【空中庭園のアダムとイヴ】



仰向けに寝転がって見る空はどこまでも高く、どこまでも広く、どこまでも遠い。

遮る雲ひとつない真っ青な空を見つめていると、この体全てを吸い込み
全てを何もなかったかのように掻き消してくれるような、不思議な気分にしてくれた。

手を伸ばせばその海の中へと連れて行ってもらえるのだろうか?
伸ばそうと上げた腕を途中で止める、止めよう、莫迦莫迦しい。

そもそも、考え方を変えれば良いだけじゃないか。

俺が今見ているのは、海の中なんだ。
上に行けば海面に出て、まったく新しい世界にいけるのかもしれない。

だけど別に行く必要なんてない、だって行きたいと思っている世界こそがここなのだから
わざわざ無駄な努力をしてまで上に上る必要なんてない。

【イオナ】
「それにしても、綺麗な空だ……」

どこを見渡しても青い空一色、こんな世界がこの世にあったのだろうか?
間接的に背に感じる草の青さ、顔の横を撫でる草の感触。

時折本当に軽く吹く風に乗った草木と土の香り。

さて、ここは一体どこなんだろうな……?

【イオナ】
「ん……」

何一つ遮る物の無かった視界の中に、フッと薄い影がかかった。

【?】
「あの、大丈夫ですか?」

女性の声だ。
俺は草のベッドから体を起こし、声が聞こえた方へと視線を向ける。

【女性】
「……」

蒼くウェーブのかかった柔らかそうな髪。
どこかの御伽噺から抜け出してきたような綺麗な若草色のドレス、手には金の如雨露が握られている。

それと横に長くピンと伸びた耳が特徴的な、少女と表現した方が年齢的には相応しいだろうか?

【女性】
「こんにちは」

少女は初対面であるはずの俺に柔らかく微笑みかけ、敵意ゼロの挨拶を投げかけた。

【イオナ】
「あ、ども……こんちは」

【女性】
「はい、どこかお怪我はありませんか?」

【イオナ】
「怪我、怪我は……どこも痛くないから、無いんじゃないかな」

【女性】
「そうですか、それは良かったですね」

もう一度少女は柔らかく微笑んだ。
耳がピコンと一回跳ね、まるで喜びを現しているように感じられた。

【女性】
「ところで、彼方はどうしてこんなところで寝ていらしたんですか?」

【イオナ】
「俺にもよくわかんないな、確か橋の上から落ちたはずなのに……
気がついたら俺はここにいたんだからな」

これは紛れもない事実、俺が眼を開いたらそこはもう一面の蒼海だった。

【女性】
「その出で立ちから考えると、彼方はどこかの騎士さんですか?」

【イオナ】
「一応、国の一級騎士の資格は貰っているけど」

【女性】
「わぁ、凄いんですね。
でも、争いごとは好きではないです……」

そりゃ誰だってそうだろうな、俺も騎士なんてやってはいるものの、戦争なんか真っ平御免だ。
平和が一番、そう願ってもそうならないから俺みたいな騎士がいるんだけどな……

【イオナ】
「あのさ、俺からもいくつか聞いても良いかな?」

【女性】
「私に応えられる内容でしたら、なんなりとどうぞ」

【イオナ】
「ここ、どこなんだ?」

【女性】
「ここは空中庭園です、地上からずっと天空へ登ったところ。
人の技術では決してたどり着くことの出来ない次元、それがこの空中庭園です」

【イオナ】
「人の技術って、じゃあどうして俺はこんなとこにいるんだ?」

【女性】
「たぶん、時空界の渦に巻き込まれたのかと。
聞いたことはありませんか? 空間移動という現象」

【イオナ】
「あるにはあるけど……俺がそれに巻き込まれたと?」

【女性】
「それしか考えられないですね、ここは人が決してたどり着くことの出来ない次元ですから。
そんな異常現象でも起きない限り、ここにいる説明が付きません」

超常現象って云う時点で説明が付いていない気もするけどな……

【イオナ】
「じゃあそれはもう良いや、それともう一つだけ」

【女性】
「どうぞ」

【イオナ】
「その、君の名前……教えてもらえるかい」

【フィルナシオ】
「私はフィルナシオ、空中庭園の管理人です。 よろしくどうぞ」

もう一度同じ微笑を見せ、丁寧に頭を下げた。

【フィルナシオ】
「それでは今度は私の番です、お名前、教えてもらえますか?」

【イオナ】
「……イオナ」

【フィルナシオ】
「イオナさん、失礼なんですけど……男性ですよね?」

ほらこうなった。
名前を云うたびに云われた方の反応は十中八九決まっている。

【イオナ】
「男だよ……名前は女っぽいけどな」

ぽいんじゃなくて、まるっきり女の名前。
だけどこうでも云っておかないと俺の心が折れてしまう……

【フィルナシオ】
「いえ、素晴らしい名前だと思いますよ。
イオナさんは世界に一人しかいないんですから、唯一固体というのは
それだけでとても尊くて素晴らしいものですよ」

【イオナ】
「そう云ってもらえると少しは気休めになるよ」

ようやく俺は立ち上がり、フィルナシオと正面から視線を交わした。
頭半分くらい俺の方が背が高い、こうやって見るとフィルナシオの姿は全てにおいてとてもバランスが取れていた。

360度全てをぐるりと見回した。
庭園と呼ぶにはいささか広すぎる、それ一つが何かの施設ではないかとさえ感じるこの広さ。

丘が広がり、人工物が緑と一体化してまったく違和感を出していない。
奥に見えるたくさんの風車、眼が覚めるような草と空の色。

その中に一人、管理人を名乗る少女フィルナシオ。

もしかすると、ここは天国なんじゃないだろうか?
だとするならば、そんな世界も俺は別にかまいはしなかった。

【イオナ】
「改めて見ると、凄いところだな」

【フィルナシオ】
「世界に存在する中で、最も『エデン』に近い場所ですから」

エデンか……確かにこんなところならば、そう呼んでも良い気がする。

【イオナ】
「管理人って云ってたけど、こんな広いところを一人で管理してるのか?」

【フィルナシオ】
「ええ、私が管理しなければ庭園を維持できませんから。
ここは管理人しか存在しえない庭園、今はイオナさんもいらっしゃいますけどね」

フィルナシオは口元に手を当ててクスリと笑った。

【フィルナシオ】
「イオナさん、申し訳ないのですがお仕事をしてきてもよろしいですか?
まだ管理の途中でイオナさんに出会ってしまったものですから」

【イオナ】
「俺のことなんか気にしないで、することがあるならすれば良いじゃないか。
……待った、それって俺が付いていくとまずいか?」

知らない土地を無闇に歩くのは危険だ、しかし土地に詳しいものがいるなら話は別だ。
ここでじっとしているのは嫌だ、だからといって一人で好き勝手歩いたら間違いなく迷ってしまいそうだし。

そこに現れたフィルナシオ、この土地を知るためにもここは行動を共にしたいところだ。

【フィルナシオ】
「私はかまいませんが、特別楽しいことも面白いことも起きないと思いますよ?」

【イオナ】
「別に良いよ、ここのことを知りたい興味本位だから」

【フィルナシオ】
「わかりました、では一緒に参りましょう。
所々説明もしますから、わからないことがありましたらなんでも聞いてくださいね」

……

やはり見知らぬ土地というものは面白い。

何故そこにこんな建物があるのか、どうしてこんなところに花を植える必要があるのか。
そんな疑問の一つ一つを土地の人間に教えてもらった時の納得感と言うものは本当に良いものだ。

【フィルナシオ】
「この木々にはよく鳥が巣を作るんです。
羽化の時期が来ると、毎日可愛らしい声が聞こえてくるんですよ」

説明をしながら手にした如雨露で木の根元に水を撒く。
こんな大きな木に、そんな如雨露の水がどの程度効果があるのかはわからないけど
フィルナシオがしているのだからきっと意味があるのだろう。

【イオナ】
「こんな木が本当に空に浮いてるなんてな」

【フィルナシオ】
「ここはそういう場所なんです、誰にも詳しい説明をすることは出来ません。
勿論、それは私にも当てはまってしまうんですから」

【イオナ】
「……」

俺はあえて聞き返さなかった。
だとしたら、フィルナシオとは一体何者なんだという疑問を、だ。

ここを管理しているのに、ここがどういった原理かを説明することは出来ない。
つまり、フィルナシオ自身が何故ここに存在するのかを本当は知らないということになる。

はたしてそんなことがありえるのだろうか?

【フィルナシオ】
「次は、どこか見に行きたいところはありますか?」

【イオナ】
「あ、いや、全部任せるよ。 何も知らないし」

【フィルナシオ】
「でしたら、そろそろ下に潜らせてもらいますね。 付いてきてください」

フィルナシオの後について草原を歩く。
時折吹く風が彼女の髪とドレスをふわりと躍らせている。

翌々考えてみれば、これは結構稀な状況だ。
広いといえどここは一種の閉鎖空間、そんな中に男と女が一人ずつ。

……こんな状況、願ったってうまれることなんてほとんどないのではないだろうか?

そんな状況だというのに、俺ってほとんど話もしてないな。
彼女から説明を受けて、それに頷くだけというのは結構もったいない状況だな。

【フィルナシオ】
「……ナさん、イオナさん?」

【イオナ】
「ぇ、ぁ、何?」

【フィルナシオ】
「一方的に私ばかりが喋っていると、やっぱり迷惑でしょうか?」

しまったな、意味合いの取り方は違うものの俺と同じようなことを考えていたか。

【イオナ】
「いやいや、別に迷惑ではないけどさ。
元々口下手なんだ、初対面だから何話したら良いかも思いつかないんだよ」

【フィルナシオ】
「そうでしたか……私は、どんなことでもいいからイオナさんとお話出来るのは
それだけでとても嬉しいです、今までお話し相手なんていませんでしたから」

【イオナ】
「……」

もう一度、俺は質問を飲み込んだ。
たぶんこの質問は聞いてはいけないこと、どこかでそんなことを感じているのかもしれない。

とはいうものの、ここで会話が切れてしまうと状況的には最悪だ。
何でも良いから話題を変えて、何とか話を続けないと……

【イオナ】
「あ……川だ」

視線の先には、キラキラと水面を反射させる川の姿を確認できた。

【イオナ】
「はぁー、さすがに綺麗な川だな」

水面から底までが恐ろしいまでに透明だ、手ですくってみるとひんやりとした冷たさがとても心地良い。
川の流れ出している先に眼を向けるが、ここからではどこから水が溢れているのかを確認することは出来なかった。

【イオナ】
「この水ってどこから来てるんだ?」

【フィルナシオ】
「庭園の一番上からです、絶えず溢れて庭園の維持してくれているんです」

【イオナ】
「これって飲めるのか?」

【フィルナシオ】
「飲めなくはないですがお勧めはしないです、そもそも流れているのは水ではなく、オイルなんですよ」

【イオナ】
「オイル? これがか?」

粘度もなく臭いもない、それにこんなにも透き通ったオイルなんてものが存在するのだろうか?

【フィルナシオ】
「詳しい説明は下に潜ってからお話しますね」

……

【フィルナシオ】
「ここから下に潜ります」

庭園の人工物、とはいっても草と蔦に巻き込まれてほとんど植物オブジェとかしている。
そんなオブジェにぽっかりと開いた口、どうやらここから下にいけるらしい。

【フィルナシオ】
「階段になっていますから足元にお気をつけください。
明かりはありますから見えないということはないとは思いますけど」

階段を下りるフィルナシオの後に続いて俺も階段を下りる。
最初は暗かったものの、すぐにそんなことを感じる必要もなくなってしまった。

【イオナ】
「……凄いな」

所々から光が差し込み、乱反射した光が辺りを照らしていた。
幻想世界にしか存在しないこの光景、実際に見るとこんなにも綺麗なものなんだな。

【フィルナシオ】
「驚かれましたか?」

【イオナ】
「まあな、地下がこんなにも明るいとはね」

【フィルナシオ】
「『エデン』の別の一面、とでも思っていただければいいと思いますよ」

それはたぶん間違っていないだろう。
原理をあれやこれやと考えたって仕方がない、ここそのものが原理を超越しているんだから。

【イオナ】
「で、ここには何があるんだ?」

【フィルナシオ】
「そうですね、庭園を維持させるための骨組み、とでも云いましょうか?」

【イオナ】
「よくわからないな」

【フィルナシオ】
「これ先を見ていただければ、きっとわかると思いますよ」

階段を下りきると、部屋の中央に水柱が出来上がっていた。
水柱は上から下へと下りているようであり、地面に出来た溝に従って規則正しく流れていた。

【フィルナシオ】
「先程、上の世界で流れていた川がここに繋がっているんです」

そう云ってフィルナシオは手にした如雨露を水柱の中へと差し込んだ。
音を立てなかった水柱が、如雨露の侵入でバシャバシャと音を立ててしぶきを飛ばす。

【フィルナシオ】
「さあ、参りましょう」

如雨露を手に再び歩を進める。
少しだけ差し込む光が減ったのか、辺りはぼんやりとした暗さを帯びていた。

【イオナ】
「ん……これは」

眼が慣れ、視界に飛び込んできたのはおびただしい量の歯車の存在だった。

【フィルナシオ】
「これが庭園の骨組みです、この歯車にオイルを注して庭園を維持するのが私の役目。
管理人としての私の仕事です」

【イオナ】
「ぇ、これ全部に一人でか?」

【フィルナシオ】
「はい、管理人は私しかいませんから」

これは驚いた、歯車の数もざっと見ても十や百じゃ収まらない、五、六百位はあるのではないだろうか?
この歯車全部にオイルを注すというのは並大抵のことじゃない。

しかも一人でだ、一体何時間かかってしまうのだろうか?

【イオナ】
「辛くはないのか?」

【フィルナシオ】
「そういったことは考えたことがないですね。
これを出来るのは私一人しかいませんから、必然的に私がするしかありませんので」

【イオナ】
「だからってこれは……」

【フィルナシオ】
「良いんですよ、私はこのために庭園に存在するんですから」

フィルナシオは嫌な顔一つ見せず、笑顔で歯車にオイルを注し始めた。

【フィルナシオ】
「時間がかかってしまいますから、イオナさんは上でお待ちください。
注し終わりましたらすぐに参りますから」

【イオナ】
「ぁ、あぁ……」

云われるがままに地下を後にした。
本当は手伝ってやりたいのだが、どうしても手伝おうかという言葉は出てこなかった。

たぶんあまりの量に気おされてしまったのだろう。

俺ってダメなやつだな……

地下から出てきても、空は何の変化も見せずに清々しいまでに青い。
草も眼が覚めるほどに蒼く、鼻に抜ける香りが心を揺さぶった。

フィルナシオが戻ってきてもすぐわかるように、入り口からほんの少し離れたところで寝転がる。

【イオナ】
「何もしてないように思えたけど、ありゃ重労働なんてレベルじゃないな」

気の遠くなるようなオイル注し、そういえばあいつ木々にもあれを撒いていたっけ。
つまりその辺の木や花も全てオイルを注す必要があるということだ。

地下であれだけの量があるのに、地上も含めたらとても人間一人で出来る量じゃなくなるな。

【イオナ】
「それを一人でやってるってことは、あいつ休む時間とかあるのかな?」

……まあ、現実問題そんなことは俺に関係ある話ではない。
俺は何の因果かこんなところにやってきて、わけわからずここに閉じ込められてるんだ。

云うならば俺は被害者、不幸な不幸な異国の騎士さんなのだ。

……なんだけどな。

それをはいそうですかと割り切れるほど、俺は極端な人間じゃない。
むしろ、どこかでそう思いながらも手が出ずにいる偽善者に近い。

「俺も手伝おう」、その一言が何の戸惑いもなく云える人間。
そんな人間こそが本当は偽善者なのではないだろうか?

結局何がどうなれば一番良いのだろうか?

【イオナ】
「俺には、難しすぎるかな……」

難しいことは考えてわかるもんじゃない、その時になって動く体こそが信じるものなんだ。
俺は眼を閉じ、しばらくあの蒼海へと別れを告げた。

……

【フィルナシオ】
「……ナさん、イオナさん」

【イオナ】
「んっ……」

【フィルナシオ】
「お早うございます、お待たせしてしまって申し訳ありません」

【イオナ】
「別に、寝てただけだから……あれからどれくらい経ったんだ?」

【フィルナシオ】
「そうですね……8時間というところでしょうか」

【イオナ】
「8時間!? それはまた、一日に必要な睡眠時間のほとんどを使ったな……」

体を起こすと、確かに背中には長時間眠ったときに起こる変な痛みがあった。
だけど周りの景色はさっきと何一つ変わりのない、8時間経ったとは思えない顔色をしている。

【イオナ】
「本当に8時間も経ったのか?」

【フィルナシオ】
「はい、ですがここでは時間の進みも若干違いますから。
地上で一日に当たる時間がここでは12時間ですから」

【イオナ】
「それは12時間で一日が終わるってことか?」

【フィルナシオ】
「そういうことになりますね、ですが基本的には地上とは変わりませんよ。
12時間の太陽と、12時間の月が交代で現れるんです。
つまり、結局は地上と何一つ変わらないということですね」

【イオナ】
「12時間の昼の日があって、12時間の夜の日がある。
二日で一日の計算になるわけだ」

【フィルナシオ】
「そうなりますね」

二日で一日、なんともわかりにくい表現だがここがそうなんだから仕方がない。

【フィルナシオ】
「本当なら、夜の日に下の管理は行なうんですけど
イオナさんが来られましたので、今日は上下両方の管理を終わらせてしまいました」

【イオナ】
「そうなんだ、なんか悪いことしたな」

【フィルナシオ】
「いえいえ、私は少しも迷惑に感じていませんからご心配なく。
むしろイオナさんが来てくれたおかげでとても楽しく過ごせましたから」

顔に表した微笑、それは作った顔ではない。
彼女は心から俺の来訪を喜んでいるようだった……

【イオナ】
「じゃあ今日はもうすることもないのか?」

【フィルナシオ】
「いえ、後一つだけ。 毎日しなければならないことがあるんですよ」

【イオナ】
「8時間も働いたのにまだなんかあるのかよ……」

【フィルナシオ】
「あ、イオナさんはお休みいただいていて結構ですよ」

【イオナ】
「あれだけ眠れば休みたくもなくなるよ、それに毎日どうしてもすることってのにも興味があるし」

【フィルナシオ】
「わかりました、こちらですよ」

……

フィルナシオに案内されたのは、簡単な風車が立ち並ぶこの庭園の中に
一つだけ異彩を放つ本格的な風車の前だった。

【フィルナシオ】
「どうぞ中へ」

中へ入ると、ここだけが別世界のように感じられた。
俺がいた世界とほとんど同じ、地上のレベルで作られた風車にしか見えなかった。

その風車の中、その中央にあるものだけは地上の風車には存在しないものだった。

二つのリングが縦と横で組み合わされ、その中で菱形を立体にしたようなものがくるくると回っていた。

【フィルナシオ】
「ここにもオイルを注して……はい、これで庭園の管理は一通り終わりですね」

【イオナ】
「これは?」

【フィルナシオ】
「この庭園を維持する心臓部です、これが止まってしまうと庭園は崩壊します。
それがどんな崩壊かは私にもわかりませんけど、たぶん字のとおりでしょうね」

これが壊れると文字通り崩れるってわけか。
だけどこんな大きな空中庭園をよくこんなもの一つで維持させていられるもんだな。

【イオナ】
「だけどそんな大事なものにしては随分なところにあるんだな。
もうちょっと安全なところの方が良いんじゃないのか?」

【フィルナシオ】
「そう云われましても困ってしまいますね、これは動かすことが出来ませんから」

【イオナ】
「ふぅん……」

勿論ここに置かれているのにわけがあるのだろうけど
わざわざこんな脆い風車の中になんて置く必要があるのだろうか?

外に置くより何ぼかまし程度にしかなっていないような気がするんだが……

【フィルナシオ】
「たぶん、庭園はいつまでも残っていて良い物ではないんですよ」

【イオナ】
「え?」

俺の考えていることを読み透かしたように、フィルナシオは言葉を続ける。

【フィルナシオ】
「役目を終えるときが来れば、きっとここは消えてなくなります。
それがいつかはわかりませんが、少なくとも今ではありません」

【イオナ】
「云い切れる根拠は?」

【フィルナシオ】
「庭園よりも先に、私が役目を終えていないというのは不自然ですから」

【イオナ】
「フィルナシオが死んだときが、庭園の最期だと?」

【フィルナシオ】
「厳密に云うと違いますが、理屈ではそうなりますね。
私に、生物的な死はありえませんから」

今彼女は酷く重要なことを云った、しかしそれを俺が聞き返す間を与えず彼女は言葉を続けた。

【フィルナシオ】
「さ、これで私が管理できるところは全て終わりです。
とりあえず、イオナさんのその重たそうな鎧、脱いでしまいませんか?」

【イオナ】
「脱ぐと云っても、その辺に投げるわけにもいかないし」

【フィルナシオ】
「大丈夫です、私の居住スペースがありますからそこに置いてください」

……

【フィルナシオ】
「どうぞ、地上の居住スペースとは異なるかもしれませんが」

案内されたのは、これまた人工物である家を大量の蔦が覆う神秘的な建物。
そんな外見とはうってかわって、内装はきちんとした民家といった感じだった。

【フィルナシオ】
「どうぞおくつろぎください、大したおもてなしは出来ませんけど」

【イオナ】
「何もかまわなくて良いさ」

【フィルナシオ】
「お客様が来るとわかっていれば何かご用意も出来たんですけど……」

【イオナ】
「本当に何もしなくて良いって」

【フィルナシオ】
「そう云って頂けると助かります、ですけどこれから一日以上することが無いんですよね」

二日分をまとめてやっちゃったからか、彼女にとっては突然の休暇というわけだ。
実質休暇になどなっていないのだけどな。

【フィルナシオ】
「イオナさん、お話はお好きですか?」

【イオナ】
「お話って云うと……聞くか話すかってことか? することが無いならそれしかないんだろうな」

【フィルナシオ】
「あの、でしたらご迷惑でなければ、地上のことを聞かせてもらえませんか?
私にとって世界はここだけですから、何か新しいことを知りたいです」

【イオナ】
「……良いよ、いろいろ親切にしてもらったお礼だ。
だけ俺は話し下手だから、退屈でも後悔しないでくれよ」

【フィルナシオ】
「退屈なんてしませんよ、私が知らないことに退屈するはずがありませんから」

はは、それもそうか、じゃあ何から話してやろうかな……?

……

【イオナ】
「とまあ、地上じゃそんなところかな」

【フィルナシオ】
「へえー、こことは全然違うんですね。
ですが多少なりとも同じところがあって安心です」

【イオナ】
「どうして? フィルナシオには別に関係ないことじゃないのか?」

【フィルナシオ】
「私にはですけど、イオナさんにとっては大切なことです。
何もかもが初めてなイオナさんには、少しでも同じところがあればそれだけ安心出来ると思いますから」

まあそれは確かにあるか、地上と何もかもが違っていたら俺はどうしていただろう?
最初に出会ったのがフィルナシオではなく、偉業に近い生物だったら俺はどう出来ただろうか?

そう考えると、地上と似ているというのは非常にありがたいな。

【フィルナシオ】
「ぁ、もう一日が終わってしまいましたね」

【イオナ】
「ぇ?」

フィルナシオが窓の外に視線を向ける、窓から見える景色にもう蒼海はなくなっていた。
蒼海のもっともっと深く、深海を思わせるような深い紺色の景色が小さな窓から見て取れる。

【イオナ】
「さっきまであんなに明るかったのに、いつの間に」

【フィルナシオ】
「ここでの昼と夜の変化というのはほんの一瞬だけです。
時間にして僅かに数分、その数分で辺りは全く別の世界へと移行するんです」

【イオナ】
「情緒も何もあったもんじゃないな、これって外に出られるか?」

【フィルナシオ】
「勿論です、夜の庭園というのもまた別の良さがありますよ。 出て見られますか?」

【イオナ】
「頼むよ」

【フィルナシオ】
「かしこまりました、どうぞ。 月の明かりが射していますから暗いということはないと思いますよ」

わざわざ扉を開けて俺を迎え出してくれる。
外に出ると、彼女の云うとおり月明かりが差し込むのか辺りはちょうど良い明るさになっていた。

【イオナ】
「夜は夜でまた幻想的だな」

【フィルナシオ】
「昼間でも静かなところですけど、夜はさらに静かになって。
風の音と、水の音ぐらいしか音はなくなってしまうんです」

たぶんそれもこの幻想的な世界を彩るエッセンスになっているのだろう。

【イオナ】
「少し歩いてきても良いかな?」

【フィルナシオ】
「はい、勿論です。 そうですね、二時間して戻られないようでしたら私が探しに参りましょうか?」

【イオナ】
「情けないけど、頼むよ」

【フィルナシオ】
「ふふ、わかりました。 行ってらっしゃいませ」

フィルナシオに見送られ、昼間とはまた違って庭園へと足を踏み出した。

だけど、さっきのやりとり。
まるで夫婦の会話だな、まだ今日出会ったばかり、正確には昨日出会ったばかりだというのに……

【イオナ】
「何考えてるんだ俺は……」

変な方向へ変な方向へ行こうとする思考を無理やり引き戻し
様変わりしてしまった庭園の鑑賞を開始する。

……

昼と夜では、支配するべき王が違う。 と以前何かで云われていた。

昼を統べるのは人の象徴であり、誰からも羨望を受ける人格者である。
そのために他の悪害を見過ごすことが出来ず、いつでも見ていられるように世界は明るいのだという。

夜を統べる王はその真逆、昼の世界で抑圧された感情が爆発し
その人が自分自身を保つために、ガス抜きとして悪事を行なうために世界は暗いのだといった。

しかし、この庭園を見ているとどうやら昼夜を統べる王は同一人物のようだ。
トランプの裏表という表現があるが、この世界は王の右横顔と左横顔といったところだろう。

それくらい世界の表情が同じ、同じなのに違うといったまさに幻想空間だ。

【イオナ】
「草木もこんなに暗さを帯びているのに、こんなにも明るく見えるのはどうしてなんだろうな?」

きっとそれこそが、ここが地上とは別世界というものの証明の一つなのだろうな。

【イオナ】
「どれ……」

昼間と同じように草で出来た自然のベッドに寝転がる。
見上げた空はまさに深海と表現するのが相応しい深い紺色をしていた。

だけどそんな紺色の海を照らし出す月明かり、それがたった一つの道導のように海に広がっている。

【イオナ】
「あいつ、どれくらいここの管理をしてるんだろう……」

初めから持っていた疑問、彼女は一体いつからここの管理をしてきたのだろうか?

この庭園を作り出したのが彼女だとするのならば、初めから彼女が管理してきたということになるのだけど
ここの原理を詳しく知らないところを見ると、ここを作り出したのは彼女ではない。

そもそもここはいつごろに出来たのだろうか?
そして彼女はいつごろからここの管理を行ない始めたのだろうか?

それと、フィルナシオの言葉でもっとも引っかかったあの言葉。

「私は死なない」

これだ。

どうして彼女は死なないのだろうか? この世界にいるものは死から隔離されて
ずっと生き続けるとでも云うのだろうか?

だとすれば、俺もここにいる以上絶対に死なないことになる。

現実がことごとく覆されたここでは、むしろその程度のことでも普通に思えてしまうから不思議。

【イオナ】
「わかんないことだらけだな、だけどどれもこれも考えたって意味が無い……」

そうなんだ、どうせ全部考えるだけ無駄なこと。
ならばいっそ何も考えず、しばらくここで過ごしてみるというのも良いのかもしれない。

どうせ下には戻れないんだ、それに年頃の女の子と閉鎖空間に二人というのも特別悪いものじゃない。
戦争戦争で病んでいる俺には、これくらい現実離れしてるほうがかえって気持ちよい。

【イオナ】
「良い骨休めだと思うか、最悪ここで一生を終えるとしても戦争で死ぬよりは良さそうだしな」

生憎、俺は痛いのが好きじゃない。
騎士なんてやっちゃいるが、出来ることなら後方支援で体を傷付けたくはない。

【イオナ】
「はは、とんだインチキ騎士だな俺は」

だからこそ、神様が罰でも与えたのかな?
だけどこんな罰なら願ったり叶ったり、少なくともあそこにいるよりも痛くはないだろう。

【イオナ】
「……ん?」

まったくと云って良いほど、音の無い世界。
そんな世界だからこそ、どんなに小さい音でも耳には届いてしまう。

パシャパシャと、水の跳ねる音が聞こえた。
正確には水でなくオイルらしいのだが、俺にはそんな違いよくわからない。

【イオナ】
「小動物でもいるのかな?」

水音が聞こえた方に足を進めてみる。
さほど歩かずに大きな湖面にたどり着く、たぶん音が聞こえたのはここだろう。

【イオナ】
「……っ!」

よくよく考えればすぐに答えなんて見つかるはずだった。
この庭園には俺とフィルナシオしかいない、湖面がはぜる音を出せる生き物なんているわけがない。

となると、あの水音を出したのは一人しかいない。

フィルナシオだ。

【フィルナシオ】
「……」

彼女は一糸纏わぬ姿で湖面に膝までを浸からせていた。
手のひらで掬い上げた水を体に浴びせ掛け、頭を軽くふるって長く美しい髪をなびかせた。

水に濡れたフィルナシオの裸体が、月明かりを反射させて時折きらきらと輝いている。
膝から下が見えていないため、まるで人魚か何かではないかと錯覚を起こさせるほど
彼女の体は美しかった。

【イオナ】
「……」

俺は見惚れていた、声を出すことも出来ず、その場から立ち去ることも出来なくなってしまった。
息をすることさえも忘れさせてしまうような、そんな不思議な魅力が彼女からは滲み出ている。

【フィルナシオ】
「……ぁ、イオナさん」

【イオナ】
「ぇ、ぁ! ごめん!」

フィルナシオが俺に気付き、視線をこちらに向けられ、ようやく俺の吹き飛んでいた思考が戻ってきた。
しかし、思考が戻ったからといってすぐに行動が起こせるわけではない。

実際俺はこの後何をどうしたら良いのかがまったくわからなくなってしまっている……

【フィルナシオ】
「如何でしたか、夜の世界は?」

【イオナ】
「いや、い、良いもんだな……」

【フィルナシオ】
「? どうしてそんなところに立ち止まっているんですか?」

え、いや、いやいやいや!
そりゃ立ち止まるでしょう、というかどうして叫ばないんだ?

【フィルナシオ】
「こちらへどうぞ、遠いと声も聞き辛いでしょうから」

どうやら彼女は恥ずかしいとかそういった感情が薄いらしい。
だからといって俺が近づいてしまって良いのだろうか?

相変わらずフィルナシオは何も着ておらず、何も隠そうとしていないのにか?

【イオナ】
「……」

恐る恐る、一歩一歩が本当にゆっくりと湖面へと近づいてみた。
どこかで叫ばれるかと思ったけど、湖面ぎりぎりまで来ても叫ばれることはなかった。

【フィルナシオ】
「ふふ、どうしたんですか? なんだか緊張していられるみたいですよ?」

【イオナ】
「そりゃあまあ、ね……?」

【フィルナシオ】
「?」

察してほしい俺とは対照的に、フィルナシオはどうして俺の態度がおかしいのかわからないといった感じ。
やはり、こんな閉鎖空間に一人でいると羞恥心なんていうものはとうの昔に消え去ってしまうのだろうか?

【イオナ】
「水浴び、してるのか?」

当たり前だ、だけどそうとしか聞くことが出来なかった。

【フィルナシオ】
「はい、本当は水ではありませんけど、イオナさんにはそう思っていただいて問題ないですよ」

【イオナ】
「良いのか、大事な身体オイル塗れにして?」

【フィルナシオ】
「良いんですよ、これは私の身体に必要なものですから」

【イオナ】
「どういうことだよ?」

【フィルナシオ】
「ご覧になりますか?」

フィルナシオが振り返る、勿論身体を手で隠そうともしないので彼女の裸体が正面に映った。
程よく膨らんだ胸、括れたウエスト、人形のような白い肌は月明かりの下でより一層妖艶に見える。

そのまま彼女は俺の元へと近づき、首元に軽く触れた。

すると、首の一部がふわりと横にスライドし、彼女の正体を明らかにさせた。

【フィルナシオ】
「これが、私の身体なんですよ」

スライドした首の奥に見えたのは、無数の歯車だった。

【イオナ】
「君は、人形なのか?」

【フィルナシオ】
「人形、という云い方は好きではないですね。
私はここの管理人、それ以上でもなければそれ以下でもありませんよ」

再び首元に触れると、スライドしていた部分が綺麗に戻り
綺麗な少女の首筋へと変わっていた。

【フィルナシオ】
「このオイルは私の身体を動かす役割も持っているんです。
庭園にオイルを注さなければ壊れてしまうように、私もこれを取り込まないと生きていけないんです」

そういうことか、これでいくつかの謎が解けた。

つまり、フィルナシオはここの管理を任されている、というのは一種の建前だ。
本当は彼女自身もこの庭園の一部、彼女も含めてようやく空中庭園というものは意味を成しているわけだ。

彼女がここの原理を知らないのも勿論のこと。
彼女自身が庭園の一部である以上、彼女に与えられているのは核心を除いたその他全部。

核心を本人が知る必要はない、知らないというのは世界共通のルール。
そうでなければ彼女は創造主と同格になってしまう、創造主が作り出したものと
同格になることなどまずありえないからな。

……と、いくつか考え付いたこともあるけど、ここでは全部ちっぽけなことだよな。

【イオナ】
「自分の身体が、嫌だと思ったことはあるのか?」

【フィルナシオ】
「いえ、これが私の個としての確立なんですから。
私にしか、ここの管理はさせてもらえない、世界で私だけなんですから」

彼女は笑っていた、無理に作った笑顔ではない、本心でそう思っていなければあんな笑顔が出来るはずがない。

【イオナ】
「良いもんだな、こんな世界も……」

【フィルナシオ】
「はい」

俺の言葉を肯定し、耳をピコンと弾ませ、彼女は湖の底へと飛び込んだ。
水飛沫がはぜ、湖面を激しく波紋が揺らぐ。

一時の喧騒の後に訪れる永遠とも取れるくらいの静寂。

湖面を覗き込むと、湖の中には街のようなものが沈んでいる。
底に差し込んだ月明かりが、まるでもう一つの海底都市の存在を強調しているようだ。

【フィルナシオ】
「ぷぁっ!」

湖面からフィルナシオが顔を出した。
頭を左右に振り、飛び散る水飛沫が月明かりに反射しする。

【フィルナシオ】
「イオナさんもいかがですか?」

【イオナ】
「俺は良いよ、生憎泳げないんでね」

【フィルナシオ】
「まあ、なんだか可愛らしいですね♪」

くすくすと笑い、もう一度湖底へと身を沈めていった。
まるで御伽噺に登場する人魚姫、そんな表現が最もぴったりとくるくらい彼女は美しかった……

……

【フィルナシオ】
「ぷはぁ!」

ザバンと水飛沫をたて、フィルナシオが再び姿を現した。
湖面に波紋を靡かせながら、その綺麗な体で優雅に水を震わせている。

【フィルナシオ】
「はぁ……気持ちよかったです」

湖から上がり、髪を軽く振ると水滴が僅かだけど俺にかかった。
勿論俺はそんなことは気にしていないけど。

【イオナ】
「身体、拭かなくて良いのか?」

【フィルナシオ】
「はい、ほうっておいた方が身体にオイルも染み込んでくれますから」

どうやら彼女は自然乾燥派のようだ、それはそれで俺の眼のやり場が困る……

【フィルナシオ】
「いかがでしたか、ここの環境は?」

【イオナ】
「変わったところだけど、嫌いじゃないよ。
ここにいると、地上にいた時が莫迦みたいに思えてくる」

一分一秒が忙しなく動き回る日常の中にいると、こんな穏やかで
時間がゆっくりとした世界が天国のように思えてくる。

【フィルナシオ】
「イオナさんがいた世界、帰りたいとは思わないんですか?」

【イオナ】
「別に、ここなら争いも無さそうだし。
帰れないなら帰れないでここでゆっくりさせてもらうさ」

【フィルナシオ】
「そうですか♪」

フィルナシオの耳がピコンピコンと二度跳ねた。

【フィルナシオ】
「歓迎しますよ、イオナさん」

【イオナ】
「そりゃどうも……随分と嬉しそうだな」

【フィルナシオ】
「それは勿論……寂しいものですよ、何百年と一人というのは」

【イオナ】
「何百年……そんな昔から一人だったのか」

【フィルナシオ】
「正確にはもっともっと長い時間です。
私が数え始めてからの時間ですからね」

何百年とこの広い庭園に一人、いくら良い場所だといっても一人というのはそれだけで全てを壊してしまう。

そこに突然現れた俺の存在、珍しいというのもあるだろうが何よりも
孤独からの解放されたというのがきっとフィルナシオにとっては大きいのだろう。

【フィルナシオ】
「イオナさん……どれだけの時間一緒にすごしていただけるかはわかりませんけど
別れが訪れるそのときまで、よろしくお願いします」

【イオナ】
「こちらこそ……」

本当なら握手でもするのだろうけど、フィルナシオの存在そのものが愛おしくて。
俺は彼女の顎を持ち上げ、唇を交わした。

最初は彼女も驚いているようだったけど、すぐ俺に身を任せてくれた。
柔らかい唇と舌の感触に、頭の先まで溶けてしまいそうだ。

【フィルナシオ】
「こんな所でよろしいのですか? 居住区に戻ればベッドもありますが……」

【イオナ】
「ここが良い、お前は庭園の姫なんだ。
そんなお前に、作り物の家は似合わないよ……」

【フィルナシオ】
「ふふ、イオナさんには似合わない言葉ですね……」

……

俺がここに来て、地上の時間の流れで計算すると四ヶ月といったところか。
最初は全てに対して驚いていたものの今では何一つ不思議とも思わない。

慣れるってこういうことをいうんだな。

【フィルナシオ】
「どうですかイオナさん、そちらの方は終わりそうですか?」

【イオナ】
「あぁ、ここに注したらもう終わりだよ」

今では彼女の負担は半分だけ、勿論俺が一緒に手伝うことにしたからだ。
彼女が持つ金の如雨露とは対照的に、俺の如雨露は銀色をしている。

【フィルナシオ】
「やはり二人だと早さが違いますね。
イオナさんももう私が指示をしなくてもご自分でどこに注せば良いのかわかってきたみたいですし」

【イオナ】
「毎日やってればこそさ、なんだって慣れだよ慣れ」

そう、なんだって慣れれば普通に思えてくる。
今の所たったひとつ、こいつとの関係を除いてはだ。

あれ以来、俺たちはちょくちょく身体を交わらせたりしている。
しかしこれだけは何度やってもお互いに慣れたという言葉を聞かない。

そういう言葉が出てしまうということは、魅力がなくなってしまうということなので出なくても良いのだけど……

お互いにぎこちなさはもう微塵もない、だけど互いに遠慮がないといえば勿論嘘になる。
互いに踏み込めない領域があるからこそ、きっと他人同士がうまくやっていけているのだろう。

【フィルナシオ】
「ひゃぁ!」

突然のフィルナシオの悲鳴、振り向くと同時に吹き抜けた強い風に
彼女のドレスと蒼い髪が激しくなびくのが見えた。

【イオナ】
「ぅ、ぁ……はぁ、随分と強い風だな」

【フィルナシオ】
「春一番ですね」

【イオナ】
「春一番? なんだよそれは?」

【フィルナシオ】
「時折吹く強めの風のことです、時空界の渦が関係しているんですけど
詳しく説明すると長くなりますので」

【イオナ】
「大丈夫なのかよ、結構強いぞこの風」

強弱のはっきりとした、吹く方向が一定しないこの吹き方。
地上では嵐の前触れだ、それがこの庭園に当てはまるかどうかはわからないけど。

【フィルナシオ】
「春一番自体はこれまでにも何度かありましたので、大丈夫だと思いますよ」

心配無用を意味するような笑み、まあフィルナシオがそう云うのならきっと大丈夫だろうさ。

【フィルナシオ】
「とは云いましても、今日はもう管理場所もありませんし
家でゆっくりしましょうか、たまにはそんな日があっても良いと思いますよ」

【イオナ】
「そうだな」

……

家の中で庭園を眺めていると、地面を覆う草の絨毯がわさわさと激しくウェーブを見せる。
木々も枝葉を揺らし、時折窓もガタガタと鳴った。

【イオナ】
「結構強くなりそうだな」

【フィルナシオ】
「ですね、少し私が経験してきたものよりも強いかもしれません」

【イオナ】
「折角時間があるんだ、さっきの時空界の渦の話、詳しく教えてもらえるか?」

【フィルナシオ】
「わかりました、時空界の渦の説明はもうずっと前にしましたよね。
時空界の渦はその次元が歪むことで生じるいくつかの計算違いなんです。

本来、渦は存在さえも悟られることなく消えてしまいます、ですからそれを知る人はいないんです。
ですが極々稀に、渦が計算違いを起こしたときに現象は起こります。

それが春一番です、計算違いを正すための一種の建て直し作業です
イオナさんがここに飛ばされたのもそんな現象の一つです」

【イオナ】
「? ?」

うーん、いまいちよく理解出来ないな……

【フィルナシオ】
「そうですね……お水を溢したら拭きますよね? 云っていることはそれと同じレベルの話です。
ただ規模と、世界の安定を保つ重要度の差は比べられるものではないですけど」

【イオナ】
「その渦ってのはいつどこで起こるかはわからないのか?」

【フィルナシオ】
「勿論です、いつどこでどのくらいの大きさで現れるかは未知数です。
今回の春一番も、きっとどこか近くで起きた渦の計算違いだと思います」

【イオナ】
「渦にここが取り込まれるってことはありえるのか?」

【フィルナシオ】
「ないと断言は出来ませんけど、その可能性を確率で現しても限りなくゼロの先ですね」

なら俺みたいにここがどこかへ飛ばされるということは考えなくて良さそうだな。

【フィルナシオ】
「でもこのまま風が強くなると、明日のお掃除大変ですね……」

【イオナ】
「心配するなって、俺も手伝ってやるから」

【フィルナシオ】
「はい、ありがとうございます。 頼りにしてますからね、イオナさん」

そう云ってフィルナシオが微笑んだ瞬間、本当にそんな一瞬の出来事……

フッと辺りが暗くなった。
まだ夜の世界が来る時間ではない、それにこれは夜の世界とは違う。

月明かりがない、本当に暗闇と表現するのが相応しいほどに暗く、これぞ夜といった雰囲気だ。

【イオナ】
「お、おい、どうしたってんだ?」

【フィルナシオ】
「まだ夜が来るには早すぎます、それにこんなに暗いはずは……」

バサバサバサバサバサ!

突然窓を叩く風が、窓を突き破らんばかりに強くなった。

【イオナ】
「おいおい……」

【フィルナシオ】
「まさか……!?」

何か思い当たる節があったのか、フィルナシオは家を飛び出した。
状況が飲み込めない俺もその後に続いて家を出る。

【フィルナシオ】
「……っ!!」

【イオナ】
「な、なんだよこれ……」

見上げた空に、普段の空はない。

黒雲が辺り一面を覆い、時折ビカビカと下品に光を放ち
赤い筋のような物が生きているように動いている。

そして一番の変化、『雨』が降っていた。

それまで一度たりとも雨なんて物が降りもしなかったのに、今回はザンザンと雨が庭園に降り注いでいた

【フィルナシオ】
「渦……」

【イオナ】
「これが、時空界の渦だって云うのか!?」

【フィルナシオ】
「渦といっても、一般的なそれとはかけ離れた規格外の渦です……
こんなもの、今まで私でも遭遇したことがありません」

ビュウ!!

【イオナ】
「うわっ!」

乱気流の中に放り込まれたかのような、立っていることさえも困難な風が四方八方からひっきりなしに打ち付ける。

【フィルナシオ】
「きゃっ!」

【イオナ】
「危ない!」

強風にバランスを崩したフィルナシオの身体を、すんでのところで抱き止めた。

【フィルナシオ】
「あ、ありがとうございます……」

【イオナ】
「こんな中でここにいる必要ないだろ、家の中で落ち着くのを待とう」

【フィルナシオ】
「……いえ、私には出来ません」

【イオナ】
「どうしてだよ、もしかしたら飛ばされるかもしれないぞ!?」

【フィルナシオ】
「私は、ここの管理人ですから……」

フィルナシオは俺の手を振りほどき、雨風の吹き荒れる庭園を駆け出した。

【フィルナシオ】
「イオナさんは中で渦が消えるのを待っていてください!
決して、絶対に外に出てはいけませんから!」

【イオナ】
「待てよ、お前はどこに行くんだよ!!」

【フィルナシオ】
「私が、風車を守らなければならないんです!」

風車。
たぶん彼女が云っているのはこの庭園の心臓部になっているあの風車のことだろう。

【イオナ】
「だったら、俺も連れて行け!」

【フィルナシオ】
「駄目です……イオナさんは、お客様なんですから」

お客様……

なんだよそれ、俺だってもうここの一員じゃないのか?
それなのに、厄介ごとは俺にはさせないのかよ……

【フィルナシオ】
「イオナさん……渦が止んだら、一緒にお掃除しましょうね」

雨風を受けながら、こんな暗い世界の中でも。

フィルナシオの笑顔ははっきりと見えた。
俺と初めて出会った時と全く同じ、あの裏表のない心からの笑顔だ……

【フィルナシオ】
「行ってきます」

声はほとんど聞こえなかったが、口元はそう動いていた気がする。

【イオナ】
「……酷いじゃないか、俺は除け者かよ」

目印便りにしか風車まで行けない俺には、目印の聞かない今の明るさではたどり着くことなど絶対に不可能。
選択肢はここに留まり、渦が止んでから彼女の元に急ぐしか残されていなかった。

【イオナ】
「無茶、するなよ……」

……

【フィルナシオ】
「はぁ、はぁ……」

雨に濡れた身体も、乱れた呼吸もそんなことはどうでも良かった。
そんなことよりも大事なのは、この子を絶対に止めてはならないということだけ。

【フィルナシオ】
「大丈夫、絶対に私が守ってあげますから……
ですから、絶対にイオナさんのことを守ってあげてください……」

がたがたと石物が崩れ落ちる嫌な音が風車の中に響く。
崩壊したところから容赦なく雨は降り注ぎ、庭園の心臓部を濡らしていく。

【フィルナシオ】
「大丈夫、私がついていますから……
私だけならばまだしも、イオナさんがここにいる以上、まだ役目は終わってはいけないんです……」

ぎゅっと球体を包み込むように抱きしめ、風車の崩壊に球体が巻き込まれないように
自らの身体を盾にして球体を覆い隠す。

【フィルナシオ】
「お掃除の場所、増えてしまいましたね……
イオナさんになんて云いましょう……」

崩れた破片がフィルナシオの身体に直撃する。
言葉を失ってしまいそうな嫌な痛みが彼女を襲い、断続的な震えとなって危険をしらせていた。

【フィルナシオ】
「あっ、ぐぅ……はぁ……云い訳、考えておいた方が良いかも知れないですね」

ガラ、ガラガラガラ……!!

……

丸一日以上の時間が経過した。
もう夜の時間はお終い、もう激しい風の音は聞こえないが、辺りはまだまだ明るさを取り戻していない。

世界が明るくなったとき、そこに俺が知っている空中庭園の姿はあるのだろうか?

【イオナ】
「ぉ……」

辺りが薄ぼんやりとだが明るくなってきた、どうやら昼の世界が来るらしい。
俺はいてもたってもいられずに家を飛び出した。

【イオナ】
「……」

少しずつ明かりが庭園を明るくしていく。
俺の視界の中に、庭園はまだ存在していた……

木の枝やら大量の葉っぱやらが辺りに散らばってはいるものの、紛れもなくここは庭園だった。

【イオナ】
「良かった……こうしちゃいられない!」

庭園は無事だったけど、それ以上に気がかりなことがあるに決まっている。
勿論フィルナシオのことだ、あいつは自分ひとりで何とかすると云っていた。

実際あいつ一人で何とか出来た、しかしだ、あいつが無事だという保障はどこにもない。

俺はフィルナシオが向かった風車に向かって走り出した。
そこで、彼女が迎えてくれると信じて……

……

【イオナ】
「なっ……!」

眼に入った光景を見て言葉を失ってしまった。

風車はかろうじて建ってはいたものの、肝心要の羽など一つもなく
むごたらしく崩壊して辺りに残骸を散らばせていた。

【イオナ】
「フィルナシオ!!」

彼女の名前を呼び、俺は風車の扉を開けた。

【イオナ】
「フィルナ……シオ……」

そこに彼女はいた。
この庭園の心臓であるあの球体を抱きしめながら、笑顔のまま眼を閉じていた。

その顔はとても安らかな眠りに落ちているような
儚げで、それでいてとても悲しげな眠り姫のような顔……

【イオナ】
「……」

彼女の頭をそっとなでてあげる。
瓦礫と埃にまみれてしまい、あの綺麗な髪もこれでは台無しだ。

【イオナ】
「よく、一人で頑張ったな……」

今度は俺が彼女のことを抱きしめた。
彼女のことを抱きしめながら、俺は一人静かに泪を流していた……

フィルナシオの表情はいつまでも変わらずに、柔らかい笑みを浮かべたまま
とても心地良い夢物語でも見ているような気にさせてくれた……


……


あの規格外の渦から約一ヶ月、今の俺はというとだ。

【イオナ】
「ふぅ……」

前と変わらずに庭園の草木、それに地下の歯車にオイルを注す仕事を続けている。
二人でやっていた仕事も、一人でやると恐ろしく時間がかかる。

これを今までたった一人でずっとやり続けてきたあいつには尊敬さえ覚えてしまう。

【イオナ】
「よし、これで終わりと……後は」

如雨露に新しいオイルを一杯に汲み、俺はあそこを目指した。
この庭園の心臓部、崩れかけの風車に行くのが毎日の日課。

【イオナ】
「……」

【フィルナシオ】
「……」

扉を開けると、いつものように彼女は出迎えてくれた。
言葉を発したり、俺のことを見たりはしてくれないけれど、彼女はちゃんとそこにいてくれた。

【イオナ】
「お待たせ」

彼女の頭を軽く撫で、球体にオイルを注ぐ。
立体的な菱形は今も回り続けている、これも全部こいつのおかげなんだ。

【フィルナシオ】
「……」

表情はあの時から何も変わっていない、きっとまだ夢物語の続きを見ているのだろう。

【イオナ】
「一人で楽しんでないで、早く戻ってきてくれよ」

彼女の首元に触れ、スライドした皮膚の内側にもオイルを注した。
これが意味のある行為かなんて俺にはわからないけど、オイルがなければこいつは生きられないんだ。

だったら、注さないって選択肢はないだろう?

【イオナ】
「まだ、約束終わってないんだぞ?」

約束、彼女があの嵐の日に最後に交わしていった約束。

渦が終わったら、一緒に掃除をしよう。

その約束を果たすために、俺はまだ全ての掃除を終えてはいなかった……

【イオナ】
「……じゃあ、また明日な」

もう一度彼女の頭を撫で、彼女の元を後にした。


明日こそ、彼女が笑って迎えてくれることを信じて。
彼女が目を覚ますまで、今度は俺がここを守っていこう。


ここは地上とは全く次元の違う場所、『空中庭園』。

世界にたった一つだけ存在する、俺たちの『エデン』なのだから……




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