【Unchanging musette 】


刀満様の家を出て、そろそろ三十分くらいだろうか。

普段刀満様たちがどんな道程で見回りをしているのかはわからないので
私がやりやすい形でさせてもらっても構わないだろう。

【橘禰】
「綺麗な月……だけど、いささか静か過ぎますね」

頭上で淡く光を放つ月はとても大きく、世界を吸い込んでしまいそうな錯覚を覚える。
きっとそんな風に感じてしまうのも、この静けさが原因の一つなのだろう。

【橘禰】
「これだけ静かだと、感覚も研ぎ澄まされるというもの……」

当たりの気配をうかがうと、感じるだけでも三体というところだろうか?

【橘禰】
「後はこれをどこでどう処理するか、ということですが……」

あまり狭い路地で戦うのは好ましくない、かといって広すぎるところでは
万が一にも取り逃がしたときが面倒になる。

動き辛く眼が確実に届くところか。
それとも動き易くこぼす可能性がある方か。

【橘禰】
「……前者が、まだ良い選択でしょうね」

行動を決めてからの動きは早い。
爪を尖らせ、一番近い敵の心臓目掛けて腕を突き出した。

貫かれた人型は体勢を崩し、地に着く前にその姿を消してしまう。
そのまま呼吸をする間もなく、二体目三体目と人型を貫いていく。

【橘禰】
「私だけでもかなりの数を始末しているのに関わらず
減った感じがしないということは、増殖スピードがそれを上回っているということですが……」

彼女の話を聞く限り、この奇妙な影を生み出せるのは僅かに三人だけらしい。
この影を討てるのは現状私と彼女、それから千夜様に聞いた天空という男性もきっと討つことが出来るだろう。

産み出す者と排除する者の数が同じでも、どうにも差は縮まるどころか伸びているのではないかとさえ思えてくる。

【橘禰】
「出来る限り、早く元凶を絶たなければならないようですね」

千夜様のため、ひいてはこの街のためにもだ。

【橘禰】
「だけど、それ以外にも懸念することは……っ!」

背筋に急に感じた寒気、ゾワリと体の上から下まで一瞬にして嫌な感じが駆け抜けた。
この感じを受けるのは随分と久しぶりだ……

【橘禰】
「どこ……」

さっきまでの影とは比べ物にならない嫌な悪寒。

隙を見せてはならない、少なくともあちらの姿を確認するまでは
殺気を消してしまってはいけない。
殺気を先に消してしまえば、相手の殺気に確実に飲まれる。

これはそういった嫌な寒気だ。

【男性】
「やれやれ、久しぶりの再会だというのに随分と険しい空気ですね」

【橘禰】
「っ!」

【男性】
「今晩は、お久しぶり」

最悪だ。

声が後ろから聞こえてきた、完全に背後を取られてしまっている。

【橘禰】
「……」

【男性】
「折角再会出来たんですから、綺麗な顔をまた見せてくださいよ。
私達、知らない仲でもないでしょうに」

【橘禰】
「そんな口車に乗ると思っているんですか?」

【男性】
「やれやれ、信用が無いですね。 では……これでどうでしょう?」

急に背後から消えた気配、それがほんの数秒後に私の眼の前へと移っていた。

【男性】
「ふふ、こうして顔を合わせるのは何年振りでしょうね?
もう振り返るのも嫌になるくらいの年数でしたか?」

【橘禰】
「私としては、二度と再会したくない一人ですよ。
ただでさえ忙しい中に、貴方の存在が増えてしまったのはマイナスでしかありません」

【男性】
「嫌われたものですね、まあそれも当然といえば勿論当然ですけど。
ですが貴女ほどの者がどうして人間などと手を?」

【橘禰】
「それが私の使命だから、それだけで十分に思えますが」

その言葉を聞いた途端、男性は口元に指を添えて笑いを上げた

【男性】
「はっはっは、いや失礼、貴女の口からそんな言葉が出るとは予想もしてませんでしたので。
許してください、あなたを知る私としても可笑しくて可笑しくて」

ぎりりと奥歯を噛み締める、一瞬でも隙を見せたのなら躊躇など必要ない。

この男、生かしておく必要はない……

【男性】
「おっと、さすがに笑いすぎましたね、失敬失敬。
あまり笑ってしまって貴女に殺されてはもともこもありませんからこの辺で抑えておきますよ」

【橘禰】
「どうして私の前に?」

【男性】
「それは、わざわざ私が云わなくとも感付いていると思いますが?」

【橘禰】
「なるほど……ならば、今この場で始めましょうか?」

隠していた耳を逆立て、同時に尻尾も全てを開放する。

【男性】
「おっと、抑えて抑えて。 何も今この場で、などとは考えていませんよ。
私にも予定というものがありますのでね」

【橘禰】
「そんな言葉が、信用出来るとでも?」

【男性】
「信じていただかないと困るんですけどねぇ、約束いたしましょう。
私の目的の前に、やらねばならないことを片付けるまでは貴女には絶対に手出しをしません」

【橘禰】
「私に手を出さない、では意味が無いということに気づいてはいないようですね」

【男性】
「なるほど、貴女が憑いている人間に手を出すな、と云いたい訳ですか。
よろしいでしょう、貴女の要件はのみますよ」

【橘禰】
「随分と性格が変わりましたね、幾千の月日が貴方の性根まで変えてしまったのでしょうか?」

【男性】
「私は元々こういう男なんですよ、貴方が今の地位にいない間まではですけどね。
それからの私がどうであったかは貴方もよく知るところではありますが」

【橘禰】
「……」

本当は信じたくはないのだけど、この男がいっていることには妙な信用性があった。
何故なら、この男は最初に見せていた殺気の全てを無くしていた。

今なら隙をつかなくとも容易くこの男を屠ることが出来るだろう。

だけど、だけどだ。

それを許さないというのが、私の弱さとこの男が持つ本当の恐怖なのだろう。

【橘禰】
「わかりました……貴方の言葉、信用しましょう」

【男性】
「納得していただけたようで何よりですよ。
さすがに和平協定の握手というわけにはいきませんので、私はこれで」

私相手に恐れることもなく容易く背を向け、落ち着いた足取りで私から離れていく。

【橘禰】
「これで、良かったんでしょうか……?」

【男性】
「あぁそうそう、私と貴方の約束は絶対ですけど。
それ以外では何が起きても恨みっこ無しですからね」

【橘禰】
「なっ、それは話が……!」

【男性】
「違わないんですよ、貴女は私の条件を受け入れた、それは私も絶対に守りましょう。
ですが私が守るのはそこまで、それ以外は条件に入ってないのですから、ね?」

【橘禰】
「貴方……少しでも街の人に危害を加えたら……」

【男性】
「私は条件を守るのですから貴方も条件を守っていただかないと。
貴女から破棄した場合、私は行動に移りますので、ではまた」

【橘禰】
「待ちなさい!」

慌てて殺気を全開にしてももう遅い、男は隠していた自慢の羽を広げて
悠々と空へと飛び立ってしまった。

【橘禰】
「私の莫迦、またと無いチャンスだったのに」

近くにあったコンクリートの壁をダンと叩いた。
じんわりと痛みが響き、叩きつけた拳がプルプルと震える。

【橘禰】
「あの男に油断してしまった私のミス……
やはりあの男、怖い男ですね」

もう思い出すのも嫌になるくらいの年月をまたいだ所謂腐れ縁。
昔からあいつにあった恐怖は、今なお衰えてなどいなかった。

それと同時に、今なお治らない自らの甘さに痛みを感じるほどに奥歯を噛み締めた……


……


【刀満】
「よし、こんなもんかな」

流しの蛇口を止め、洗い物で濡れた手をエプロンで拭く。
こんな動作、よほど主婦が身についてないと出来ないとか千夜が云ってたっけ。

……止めよう、どう考えたってこれはもう治らないしな。

【刀満】
「後は……この二人をどうするかだな」

仲良く姉さんの布団に二人を寝かせても良いのだけど、二人が入るには少し狭い。
布団を出してきて二人をそこに寝かせた方がこっちの労力も少なくて済むか。

【橘禰】
「ただいま戻りました」

【刀満】
「お帰りなさい、すみませんでした一人で行ってもらっちゃって」

【橘禰】
「いえ、そのことはお気になさらず。 二人は、まだ起きてないんですね」

【刀満】
「ええ、二人分の布団でも出してそれで対応しようと思ってたところですよ。
橘禰さんはどうしますか? なんでしたらもう一つ布団出しますよ」

【橘禰】
「私は大丈夫です、一晩くらい眠らなくても平気ですから」

【刀満】
「一晩って、そんな寝ずの番にすることもないでしょう?」

【橘禰】
「……」

橘禰さんの沈黙、それ願意を意味するのかはすぐに理解出来た。

【刀満】
「何か、ありましたね?」

【橘禰】
「……本当なら二人にも起きていて欲しかったのですが、これでは仕方がないですからね。
今のうちに刀満様にはお伝えしておきます」

橘禰さんがここを出て誰に会い、何があったのかを聞いた。
話の中に出てきた男性は、間違いなくあの人のことだろう。

【刀満】
「つまり千夜と橘禰さんには手を出さないけど、俺達には問答無用で出すってことですね。
もしあの人が俺を殺しにきて、橘禰さんが手を出したらルール違反ってことですか」

【橘禰】
「そうなります……申し訳ありません、私に甘さがあったばかりに
あの男を殺すチャンスを失い、刀満様の危機を増やすようなことをしてしまって」

【刀満】
「橘禰さんは何も悪くないですよ、もっと早く云わなかった俺が悪いんですから。
だけど千夜にとっては良いことじゃないですか、それで狙われなくなるのなら」

【橘禰】
「それは千夜様にとってだけです、刀満様が危険に晒されては何の意味もない。
カリスと云いましたか、彼女の目的がそいつ等なら、私がここにいる目的もあいつなんです」

【刀満】
「ん? 橘禰さんは千夜を守るのが使命なんじゃないんですか?」

【橘禰】
「それは、まだ千夜様にも話してないことなんですが……」

何か訳有りなのだろう、千夜にも話していないことを俺が無理に聞くわけにはいかないな。

【刀満】
「それはまた今度にしましょうか、とにかく俺とモニカが気をつけてれば
当面はこの中で大事になるようなことはないってことですよね」

【橘禰】
「それはまあ、あいつは自分の言葉だけはどんな事があっても守り抜きますから。
ですがそれでは刀満様達が……」

【刀満】
「心配はあり難いです、だけど俺にもこいつがいるんですよ」

頼りになる居候の頭をポンポンと叩いた。
気持ちよく眠っているのを妨害されたのが嫌なのか、もそもそと動いてまた眠りに落ちていく。

【刀満】
「俺もこいつには及びませんけど、ある程度は動けるようにもなってきましたし。
何より約束もありますから、そう簡単には死にませんよ」

【橘禰】
「刀満様……」

橘禰さんは俺の言葉に大きく息を吐き、千夜の側にしゃがみ込んだ。

【橘禰】
「不思議な人ですね……刀満様は。 普通の人ならば私のような存在に恐怖するところなんですが
それが全くなく、私の言葉全てを信じるなんて以前では考えられませんよ」

【刀満】
「以前というのは?」

【橘禰】
「もう思い出すのも嫌になるくらい昔ですよ。
時代の変化と云ってしまえばそれまでですけど、今の時代私のような存在は
存在しない方が普通の世界なんですよね」

【刀満】
「昔は橘禰さんみたいに妖怪は普通にいたんですか?」

【橘禰】
「勿論、もっとも今の私のように簡単に人の前になど現れませんでしたけどね。
それに普通の人にはまず目視することすら出来ませんでしたから」

【刀満】
「そうだったんですか」

【橘禰】
「ですから今の時代、私の存在を否定もしない刀満様は不思議な方です。
これは千夜様にも当てはまることではあるんですけど」

【刀満】
「俺はまあ、こいつの存在もありますから」

また嫌がられるだろうから、今度は頭を叩いたりはしなかった。

【橘禰】
「本当にこうしてると普通の子供と変わらないんですね。
それが本気になるとああまでなるんですから、見た目なんてあてにならないですよね」

【刀満】
「ですね、だけどそれは本人の前で云わないでやってください」

【橘禰】
「ふふ、承知しました。 ぁ、ふぁ……」

【刀満】
「布団、三人分持ってきますね」

【橘禰】
「有難う御座います」

今日の橘禰さん、どことなくいつもと違っていたのはきっと気のせいではない。
だけど明日の朝になれば、きっと元に戻ってるんだろう。

そういったことに千夜は敏感だからな……

……

【?】
「ま……と……さ……?」

ぼやけ始めた頭に声が聞こえてきた、どうやら朝みたいだ。

【橘禰】
「あ、お目覚めになられましたか?」

視界いっぱいに飛び込んできたのは俺を見下ろす橘禰さんの綺麗な顔。
俺はその綺麗な顔に見とれてしまい、完全に思考が一歩置いてかれていた。

【橘禰】
「お早う御座います、お天気も良くて気持ちの良い朝ですよ」

【刀満】
「……」

【橘禰】
「……どうかなさいましたか?」

【刀満】
「ぉ、お早うございます……」

【橘禰】
「はい、お早う御座います」

普段の千夜やらモニカの乱暴な起こし方とは違う。
やはり朝はこうやって優しく起こしてもらえるとありがたい。

橘禰さんは良いお嫁さんになりそうだ……

そんなことを考えながら、追いついてきた思考と身体をゆっくりと起き上がらせる。

【刀満】
「うーん、すいませんね起こしにきてもらっちゃって。
すぐに朝飯の準備しますから、お茶でも飲んで待っててもらえますか?」

【橘禰】
「そのことなんですが、勝手で申し訳ないのですが私が作らせていただきました」

【刀満】
「え? 橘禰さんが?」

【橘禰】
「泊めて頂いてなんのお返しもしないでは申し訳ないですから。
後は刀満様に味の確認をしてもらえればと思って、失礼承知で起こさせ頂きました」

【刀満】
「何から何まですいません、だけど俺が味見するまでもないんじゃないですか?
千夜から家の料理は全部橘禰さんがしてるって聞いてますよ」

【橘禰】
「ここは刀満様のお宅ですから、そこまで私のわがままを通すわけにはいかないんですよ」

【刀満】
「なるほど、わかりました……じゃあすぐに着替えてますから下で待っててください」

……

橘禰さんが作ってくれたのはこれぞ朝食、これぞ和食といった感じだった。
幸いにも俺が料理をするために、食材が何もないって状況はないので案外なんだって作ることは出来る。

朝は面倒なのでもっぱらパンを食べる俺には随分久しぶりの朝和食だった。

【橘禰】
「どうぞ」

味噌汁を小皿に掬って渡してくれた。
よくこういった夫婦の映像を見たことがあるけど、まさか俺が実際に体験するとは思わなかった。

しかも相手が橘禰さんとは、似合いすぎてなんだか恥ずかしい……

【橘禰】
「いかがですか?」

【刀満】
「普通に美味いですよ、これはもしかすると……出汁を?」

【橘禰】
「ご名答です、鰹節を煮出してとったものですよ」

やっぱりか、溶かすだけの出汁の元とは雲泥の差だ。
味噌汁が美味ければ後の料理の味なんて見るまでもない、どれも美味いに決まってる。

【橘禰】
「ふふ、お二人とお姉様を起こしてきますね」

にっこりと笑い、皆を起こしにいった。

【刀満】
「それじゃあ皆の配膳でもしてますか」

……

【千夜】
「おひゃよー……」

【刀満】
「だらしない声だな、顔洗ってさっぱりして来い」

【千夜】
「そうするー……」

【法子】
「ねみゅい……」

こっちはだらしないどころか完全に寝ぼけてやがる。

【刀満】
「姉さんも顔洗って、ん、モニカはどこいった?」

【モニカ】
「私がどうかしたか?」

【刀満】
「お、二人と違ってしゃきっとしてるな。 酒が残ったりしてないのか?」

【モニカ】
「あの程度でどうにもならないさ、なんだか美味そうな匂いもただよっていたしな」

グウウウゥゥゥ……

今日も快調に腹が鳴る、女の子だって意識は本当にないんだな。

【刀満】
「今日は走りに行かなかったのか?」

【モニカ】
「まあな、さすがに酒を飲んだ翌日に早く起きれはせんさ。
普段の身体ならどうということもないが、これではな」

なんだ、全く残ってないわけじゃないってことか。

【モニカ】
「とりあえずは腹ごしらえだ。
随分と狐が嬉しそうにしていたが、何かあったのか?」

【刀満】
「さてな、モニカの寝顔が可笑しかったんじゃないか?」

【モニカ】
「なるほどな、もう少し気の聞いた冗談でも云えるようになれよ」

ドス!

【刀満】
「ひぐっ!」

【モニカ】
「さ、ご飯だご飯」

【刀満】
「理不尽だ……」

いつもの日常と懐かしい日常、そんな現在と過去の入り混じった今この時間。

不思議と俺は笑っていた、もはやこれが俺にとっての日常。
もはや俺が過ごす日常というものは、これ以外には考えられなくなっていた。






〜 N E X T 〜

〜 B A C K 〜

〜 T O P 〜