」
【新藤】
「…………無くなってしまったのは」
記憶……
俺が生きることの代わりに失ってしまったものだ。
そもそも俺がここに来る大事におちいったのは今から四ヶ月前、ちょうど年の瀬12月29日のことだった。
……
体が重い、何だか家の中が広く見える、実際には広くなっていないのだがその空間そのものが広く見える。
今日は色々と家の掃除したり買出しをしたりで疲れたからな、体が休養を求めているんだろう。
早く風呂にでも入って寝た方がいいだろうな、風呂だ風呂、タオルを取りに行かなくちゃ。
居間に男が一人、テレビを見ながら書類のチェックをしていた。
俺、風呂先に入っちゃうから
【男】
「ああ、寒いから湯冷めをしないようにな」
解ってるさ、じゃあ先に失礼して
タオルを持って踵を返し風呂場に向かう。
その時俺の頭の中で世界が反転した、強烈な嘔吐感、肌を刺す寒気、遠ざかる風景。
俺の足が崩れそのまま床に突っ伏してしまう、最後に眼に映ったのは冷たいフローリングの床だった。
【男】
「誠人! おい、しっかりしろ、誠人!!」
意識は暗闇の中に沈み、世界は闇に支配された。
再び闇を切り裂き光を得た俺の眼が最初にとらえたのは、俺の腕から伸びる医療用コードだった。
……
意識を取り戻したのは運ばれてから二ヵ月後、長い時間暗闇の中を歩いていたようだ。
俺は家で倒れた、それを親父が病院に連絡を入れて救急車を呼んでくれた。
病院に担ぎ込まれた人体を見て、医者は直に解ったらしい、もう手遅れだと……
諦める先生方をよそに一人の医者が緊急手術を名乗り出た、それが新藤先生だった。
他の医者は「無理だ」、「もう間に合わない無駄だ」口々にそんな言葉を投げた。
【新藤】
「たとえ助からないにしても、担ぎこまれた患者に何もしないのは私は納得できません。
ご家族の方がこのまま何もしないでただ死ぬのを待つだけの時間を過ごせると思いますか?
まだ死が訪れてない以上、僅かですが可能性があります。
ここは、私に執刀させてくれませんか?」
短くも長く感じるくらいの沈黙がやってきた。
【教授】
「わかった好きなようにやれ、ただし後の処理は全部お前がするんだぞ」
新藤は覚悟していただろう、これがこの病院での最後の手術になるだろうと。
直に人体を集中治療室に運び込み、着替えと消毒を済ませた新藤とアシスタント三人が入ってくる。
手術は想像を絶するものだった、手術開始から経過した時間は六時間、死ぬには十分な時間だった。
手術中のランプが消え中から新藤が出てくる。
【父親】
「せ、先生、誠人は、誠人はどうなりました」
【新藤】
「やれること全てをやりました、まだ体は生きていますがこの先どうなるかわかりません。
このまま回復に向かうのか、それとも数時間後に息を引き取るのか……
もし回復に向かうとしても、100%元通りには戻らないでしょう、たぶん後遺症が残ります。
後は彼の精神力の勝負、全ては時間と天に任せるしかありません…………」
【父親】
「そ、そんな……」
力なくその場に崩れ落ちる。
【父親】
「く……ま……こと……ぅ」
泣いている、今まで泣くことの少なかった親父が泣いていた。
俺にそれを確認するすべなど無かった、俺がもし泣いてる親父を見たらなんて声をかけられるんだろう?
……
俺の眼が覚めたとき物凄い数の看護婦と、医者が俺の目の前に現れた。
【医者】
「先生これは……」
【看護婦】
「信じられない……」
【新藤】
「あぁ奇跡だ、おい!だれかご家族の方に電話を」
まだ眼を覚ましたばかりの体はまだ睡眠を求めていた。
この騒音のなかでもう一眠りするか……
……
【新藤】
「君の眼が覚めたときは本当に驚いたよ、この世に奇跡があることを実感したね」
【一条】
「俺だって驚きましたよ、起きたら目の前に見たことも無い人が大勢いるんですから」
俺でなくても多分誰だって驚くだろうな、目の前に知らない人間がいるなんて。
取立屋くらいしか思いつかないぞ。
【新藤】
「しかし、その奇跡も完璧じゃ無かった……」
……
【新藤】
「一条君、気分はどうだね?」
【一条】
「誰ですかあなたは、どうして俺の部屋に?」
【新藤】
「ここは君の部屋じゃないさ、ここは病院の病室だ」
【一条】
「え……? 何で俺、病院に?」
【新藤】
「君はね自宅で倒れたんだ、それでここに運ばれて、手術をしたんだ」
【一条】
「手術!? そんな、いつの間に?」
いきなり眼が覚めた人間に手術をしたなんていっても信じられるわけがない。
しかし、自分の体から伸びている無数のコードがそれを現実のものと認識させる。
【新藤】
「時に一条君、今日が何日だか解るかね?」
【一条】
「今日は12月の30日じゃないんですか?」
手術なんて幾ら時間が掛かっても一日のうちに終わるだろう。
しかし、俺のそんな考えは次の一言で打ち砕かれた。
【新藤】
「信じられないかもしれないが今日は3月の1日、君は手術の後まる二ヶ月間眠っていたんだよ」
【一条】
「二ヶ月間!? 3月の1日!?」
今日の日付と眠っていた時間がダブルパンチで俺に現実を突きつけた。
【一条】
「ははは、そんな、まさか……」
【新藤】
「そのまさかなんだ、君はこの二ヶ月間の記憶があるかね?」
【一条】
「……」
記憶を掴もうとしても何も掴めない、手を伸ばしても空気が隙間をぬっていくだけだ。
これこそが、二ヶ月間眠っていたことの証明なのだろう。
【新藤】
「辛いかもしれないが現実なんだ、君は2ヶ月前自宅で倒れこの病院に来た。
そのまま手術をして、今日まで眠っていたのさ」
いっぺんに云われても解らない、頭が痛い、気持ちも悪い
思わず頭を抱えてしまう…………
【新藤】
「あぁすまない、いっぺんに云われても困るだろう、色々と聞きたいことがあるんだが…………
君の体調の方が優先だ、今日はもう休んでまた明日話を聞かせてもらうよ」
医者はベッドの側から窓際へと足を向け、カーテンを開ける。
【新藤】
「あいにく、今日は雨のようだね……」
窓の外に見えたのは激しい雨に塗りたくられた灰色の世界だった。
……
【新藤】
「お早う、昨日はよく眠れたかね?」
翌朝、医者はまた俺の所に来た、元気なもんだ
【一条】
「お早う御座います、よくとはいえませんが眠れました、えぇと……」
医者は俺の語尾の戸惑いを直に感じ取った。
【新藤】
「そうだね、まだ私は君に名前を名乗ってなかったね、私は新藤、新藤雄彦。
どう呼んでもらってもかまわないよ」
どう呼んでもいいんなら名前なんか必要なくなるじゃないか。
【一条】
「解りました新藤先生、それで今日は?」
【新藤】
「昨日の続きだよ、君の体調が優れないようだったので中断してしまったからね。
いくつか質問させてもらうよ、また気分が悪くなったら云ってくれ」
【一条】
「了解です」
返事と首の動きで先生に同意の意思を伝える、この先生は何か他の医者とは違うように感じる。
……
【新藤】
「ふんふん、名前、年齢、住所、電話番号と最低限の自分のことは覚えてるね」
先生の質問は簡単なもので、俺の身の回りに関することばかりだった。
二ヶ月間眠っていても自分のことは忘れないみたいだ。
【新藤】
「それじゃあちょっと質問を変えるよ、次は君の学校生活のことだ。
何人か友達や親しかった人物を云ってみてくれ」
【一条】
「えぇと、学校の知り合いは…………あれ?」
【新藤】
「……? どうかしたかい?」
あれ? どうしたんだ俺は? 俺の学校の知り合い、俺は学校で孤立していた訳でもないはずだ。
知り合いと呼べる知り合いも何人かいたはずだ。
それなのに……
【一条】
「お、思い出せません」
【新藤】
「……え?」
頭の中に思い浮かんでこない、グニャグニャと黒い影が頭の中で回る。
何時もなら影が知り合いの容姿に変わっていき、そこで顔と記憶された名前が一致するはずなのに。
頭の中の影はとても薄く、掴み所なく、一向に形を現さない。
それは、俺の頭の中に見知った人物像が存在しないことを表している。
【一条】
「何も頭に思い浮かんでこないです、知り合いのことが」
【新藤】
「そんなまさか、誰一人と出てこないのかね?」
俺には頷くことしかできなかった…………
【新藤】
「では、もっと前の学校のことは思い出せるかね?」
もう一度、今度はもっと昔のことを頭に描き出してみる。
しかし、またも影が現れるだけで形状を変化させない。
それどころかもっと悪いことになっている……
【一条】
「先生……」
【新藤】
「どうしたかね、何か思い出したかね?」
【一条】
「駄目です、それどころか以前の記憶が思い出せません、自分がどこの学校行っていたのか。
その学校で何があったのか、俺が何をしてきたのかさえも」
【新藤】
「ま、まさか、一条君もしかして……」
先生は俺の両肩に手を置き、俺の眼を真剣に見つめる、先生の手が僅か震えているのが体を通して感じれる。
いや、震えているのは先生だけじゃない、俺の体も震えていた。
先生は俺を診察室に連れて行く、その間も俺は記憶の断片を掴もうとする。
暗い闇の中に沈んだ記憶は俺がどんなに手を伸ばしても届くわけもなかった。
【新藤】
「さぁ、ここだよ」
先生に連れられてきた部屋には真ん中に椅子とテーブル、それに機械があるだけの部屋で。
隣にもう一部屋あり、そこには様々な複雑そうな機材が置いてあった。
【新藤】
「ここに座ってくれ、それでこれを、ちょっと重いかもしれないが」
先生は俺の頭に色々と機材を取り付ける、まず大本を被り、そこに何本ものコードを繋いでいく。
前にテレビで見たことがある……あったのかもしれない
これが脳波を調べる機械だと俺は知っていた。
【新藤】
「一条君、もう一度さっき同じ様な質問をするよ、君は君の思うまま偽りなく正直に答えてくれ」
【一条】
「はい……」
【新藤】
「では……学校に行っていた時の君はどんなことをしていたかね?」
……
【新藤】
「質問は終わりだ、先にさっきの部屋に行って待っててくれないか」
先生に促されて部屋に戻る、質問はさっきと同じ、高校のこと、それよりも前のこと。
しかし、やっぱり俺の頭にはなにも形成されなかった。
俺の頭に今有るものは何なのだろう、脳細胞という入れ物だけで中身は空っぽ…………
金庫に蓄積された紙幣を全て奪われてしまった気分だ。
……
部屋で待つこと数分、先生が紙、多分俺の診断書であろうものを持ってやってきた。
【新藤】
「待たせたね、早速だが君の診断結果だ……」
先生は紙を見ながらも真剣な眼を向ける。
【新藤】
「一条君、残念だが、君の脳内では少々障害が生じているようだ、君ももう解ってると思うが…………
君は記憶を失ってしまっている」
先生の見ていた紙が俺に差し出される、そこには赤と青、そして黒の三本の線が存在していた。
よく嘘発見器か何かで見るような線だ、違うのは一点。
その三本の線は曲線ではなく、真っ直ぐに美しい直線を描いていた。
【一条】
「線が、曲がってませんね……」
【新藤】
「やはり気付いてしまうか……知っていたと思うがあれは脳波を調べる機械だ。
本来なら人は物事を考えたりすると脳波に乱れが出てしまうものなんだ、でも、君の線は直線だ。
これが何を意味するのか……君の頭の中は何も考えられていないということだ」
最後の方は僅かな間を置いてからの台詞だった。
医師である者が患者にストレートに結果を云うことは患者にとっては精神的にきついものがある。
そのことを先生は考えてくれたのだろう、しかし、先生は医者だ。
事実を伝えるのもまた医師の務めなのだろう。
【新藤】
「多少の記憶の欠落は考えていたが、これほどのものになるとは……」
【一条】
「先生、多少は覚悟してたってどういう意味ですか?」
【新藤】
「……一条君、これは君の判断に任せるんだが、君は何の病気で手術をしたか知りたいかね?」
【一条】
「あ、そう云えば俺は一体何の病気で……」
そうだ、俺は自分が何の病気で手術することになったのかも解らない。
でも今の先生の言葉だ、「君の判断に任せる」これがどういったことなのか。
本当は先生は聞いて欲しくないんだろう、聞かされたときの俺の反応を恐れているのだろう。
事実を聞いて自分がどうなるかは解らない、現実を受け止めることができないかもしれないが…………
【一条】
「……先生…………教えてください、俺がなった病気は何なんですか?」
口は正直だ、後先考えないで目の前の真実を求めてしまう。
【新藤】
「……脳内出血、それもかなり重度のものだ……」
「脳内出血」その単語を聞いても今ひとつピンとこなかった。
それは脳内出血がどんな病気かも解らなかったからだろう。
【新藤】
「脳内出血には被核出血、視床出血、脳葉型出血、脳幹出血、小脳出血などに分けられてね。
小脳や大脳の出血なら処置が早ければあらかた助かることができる。
しかし、君の出血は脳橋で起きてしまった、脳幹出血だったんだ……
脳幹出血は中脳と延髄の間にある脳橋で出血が起こること、それは小脳や大脳出血とは訳が違う
発病から数時間で死に至ることがほとんどだ」
先生の説明は一般人の、しかも記憶を失ったものには難しすぎる。
簡単に説明をしてくれたけど俺にはてんで意味がわからない
ただ一つ解ったのは、俺は助かる見込みがなかったということだけだ…………
【新藤】
「君が担ぎこまれてきたときは瞳孔は針のように小さく、全身が麻痺状態だった。
でも何とか手術は終わった、その後どうなるかは誰にも予想できなかったがね」
ため息を一つ吐いて先生は遠い眼をした。
【新藤】
「そして二ヵ月後、君は意識を取り戻した、大方の医師の予想を裏切り、まさに奇跡と呼べるものだった。
その時から予想はしていた、あれだけ大きな手術をしたんだ、多少の記憶がなくなることはよくあることだ。
しかし、君は私のその予想枠を大きく出てしまっていた」
先生はもう一度大きくため息をつき俺に向き直った。
【新藤】
「まったく、奇跡の代償は大きすぎたね、これを見てくれ」
直線だけだった診断結果の下からもう一枚診断書が出てくる
今度の診断書も同じ様なものだったが一箇所で大きく青、赤、黒が震えている。
【新藤】
「ここの質問だけ針が大きく触れている、ここの質問を覚えているかね?」
【一条】
「…………俺の家族構成のところですか…………」
【新藤】
「そうだね、君が唯一はっきりと記憶が残っていた所だよ」
俺の家族構成、本当は一番忘れたかった所なのに、それは俺の唯一の記憶になってしまった。
【一条】
「先生、その話は……」
【新藤】
「あぁ、すまない、君にとっては辛いことだったね」
申し訳なさそうな顔で謝ってくれる、良い先生だ。
【一条】
「別に大丈夫ですよ、先生申し訳ないんですが今日は休ませて貰っても宜しいですか?」
【新藤】
「ああもちろんだ、今日はすまなかったねまだ体長も万全でないのに」
【一条】
「いえ、では失礼します」
一礼して部屋に戻る、今日はもう眠ってしまいたい。
【新藤】
「…………この世界は不平等すぎる……」
新藤は力なく机を叩く、人の精神面のことに自分が無能であることを嘆くしかなかった…………
……
【一条】
「あの時は正直全部嘘かと思いましたよ、急にあんなに沢山理解できませんから」
【新藤】
「ははははは、まぁ普通の人だったらパニックになるだろうね」
【一条】
「云っておきますけど、俺だってパニックになりましたからね」
そうでも云っておかないと俺は普通じゃなくなる、実際にパニックにもなったのだから。
その台詞に先生が笑う、俺もいっしょになって笑った。
【新藤】
「さてそれじゃあもう質問も終わったことだし、そろそろ君も退屈してきたことだろう。
もう退院の手続きは私の方でしておいたから、今日からの自宅に戻っても大丈夫だよ。
君と話ができなくなるのは少々名残惜しいがね……」
【一条】
「また近いうちに会えますよ」
【新藤】
「そうなってくれるとありがたいね、何か変わったことがあったらいつでも来てくれ。
君なら他の患者をほっぽりだしてでも対応するからね」
ちょっとそれはまずいんじゃないか、さすがにそれでミスなんてなったらシャレにならない。
【一条】
「解りました、では失礼します」
俺もあえて否定しないでおく、勿論二人のあいだで成立するジョークであるが……
部屋に戻るとシーツが綺麗にたたまれ、もう今までの主を待つこともないベッドが眼に入った。
その光景はとても晴々として、ひどく物悲しいものであった。
荷物をまとめて帰り支度を始める、結構着替えも溜まっていたようだ。
着替えを鞄に詰め、主を迎えることのないベッドに一礼をする、今までのねぐらに対する感謝だ。
鞄を背負い、机の上に目をやる、そこのあったのは小さなオカリナだった。
机の上においてあった片手に収まるオカリナを手にする、これは俺の記憶の欠片なんだ……
俺と記憶を繋ぐオカリナをポケットにしまい白の世界を後にする。
……
玄関に出ると、そこには新藤先生が待っていた。
【一条】
「先生、どうしたんですかこんなところで?」
【新藤】
「息子の見送りだよ、これから新たな世界に飛び立つ私の息子のね……」
先生の云う息子とは俺のことなんだろう、こんな莫迦息子の為に。
【一条】
「先生、お世話になりました」
俺は先生に深々とお辞儀をする、今までの感謝を込めて、多分全然足りてないだろうけど…………
【新藤】
「ふふ、楽しかったよ」
先生の笑顔を背中に浴び、俺は病院から一歩を踏み出す。
ここはいわば親鳥の巣、いつまでも巣にいては空の広さなんか解りはしない。
今ここからが、俺の新しい記憶の始まりなんだろうな……
〜 N E X T 〜
〜 B A C K 〜
〜 T O P 〜