【エピローグ】
木々の間から漏れる陽の光が少しずつ眩しさを増し始めていた。
もう5月も終わり、これからやっと夏に向けての下準備が始まっていくんだな。
そんなことを木々に囲まれた石畳の散歩道を、車椅子を押しながらぼんやりと考えていた。
【一条】
「良い天気で良かったですね」
【羽子】
「ええ、とても……」
車椅子に座った少女は柔らかく微笑んで、青々とした緑の色を楽しんでいた。
あの日、羽子さんはあれだけの血を流しながらも奇跡的に命を取り留めた。
まさに奇跡としかいえないようなでき事、医者もあれだけの出血でよく無事だったと心底驚いていたな。
【一条】
「これからは梅雨に入りますから、こうやって外に出るのもできなくなるかもしれませんね」
【羽子】
「そうですね、でも、緑たちにとっては願ってもない大切な時期ですから。
間近で見ることはできないですけど、潤った木々を眺めるのもまた綺麗ですよ」
【一条】
「はは、それもそうですね」
【羽子】
「……」
木漏れ日の先を眺めながら、羽子さんが少し悲しげな表情を見せる。
それは病院に入院するようになってから見せる、いつものあの顔だ……
【羽子】
「昔の私も、こうやって木々を眺めることもあったのでしょうか……」
昔の私、それは羽子さんが自分を偽っていた頃の自分ではない。
言葉通りそのまま、今の羽子さんと昔の、あの日までの羽子さんという意味だ……
奇跡的に命は助かったものの、奇跡は代償としてある物を羽子さんから奪っていった。
俺が奪われてしまったのと全く同じように、羽子さんも自らの過去を奪われてしまった。
今まで自分がどういう人物だったのか、今まで自分が何をしてきたのか。
さらに悪いことに、自分が誰であるのかさえも羽子さんは忘れてしまっていた……
【羽子】
「……一条さん、いつもいつもありがとうございます。
毎日学校で忙しいのに休日まで私のところに来ていただいて」
【一条】
「いえいえ、これも彼氏の努めですからね、むしろ楽しいくらいですよ」
【羽子】
「本当に……そう思ってくれていますか?」
【一条】
「どうしたんですか、急に?」
【羽子】
「私は、最低な女ですから……」
左腕を捲くり、細かい傷の中に一際目立つ大きな傷を露出させる。
【羽子】
「前の私はこんなことをするような最低な女です、そんな私は彼方にやさしくしてもらうような資格はありません。
それなのにどうして……」
【一条】
「……その傷について、必死に悩む羽子さんを知っているからですよ。
どれだけ悩んで羽子さんがそうなってしまったのかを知っているから、羽子さんの力になりたいんですよ」
【羽子】
「私が、この傷を悩んで……」
【一条】
「それに、俺がどうしようもない時に助けてくれたのはいつだって羽子さんだったんですよ?」
【羽子】
「ぇ……?」
【一条】
「だから、最低なんて云うのは止めにしましょう……俺にとって、羽子さんはとてもよくできた人なんですから」
【羽子】
「……」
そのままだんまり視線を下に向け、腕をピンと伸ばしたようなかたちで肩が張っていた。
照れているのかもしれないな、やっぱり記憶は失っても羽子さんは羽子さんだ……
【羽子】
「そ、そんな昔の私を褒められても……それに一条さんが私をそう思ってくれていたのは昔の私の時ですから。
今の私はあなたのことはおろか、自分のことすら満足にわかっていないんですよ?」
【一条】
「今でも俺の気持ちは変わっていないですよ、今だって昔と変わらず……好きですよ」
【羽子】
「……そう云うのは少しズルイです、だけどそう云われてしまった以上、私も早く思い出さないといけませんね」
【一条】
「別に、思い出さなくても良いじゃないですか」
え? っと小さく声を漏らし、不思議そうな眼で俺の顔を見ていた。
【羽子】
「……でも、今の私はあなたのことを」
【一条】
「思い出さなくても、これからまた作っていけば良いじゃないですか。
想い出なんて、2人がいれば十分に作り直せるんですから……」
【羽子】
「ぁ……」
車椅子越しに羽子さんの肩を抱きしめる、ピクンと震えがあったけどそれもほんの一瞬だけ。
回した俺の腕に自分の手をそっと当て、安心したかのように笑みを見せた。
【羽子】
「彼方は、私の想い出になってくれますか……?」
【一条】
「はい……」
【羽子】
「ありがとうございます……なるほど、昔の私がどうだったのかはわからないですけど。
あのころの私が彼方を好きになった理由、なんとなくわかった気がします」
今度は俺が照れくさくなって視線を外す、別に羽子さんからは見えていないんだけどなんだか気まずくなっちゃって。
過去に縛られて自分を見失う必要はない、最初は悩むかもしれないけどいつかは気がつかなければならないんだから。
それに、思い出さない方が良い記憶だって存在するんだ。
羽子さんにとって、昔の自分を思い出すことで両親との確執を思い出させてしまうことは辛すぎる。
幼少時代の親の仕打ち、親が自分をどう見ているのか、さらには親で悩み続けて自分を偽り自らを傷付けてしまったことを。
そんなものは思い出させる必要は無い、忘れてしまっている方が良いんだ……
もし思い出して羽子さんが悩み続けるようなら、今度こそ俺が力になってやろう。
羽子さんを失わせてしまったのが俺なら、今度は2度と失ってしまわないように俺が力になってやろう。
【一条】
「……」
【羽子】
「これからも、よろしくお願いします……一条さん」
【一条】
「ええ、いつだって力になりますから」
抱きしめる腕に少しだけ力を込めようとすると……
【美織】
「あぁー! 病院で不順異性交遊だー!」
【一条】
「なっ! 人聞きの悪いこと云うな!」
2人の間に割って入ってきた莫迦みたいに威勢の良い声に慌てて羽子さんの体から手を放す。
美織がブンブンと手を振って駆け寄ってくる後ろから、音々が申し訳なさそうにごめんなさいと手を合わせていた。
【美織】
「やっほー、お見舞いに来たよ」
【羽子】
「お2人は確か……宮間さんと、姫崎さん、でしたでしょうか?」
【美織】
「宮間さんなんて他人行儀だなあ、前は美織、羽子って呼び合った仲じゃないのさ」
【羽子】
「ぇ、そうだったんですか?」
【美織】
「そだよ、だからあたしのことは宮間じゃなくて美織って呼んでよね」
【羽子】
「それじゃあ、あの……美織、さん……」
【美織】
「さんは余計だけど、そのうち取れてくれれば良いかんね」
【一条】
「ちょっと音々、あれどういうこと?」
美織の態度がいつもと違ってなんだかしっくりこないので音々に小声で訪ねてみた。
【音々】
「羽子さんが記憶喪失だって聞きましたから、最初から親友ってことにしようって美織ちゃんが決めたんですよ。
前は2人ともあの性格でしたから照れくさかったみたいで、この機会にって」
【一条】
「あの美織がねえ、へぇ」
【音々】
「何かと不自由もすると思いますから、私たちも羽子さんの力になろうって。
それにはまずお互いの関係から修復していくのが一番早いですからね」
【美織】
「マコ、ちょっと羽子と一緒にその辺散歩してきても良いかな?」
【一条】
「ああ、2人ともお互いの再確認をかねて行ってこいよ」
【美織】
「サンキュ、それじゃちょっとばかしあたしと2人っきりになってもらうからね」
【羽子】
「はい、ぁ、わわ、ちょっと早いですよ……」
車椅子を押す美織の背中を眺めながら、最初から2人はこんな関係だったんじゃないかなって思えてくる。
前の羽子さんには友達と呼べるような間柄の人はいなかったけど、今度からはあいつや音々と友達関係を築いていけるんだろうな。
【一条】
「あの2人、けっこう気が合うかもしれないな」
【音々】
「ふふ、最初からあの2人は気が合うんですよ、ただ2人ともとても照れ屋さんでしたから」
これなら美織と羽子さんが2人揃って笑顔で会話を交わす日も遠くないだろう。
俺だけじゃない、美織もいる、音々もいる、彼方には力になってくれる人がたくさんいるんですよ。
これから、またこれから作っていけば良い。
2人の背中を見つめながらこれからの時間がとても楽しみになっていくことを
5月も終わりのこの世界の中に願っていた。
頑張っていきましょうね、羽子さん……
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