「人を殺したことがありますか?」 〜堕天使の償い〜 いきなりの質問だった。目の前に座っている紺色のブレザーに赤いリボンを胸に結っている、その少女の目を覗き込む。 そこには一点の曇りも、動揺もなく、こちらの心を見透かさんと氷のように凛としている。 「ないよ。」 私は即座に答えた。この場合、視線をそらしたり、質問に質問で返したりなどという行動は相手に距離感と不安を与え、 これからの検証の妨げになるため、間をおかず、相手の望む答えを与えなければならない。 相手の心を知りたければ、自分の心を知らせよ。それが私の持論だった。 「やっぱりないですよね。」 淡々と話す彼女は先ほどの氷の目を普段の漆黒の目へと変えていた。自己防衛機能の働き方の一種に唐突に相手を攻撃するというものがある。 普段は受けの体勢いる者が、一瞬にして、優位にことを進めようとすることから生まれる行動なのだが、彼女の先ほどの質問はまさしくそれだった。 立場上、彼女の頭には自分が暴かれる立場にいるというのを理解しているのだろう、そこで唐突な質問で私の心を動かし立場を逆転させたかったものと思われる。 しかし、これで何かわかるというわけではないようだ。彼女は今までに出会った少年少女の中でも特別だった。 さっきの彼女の行動が計算の上でなされているかも知れないという憶測が私の中にあった。 それぐらい、彼女の行動は複雑かつ、巧妙だった。ほかの少年少女ならば、自己防衛にでると、それとすぐわかるぐらいにセオリーどおりの発言と行動を繰り返した。 自己防衛というのは安心感を得るために行われるため、失敗してもそれを継続してしまいがちになる。 それゆえ、その兆候が出たときには、こちらに攻撃の意思はないと相手に伝えなければならない。 しかし、彼女の場合は違う。セオリーどおりの自己防衛は見せるが、それは単発で終わる。 むしろ自己防衛などしていなかったのではないかと思わせるぐらい短絡的なのである。 これは私の中で判断を鈍らせるものに相違なかった。彼女との対話は常に真剣勝負。こっちが一度でも気を抜くと彼女は時を支配し、私では手に負えなくなるだろう。 未知なる生物との遭遇にそれは似ていると私は思った。今までのセオリーが通じない相手。 私はどのようにして彼女の牙城を崩すべきなのか。再び彼女の目に視線を移す。やはり一筋縄ではいかないようだ。次は燃えるような炎を宿した目がそこにあった。 好奇心に駆られ、自分の得たいものを得ようとする目だ。こうなると彼女は変貌する。その前に手を打っておかなければならない。 「そこの水を飲みたまえ。」 彼女の炎がちらつく。それでも、炎は消えず、私の指差したそれを目に捉えて一気に口の中へと運んでいく。 そして炎が再び私を捉える。この炎を見るのは今日で二回目だ。 一時間ほど前にも彼女の目はこの炎を宿していた。この炎は彼女の尊敬の意の表れであることを知るのはおそらくこの世界で私だけだろう。 彼女は自分の獲物とするものが目の前に現れたときこの炎を目に宿す。 先ほどの私の答えが彼女の尊敬を得たというのは言うまでもないことのようだ。しかし、この炎を灯らせずして、彼女のことをしることはできない。 なぜなら、この炎をともしている間の彼女は本能により行動するのを私は知っているからだ。 先ほどまでの、相手の出方を伺う氷の目とは違った目。 しかし、この目ほど怖いものはない。 氷の目の間は、冷静にことを対処できる、いわば公式で問題が解ける範囲の出来事なのだ。そして、彼女もそれを知っている。 そう、さっきの質問は彼女なりのテストなのだ。自分の得たいものを得られるか否かを判断する材料がさっきの質問なのだ。 だから私は彼女が計算の上で発言していると憶測していた。それでもまだそうと判断できるわけではない。 なぜなら、彼女自身自分のことがわかっていないという可能性があるからだ。それは物見たさに危険顧みない人間の心境と同じである。 彼女は計算の上で質問をだし、相手を計っているのか、それとも本能的に質問を口に出し、相手を識別しているのか。 この決断を下すにはまだまだ判断材料が少なすぎた。 彼女との出会いは一ヶ月前だが、いまだに判断できないのは、やはり彼女が他と一線を画いた存在であることを示唆していた。 「先生、したくないですか。」 彼女は右手をリボンに近づけていく。 限定性性感衝動障害 彼女はまさしくそれだった。特定の条件を満たした相手のみに性感を感じるという性障害。 この障害により彼女は数年前より幾度となく性行為を求めるようになったという。 始まりは12歳の秋、初めての月経が来たあとだという。普段の変わりなく話していた父親に対して、彼女は発情したのだ。 その際父親は、すぐに母親を呼び、二人は相談して医師に相談した。 医師は、日を改め数人の検査官のもと彼女の問診を開始した。すると彼女は意思にたいして性行為を求めたという。 そこで問診は打ち切られ、彼女は鎮静剤を投与され、落ち着いたという。 そして、再び問診が開始されると、彼女は行為を求めた前後十分間の記憶が抜けているということが判明した。 その後何度か検査が繰り返されたが、同様の症状が現れた。最初は多重人格と思われたが、その判断は数年後変えられた。 検査を続ける間に、彼女自身が自分の行動を覚えているようになってきたのだ。そこで、そのときの医師が下した判断が限定性性感衝動障害である。 そして、彼女が16歳になった一ヶ月前、彼女は両親とともに私の元を訪れた。 ともいうのも、彼女は一度性感を感じた相手からその性感を満足させられないと二度と同じ人物に性感が感じられないと、 そのとき両親が持ってきた診断書に書いてあったのだ。 つまり数年の間、代わる代わる別の医師によって彼女は問診されていたということになる。 ただし、診断は常に一番最初の医師によって行われていたようだった。彼が、問診のたびに知人の医師を呼んで検査を行っていたようだ。 しかし、それも無駄とわかり私の元にやってきたのだという。 私は医者ではなかった。カウンセラーでもなければ、臨床心理士でもない。それなのに、なぜこの両親は娘を私の元へと連れてきたのか。 それを問いただすと両親は、娘があなたをインターネットで見て是非一度お話がしたいと申しましてと伝えた。 最初は医師に相談した両親も、医師の勧めで連れてくることにしたそうだ。 診断書には今まで得られた結果や、対処内容などが綿密に織り込まれていたが、私はそれを無視した。 自分で話してみるまでは先入観なしで話してみたいと思ったからだ。 限定性性感衝動障害ということさえ忘れ私は彼女と話をした。そして、彼女は私に性行為を求めた。 私はそれを拒否し、親から預かっていた鎮静剤を飲ませた。すると彼女はたちどころに元に戻り、再び話を始めた。 この瞬間、診断書のことを思い出した私は、これ以上の話は不要だろうと考えた。そこで話を切りあげようとしたが、彼女はかたくなにそれを拒み話続けた。 しかしここからは診断書とは異なったことが起こった。再び話をしていると、彼女が再度性感を感じたのである。 私は驚き即座に二度目の薬を投与して、彼女に終わりを告げた。そして私は診断書を書いた医師宛に報告書を書くことにした。 その報告書は親を通じて医師に渡され、また親によって返事が来た。 そこにはしばらくの間彼女の問診をしてほしいというものだった。 しかし医師免許の持たぬ私に問診は違法ではないのかと問うと、単なる対話で金を取らなければ問題はないということだった。 私にはなんの特にもならない話だったが、私はこの話を引き受けた。なぜなら、私もこの少女のことをより知りたいと思うようになったからだ。 週三回、学校が終わってから彼女はここに来る。今日で15回目の対話。 そして彼女の変貌を見るのは50回を超えている。これについて、医師は性感に思春期特有の恋が合わさったからではないだろうかという判断をくだした。 つまり、彼女が私に対して幾度となく性感を抱けるのは彼女が私に恋をしているからだというのだ。 そしてその証拠として、彼女は私以外の誰にも性感を抱かなくなったのだという。限定性性感衝動障害がより限定的になってしまったというわけだ。 ここで、問題になるのが、彼女が失恋をしたときである。 その場合彼女は再び依然と同じ状況に戻るか、はたまたショックにより二度と性感を感じなくなるという可能性もあったのだ。 つまり、彼女が本当に恋をしているのならば、私は最新の注意を払って後者の発生をとめなければいけなかった。 だからといって彼女を受け入れることはできない。それは立場上不可能であった。 リボンが床に落ちた。 そしてそれを拾うのもすでに50回を超えている。 普段はここで薬を投与するのだが、今回はちょっと状況が違った。先ほど衝動の際も薬を投与したのだが、そこで私はある異変に気がついた、薬が効かなくなっているのだ。 よって、先ほどは衝動を抑えるのに苦労した。私は水を使って彼女の衝動を一時的に抑えることにしたのだ。 詳しい説明は省くが、それによって一度は落ち着いた彼女との対話はその日は危険と考え、打ち切りを申し出た。 しかし彼女はそれ拒み、私を逃がそうとはしなかった。私は対話を続ける事にし、再び衝動が起こってもいいように水をまた用意しておいた。 そして、それを先ほど飲ませたというわけだ。だが、これは賭けだった。 前回成功したからといって今回も成功するわけではない。私はそれを知っていて、あえて彼女との対話を続けた。 医師ならば間違った判断だろうが、医師でない私には自分の知的好奇心を満足させることのほうが重要だった。 彼女を静めるのに薬しかないのか。その答えを見つけるためには、薬は邪魔だった。 さて、これから私と彼女のゲームが始まる。 「先生、童貞じゃないですよね。先生かっこいいですし、絶対彼女とか何人もいたんでしょ。」 「童貞じゃないことは正しいが、彼女が何人もいたというのは間違っているよ。私が愛した女性は今までたった一人だ。」 「え、そうなんですか。じゃあ、その人が先生の初めての人なんですね。その人は先生が初めての人だったんですか。」 「彼女にとっても私が初めてだったよ。」 「先生。私の初めての人になってください。今までずっと薬でこの気持ち抑えられてきたけど、もう効かないみたいです。 それに先生だけにはなぜか何回も気持ちが生まれてくるんです。今まであった先生たちにはそんなことなかったのに。 この一ヶ月の間、ずっと先生のことを考えていたんですよ。さすがにこの衝動はなかったですけど、ずっと先生のことが頭から離れなかったです。」 「それは光栄だね。でもどうして私なのかな。」 「先生を初めて見たのはインターネットでした。私と二つしか年が違わない天才コンピュータープログラマー。 是非一度話をしてみたかったんです。そしたら、いつもどおり衝動が来ました。でもいつもと違ってました。衝動のあとに別の気持ちがあったんです。」 「それで。」 「最初はそれが何かわからなかったけど、これが恋だと後で知りました。」 「なるほど。しかし恋は性行為をしたからといって、成就するわけじゃないよ。」 「そうかもしれません。でも私は先生に抱かれたいです。この気持ちもう抑えられないです。」 「水も効き目はないかい。」 「水って、これただの水じゃないですよね。」 「気づいていたのかい。いやいや、さすがというか。」 「先生、大学院を出ているのは先生だけじゃないんですよ。」 「そうだったね。君も3年前には修了したそうだね。」 「だから、先生が1時間前にわたしにヘキサポロスリンの入った水、通称 堕天使の償い を飲ませたのも知っているんですよ。効能は催眠作用と鎮静。」 「さすがだね。自分に起こる変化からそこまで当ててしまうとは、天才薬剤師とは名だけじゃないみたいだね。」 「でも、ひとつわかりません。なぜ堕天使の償いを私に飲ませたんですか。」 「君を普通の女の子に戻してあげられるかなと思ったからだよ。」 「そのために、わざわざ違法の薬を入手したんですか。」 「いや、そうじゃないよ。それは私の愛した女性が持っていたものだ。彼女はそれを飲んで自己催眠を施したのちこの世をさったがね。」 「天才プログラマーでも人の心まではプログラムできないですからね。」 「そうだね。だがその薬はそれを可能にしてくるよ。さあ、僕への気持ちを忘れてもらおうかな。」 「先生。天才の名は伊達じゃないですよ。まだ今日の新聞を読んでないんですか。」 「なんのことだね。」 「天才薬剤師がヘキサポロスリンの解毒剤を開発したというニュースです。」 「いや、まだ読んでいない。」 「ちなみにこれがその解毒剤です。」 「君はどうしてそこまでするんだい。」 「先生が好きだからです。」 「だから、君は今生まれたままの姿を私の前にさらしているのかい。」 「そうですよ。でも先生は見向きもしてくれませんね。私はそんなに魅力がないですか。」 「君は魅力的だよ。失った女性にとてもよく似ている。」 「その女性を取り戻したくはないですか。」 「失ったものはもどらないよ。」 「信也、もう昔のことは気にしてないよ。」 「やっぱり記憶が戻ってたのかい。」 「ええ、解毒剤を開発したときに催眠が切れたの。自分でこうなるように催眠してたみたいだけどね。」 「どうしてあの時ヘキサポロスリンを開発したんだい。そしてどうして俺だけの記憶を消したんだい。」 「あの時はまだ私は12歳、それに信也は14歳だった。お互い大学生だったけど、心が本物か確かめたかったの。」 「それで答えは。」 「わたしは再び信也に恋をして、信也は私の身体だけを求めなかった。だから、解毒剤を作ることができたの。」 「そっか。とりあえず、おかえり。」 「ただいま、信也。そしてありがとう。わたしのことをずっと好きでいてくれて。」 「昔からずっと言ってただろう。彩をお嫁にもらうって。」 「うん、そうだね。」 彩は一ヶ月前に十六歳になった。俺たちの幼稚園に入る前からの約束。「彩が十六歳になったら俺がお嫁にもらう」。その約束をとうとう叶えることができた。 今、二人はそれぞれの分野で活躍しながら、生きている。空白の四年間は長かったけれど、その後、二人はずっと一緒に生きていける。 プログラムすることも、薬で操ることもできない、「愛」が二人にはあるのだから。 FIN ……………… ixixixさんに頂きました短編小説です。 私の文章のお礼にということで頂いたのですが、私なんかの文章でお礼を頂いてよろしいのでしょうか? でも頂けるというのであれば勿論頂きますよ、ありがとうございましたー♪