【メイドさん > ご主人様  ?】


小さいとき、なりたかったものは街角のパン屋だった。
特別パン屋に執着があったのかは覚えていないが、何故だかパン屋になりたかった記憶がある。
毎朝学校に通学するさいに前を通る小さなパン屋。
確か名物はクリーム入りメロンパン、味は良かったが驚くほど美味くはなかった。
しかしあのパンを食べ、俺はパン屋に憧れていたのだと思う。

きっかけなんてそんな些細なこと、パン屋にしても玩具屋にしても美術商にしても同じこと。
俺の夢は街の小さなパン屋で毎日パンを焼く、そんな小さな夢だった……

……

【声】
「之也様」

【之也】
「ん……」

【声】
「之也様、起床の時間です」

声の直後、かけていた毛布をがばっと剥ぎ取られ、開け放たれた窓から朝日が目を刺激する。

【之也】
「うぅぅ……おはよう」

【メイド】
「お早う御座います、もう起床の時間ですよ、あまり手をかけさせないでください」

【之也】
「低血圧だから朝は弱いって云ってあるだろ……」

【メイド】
「之也様が低血圧であろうとなかろうと時間は待ってくれません」

そう云うと彼女は手にしていた着替えを俺に渡し、一礼して部屋を出て行った。

【之也】
「やれやれ……」

寝巻きからワイシャツに着替え、ぴんぴんにはねた寝癖を直して長い髪を後ろで縛る。
ちょうど髪型でいったらポニーテールの形。

【之也】
「こんなもんだろ」

俺の朝は毎日変わらずこんな感じだ。

……

一階に下りると香ばしい匂いが鼻を掠める、パンの香りだ。
オーブンから出されたパンを手に、さっきのメイドがテキパキと朝食の準備をしていた。

【之也】
「おはよ」

【メイド】
「それはさっきも聞きました」

【之也】
「相変わらず手厳しいね……」

この少々口の悪いメイドは家に住み込みで働くお手伝いさん。
名前を『姫乃 鳴海』という。

【鳴海】
「なんですか? 私に何か?」

【之也】
「いや特に、ただなんとなく見ていただけだけど」

【鳴海】
「そうですか、お暇なんですね」

彼女がここで働くようになって半年が経とうというが、彼女の口の悪さは今に始まったことじゃない。
初対面のころから彼女の口は悪かった。

【鳴海】
「朝食の用意が出来ました、どうぞ」

準備が整ったというので椅子に腰掛ける。
テーブルの上には飾りも何もない焼いた食パンが焼きあがりそのままの形で置かれている。

【鳴海】
「ナイフです」

渡されたナイフを食パンに入れる、切られた隙間から湯気が昇り、香ばしい香りが一際際立つ。
適当な大きさにパンを切り、テーブルに並べられたジャムやらバターやらの各種味付けに手を伸ばす。

様々な種類の中から選んだのはブルーベリーのジャム、白い柔肌に紺色のジャムが美しく映える。

【之也】
「いただきやす」

軽く手を合わせてからパンに噛り付く。
カリカリと香ばしい外側とは対照的に、中はふんわりと柔らかく、それでいてもちもちした感触もある。

【鳴海】
「珈琲と紅茶、どちらになさいますか?」

【之也】
「紅茶の茶葉は?」

【鳴海】
「アッサムです、牛乳の方も温めてありますが」

【之也】
「それじゃあアッサムのロイヤルで」

【鳴海】
「かしこまりました」

ティーカップにコポコポと牛乳を注ぎ、続いて紅茶が注がれる。
これが正式な紅茶の淹れ方……らしい。

【鳴海】
「どうぞ」

渡されたカップからはもあもあと熱さを誇示するような大量の湯気が昇っていた。
息を吹いて軽く紅茶を冷まし、紅茶に口をつける。

【之也】
「ふぅ……朝だな」

【鳴海】
「そうですね」

この家の朝食はいつも同じ、焼きたての食パンと珈琲・紅茶。
半年間これ以外の朝食にめぐり合ったことが無い。

これが特別好きというわけではない、材料がこれしかないわけでもない
答えは簡単、鳴海は料理が出来ないからである。

掃除や洗濯の類では文句の付けようもない優れた腕なのだが、料理のことになるとからっきし駄目なのである。
一番初めに食パンを丸のまま持ってこられたときは本当に驚いた……

……

【鳴海】
「之也様、これを」

【之也】
「これは……?」

【鳴海】
「食パンです、このまま噛り付いても良いですし、切ってジャムをつけるのもまた美味しいです」

【之也】
「やっぱりこれ朝飯なんだ……」

【鳴海】
「はい、他に何に見えたんですか? 之也様にはこれが瀬戸物にでも見えましたか?」

いや、どう見てもパンにしか見えないけどさ。
いきなり食パンを丸ごと出されて朝食だって云われても納得は出来かねない。

【之也】
「ナイフある?」

【鳴海】
「ここに」

……

昼食も鳴海が作ってくれた、しかし……

【之也】
「……」

【鳴海】
「どうかなさいましたか?」

【之也】
「いや……これはやっぱり、昼飯?」

【鳴海】
「はい」

目の前にあるのは型から外されただけの丸のままの食パン。
朝と外見の全く同じものが、今再び俺の前に現れた……

どうにも信じることの出来ない俺はパンを突いてみたり、香りを確かめたりもするが
やっぱり朝と同じ食パンだ。

【鳴海】
「食パンがそんなに珍しいですか? 朝も同じものを見たと思いますが?」

【之也】
「やっぱり朝と同じパンなんだ……」

【鳴海】
「はい、新しく焼きました」

【之也】
「そうでなくてさ、なんで昼も同じ食パンを?」

【鳴海】
「私はこれしか作れない」

ん? それはどういうことだ?
普通お手伝いさんというのは炊事洗濯家事が万能であって初めてやとってもらえるのではないのだろうか?
その中でも炊事は特に重要視される能力のはず、それが無いというのは……

【之也】
「えっと……どういうこと?」

【鳴海】
「私は他の料理は出来ない、他の料理をやって食べ物を無駄にするのは良くないと思う
だから私はこれしか作れない」

ようは食べられないような料理をしても無駄だということだ。

【之也】
「すると俺のこれからの食事は全部これ?」

【鳴海】
「ハニートーストぐらいなら出来ますが?」

焼いて蜂蜜かけるだけですか……

……

そんなことがあって朝食は食パン以外出ることは無い。
まあこの食パン、店で売っていても問題ないくらい味は良いのだけど。

【之也】
「ごちそうさま」

パンを二枚食べ、紅茶で咽を潤す。
アッサムの香りが柔らかく鼻に抜け、ホッと落ち着かせてくれる。

【鳴海】
「もうお店には向かわれますか?」

【之也】
「そうだな、後30分ぐらいしたら出ようか」

【鳴海】
「わかりました、出るさいには声をおかけください」

ぺこりと頭を垂れ、食事の後片付けをする。
一応俺は鳴海の雇い主、一度片付けを手伝おうとしたらこっ酷く叱られた。

メイドの世界では、主人が後片付けを行うのはメイドに出て行けを意味しているらしい。

やることのなくなってしまった俺は部屋に戻って時間を潰すことにした。

……

【之也】
「鳴海、そろそろ出るよ」

【鳴海】
「わかりました、すぐ準備いたします」

準備と云っても俺や鳴海に関わることではない。
ガスの元栓を締め、窓の鍵を確認して、もう一度元栓の確認をする、これだけだ。

【鳴海】
「お待たせいたしました」

【之也】
「うし、そんじゃ行くか」

……

鳴海と揃って家を出る。
俺ももう20を越えた身、仕事もしないでかじって生きるわけにはいかない。

当然これから仕事場に向かうわけである。

【鳴海】
「良いお天気、これならお客様もたくさん入りそうですね」

【之也】
「あまり込み過ぎても困るんだけど……」

【鳴海】
「仕事をしている人の言葉とは思えませんね」

【之也】
「褒め言葉としていただきましょうか」

【鳴海】
「これっぽっちも褒めていませんが?」

わかってますよ、鳴海が俺を褒めることなんて滅多に無いじゃないか。
いつもいつも毒ばかり吐くんだから……

家を出て20分ほど、歩いていけるほどの近場に俺の仕事場はある。
しかし……

【之也】
「……」

【鳴海】
「何か?」

【之也】
「いや……やっぱりメイド服って目立つなと思ってさ」

鳴海にとって普段着という物は存在しない。
どこに行くにも鳴海はメイド服を着用している、家にいる時はもとより買い物に行くさいもメイド服で出て行く。
最初はあれこれと云って聞かせたが、治る気配も無い聞く気配も無いのでもう諦めている。

【鳴海】
「メイドがメイド服を着ているのがそんなに珍しいですか?
私からすれば、メイドが着物を着ているほうがよっぽど不自然に思いますけど」

【之也】
「そりゃそうかもしれないけどさ、普通世間一般でメイドなんて雇わないじゃない」

【鳴海】
「金銭的な問題ですか? それとも体裁を考えてですか?」

【之也】
「たぶん後者じゃないかな……」

ご近所さんにメイドを雇っているなんて知られたくないのが普通だ。
俺も最初は隠そうとしたさ、だけど彼女が来た初日にもうご近所さんにばれてしまった……

【之也】
「ご近所さんにどう思われてるんだろ……」

【鳴海】
「たぶんちょっと変わった人だと思われていますよ」

はっきり云わないでくれ、落ち込むだろ……

……

街の騒音から僅かに外れた店、そんな表現がぴったりとくる俺の仕事場。
白を基調とした建物に大きな看板、そこには『ZEUS』と名が刻まれている。

カランコロンと呼び鈴が鳴り、人の訪れを告げる。
しかし出迎える人は誰もいない、それもそのはず、ここで働くのは俺と鳴海の2人だけなんだから。

【鳴海】
「準備中の札下げてきます」

【之也】
「んぅ」

言葉にならない返事で返し、店の下準備に取り掛かる。
ここは俺の親父が作ったは良いが従業員が決まらず、そのまま放置されてしまった店である。
そこで俺が名乗りを上げ、この店のマスターとして働くことになった。

『ZEUS』は主に珈琲……紅茶と食事をメインとしたいわゆる喫茶店のようなもので
俺が厨房を、鳴海がウエイトレスとして働いている。
当然鳴海はメイド服のままで……

【鳴海】
「掃除を開始します」

【之也】
「俺も料理に取り掛かりますか」

箒を持ち出して店内を掃除する鳴海を尻目に俺は料理に取り掛かる。
ここは喫茶店とはいえ、一応はちょっとした料理を日替わりで作ることにしている。
勿論本格的な物は作らない、厨房を1人で回すにはなるべく手のかからない物か、前日からの煮込み料理が手っ取り早い。

そういったわけで、昨日から仕込んだ鍋がここにある。
蓋を開けるとよく洋食屋で嗅ぐお馴染のソースの匂いが広がる、昨日仕込んだビーフシチューだ。

【之也】
「ちょっと濃いか?……鳴海、ちょっと」

【鳴海】
「なんでしょう?」

【之也】
「これちょっと味見してみてくれる」

【鳴海】
「わかりました」

厨房に回った鳴海が味見用の匙を取り出し、シチューの味を確かめる。

【鳴海】
「良い味です、ですが濃いめに感じる人もいるかもしれませんね
くどさを取り除くために、お出しする時に生クリームとローリエを添えると良いと思います」

鳴海は料理下手のくせに舌は一流料理人のそれに近い物を持っている。
食べるのが好きなくせに作るのは苦手といった典型的な例だ。

【之也】
「なるほどね、生クリームとローリエ……」

忘れないうちに口ずさんで冷蔵庫を確認する、生クリームもローリエもちゃんと予備があった。

【之也】
「うし、今日はシチューをメインとしてパスタを二……三品
お茶請けにパイでも焼いておけば良いか」

自慢ではないが、俺はそこそこ料理が上手い。
小さいころはパン屋になりたかった人間だ、それなりに料理に興味もあった。
しかしまあこの仕事を選んだ大きな理由は鳴海の出現だ、あいつが料理下手だったのが一番の決め手だ。

【鳴海】
「掃除終了しました」

【之也】
「ご苦労様、時に鳴海、今何のパイが食べたい?」

【鳴海】
「ブルーベリー」

【之也】
「また変化球な物を、でもまあそれもたまには良いか」

この店のメニューはあらかたこうして決まる。
その時その時鳴海が食べたいもの、それがこの店のメニューなのだ。

そのために時折ブルーベリーのパイなどの変化球も出てくるが、それもまた面白いと思う。
面白いのだがたまに無茶な要望も出る、クロカンブッシュを作れと云われたときはどうしようかと思った。

【之也】
「クリームにジャムを混ぜて上からベリーを撒く、これでいこう」

パイの構想も決まり、早速取り掛かろうと冷蔵庫に手をかけるが……

【鳴海】
「ベリーの買い置きなんかある訳無いじゃないですか」

【之也】
「それもそうか、そんじゃ買出しかな」

【鳴海】
「私もお供します」

【之也】
「鳴海に手伝ってもらうほどでもないと思うけど」

【鳴海】
「バゲットが切れています、それからアッサムとディンブラも買い足さないといけませんし
確かハッカ糖も切れているかと」

【之也】
「どれどれ……うわほんとだ」

材料棚の上から二段目、そこには俺が常に口にしているハッカ糖が閉まってある。
別段好きでもないが、何かを口にしていると酷く落ち着く癖が俺にはあるらしい。
ガムや飴も試してみたがどうにもしっくりこず、ハッカ糖が一番俺には合っていた。

料理中、散歩中、掃除中所構わず口にしているので無くなるのも早い。
先日業務用の大きい袋を買ったんだけど、三日で無くなってしまった。

【之也】
「バゲットとハッカ糖一人で持つのは無理そうだな」

【鳴海】
「私の助けが必用ではないですか?」

【之也】
「そうみたい、開店準備も8割方終ってるし、今のうちに買い物済ませるか」

……

【之也】
「やっぱりハッカ糖だな」

スーパーで買い物を済ませ、俺は早速ハッカ糖を一本口にした。

【鳴海】
「そんな刺激物のどこが美味しいんですか?」

【之也】
「知らない、俺も気が付いたら好きになってたから」

【鳴海】
「自覚無いんですね、中毒になる一番危ないケースです」

【之也】
「ハッカ糖中毒ってのも無いと思うけど、だけど……」

すれ違う人がさっきからちらちらとこちらを気にしている。
どちらが人目を惹いているかというと、当然鳴海の方にである。

理由は至極簡単、メイド服だからである。
人から見たら俺はどんな風に見られているんだろう、年頃の女の子にメイド服着せて
見る人が見たら変態だと思われてるんだろうな……

【鳴海】
「悩み事ですか?」

【之也】
「まあね、俺世間から変態にでも見られてないかと思って……」

【鳴海】
「どうでしょうね、しかしそれは考えすぎかもしれません
自分が気にしているほど世間の眼は自分には厳しくないですから、堂々としていた方が良いですよ」

【之也】
「そんなもんかねぇ……」

「俺メイド雇ってるんだ、良いだろー」って踏ん反り返るのも違うんじゃないか?

【鳴海】
「堂々としていれば十分周囲に溶け込めますよ
その長いテールも、真っ黒いシャツも、くわえたハッカ糖も、周囲に溶け込めれば別段異質な物には見えませんから」

【之也】
「ちょっと待った……それって俺のことか?」

【鳴海】
「他に誰がいるんですか、ご自分が妙な事をなさっているから世間の眼が気になるのではないんですか?」

【之也】
「は、ははは……」

そういえばそうだった、鳴海は自分のことを世間一般人と同じように考えている。
メイド服が周囲に及ぼす影響力にはこれっぽっちも気付いてなんかいないんだった。

確かに俺も変わった恰好をしているかもしれない、しかし鳴海よりも目を惹くとはさすがに思えない。
しかもあいつは遠回しに俺を変人扱いした、相変わらず口が悪いことで……

【之也】
「今日のパスタは激辛決定だな」

【鳴海】
「また八つ当たりですか、いい加減子供じゃないんだからそういったくだらないことはしないでください」

誰のせいで俺が卑屈になってると思ってるんだ……

【?】
「おーい、ナーリー」

突然後ろから声がかかる、振り返るとそこには手をブンブンと振るう女の子が1人。

【?】
「やっほー」

【之也】
「美奈穂か」

【鳴海】
「そのようですね」

女の子は俺たちが気付いたのを確認すると小走りにこちらに駆け寄ってくる。

【美奈穂】
「よっす、2人とも元気?」

【之也】
「ぼちぼちね」

【鳴海】
「美奈穂様もお元気そうですね」

【美奈穂】
「まあね」

ハッカ糖をくわえたポニーテールとメイド服の2人組みに話しかけてくる人物はほとんどいない。
それどころか俺に話しかける人物がほとんどいない、こう見えても小中高と友人と呼べる間柄は2……3人しかいなかった。

何でも俺と一緒にいると呪われるらしい……

そんな少ない間柄の1人がこの女の子『神崎 美奈穂』なのである。

【美奈穂】
「2人とも後姿ですぐにわかっちゃうよ、つくづく探偵には向かないわね」

【鳴海】
「之也様は目立ちますから」

【之也】
「おまえの方が目立つって」

【鳴海】
「どういう意味ですか? メイド服だからって云うんですか、それはメイドに対する冒涜です」

無表情……無変動のまま怒りを滲ませた、こんな時の鳴海は一番怒っている。

【美奈穂】
「まあまあ2人とも喧嘩しないで、結局の所どっちも目立つんだから
私みたいにあまり目立たないようにしてないとすぐに浮いちゃうよ」

云っておくが美奈穂も十分に目立つ。
ピンクに染められたショートカットだけでも目立つのに、周りを挑発しているとしか思えない露出の高い服を身につけている。
下着の見えそうなミニスカート、胸元の大きく開いた服、それでよく目立たないと云えるもんだ。

【之也】
「……」

【美奈穂】
「ん? ナリどこ見てんの? やーらしー」

【之也】
「そう思うんだったらそんな服着るなよ」

【美奈穂】
「やーだよ、こっちの方が動きやすいんだもん」

確かにそんだけ生地が少なかったら動きやすいだろうさ。

【美奈穂】
「2人で買い物してるところを見ると、もう今日のメニューは決まったの?」

【之也】
「まあ一応な」

【美奈穂】
「何々、今日のメニュー何?」

【之也】
「ビーフシチューと激辛パスタ」

【美奈穂】
「まーた嫌がらせみたいに辛いパスタ出すんだ、なんか嫌なことでもあったの?」

激辛パスタが店に出るとき、それは決まって俺がむしゃくしゃしているときである。
一度美奈穂も食べたことがあるが、あまりの辛さに涙ぐんでたっけな。

【美奈穂】
「だけどナリのビーフシチューか、私も食べにいこっかな」

【之也】
「いつでもどうぞ、知り合いだからちょっとはサービスしてやるよ」

【美奈穂】
「あんがとね、お礼にキスでもしてあげようか?」

【之也】
「遠慮します……それよりも、そろそろ本題に移ってくれないか?」

美奈穂が俺に話しかけるとき、それはただ知り合いだからということではない。

【美奈穂】
「ありゃ、やっぱりバレてるんだ」

【之也】
「おまえとの付き合いも長い、それぐらいわかるさ」

【鳴海】
「またご依頼ですか?」

【美奈穂】
「そうよ、だけど今度のはちょっと難題、依頼内容は『奪取』よ」

美奈穂の眼が真剣なものに変わる、横にいる鳴海の眼もまた鋭いものへと変わっていた。

【之也】
「よりによって最大難の依頼か、それで、ターゲットは?」

【美奈穂】
「大手IT企業『アメジスト』」

【之也】
「これまたターゲットもきついこと……」

IT企業『アメジスト』といえば、僅か二代で巨万の富を得たIT企業の重鎮的存在
現会長の北澤昇が基礎を築き、息子の現社長北澤 弘光が芽を開花させて大きくなった大会社だ。

【鳴海】
「アメジストがターゲットに選ばれた理由は何なんですか?」

【美奈穂】
「どうやらあの会社には裏に色々と繋がっている所があるらしいの
暴力団から政界、さらには海外の武器貿易会社とも繋がってるって噂よ」

【之也】
「武器貿易会社か……その噂が本当なら、急成長の理由も納得だわな」

【美奈穂】
「そゆこと、ナリにやってもらいたいことは云わなくてもわかるよね」

【之也】
「アメジストと繋がってる証拠を持ってこいってことだろ」

【美奈穂】
「当たり」

真剣な眼を崩し、ニカニカと緊張感の無い笑顔を見せる。
昔から猫のように表情が変わるやつだと思っていたが、今の状態がまさにそれだな。

【美奈穂】
「あこはセキュリティーも高くて攻略困難かもしれないんだけど、ナリに頼んで大丈夫かな?」

ニカニカ笑っていた表情も消え、今度は玩具をねだる子供のような眼を向ける。

【之也】
「攻略は困難なほど落とし甲斐がある、親父の口癖だったな」

【美奈穂】
「ってことは……」

【之也】
「OK、その依頼お受けいたしましょう」

【美奈穂】
「ナリー、ありがとー!」

思案顔が再び笑顔に変わり、俺に抱きついてくる。

【之也】
「急に抱きつくな、熱い」

【美奈穂】
「……普通女の子が抱きついたら赤くなって照れる所じゃないの?」

【之也】
「残念ながらそういった感情が希薄なんでね」

【美奈穂】
「ちぇ、つまんないのー」

やれやれといった感じで俺に絡ませていた腕を解いた。

【之也】
「それで、報酬の方はいかほど頂けるんで?」

【美奈穂】
「報酬はこれでどう?」

美奈穂は俺の手に何かを握らせる。
それは棒の先端に白と青の渦巻き模様が描かれた飴、ぺろぺろキャンディー通称ぺろキャンである。

【之也】
「おい、これは何よ?」

【美奈穂】
「ぺろぺろキャンディー、子供の頃に食べたこと無い?」

【之也】
「そういう意味じゃない、どうして報酬がぺろキャン一個なんだ!?」

【美奈穂】
「そんじゃもう一個あげようか?」

満面の笑みでもう一つ飴を取り出す、今度のは白とオレンジの渦巻き。これもまた綺麗な色使いだ。

【之也】
「あのな、数じゃないだろ……」

【美奈穂】
「冗談よ、いつも通り基本報酬と出来高報酬で計算するから報酬は仕事が成功してからね」

【之也】
「いつも通りか……それより美奈穂、おまえどうしてぺろキャンなんか持ってるんだ?」

【美奈穂】
「駅前の福引の商品、5等の残念賞がぺろぺろキャンディーだったのよ」

また変わった景品を用意したもんだ、普通残念賞といったらティッシュだろ。

【美奈穂】
「おっともうこんな時間、これから人に会わなくちゃならないから行くね、これおまけ」

そう云うともう一つのぺろキャンを俺に渡し、大きく手を振りながらかけていってしまった。

【之也】
「こんなもんもらってもな……」

確かに子供の頃に一回くらい食べたさ、だけど俺ももういい大人だ
大の大人がぺろきゃん舐めながら歩いてたら引くだろ……

【之也】
「鳴海、はいこれ」

【鳴海】
「私が預かって置けば良いんですか?」

【之也】
「おまえにあげる、俺はどうもそういった菓子は苦手だよ、鳴海は飴好きだったっけ?」

【鳴海】
「泣くほど好きではありませんが、嫌いではありません」

【之也】
「そんじゃそれ貰ってくれ、折角貰ったのに捨てるのも忍びないから」

【鳴海】
「わかりました、頂戴いたします」

……

【之也】
「……」

【鳴海】
「?」

なんだろうこの違和感、特にこれといっておかしいことをしているわけではない
しかし、どうにも奇妙なミスマッチ感覚が俺の横から発せられている。

俺の隣にいるのは年頃の女の子だ、そしてその女の子は飴を舐めている。
確かにそう云われればなんら違和感もなく、珍しい状況だろうとは思わない。

しかし、しかしだ
横にいるのがメイドで、そのメイドが舐めているのがぺろぺろキャンディーということになると状況は一変する。
すれ違う人間の眼が確実に一度鳴海に向く、その後隣の俺にも向く。

なんだかその視線が妙に痛いのは気のせいだろうか?

【鳴海】
「何か?」

【之也】
「いや……飴美味しい?」

【鳴海】
「はい、とても甘いです」

そりゃ飴だからねえ、辛い飴や酸味の強い飴もあるが大概の飴は甘く出来ている。
しかもぺろキャンとなれば十中八九味は甘いと確定付けられる。

飴の裏側にぺろぺろと舌を這わせ、時折飴の上部をかじかじとかじる
それだけのことなのに、強烈な雰囲気を辺りに撒き散らしている。

これぞメイド服の力、これぞぺろキャンの力、この状況を世間一般でなんて云ったっけな?

【之也】
「……どうでも良いか」

【鳴海】
「何がどうでも良いんですか?」

【之也】
「ただの独り云」

【鳴海】
「そうですか、それよりも良かったんですか?
今度の依頼、一筋縄では行きませんよ」

今までの会話を聞いていた人ならわかると思うが、俺は喫茶店の店長をしながらもう一つ仕事を受け持っている。
頼まれればどんな仕事でもこなす便利屋、一般的に何でも屋といわれているものだ。
一般的には便利屋・何でも屋と云われているが、俺たちの世界ではこの仕事を『ドミネイター』と呼んでいる。

仕事内容も下はペットの捜索から、上は警察が動いて当然のことまで何でも引き受ける
もっとも、ちゃんと礼金を払ってくれればだが。

普段は街で喫茶店を営んでいるしがない若者でしかないが、こう見えても俺の手はすでに人を殺している。
礼金さえ払ってもらえれば人の命も平気で奪う、現代で云えば仕事人と云えばわかり易いだろう。
現代にこんな仕事があるのはおかしいのかもしれないが、実際に存在しているのだからどうしようもない。

しかし、今でも人を殺す依頼は気が引ける。
殺す相手がどんなに汚いことをしていても、99%近く俺とは全く関係の無い人物であるからだ。
面識も無い、何をしたのかも興味が無い人物を殺すのは一瞬の躊躇が生まれてしまう。

しかし、気が引けると云っても所詮一瞬だけ、その一瞬が過ぎればもう俺は相手を仕留めている。
俺は犯罪者だ、捕まれば弁解の余地無く死刑を宣告されてもおかしくない。
こんな人間が世間には何人も潜んでいるとなると、この世に安全なんて言葉はすでに存在していないな……

【鳴海】
「之也様?」

【之也】
「ん?」

【鳴海】
「心が乱れています、そんなことでは依頼を成功させることは出来ませんよ」

【之也】
「ああ、わかってるよ」

俺の隣にいるこいつは俺の助手をしてくれている、つまりはこいつも犯罪者だ。
ドミネイターとして動き出した当初から鳴海には世話になっている。

無論、俺に依頼をしてきた美奈穂もドミネイターである。
とは云ってもあいつは依頼を繋ぐパイプ役としての仕事が多いので、依頼を受けることは少ないが
あいつもすでに人を殺している、まったく、危ない世の中だよ……

……

買い物を済ませて店の開店準備を再開する。
鳴海がテーブルメイキングを、俺はパイの調理に取り掛かった。

【之也】
「パイが焼きあがるまで後20分か、クリームも準備出来てるしベリーも大丈夫
シチューも十分煮込んである、俺の方は準備完了かな」

【鳴海】
「ホールの準備も終了しました、『OPEN』の札下げてきましょうか?」

【之也】
「ああ、そうしてくれ」

この店が他の店と少々違っているのは開店時間にある。
普通の喫茶店が朝の10時辺りに開くのに比べ、この店は昼の3時に店が開く。

当然何の計画性も無く3時に開けているのではない、俺がランチタイムに店を開けるのが嫌なだけだ。
ランチタイムは飲食店にとって稼ぎ時である、しかしランチタイムに満員になる喫茶店など見たことが無い。

仮にこの店がランチタイムで大繁盛したとしよう、そうなってくると今度は従業員2人というのが効いてくる。
いかに鳴海が優秀なメイドとはいえ、ひっきりなしに来る客を1人で対応するのはさすがに無理だろう。

そんな俺独自の理論が産まれたため、ランチタイムを避けた3時に店を開けようということになった。
この時間だと混雑することも無く、客も変に急ぐ必要が無いのでゆとりを持った食事が出来る。

ただ夕方になるとそれなりに込んでくる、まあそれは覚悟のうえ、儲けを出さないと店は潰れてしまうからな。

【鳴海】
「準備できました」

【之也】
「後は客を待つだけか、なるべく来ないでくれると嬉しいんだけど」

【鳴海】
「経営者にあるまじき発言ですね」

……

【鳴海】
「ありがとうございました」

【之也】
「ふいぃ……これで一段落か……」

夕方の一番混雑する時間を終え、ホッと一息。
時間はすでに9時をまわっていた、ここから先はそうそう込むことは無い。

テーブル客はもういないし、ここから先団体さんが来ることも無い。
カウンター席に座ってもらえば後は俺1人で対応も出来る。

【之也】
「お客もはけたことだし、俺たちも夕飯にするか?」

【鳴海】
「之也様がそれでよろしいというのであれば」

【之也】
「そんじゃあ飯にしますか、鳴海はペスカトーレとレッドペッパーどっちが良い?」

【鳴海】
「辛くない方」

【之也】
「ペスカトーレだな、すぐに出来るからカウンター席で待ってな」

【鳴海】
「従業員がお客様用の席で食べるのはご法度かと」

【之也】
「経営者は俺だ、俺がこの店のルールブック、他店と同じ考えは通用せんよ」

ちゃんとしたレストランや料理屋の人間が聞いたら刺されかねない発云だな……

【之也】
「パスタ茹で上がるまであるから先にこれな」

皿にビーフシチューを盛り、生クリームを少量円を描くように垂らす。

【之也】
「はいよ」

【鳴海】
「ありがとうございます」

【之也】
「これバゲットな」

ザクザクと乱雑に切ったバゲットの籠を横に添えてやる、スープ物とバゲットはすこぶる相性が良い。

【鳴海】
「いただきます」

カチャカチャとスープとクリームを混ぜ、薄茶色になったスープを口に運ぶ。

【鳴海】
「……」

【之也】
「いかがですか?」

【鳴海】
「ソースは申し分ないです、野菜の甘味と肉からの旨みが十分に出ています。
赤ワインと……ビールを使いましたか?」

【之也】
「ご名答」

ビールで肉を煮込むと柔らかくなって味が出る、以前読んだ料理書に確かそんなことが書いてあった。

【之也】
「それで、肝心の味の方はどう?」

【鳴海】
「私が口にせずとも、お客様の反応を見ていれば答えはお解かりになると思いますが」

そう云うとそのまま二口、三口と無云でスープを口にする。
今日のお客の反応は上場だ、ということはシチューは美味いって事か。

【之也】
「満足いただけたようで、それじゃあメインに移らせてもらおうかな」

ぐらぐらと沸騰した湯の中にパスタを投入する湯で上がりまでおよそ3分半。
その間にパスタに絡めるソースの調理に移る。

ペスカトーレはトマトを使用した魚介がメインのパスタ。
ホタテ、イカ、アサリ、タコをニンニクとオイルで軽く炒め、魚介が硬くなる前にトマトを混ぜる。
ソースが完成したらそこに茹で上がったパスタを入れ、手早く絡めれば完成だ。

【之也】
「ほいよ、ペスカトーレお待ちどう」

【鳴海】
「……」

パスタから立ち上る湯気に鼻を近づけ、ひくひくと香りを確認する。
香りを確かめた後、フォークにパスタを絡ませて一口口にする。

【鳴海】
「……茹で加減、具材の硬さ、ソースの味付け……二重丸です」

二重丸は鳴海の評価の中でも好感触を意味する。
ダメ、丸、二重丸、特上と評価があり、特上は今まで一回ももらったことが無い。

【之也】
「今回も特上は無しか」

【鳴海】
「調理師免許も持ってない、料理修行にも出たことが無い人にしては上出来だと思いますが?」

【之也】
「そうなのかねぇ……」

【鳴海】
「いえ、この程度で満足していたら一生このままですね」

きっちりと釘刺してくれたよこの子は……

……

【美奈穂】
「おーい、まだだいじょぶ?」

客がいなくなり、しんとしていた店内に美奈穂の声が響く。

【之也】
「よ、そろそろ来る時間だと思ってたよ」

【美奈穂】
「うーん、ほんとはもっと早く来ようと思ってたんだけどさ、マヤにデータ頼んでたら遅くなっちゃって」

【之也】
「なるほどね、飯はどうする?」

【美奈穂】
「勿論食べるよ、ナリのビーフシチュー楽しみにして来たんだから」

カウンター席に腰を下ろした美奈穂は満面の笑みを見せ、夕食を注文する。

【鳴海】
「『CLOSE』の札、下ろしてきますね」

一足先に夕食を終え、ブルーベリーパイの味を見ていた鳴海がとてとてと店を出て行く。
美奈穂が来る時はいつも『CLOSE』の札が下りる、当然それには大きな訳がある。

【之也】
「とりあえずこれシチューとバゲットな、パスタは辛いのと辛くないのどっちにする?」

【美奈穂】
「辛くないの」

鳴海と同じペスカトーレか、まあ美奈穂が辛いの苦手なのは知っていたから初めからこっちだろうとは思っていた。

【之也】
「それで、調べはもうついているのか?」

【美奈穂】
「セキュリティーや進入経路なんかの細かいところはマヤがやってくれてる
決行日は明日か明後日、時間は1時から3時の間、遅くても3時半には出ないと色々と面倒かな」

シチューの肉を口に運びながら、美奈穂は言葉を続ける。

【美奈穂】
「今回はなるべくクロを出してほしくないの、クロが出ちゃうとセキュリティーが強固になるのは目に見えてるし
公共電波が動き出すと証拠を一掃されかねないからね」

美奈穂が云う『クロ』とは死体のこと。
なんでこう呼ばれているのかはわからないが、ドミネイター間では昔からこう呼んでいるらしい。

【之也】
「拳銃の使用は不可能ってことか」

【美奈穂】
「そうなるわね、万が一にでもクロを出してしまった場合、完全処理をしなければならないわ
完全処理の難しさはナリでもわかってるわよね?」

【之也】
「勿論、クロが生きていたという事実全ての抹消、戸籍から生活空間
果ては親まで全てにわたっての処理、疲れるったらありゃしない」

全てのクロにそうしろというわけではない、依頼内容が奪取の場合だけクロの処理は細かくなる。
これが奪取が最難関と云われる所以、これだったら暗殺の方がまだ楽だ。

【美奈穂】
「本当はナリにこんな危険度の高い依頼をもってきたくはなかったんだけど……」

いつもの口調ではなく、急に弱々しい口調に変わる。
いつも無駄に元気な声を聞きなれているだけに、この口調の変化に驚いてしまう。

【之也】
「美奈穂?」

【美奈穂】
「ごめんね……厄介な仕事持ってきちゃって」

それは普段の美奈穂からは決して聞くことの出来ない償いの言葉だった。

【之也】
「おまえ、この仕事を俺に持ってきたのには何か裏があるんだな?」

【美奈穂】
「え……どうして」

【之也】
「美奈穂の態度を見てれば嫌でもわかるよ、もう二桁以上の付き合いをしてるんだぞ」

こいつが見せるこのしっくりこない態度、これは大体俺に何か隠し事をしている時の態度に他ならない。

【之也】
「何を隠してるんだ?」

【美奈穂】
「……ごめん、いくらナリでもこれだけは教えられない」

【之也】
「そうか……」

教えてくれないものは俺が何をやったって教えてくれない。
美奈穂は昔からそういうやつだった。

【之也】
「ペスカトーレ、お待ちどう」

【美奈穂】
「……ありがとう」

……

【美奈穂】
「それじゃね、明日になればデータも出来てると思うからマヤのところに行ってみてね
マヤもナリに会いたがってたよ」

【之也】
「マヤがねぇ……」

【美奈穂】
「ごちそう様、それから、ごめんね」

小さく謝罪の言葉を残し、造った笑顔で美奈穂は別れを告げた。

【鳴海】
「よろしかったんですか?」

【之也】
「何が?」

【鳴海】
「美奈穂様が之也様に隠していたこと、気にならないんですか?」

【之也】
「気にならないと云ったら嘘になる、だけど、無理矢理聞くのはフェアじゃないだろ」

【鳴海】
「フェミニストのつもりかもしれませんけど、之也様には似合いませんよ」

【之也】
「これはまた手厳しい……」

営業の終了した店内に箒をかけながら投げかける鳴海の言葉は、こんな時でも皮肉たっぷりだった……

……

【鳴海】
「之也様」

【之也】
「ぐぅ……」

【鳴海】
「朝ですよ、眼が覚めないのでしたら水でもかけましょうか?」

【之也】
「わかったって、起きますよ……」

くそ、狸寝入りも一瞬でばれてしまった。

【鳴海】
「くだらないことをしていないで、早く着替えて下に下りてきてください」

軽く一礼を残し、鳴海は部屋から出て行った。

【之也】
「はぁ……まだ眠い……」

……

一階ではいつもと同じパンの香り、何らかわりばえのない食パンの香りが漂っている。

【鳴海】
「お早う御座います、眼は覚めましたか?」

【之也】
「あんだけびしょびしょにされれば嫌でも眼が覚めるよ」

あの後うっかり二度寝をしてしまった俺に、鳴海は問答無用で水をぶちまけた。
まったく、主人に水かけるメイドがどこにいるんだ……

【鳴海】
「寝すぎるのは体に毒です、時間も無駄に浪費されますから悪いこと尽くめです」

【之也】
「それだったら他の起こし方してくれよ……」

【鳴海】
「大音量でアダルトビデオでも流せば起きてくれますか?」

【之也】
「……実行するなよ」

【鳴海】
「だったら時間通りきっちり起きてください」

パンを抱きかかえたままお説教された、ご主人様の威厳ゼロだな……

……

【之也】
「そんじゃ行って来るわ」

【鳴海】
「不審者に間違われぬようお気を付けて」

【之也】
「ふん……」

こいつはなんでこう素直に俺を送り出してくれないのだろう? 俺何か悪いことしたか?

【之也】
「そうだ、鳴海も一応準備はしておいてくれないか、使うことは無いと思うけど」

【鳴海】
「万が一ってやつですか、之也様のご命令なら一応手入れをしておきます」

【之也】
「夕方までには戻ってくるから、それまで適当に時間潰していてくれ」

【鳴海】
「メイドに暇な時間があると思ってるんですか?」

無いですね、ごめんなさい……

……

白に塗り固められた廊下にコツコツと靴の音が響く。
誰もいないと廊下はこんな音がするんだな、ここを標的にしたら色々と不便そうだ。

【之也】
「さすがにここだけは攻める気にもならないな」

目的の場所にたどりつき、眼の前のドアを二回ノックする。

【?】
「どうぞ」

【之也】
「しつれいー」

扉を開けると、茶色いロングへアーと眼鏡が印象的な少女が出迎えてくれた。

【?】
「あ、之也さん、お久しぶりです」

【之也】
「久しぶり、マヤ」

彼女が昨日、美奈穂が云っていた少女、マヤである。
勿論マヤのというのは愛称で、本名は『倉前 真野』という。

【真野】
「美奈穂さんから聞きましたよ、今度の依頼は随分と難易度が高いようですね」

【之也】
「みたいだね、そんなわけでマヤの力を貸してもらいに来たわけさ」

【真野】
「承知しています、少々お待ちください」

そう云うとノートパソコンの電源を入れ、かつかつとなんらかの作業をこなしていく。

【真野】
「はい、これが監視カメラの設置位置と警備員の巡回経路、こっちは進入経路と逃走経路です」

画面に建物の見取り図が映し出される、タイトルに『アメジスト内部図』とあるのでこれがアメジストの内部構造なのだろう。
そこには赤く光る点が数箇所と、白い実線が何本か引かれていた。

【真野】
「調べてみたところ、アメジスト内部はほとんど死角になるポイントがありません
無数にある監視カメラが死角を消し、消しきれない場所は巡回経路に組み込まれています」

【之也】
「つまりは絶対に見つかるってこと?」

【真野】
「普通に入ればまず見つかりますね、ですがそこを何とかするのが私の役目ですから」

にっこりと子供っぽい笑みを見せると、再びかつかつとキーボードを叩いた。

【真野】
「私が監視カメラのいくつかを誤認識させます、そうすれば必然的に死角が生まれますからそこを利用してください」

こんな少女にそんなことが出来るのかと初めての人は疑うだろう。
しかし、これが出来てしまうから驚きなのである。

彼女はただの少女ではない、彼女は俺の協力者だ。
とはいってもドミネイターではない、しかし彼女の能力はドミネイターのそれをはるかに凌駕しているかもしれない。

彼女の正体は『イーター』、コンピュータを使ってあらゆる情報をハッキングするクラッカーの一種だ。
イーターというのはドミネイターと同じく、裏にだけ広まっている名称の一つ。

ありとあらゆるデータを食い物にするところから、イーターと呼ばれているとかいないとか美奈穂が云っていた。

しかもマヤは普通のイーターではない、他のイーターの情報さえも手にすることが出来る
『カオス……イーター』の1人なのである。

【之也】
「いつもいつもすまないな、この仕事が成功したら何かお礼しないとな」

【真野】
「わ、私に何かお礼をしてくれるんですか? 嬉しいです」

【之也】
「何か欲しい物とかある?」

【真野】
「そうですね……之也さんの手料理がまた食べたいです」

【之也】
「は? そんなので良いの?」

【真野】
「はい、之也さんの料理美味しいですから」

再びにっこりと子供のような笑みを見せる、こうしてるととても犯罪者の顔には見えないな。

【之也】
「OK、この仕事が上手くいったらまた出張料理に参りましょう」

【真野】
「本当ですか? ありがとうございます」

食べに来れば良い、と思うかもしれないが彼女にはそれが出来ない理由がある。
マヤは生まれつき心臓が弱いらしく、長時間の外出は禁じられているらしい。

いつもいつもマヤはこの部屋に閉じこもり、好きな油絵を描いて時間を過ごしていると聞かされた。
あまり外に出たがらないマヤではあるが、一度どうしても外に出たいと煩かったことがある。

あれは確か、俺がマヤに自作のケーキを差し入れした時のことだったな。
ケーキを食べたマヤがどうしても俺の店に来たいと云って聞かなかったのがその時だ。

【之也】
「それでだ、決行日はいつなら出来る?」

【真野】
「私の方は今日の深夜でもう大丈夫ですよ、後は之也さんの都合次第です」

【之也】
「そうか、それじゃあ決行は今日の深夜、1時ジャストに作戦開始だ」

【真野】
「了解です」

マヤはグッと小さく親指を立ててみせる。
本当に、とても犯罪者とは思えない少女だよ。

……

【之也】
「ただいま」

【鳴海】
「お帰りなさいませ」

俺の帰宅に気付いた鳴海が出迎えに出てくれる、大きな壷を抱えたまま……

【之也】
「何その壷?」

【鳴海】
「的です、手入れが終ったので試し撃ちをしようかと」

【之也】
「極力使わないって昨日云ったろ、そんなことしなくても良いよ」

【鳴海】
「ですが、万が一にも之也様が殺られないとも限りませんから」

【之也】
「万が一でもまだ殺さないでくれるか、やるまえからそれじゃ良い気分がしない」

鳴海のちょっとネガティブな考えに、少し士気が下がる。

【鳴海】
「その落ち込みよう、決行日は今日ですね?」

【之也】
「ああ、深夜1時ジャスト、長い夜になりそうだから今のうちに寝ておけよ、俺は寝る」

【鳴海】
「わかりました、何時ごろ起こしに行けばよろしいですか?」

【之也】
「10時ぐらいに起こしてもらえるかな、水はかけないでな」

【鳴海】
「かしこまりました、お休みなさいませ」

一礼する鳴海を背に部屋に戻る、もしかすると今日が最後の夜かもしれないな……

……

【之也】
「ヒトゲノム」

【鳴海】
「ムー大陸」

【之也】
「クロッカス」

【鳴海】
「水酸化ナトリウム」

【之也】
「む……無秩序」

【鳴海】
「それはもう12手前に出ました、云ったのは之也様ですよ」

【之也】
「そうだっけ?」

【鳴海】
「そうです、之也様の負けですね」

目的地に着くまでの間、2人はいつもこんなことをして過ごしている。
こんなこととは勿論今やっていたしりとりのことだ。

これから犯罪を犯しに行こうっていうのに、なんとも気の抜けた2人だよ。

【鳴海】
「罰は何にしましょうか?」

【之也】
「なるべく軽いものにしてくれると嬉しいなあ……」

【鳴海】
「之也様に選択肢はありません」

【之也】
「ははは……」

それがメイドの発言か? 鳴海はあごに軽く手を当ててうんうんと思案顔を見せる。

【鳴海】
「決めました」

【之也】
「虎を屏風から出せとか無理を云わないだろうな?」

【鳴海】
「大丈夫です、之也様でもたぶん出来ると思いますから」

【之也】
「そうなら良いんだけど、で、何をさせる?」

【鳴海】
「今は良いです、仕事が終って、2人とも五体満足なら
その時に行使させていただきます」

つまり今すぐには出来ないってことか、一体何を思いついたのやら……

【鳴海】
「つきましたよ」

【之也】
「みたいだな」

鳴海の声で視線を上に向ける、高く聳え立つ地上から35階まである大きなビル。
ここが標的であるアメジスト本社ビル。

この時間帯ならまだ明かりがついていてもなんらおかしくはないのに、ビル内には一切明かりが灯されていなかった。
逆にそれが奇妙な不気味さを匂わせていた。

【之也】
「マヤのやつ、またなんかしたな」

【鳴海】
「美奈穂様の情報では、まやかしの清掃会社が社を一斉清掃するということらしいです」

【之也】
「従業員は皆追い出されたってことか」

まだ一時になるには多少の時間がある、その間に携帯の番号をカコカコと押した。
数回の呼び出し音の後、慣れ親しんだ少女の声が聞こえる。

【真野】
「はい、之也さんですね」

【之也】
「ああ、そろそろ時間だろ、うっかり寝過ごしたりしてないかと思ってさ」

【真野】
「之也さん、いつまでも私を子ども扱いしないでください」

電話越しだが、マヤが頬を膨らませて起こっているのが手に取るようにわかる。

【之也】
「もうすぐ突入だ、マップ、現在地、シーバーの準備は良いか」

【真野】
「大丈夫です、いつでもお手伝いできますよ」

【之也】
「頼もしいな、しかしまた大それたことしたな、ビルが真っ暗でなんか不気味だ」

【真野】
「そっちの方がやりやすいかと思いまして、之也さん暗いの好きじゃないですか」

今度は電話越しにクスクスと笑っているのが聞こえる、こいつも犯罪前なのにしまりが無いな……

【之也】
「そんな俺が根暗みたいな……おっと、もう無駄話している時間も無いな」

時計を確認すると、1時まで後30秒を切っていた。

【之也】
「鳴海、準備は?」

【鳴海】
「とうに出来ています」

【之也】
「マヤ、居眠りなんかするんじゃないぞ」

【真野】
「うぅー、またそうやって子供扱いするぅ……之也さんの莫迦」

今度はいじげてしまいそうな声を出す、美奈穂以上に表情変化が豊富なやつだ。

【之也】
「いくぞ……6……5……4……3……2……1」

時計が1時を示す、それと同時に俺と鳴海は行動を開始した。

……

もう社内に誰もいないということで、どこの扉も閉まっている。
どこかから入り込むにも莫迦正直に正面から行こうなんて考えていない。
真野の調査によって、西側入り口が最も手薄だというので俺たちはそこから潜入を試みた。

【之也】
「これを……」

取り出したのは社員用のIDカード、勿論これは偽造である、作ったのは他でもないマヤだ。
カードを読み込ませると、小さな電子音の後、ガチャンと鍵が開いた。

【之也】
「マヤ、潜入に成功した、ここからのアドバイスを頼む」

【真野】
「お任せください、まずは直進です、その先に階段がありますから向かって右の階段を上ってください」

【之也】
「意味深な台詞だな、左じゃまずいことでもあるのか?」

【真野】
「左は監視カメラの圏内に入ってしまいます、右側なら死角になりますからそちらを通ってください」

【之也】
「なるほどね……」

誰もいないのだが、一応音をたてぬよう慎重に足を進める。
足を進めると云っても俺はドミネイターだ、歩くのではなく当然走って足を進めている。
素人が走れば足音はバタバタと煩いが、この仕事をしていれば自然と最小限の音で走ることも可能になる。

【之也】
「……」

【鳴海】
「?」

走りながら鳴海に視線を向ける、視線を交わした鳴海は何のことかと小さく首を傾げている。

いつもいつも気になっていたのだが、走れば普通は足音がする。
ドミネイターである俺だが、よく耳を凝らせば走る音も聞くことが出来る。

しかし、俺の横にいる鳴海はドミネイターである俺の能力でさえも超越してしまっている。
彼女の能力、それは存在を『消す』能力にある。
いや、消すという表現は正しくない、どちらかといえば『隠す』と云った方が良いかもしれない。

走れば足音がする、服の布地が擦れる音がする、呼吸をする音が聞こえる。
通常動けばそこには音が存在し、他はそこに人の存在を理解する。

しかしこの少女、姫乃鳴海にそれは通用しない。
全ての音を隠し、己の存在そのものさえも隠すことが出来る。
まさに暗殺者にはうってつけの能力だといえよう。

【之也】
「2階まで来た、次はどうする?」

【真野】
「エレベーターは主電源が落ちています、階段を上る以外に上階を目指すことは出来ません」

【之也】
「階段か……何階まで上れば良いんだ?」

【真野】
「12階まで上ってください、そうしたら今度は非常階段を使って30階まで上ってください」

【之也】
「なんでまた12階まで?」

【真野】
「12階以降は重役などの中枢部の人間が多く働く部署になっています。
監視カメラの数も倍以上に増えてしまいますから、もっとも非常階段にもカメラはありますが
大した量ではないので私の方で主導権を頂かせてもらいました」

【之也】
「毎度毎度大それたことをするね」

【真野】
「お褒めの言葉として頂戴しておきます」

再びシーバーの向こうからクスクスと笑う声が聞こえる、緊張感ゼロに近いな……

【鳴海】
「之也様」

【之也】
「どうかしたか?」

【鳴海】
「無駄話をして集中力が散漫になっています、足音が大きくなっていますよ」

無表情のまま鳴海は俺のちょっとした変化を教えてくれる。
確かに走っている人物は2人のはずだけど、聞こえるのは俺の足音しか聞こえない。
ブーツが床を蹴る音も、メイド服が擦れる音も、何も聞こえない。

注意をしていなければ俺でさえ鳴海の存在を見失ってしまいそうだ。

【之也】
「すまない、だけど随分と落ち着いているんだな」

【鳴海】
「そうでしょうか? 私はいつもと同じですが?」

【之也】
「そうですか、俺が集中出来てないだけか……」

【鳴海】
「そうだと思いますよ」

何のフォローも無しですか、しかもさらに気持ちを落としてくれたよ……

……

【之也】
「12階か、マヤ、どっちに行けば非常階段に出られる?」

【真野】
「左ですが、少し休まれた方が良いのではないですか?
この後は18階分ノンストップで上らなければなりませんよ」

【之也】
「18階分……考えるだけでも嫌になるな」

【真野】
「まだ時間はたっぷりありますから、軽く息を整えてからの方が良いですよ」

【鳴海】
「私もその方が良いと思います、之也様の持続体力から考えて
今休息をとらなければ、26階で足が上がらなくなります」

鳴海もマヤとは同意見らしい、時計に目を移すとまだ突入から30分も経ってはいなかった。

【之也】
「2人がそういうならそうしようか、それじゃあ10分後に再開だ」

【真野】
「了解です」

そう云うと、シーバー越しにパタパタと部屋を動き回る音が聞こえた。
トイレにでも行ったのだろうか?

【之也】
「ふぅ……」

【鳴海】
「足の方は大丈夫ですか? マッサージくらいなら出来ますが」

【之也】
「いや大丈夫、だけどこれよりも長いのがもう1回あるとなると……」

普通の人は18階分も階段を駆け上がったりはしない。
心臓の弱い人だったら一発だろうな……

壁に背を預け、地面にべたりと座り込む。

【之也】
「鳴海も座ったらどうだ?」

【鳴海】
「之也様のご命令とあらばそうしますが、それは命令ですか?」

【之也】
「命令……かな」

【鳴海】
「そうですか」

命令だと悟ると、鳴海も俺の横に腰を下ろした。

【鳴海】
「……之也様」

【之也】
「ん、どうかしたか?」

【鳴海】
「……いえ、なんでもありません、申し訳ありません」

【之也】
「?」

いつもと違って歯切れが悪い、直球で物事をずばずば云う鳴海にしては珍しく口ごもっていた。
表情も無表情ながら、なんだか不安を隠しているような妙な感じを覚えた。

【之也】
「……いつだったかな?」

【鳴海】
「はい?」

【之也】
「ほら、前にも2人で大企業に奪取を仕掛けたことがあったろ
あの時も俺の言葉を命令かどうかって聞いただろ?」

あの時は確か、肩車でどっちが下になるかだった。
下になると云って聞かない鳴海に、俺はご主人様特権を利用した。

【鳴海】
「昔話ですね、それが何か?」

【之也】
「あれ、忘れた? あの時初めて鳴海が大慌てしただろ」

【鳴海】
「!」

云われて思い出したのか、鳴海の眼が大きく見開かれた。

【之也】
「あの時は俺も驚いた、まさかおまえがあこまで慌てるとはな」

あの時、俺は初めて鳴海が大慌てする現場を目撃した。
いきさつを話すと、俺が肩車で下になった時、うっかりバランスを崩して倒れてしまった。
そのさい、上になっていた鳴海が俺の頭の上に尻餅をつく感じになってしまったわけで……

【之也】
「一瞬意識が飛んだだけなのに、おまえ大慌てして」

【鳴海】
「……」

あの時の慌てようは今でも覚えている、仕事中だということも忘れ
救急車を呼ぶだの、死んでしまっただの、お葬式の日取りはだの……
後にも先にも、鳴海が慌てたのをあの時以来見ていない。

【鳴海】
「之也様は意地悪ですね」

【之也】
「いつもはおまえの方がもっと意地悪だけど?」

【鳴海】
「あぅ……」

僅かに、本当に僅かにだが鳴海の顔が赤くなっている。
珍しく口撃で鳴海よりも有利に立っている、今なら何云っても鳴海は口答えしないかもしれない。

【之也】
「鳴海、もし俺がここで……」

【真野】
「お楽しみのところ悪いんですけど、もう10分経ちますよ」

【鳴海】
「……」

赤くなっていた顔を再び無表情に変え、すくっと立ち上がった。

【鳴海】
「之也様、くだらない昔話はお終いです」

【之也】
「みたいだな……」

俺も立ち上がり、ズボンの汚れを叩いて落とす。

【真野】
「之也さん之也さん、一体何を云おうとしたんですか?」

【之也】
「なんでもないよ……邪魔しやがって」

【真野】
「はい、確信犯ですから」

またクスクスと笑う声、絶対良い大人には成長しないな……

【之也】
「よし、行くか……」

……

【之也】
「はぁ……しんどかった」

18階分を一気に駆け上がり、30階の非常扉前で一息つく。

【真野】
「扉は鍵がかかってると思います、電子ロックではないのでこちらからはどうすることも出来ません」

【鳴海】
「私の出番ですね」

そう云うとメイド服の内側から小さな針のような物を取り出し、鍵穴にねじ込んだ。
彼女のもう一つの能力、それがこの鍵師顔負けの開錠能力である。

今のところ、ある種の認識鍵以外なら何でも開けられると本人は云っていた。

しばらくカチャカチャと針を動かしていると、程なくしてガチャンと鍵の開く音が聞こえる。

【鳴海】
「開きました」

【之也】
「ごくろうさま、後で頭撫でてあげようか?」

【鳴海】
「遠慮しておきます」

【之也】
「だろうね……マヤ、次はどうしたら良い?」

【真野】
「データがあるのはたぶんこの先5階の中のどこかです、さすがにどこにデータがあるかまでは私にはわかりません
後はしらみつぶしに探して行くしかありません」

【之也】
「5階分か……時間を考えたら厳しいな」

時計はすでに2時、逃走時間も考えたら後1時間程しか残されていない。

【之也】
「手分けして探すか?」

【鳴海】
「それは不可能だと思います」

【真野】
「そうですね、監視カメラの位置をこちらから2人別々の場所を教えていたら
細かい見落としが出ないとも限りませんし、余計に時間がかかってしまうと思います」

俺がどうしてと聞く前に、マヤが細かい説明をしてくれた。

【鳴海】
「考えるよりも動いた方が早いです、倉前様、残り5階の中で一番セキュリティーが強固なのはどこですか?」

【真野】
「お待ちください……出ました、34階です」

【鳴海】
「34階には何の部屋がありますか?」

【真野】
「社長室と応接間、それから書庫があります」

【鳴海】
「書庫……そこに監視カメラは?」

【真野】
「えぇと……あ、ありませんね」

意味深な鳴海の質問、何か鳴海には引っかかる事があるのだろう。

【鳴海】
「之也様、どうやら目的地は書庫のようですよ、倉前様、経路をお願いします」

目的地を告げると、鳴海は音も無く走り出した。
置いていかれぬよう、俺も鳴海の背中を追った。

【之也】
「どうして書庫だと思ったんだ? データを隠すなら厳重な社長室の方が良いんじゃ?」

【鳴海】
「そう思うのが人間の心理です、しかし34階は一番厳重にしておきながら書庫に監視カメラを置かないのは不自然です
では何故置かないのか、そこには何も無いか、もしくは……」

【之也】
「監視者にも知られたくない、ってことか」

声には出さず、鳴海は小さく頷いた。
こういったときの鳴海の頭の回転は恐ろしく速い、普段でさえ早いのに仕事中はさらに早くなる。

【之也】
「鳴海には頭が上がらないな」

【鳴海】
「私はメイドで之也様は雇い主、それだけで私の方が頭は低いと思いますが」

【之也】
「はは、云ってくれるね」

自然と笑みがもれる、こうなってくると俺は本領を発揮する。
こんな状況の中でも笑っていられる、表の世界では考えられないかもしれないが
これが裏の世界、ドミネイターという仕事をする者の姿なのだ。

……

【真野】
「そのまま真っ直ぐです、監視カメラの死角になりますから一気に駆け抜けて構いません」

マヤの言葉通り通路を一気に駆け抜けると、突き当たりに扉が1つあった。
部屋の名前を示すプレートには『書籍整理室』と書かれていた。

【之也】
「鍵がかかってるか、鳴海」

【鳴海】
「これは私には無理です、暗証番号式の電子ロックです」

扉の横には電卓のような、数字を打ち込んだパネルが赤く点灯していた

【之也】
「マヤ」

【真野】
「もう調べはついています、暗証番号は「4……2……6……3……3」です」

マヤに云われた番号パネルを順番に叩くと、ピピっという小さな電子音が鳴る。

【真野】
「ロックが解除されました、気をつけてください、ここからは私には内装を知ることは出来ません」

【之也】
「ああ、わかってる」

細心の注意を払いながら、扉に力を込める。
神経を集中して中の様子を探る、人の気配は……感じられない。

中に入るとプレートにあったとおり、大量の書籍がラックに並べられている。
そして、部屋の片隅にはパソコンが隠されるような形で設置してあった。

【之也】
「こいつか……」

【鳴海】
「つけてしまって大丈夫でしょうか?」

【真野】
「PCをつけるだけで防衛が働くとは考えづらいです、それに知られたくないデータを紙物にするとは思えません
たぶんデータはPCの中、隠しフォルダの中にロックをかけて入れてあると思われます」

【鳴海】
「それならば……」

鳴海はコンピュータの電源をいれ、かつかつと登録画面に登録画面にアクセスをかける。
自慢ではないが、俺は機械関係パソコン関係にはとにかく弱い。

このご時世、パソコンの電源を入れた後に何をするのかわからないのは俺くらいではないだろうか?
そんな俺を尻目に、鳴海はカタカタとキーボードを叩き、何やら調べ物をしていた。

【鳴海】
「あ、ありました……ご丁寧にフォルダの最下層に圧縮されて入っていました」

【之也】
「悪いけど俺には何の事だかさっぱりだ、それで見つかったデータをどうするの?
パソコンごと持ってくか?」

【鳴海】
「石器時代の考え方ですね、現代でそんな短絡的な考えをするのは之也様くらいですよ」

云い返してやりたいが何も云い返せない、こういうのをぐぅの音も出ないという。
鳴海はメイド服の内側からCD−ROMを取り出し、パソコンの中にセットする。

【鳴海】
「データを焼き付けてそれだけ持って行けば十分です、それにPCごと持って行ったら翌日にはもうばれてしまいます」

【之也】
「確かに、そりゃもっともだ……」

再びカタカタとキーボードを叩き、マウスで何やらデータを動かしている。
やがて画面には『CDにデータを移しています』との表示が現れた。

【鳴海】
「之也様、少しよろしいですか?」

【之也】
「パソコンのことなんか知らないって」

【鳴海】
「そうではありません……少し、妙だと思いませんか?」

【之也】
「妙? どの辺が?」

【鳴海】
「上手く行き過ぎている気がするんです……確かに倉前様は優秀なイーターです
しかし、相手も裏ではそういった関係と繋がりがあるであろう相手です
ここまで簡単にデータを盗むことが出来るでしょうか?」

【之也】
「……」

考えてみるといささか腑に落ちない点がある。
いくらマヤが優秀であろうとも、ここまで短時間で会社の機能を奪われてしまうのは納得出来ない。
さらには架空会社の清掃、あれで易々と騙されるとは考え辛い。

だとしたら、ひょっとすると……

【真野】
「え、あ、あれ……どうなってるの?!」

【之也】
「マヤ、どうした!」

シーバーからマヤの慌てる声が聞こえた、この時点で俺は気がついた。
上手くいっていると思っていたのは俺たちだけだったんだ……

【真野】
「大変です、今動かしているPCに誰かがハッキングをかけています
急いで逃げてください、之也さんたちが侵入したことも筒抜けになっています!」

【之也】
「くそ、やっぱりか! 鳴海!」

【鳴海】
「もう少しお待ちを、後少しでデータが焼き終わります」

画面には『最後の手段を使ってCDを使用可能にしています』の文字。
それから僅か数秒後、パソコンがCDを吐き出した。

【鳴海】
「お待たせしました」

【之也】
「よし! マヤ、逃走経路を!」

【真野】
「はい!」

……

【真野】
「右です!」

右に進路を変え、直線を駆け抜ける。

【真野】
「止まって! カメラの領域に入ります、左に飛び退いてください」

【之也】
「よっと、逃げるのは入るのより一苦労だな……」

【鳴海】
「逃げるのが楽だったらこの世は犯罪で溢れかえります」

【之也】
「そりゃごもっとも」

マヤの的確な指示で俺たちは12階まで下りることが出来た。
後は11階分、非常階段は使えないので今以上に注意をしなければならない。

【真野】
「そのまま真っ直ぐ、そこはどうしても死角が生まれませんから一瞬で終えてください!」

【之也】
「っ!」

【鳴海】
「……」

走っては一呼吸置き、また走っては一呼吸置いての繰り返し。
俺たちが侵入していることは外部に漏れているため、あまり悠長にもしていられない。
かといって危険を顧みずに最短距離を選ぶとそれこそ身の破滅、多少時間がかかってもマヤの指示を待つしかない。

その後もマヤの指示を信じ、5階まで下りてきた。

【之也】
「ここまで来ればなんとかなるか……」

【鳴海】
「ここで気を抜いたら確実にアウトです、社を出るまでは死と隣りあわせと思ってください」

【之也】
「わかってる、マヤ、次は?」

【真野】
「大きく迂回をして……ストップ!」

突然のマヤの声に2人とも足を止める、突然のことだったので俺は少しよろけてしまった。

【之也】
「わっと……急にどうした!?」

【真野】
「気をつけてください、この階、熱源があります!」

【之也】
「!」

【鳴海】
「!……」

熱源、呼んで字のごとく熱を持った源、作動中の機械が主にそう呼ばれている。
しかし社員は誰もいないこのビルで機械が動いているとは考えられない。

だとすると、その熱源とは……

【鳴海】
「之也様……」

【之也】
「ああ、万が一ってのが起こっちまうかもな」

熱源には機械以外にも使われることがある。
熱を持つ、つまり活動をしているということ、活動しているのは何も機械だけではない。
活動する、すなわち生きているということ、熱源は生物にも当てはまる。

そうだ、その熱源は……人だ!

パン!パン!

急な破裂音に俺たちは左右に飛びのいた。
間違いない、今のは銃声だ。

【鳴海】
「いかがいたしますか?」

【之也】
「とりあえず自分の身を守ることが先決だ、身を守る上でどうしようもなくなったら、殺せ!」

パンパン!

再び鳴り響く銃声に俺も銃を抜く、殺さぬように足を撃って行動不能に出来れば良いが……

【真野】
「お2人とも、大丈夫ですか?!」

【之也】
「なんとかな、それよりもそっちでやつの位置は確認できるか?」

【真野】
「はい、お2人とは異なる熱源を先ほどから確認しています」

【之也】
「そいつの姿を捉えられるか?」

【真野】
「それが、監視カメラが全て落とされているらしく、私の方からでは映像を得ることが出来ないんです」

【之也】
「は……どうして……」

マヤの言葉に少々違和感を覚えた。
監視カメラが落ちている? 何故そんなことになったのだろう?
こんな状況だ、監視カメラが働いていれば俺たちの姿を捉えて後々検査……解析することも可能だというのに。

何故そうしないのか、いくつかの理由が考えられる。
1つは相手は俺と同じ、社が雇ったドミネイターである可能性。
監視カメラが動いていては相手まで収められかねない、その危険性を考えて誰かがカメラを切ったという事だ。

【之也】
「……」

いくつかとは云ったが、これくらいしか納得の行く答えは考えられなかった。
しかし相手がドミネイターだとなるとこの戦い、逃げ切るのは不可能かもしれない……

パン! パンパン!

銃の着弾音を聞いていると、どうやら銃口は俺側に向いているらしい。
こうなってしまった今、鳴海の位置を俺が知ることはゼロに近い。

【之也】
「マヤ、鳴海の位置はわかるか?」

【真野】
「壁を背にして考えると、之也さんの右手40メートル先にいます、相手は正面55メートルの位置です」

【之也】
「右か、相手を考えるとおちおち会いに行くわけにも行かないか」

【真野】
「あ、待って下さい、鳴海さんから通信です……っ!」

【之也】
「どうした、何があった!」

【真野】
「鳴海さんの伝云です、『私が之也様を守ります』だそうです」

【之也】
「!」

一瞬にして鳴海の考えが理解出来た、あいつは己をおとりにして俺を逃がすつもりだ。
相手はドミネイター、2人とも無傷で逃げることは不可能だろう。

だとしたら、メイドである鳴海が主人をかばうのは当然と考えたのだろうか。

【之也】
「あの莫迦!」

【真野】
「之也さん! 鳴海さんは……」

【之也】
「わかってる、鳴海の場所は今でも変わってないのか?」

【真野】
「はい、右手に40メートル、逆に相手は正面やや左に50メートルです」

鳴海が隙を作るとしたら、たぶん引き金を引くだろう。
その瞬間しか鳴海を助ける手立てはない、勝負は本当に一瞬しか与えられないか……

【之也】
「マヤ、鳴海が動いたらすぐに合図をくれ、たぶんチャンスは一瞬だ、遅れるなよ!」

【真野】
「は、はい!」

大きく頷いたのが感じ取れる、後は俺が動けるかどうかだ。
鳴海、いくら主従関係とはいえ、己を犠牲にしても俺は喜ばないぞ……

パンパン!

【真野】
「動きました、今です!」

放たれた銃声と共に、服の布地が擦れる音がする。
きっと少しでも注意を自分に向けるために、音を消すことをしなかったのだろう。
しかし、そのおかげで俺にも鳴海の正確な場所を確認することが出来た。

【之也】
「っく!」

相手と直線状に並んだ鳴海の腰に、ありったけのスピードを込めて飛びついた。

【鳴海】
「!」

パン!

パン!

鳴海が引き金を引くのと同時に、相手も引き金を引いた。
もし鳴海がその場所に立ったままなら、相手の弾に撃ちぬかれていたことだろう。

【之也】
「ぐっ!」

【鳴海】
「な、之也様! 倉前様から伝云をいただかなかったのですか」

腰にしがみついた俺を見て、鳴海は驚きの声と表情をした。

【之也】
「残念ながら勝手に死なれちゃ困るんだよ、これはご主人様命令だ、俺のために死のうとするな」

【鳴海】
「で、ですが……」

あの時と同じ、いや、あの時以上におろおろと慌てていた。

【之也】
「おまえはメイドだろ、ご主人様の命令は聞くもんだぞ」

【鳴海】
「は……はい」

【之也】
「なんだ、泣いてるのか? 鳴海らしくもない」

鳴海の眼には薄っすらと涙が浮かんでいた、それは今まで一緒にいて初めて見せる涙だった。

【之也】
「さてと……どうにかしてあいつを仕留めないとな……つぅ!」

【鳴海】
「な、之也様!」

足から来る激しい痛みに顔をしかめてしまう、どうやら鳴海をかばったさいに俺の足が撃たれてしまったらしい。

【之也】
「大丈夫だ、死ぬような傷じゃない……治療をすれば何とかなるさ」

【鳴海】
「治療をする前にこのままでは之也様が殺されてしまいます、やはり私がおとりに」

【之也】
「それは無理だ、もしここで鳴海がおとりになったとしてもこの足じゃ逃げ切ることは不可能だ」

【鳴海】
「ではどうしたら……」

【之也】
「簡単なことだ……あいつを殺れば良いんだ」

この足でドミネイターを殺せなんて無茶な話だ、しかしこうでも云わないと鳴海は納得しない。
良くて相打ち、悪ければ完全な敗北のどちらかだな。

【之也】
「鳴海、おまえはやつの背面に回ってくれ、前と後ろそれしか手はない」

【鳴海】
「……」

【之也】
「ご主人様命令だ、聞いてくれ……」

【鳴海】
「……」

返事はなかった、代わりに軽く頷いて敵の背後へとまわった。

【之也】
「ふう……あいつには最期まで認めてもらえなかったな」

きっともうあいつに会うことはない、心残りは最期まで料理で特上を貰えなかったことか……
これからはドミネイターから遠ざかって、普通の道を歩いてくれ……

【之也】
「っ!」

パン!

一発上に向かって銃を放つ、これで相手の気が引ければしめたものだ。
次の瞬間、俺は相手の直線状に体をおどりだした。

【之也】
「逃げろ!」

【鳴海】
「之也様!」

パン!

叫ぶと同時に引き金を引く、当然俺だけでなく、相手も引いた。
同時に引いたのか、銃声は一発分しか聞こえてこなかった。

【之也】
「がは!」

肩口に銃弾が貫通する、引き裂くような痛みと熱が肩から広がっていく。
相手も俺の銃弾を避けた気配は無い、俺が狙ったのは心臓、避けた気配が無いのだから確実に心臓を捉えたはずだ。

しかし相手は倒れることも無く、ちゃらちゃらと薬莢が落ちる音が聞こえた。
どうやらやつには避ける必用が無いらしい、やられた、防弾チョッキか。

もう俺に逃げる力は無い、薬莢が詰め終わった時、それが俺の最期か……

【?】
「伏せて!」

後ろから聞こえた怒鳴り声に、咄嗟に身を低くした。

バン! バン!

俺の拳銃とは比較にならない大きな破裂音、無骨なマグナムがこんな音をしている。
銃弾の着弾先は相手、しかも2発とも頭を捉えていた。

さすがに頭を打たれて無事な人間はいない、相手は力なくフラフラと仰向けに倒れこんだ。

【之也】
「ふぅ……どうやら助けられちゃったな、美奈穂」

【美奈穂】
「ふふ、苦戦したようだね」

暗い中、僅かに差し込む月光が助っ人の姿を映し出した。
ピンク色のショートカットに露出の高い服、見紛うことなく美奈穂の姿だった。

【鳴海】
「之也様!」

脱力する俺の元に鳴海が駆け寄ってくる。

【之也】
「よ、また生きて会えるとはな」

【鳴海】
「之也様の莫迦! 私に死ぬなと命令しておいて自分は死のうとするなんて、之也様は大莫迦です!」

【之也】
「あの時は騙して悪かったって、だけど俺の足がこの状態じゃそうするしかないだろ」

【鳴海】
「本来ならば命を投げるのはメイドである私の仕事です
それを禁じておきながら自分でその役をやろうとするなんて……」

鳴海が感情をあらわにして怒っている。
自分を差し置いて主人が死のうとしたことが、鳴海には我慢ならないのだろう。

【美奈穂】
「まあまあ鳴海ちゃん、ナリは昔からこういった変なところで恰好つける癖があるんだ
2人とも無事だったんだし、今日のところは大目に見て上げなよ」

【鳴海】
「むぅ……」

まだ納得は出来ていないようだったが、それ以上文句を云ってくることはなかった。

【之也】
「だけどどうして美奈穂がここに? おまえは依頼者の代交はずだろ?」

【美奈穂】
「一応そうなんだけど、正確に云うとちょっと違うかな
ナリには云ってなかったよね、私がこの依頼に何を隠していたのか」

【之也】
「そういえば何か隠してたな、教えてはくれないんだろ?」

【美奈穂】
「教えないつもりだったんだけど、こうなっちゃったら隠せそうにはないかな
2人ともこっちに来て……」

美奈穂の言葉に立ち上がる、足は痛むが動けないほどじゃない。

【鳴海】
「大丈夫ですか……」

【之也】
「大丈夫、心配するな」

とは云っても無理だろう、俺の横で鳴海は心配そうな顔を崩さなかった。
美奈穂が足を進めたのは僅か数メートルの距離。

ちょうどそこには、さっき美奈穂が撃ち抜いたドミネイターの死体が転がっている。

【美奈穂】
「私が隠していたものは……これなんだ」

美奈穂の言葉に合わせるかのように、月光がドミネイターの死体を照らし出した。

【鳴海】
「!」

【之也】
「こいつは……」

照らし出された死体の体は、想像していたドミネイターの体ではなかった。
筋肉組織は皆無、肌の色も悪く鈍い光沢がテラテラと輝いている。
骨格自体も歪に曲がっており、いや、骨格なんて物が存在するのかもわからない。
もっとも驚いたのは、やつの体から延びている無数のコードの類だった。

【美奈穂】
「これが私が隠していたものの正体、そしてこの会社が隠し続けている物の正体、アンドロイドだよ」

【之也】
「それにしては随分無骨なデザインだな」

近年ロボット工学は飛躍的に進化を遂げ、様々な分野で活躍するロボットが生み出されてきた。
料理をするロボット、介護をするロボットなど多種多様な物が作られてきた。
中でも人と見紛うごとき出来のロボットを、人はアンドロイドと呼ぶ。

【美奈穂】
「普通ロボットを作り出したさいには命令伝達回路、ロボット三原則、チップ情報などのチェックを受けなくちゃいけない
それは全て人間の安全のため、ロボットが人間に危害を加えないように専門機関が厳密に審査をするよね」

【之也】
「普通はな、だけどこいつ撃ってきたぞ」

【美奈穂】
「そう、そこにこの会社が大きくなった要因があるの」

【之也】
「どういう……」

ここで1つ、ある仮説が浮上する。
本来ロボットは完成時にありとあらゆる検査を受け、検査を通った物は製造から全て機関の監視下に置かれる。
しかし、あのロボットの行動を見る限り、あれは検査機関のチェックを受けているとは思えない。
ということは、あれは違法にプログラミングされて作り上げられたロボットに他ならない。

それに、美奈穂が云っていたっけ。
ここは海外の武器貿易会社とも繋がっているかもしれないと……

【美奈穂】
「ナリも気付いたみたいだね、この会社の裏の実態にね」

【之也】
「なんとなくな、あってるかどうかはわからんけど……兵器取引か?」

【美奈穂】
「ご名答、兵器は兵器でも一級の殺人兵器、こいつはその1つってことよ」

横たわる兵器の頭を美奈穂が軽く蹴った。
知能回路を壊されてしまったのか、ロボットが再び動き出すことはなかった。

【美奈穂】
「この国では兵器取引はもとより、兵器の製造さえ認められていない
だけど作り出す技術はある、裏の商売にはもってこいって訳よね
実を云うと、私がこの依頼をしたのはデータが目的じゃなくて、こいつだったのよ」

【鳴海】
「もしかしてこの依頼、依頼主は美奈穂様本人なのですか?」

【美奈穂】
「うん、まあね……ナリに本当のこと話して変に気を使わせちゃ悪いと思って」

ポリポリと照れ隠しのように頬をかく。

【美奈穂】
「データを流出させればいつか警察の眼に留まる、そうなればこの会社には捜索が入る
捜索が入ればどんなに隠してもこいつの存在はいずれ明るみに出るって訳」

【之也】
「そこまで考えてたのか、計算高いやつ……」

【美奈穂】
「この世界で生き抜くにはそれくらい出来なきゃね」

【鳴海】
「美奈穂様らしいですね」

【美奈穂】
「でしょ」

3人の間に笑みがもれる、さっきまでの死線を彷徨っていた緊張感はどこ吹く風。

【真野】
「お三方ともお話の最中に申し訳ありませんが、あまり悠長にしている暇はありませんよ」

マヤの声に現状に戻される、そういえば俺たちは今も逃げている途中だった。

【美奈穂】
「おっと、そうだったわね、ごめん」

【鳴海】
「急ぎましょう、之也様」

【之也】
「ああ、マヤ、ナビを頼む」

……

【之也】
「ここまで来れば大丈夫だろ」

俺たちは本社ビルから1キロほど先の公園に落ち着いた。
あの後もマヤの的確なナビのおかげで警察関係者が来る前に逃げることが出来た。

遠くでファンファンとサイレンの音が鳴り響く、間一髪だったようだな。

【鳴海】
「美奈穂様、依頼品のデータです」

【美奈穂】
「ご苦労様、報酬はいつものように振り込んでおくからね」

【之也】
「これであの会社も終わりかな」

【美奈穂】
「たぶんね、アンドロイドもあのままにしてあるから明日の新聞の一面は決まりじゃない」

僅か二代で富を築いた会社も、兵器取引をしていたなんて知れたら弁解の余地は無い。
頂点に立つのも早かったが、滅するのも早かったようだ。

【美奈穂】
「怪我、痛くない?」

【之也】
「これで痛くなかったら人間じゃないな」

銃で撃たれて痛がらないやつなんてそれこそロボットだ。
血の通っている人間である俺は当然痛みも感じている、困ったことに血も止まりきってはいない。

【美奈穂】
「足の方が傷も深そう、ちょっと待ってて」

胸の内側からハンカチを取り出して俺の足首にきつく巻きつける。

【之也】
「どこにハンカチしまってるんだよ……」

【美奈穂】
「そんなことは今はどうでも良いの、こうしてと、よし、これで止血くらいにはなると思うから」

【之也】
「悪いな、気を使わせて」

【美奈穂】
「良いの良いの、ほんとは家まで送ってあげたいんだけど
生憎私よりも相応しい人がいるしね」

そう云うと美奈穂は小さくウインクしてみせる。
俺にではなく、向けられた相手は……

【美奈穂】
「そんじゃ私はこれで、傷が治るまで無茶しちゃ駄目だよー」

満面の笑みでブンブンと大きく腕を振りながら、美奈穂は街の暗闇へと消えていった。

【真野】
「私もこれで失礼します、今日はゆっくりと休んでくださいね」

【之也】
「マヤもな、あんまり夜更かしばかりしてると成長を妨げるぞ」

【真野】
「もぅ、また子供扱いして……」

ちょっとした文句の後、プツンという音と共にシーバーの通信が落とされた。

【之也】
「4時か……俺たちもそろっと帰ろうか」

座り込んでいた公園のベンチから立ち上がる、が、出血が多かったせいか少しよろけてしまった。

【之也】
「うぅ……」

【鳴海】
「之也様」

倒れそうになる体を鳴海が支えてくれた。

【之也】
「悪い、ちょっとよろけちゃって」

【鳴海】
「あれだけの出血とその怪我ですから、私を支えにしてください」

俺の片腕を自分の肩にまわし、鳴海は俺の腰に腕をまわす。
はたから見たら寄り添って仲が良いように見えるかもしれないな……

【之也】
「重くない?」

【鳴海】
「私の方は平気です、無茶はなさらないでください」

【之也】
「肝に銘じておくよ」

鳴海に支えてもらいながら、俺も家路へと足を進めた。

【鳴海】
「……今日は申し訳ありませんでした」

【之也】
「どうした、急に?」

【鳴海】
「私の考えの浅はかさで之也様に怪我を負わせてしまって……」

【之也】
「その話はもう止めよう、鳴海は何も気にしなくて良い」

【鳴海】
「ですが……」

【之也】
「ご主人様命令だ」

【鳴海】
「……」

ご主人様命令、その言葉を発するだけで鳴海は返す言葉を失ってしまった。
まったく、忠実というか、硬すぎるというか……

【之也】
「そういえばさ、あれはどうなったんだ?」

【鳴海】
「あれ、とは?」

【之也】
「しりとりの罰だよ、五体満足とはいかないにしても生きて戻ってこれたんだ
そのさいには行使するって云ったろ」

【鳴海】
「あれですか、あれなら……いえ、なんでもないです」

何かを云おうとしたが止めてしまった、かわりにあまり見せることのない笑顔を見せてくれた。
笑うとこいつもかわいい顔をするんだな……

【之也】
「笑っちゃって、なんか良いことでもあったのか?」

【鳴海】
「どうでしょうね、之也様にとってはどうかはわかりませんが
私にとってはとても良いことがありましたよ」

そう云うと、腰にまわされた腕に僅かに力が込められた。

【鳴海】
「之也様と寄り添って歩く、それが私からの罰なんですから……」

誰にも聞こえないように、少女は言葉を呟いた。

【之也】
「なんか云ったか?」

【鳴海】
「いいえ、なんでも……」

少女は笑顔のまま、主人と寄り添って歩く。
自分が大好きな人と共に、少女は静寂に満ちた夜を満喫していた……


END





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