【永久就職先み〜つけた♪】


今この時間この世界の中で、人間という生命体に『自由』は存在しない。
『自由』だけではない、『安全』や『自己』、『意見』などあらゆることが認められてはいない。
人間という生命体に認められているのは『服従』、そして『恐怖』。

この世界の中で、今まで最上位に立っていたのは人間だった。
人間には大型生物のような物理的な力はない、鳥類のような翼を持ってはいない、しかしそれでも人間は最上位に立っていた。
それは、人に搭載された唯一の武器ともいえる大きな脳、そして他には無い想像力があったからである。

もしここに大型恐竜がいたとしても、人間が恐竜に負けることなどほぼありえない。
恐竜の武器は大きな体ただそれだけ、しかし人間には科学力が存在する、簡単で云ってしまえば大型の爆弾やらミサイルである。
いくら恐竜といえど大型ミサイルを何発も浴びて無傷でいるものなど存在するはずもない。
物理に対して火力、他にも毒やなんだと様々な物が武器として上げられる。
それらを手にしていた人間の牙城を揺るがす者など存在しなかった、当然今となっては過去のことでしかない。

人間が最上位に立てていたのはほんの数十年前までのこと、現在ではピラミッドの下位にその立場を下げてしまっている。
その原因は他でもない、人を超える知能を持って生まれた地球外の生命体の出現だった。
数十年前、突如として現れた地球外生命体はこの世界の権利全てを要求してきた。
当然この要求に人は応じることなどなく、自慢の科学力で生命体を排除しようとした。
人が負けるわけがない、やる前からわかりきっているような結果に誰1人と指摘興味を示すはずなどない。
そのどこから来ていたのかわからない自信は、生命体の行動によって全てが覆される。

人の科学力をはるかに超えた科学力、生命体が有していたのはそれだった。
人と生命体の力の差は歴然、それでも人間は自分たちの負けを認めることが出来なかった。
そして始まってしまった人と生命体との戦争、それが歴史に名高い『地球乗っ取り戦争』である。

結果など最初からわかっていた、人間は生命体になす術無くやられてしまった。
僅か一週間で戦争は終焉、しかし人間が一週間も戦い抜いたことは奇跡以外の何物でもなかった。

こうしてこの世界は地球外生命体の手に落ち、支配権全てが生命体が手中におさめられることとなった。
この世界を手に入れた生命体がまず行ったことは、増えすぎてしまった人間の排除。
生命体の力で人間はどんどんと数を減少させ、侵略前の半分以下まで数を減らされてしまう。

排除されてしまった人間をかわいそうだと思う者もいたが、本当は残されてしまった人間の方がもっとかわいそうなのである。
残された人間に与えられるのは生命体への絶対の服従それだけ、人間は生命体の奴隷へと立場を落としてしまった。
それが今現在のこの星の状況、現状を変えようと暴動を起こす者もいるが当然敵うはずもない。
暴動は鎮圧され、関係者は皆排除、生命体の出現からずっとそんな時間が続いている。

しかし、ある青年があの生命体の弱点とも云える決定意的な現場を目撃してしまう。
それを聞いた人間は来るべき日に備え、生命体への対抗策を模索し始めた。

数十年前に乗っ取られた地球を取り返すための戦い、その名も『地球奪還戦争』。
生命体の天下が続いていた世界を変える戦いが行われたのは、僅か38日後のことだった……

……

【時搭】
「とまあこんな話なんだが、どう思う、おもしろかろう?」

長々と自分の考えを話し終えた時搭は満足げに眼鏡のフレームを軽く持ち上げた。

【縁】
「侵略物ねえ……長々と話してもらって悪いんだけど、どの辺りが他とは違うの?」

【時搭】
「その辺はこれから考える、とりあえず下地を作ってからの方が良いと思ったんだが」

頬杖を付いて話を聞いていた縁の肘がかくりと折れる、よく漫画やテレビなんかで呆れた表現をする際に見るけど、まさか実際に見ることになろうとはな。

【縁】
「それだったら前に私が話したやつでも良いじゃない」

【時搭】
「あれは却下だ、どこぞのお姫様と三下凡兵の恋愛事情なんてもう数えられないほど出ているではないか。
ああいった作品は過去に一作だけヒットして、後は皆二匹目のドジョウを狙っただけの乗っかり商法ではないか」

【縁】
「それだけ出てるってことはそれだけ需要があるってことじゃないの、あんまり無駄な冒険はしないほうが良いと思うわよ。
と・く・に、時搭みたいなとっぴな設定は駄目な時はとことん駄目になるからね」

【時搭】
「云ってくれるじゃないか、世の男は皆戦いを求めているのだ、女みたいに敵わぬ夢物語のような甘さは無いのだよ」

眼鏡の中央を軽く押し上げ、何もわかっていないようだなっと云うような笑みを漏らした。

【縁】
「男子は皆単純だからね、戦いさえあれば全体の流れや構成なんて何にも気にしないもんね。
その点女の子はいつでも物語全体を考えて評価を下すの、女の子が面白いって思うのは中身もしっかりした完成度の高い物なんだから」

【時搭】
「それは過去のデータだ、今は過去ではない、現在進行形未来型なのだよ」

【縁】
「女の子の票を得られないようじゃ、いつまでたっても同好会から上がることなんてできないわよ?」

椅子に腰掛けたまま2人とも冷静を装ってはいるけども、交差する視線はバチバチと画面効果でも出そうなほど熱くぶつかっていた。

【葛深】
「はぁ……」

2人とも自分の意見をとうそうと必死、俺はいつだってこの2人の間で仲裁をしなくちゃいけないんだよな。
そんな不幸な青年、それがこの俺『葛深 重蔵』の役割である。

この2人がさっきから何について云い合っているのかというと、次回作の主題について話し合っているのである。

ここは天宮寺学園特別棟4階第二コンピュータルーム、生徒間では別名『幽霊部屋』と呼ばれている空き教室。
そこで俺はこいつら2人とクラブ活動をしている、名前は『じき文芸部(予定)』。
部員が全部で3人しかいないため、未だに正式な部として認められておらず同好会の状態にある。
発足からもう3年も経つというのな……

【時搭】
「どうしても譲る気は無いのかね?」

こっちの男の方、名前は『時搭 克巳』、同じ学年にして同じクラスそしてこの同好会の会長をやっている。
まるで最後通知とでも云うように眼鏡の中央を軽く押し上げ、真っ直ぐに縁を見つめる。

【縁】
「最初っから譲る気なんか無いよー♪」

右手をヒラヒラと振ってにっこりと微笑む、こいつは『烏丸 縁』、時搭と同じく学年もクラスも同じ。
ショートカットに白いヘアバンドがトレードマークのこの同好会の紅一点……まあ3人しかいないんだけどね。

【時搭】
「交渉は決別って訳ですね、ではしかたありませんね」

【縁】
「今回も最終的な決断をするのは……」

2人の視線が同時に俺に向く、あぁ、またこの展開なのかよ……

【葛深】
「な、何かな2人とも、怖い顔して……」

【時搭】
「じゅーぞー君、君の意見を聞かせてくれたまへ、君はどちらが題材に相応しいと思うかね?」

【縁】
「重蔵は当然私の方だよね?」

2人とも顔では笑っているけど、その奥には何も云い返せない黒い波動がちらちらと見える……気がする。
なんで毎回毎回2人で話し合って穏便に決めてくれないんだよ……。

【葛深】
「えぇっとなんだ、俺はどっちでも……」

【時搭】
「じゅーぞー君! それではいかんのだよ、私が24分と38秒を費やして考えた傑作を無駄にしても良いのかね?
縁が考えるようなベタな展開だらけの恋愛よりも、男共の熱い魂を文章化してみたいと思わんかね、どうだ?」

【葛深】
「そんな時間かかってないじゃないか、それからじゅーぞーって云うな、俺はしげくらだ。
さらに云わせてもらえれば、『地球乗っ取り戦争』とかさ、もうちょっとセンスある名前にしてくれよ」

【縁】
「ほーらね、やっぱり重蔵も私の方が良いって云ってるじゃない」

【葛深】
「いや、それもそれでどうかと…時搭の云うとおり設定はどう考えたってありきたりだし。
加えて俺たちは恋愛物を書いたことが無い、聞いてて恥ずかしくなるような台詞を俺たちが書くのはちょっと……」

【時搭】
「『私を彼方の奴隷にしてください、クゥーン……』とか『じっとしてれば、すぐ終わるから…』なんて私たちが書けるわけなかろう?
その辺りを計算に含まないとは、君の考えの甘さには毎度の事ながらがっくりだね」

いや時搭、その台詞はかなり偏見があるような気がするんだが……

【縁】
「男だから恋愛は書けないなんて、本当に文芸部会長なの? 呆れを通り越して笑っちゃうね、ほーっほっほっほ!」

頬の横に手を当ててまるでお嬢様か何かのように高笑いを上げる、驚くほどに似合ってないな。
それからここはまだ文芸部じゃないから、まだ弱小同好会だから……

【時搭】
「縁君、今の台詞は聞き捨てならんな、私は会長なのだぞ、会長である私に書けぬ文章など存在しない。
ファンタジーから始まってオカルト、ミステリー、SF、B級カルト、サスペンスなんでもござれだ!」

オカルトが入っているのになんでまたB級カルトまで入れたんだろうな?
第一、今云った中に今論点になってる恋愛が入っていないじゃないか。

【縁】
「ああそう、だったら書いてもらおうじゃないの、会長様がもし私を納得させられたら
今後一切口出ししないでおいてあげるわ、どう?」

【時搭】
「望むところ!……といきたいところだが、生憎そんな挑発には乗りませんよ」

【縁】
「あそう、それじゃあ何、会長って云うくせに書けないものもあるんだ、ふーん」

【時搭】
「会長は神様じゃない、出来ることもあれば出来ないこともあるのが人というものですよ」

挑発と受け流しの繰り返し、一体いつごろ均衡が崩れるやら……

……

【縁】
「少しは恋愛感情ってものにも興味を持ちなさいよ!」

【時搭】
「そんな甘い考えで戦場を生き残れるはずがなかろう! 野に出れば己以外男も女も皆敵だと思え!」

最初の云い合いからおおよそ一時間、2人に冷静という言葉はもうなくなっていた。
自分が考える自論をぶつけ合い、お互いに理解しようとしないので沈静化することなく、どんどんとヒートアップしていく。

【縁】
「やだやだこれだから男ってやつは、実際体験もしていないのによくもそう熱くなれるわね」

【時搭】
「それは君とて同じこと、君の色恋話はさっぱりと聞いたことがないがね」

【縁】
「う、うるさいな、そんなことを私は云っているんじゃなくて!」

もはや題材のことなど触れもしない、お互いのプライベートなことが論争に上がってきているじゃないか。
ここまで来るともう収拾不可能、俺はお先に帰らせてもらおうかな。

【葛深】
「お先に失礼……」

【縁】
「待て! 逃げるな!」

ソローっと出て行こうとしたのに、縁に襟首を捕まれて阻止されてしまう。
俺なんか論闘に混ぜてもどうしようもないんだから帰らせてくれよ。

【時搭】
「じゅーぞー君、最終確認だ、君は私と縁どちらの方が異性にもてると思うかね?」

【葛深】
「……はいぃ?」

【縁】
「私の方が男子に人気あるよね!」

待った待った、一体どこでどうなったらそんな話に変わって来るんだ?
今度の質問は2人とも笑っていない、えらく真剣な、それでいてまたもや黒い波動が今度はメラメラと……

【葛深】
「お前らのプライベートなんて知らないって」

【時搭】
「知らないではすまないのだよ、これはお互いのプライドをかけた重要な質問なのだ」

【縁】
「重蔵〜、私って云ってくれたらいい事してあげるよ〜♪」

俺の襟首を捕まえたまま猫なで声で誘惑(?)をしかけてくる。
しかもとびっきりの笑顔、怖い、とても怖い、はいって云ったら何されるかわからない危ない笑顔だ……

【時搭】
「縁君、そういう手はきたないのではないのかね?!」

【縁】
「なんとでも云いなさい、甘えは女の武器なのさ」

【時搭】
「くっ、姑息な手を……」

頼むからもう返してくれぇ……

……

【葛深】
「はぁ、ひでえ目にあった…」

あの後、色々と勧誘や誘惑をされたが何とか明日に持ち越しということでとりあえず治めることが出来た。
しかし根本的なところは何1つ解決していないため、明日も今日と同じような展開が予想される。
クラブに行かなければ良いと思うかもしれないが、俺が行かないとあいつらは俺の家に押しかけてきて会議を始めるから質が悪い。

【葛深】
「どうして俺がいつも貧乏くじひくんだろうな……」

夕暮れの商店街を溜め息を吐きながら帰宅する俺の背中は、年齢不相応の哀愁に満ちているものであることだろう。
まさかこの歳で中間管理職の立場を味わうことになるとはな、この先は万年平社員で良いよ……

【?】
「あ、クズく〜ん♪」

世間ってなんだろうと考えていた俺に、とても明るい女性の声が聞こえた。
店の陳列棚の上から顔を覗かせ、両手をパタパタと振る女性の姿は夕暮れと相まってとても可愛らしく見えた。

【葛深】
「仁科先輩」

【女性】
「お帰りなさい、今日もクラブ活動?」

【葛深】
「ええ、またあいつらにつき合わされちゃって」

【仁科】
「あはは、2人とも相変わらずなんだね」

両腕で頬杖をつき、先輩は楽しげに笑みを漏らす。
この人は俺より1つ先輩の『仁科 八芽』さん、昨年学校を卒業して今は親御さんのやっている精肉店で働いている。
よく働く明るい女の子ということで商店街でも人気があり、いまや店の看板娘にまでなっている。
ちなみに先輩は俺の幼馴染、元は親同士が幼馴染というここで俺たちも自然と幼馴染になった。

【仁科】
「クズ君も大変なんだね、私も同い年だったらお手伝いできるんだけどね」

【葛深】
「すごくお手伝いしてほしいです、あの2人は俺にはちょっと。
それよりも先輩、そのクズ君って云うの止めにしませんか?」

【仁科】
「どうして? クズ君はクズ君だよ、何か問題あるかな?」

【葛深】
「問題というほどではないけど、あんまりクズクズ云われるのは……」

俺が知る中で云えば、クズというのは罵り言葉だ。
苗字が『くずみ』だからそう呼ばれても不思議はないんだけど、なんか罵られているみたいで悲しくなってくる。

【仁科】
「そうかな、それじゃあ……く〜ちゃん、これどうかな?」

【葛深】
「それもちょっと、今度はなんだか恥ずかしい……」

【仁科】
「『くずみ』のくと『しげくら』のく、可愛くて良いと思うけどなぁ」

確かに呼んでる先輩は可愛く感じるかもしれないけどさ、呼ばれる俺は凄く恥ずかしいんだ。
大体『重蔵』という名前、どう考えたって何世代か前の名前じゃないか。
6、70代ならいても普通だけど、この年代でこんな古風な名前はどう考えたって異質だ、恨むぜ親父。
その古風な重蔵って名前が、く〜ちゃんなんて呼ばれたら古風どころかもうメルヘンの世界だよ……

【仁科】
「じゃあ、『しげっち』と『ずみずみ』と『くずみん』、どれが良いかな?」

【葛深】
「……クズ君で良いです、俺が悪かったです」

どうも先輩のつける愛称には恥ずかしくなるようなものが多い、くずみんだけは絶対にごめんだ。

【仁科】
「ちぇっ残念、くずみんって呼んでみたかったな」

【葛深】
「いくら先輩でも、そう呼んだら張り倒しますからね」

【仁科】
「物騒なことは云わないの、それで今日は何時ごろお邪魔したら良いかな?」

【葛深】
「いつもと同じ時間で良いですよ、いつもいつも悪いですね」

【仁科】
「ノンノン、これは私が好きでやってることだから気にしなくて良いんだよ」

人差し指を立てて左右に軽く振る、気にするなとは云うものの、どうしても俺は気にしてしまう。

【葛深】
「それじゃ俺はこれで」

【仁科】
「またね、お仕事終わったらすぐ行くからねー」

カウンターから身を乗り出して大きく腕を振る先輩に、俺も小さく腕を振り返した。

……

【葛深】
「ただいま」

帰ってきて挨拶をしたというのに、中からは誰も返事を返してはくれない。
俺1人なんだから当然といえば当然なんだけど、あの親のことだから当然というものは通用しない。

俺はこの家で現在1人暮らし、両親2人は仕事で滅多なことじゃこの家にいることはない。
最後に会ったのは約2年前、あの時ヨーロッパがどうのこうの云っていたからきっとその辺りで仕事をしているんだろう。
電話1本手紙一通よこさないもんだからちゃんと仕事しているのかもわからないけど、あの2人のことだ。
毎月毎月口座に金も振り込まれてきていることだし、何とか仕事をしていけているんだろうな。

親が2人ともいないため、厄介事は全部俺が対処しなくてはいけなくなる。
埋蔵金が見つからないとか、城の権利がどうだとか、そんなこと俺に聞かないでくれ。
その前に、親父とお袋は何大掛かりなことに手出しているんだよ……

【葛深】
「まったく、仕事する前に自分の身辺まっさらにしてくれよ」

ぐじぐじと愚痴ってみてもやっぱり返事はない、逆に1人で喋っている俺がとても哀れだ。

思考回路を切り替え、とくにすることもなかった俺はいつも通り、居間で棋譜を見ながら将棋を指す。
音楽に興味もなく、かといってスポーツもあんまり好きなものがない、となれば後は将棋をするしかないだろう。

…………どこからともなく激しく抗議の声が上がっているが、気にしないことにする。

将棋にはライブハウスのような一体感はない、将棋には観客の歓声など存在しない、云っちゃあ何だが地味だ。
趣味はなんですかと聞かれて、スポーツ観戦や音楽鑑賞ですと応える人たくさんいるだろうが、将棋ですと応える人は少ないだろう。
なんせ地味だし年寄りくさい、将棋・囲碁・骨董は年配の三大娯楽みたいなもんだからな。

そんな中でも俺は将棋をやっている、全ては数年前親父に屈辱的大敗をしてしまったからだ。
もう完全に遊ばれてしまったあの対局以来、俺は親父に完勝する為に将棋をたしなんでいる。
今度は俺が親父の顔に墨を塗ったくってやる番だ。

静かな居間の中にパチパチと将棋を指す音が鳴っては止んで鳴っては止んでしていく。
しかしそろそろ対戦相手が欲しい所だな、さすがにずっと仮想敵を自分で演じるのも飽きてきた。
今度誰かに頼んで一局手合わせ願おうかな。

……

【仁科】
「こんばんわ〜、クズく〜ん」

お仕事も終ったのでいつもと同じようにクズ君の家に来て、私の来訪を告げる。
私の声は静かなお家に軽く響き渡り、私の声が消えるとその後はシィンと静かになってしまった。

おかしいなあ、いつもならクズ君の声が返ってくるのに?

【仁科】
「クズく〜ん、私だよー、お出かけなの〜」

さっきよりも少し声を大きくして呼んでみる、けれどやっぱり返答は返ってこなかった。

【仁科】
「あれ〜、お留守かな? 少しお邪魔するね〜」

クズ君、外出中なのに鍵をかけないのはいけないよ、泥棒に何か取られたらきっと大泣きするんだろうな。
よし、それじゃあ私が帰ってくるまでの間お留守番をしていてあげよう、われながら良い考えだ。
クズ君が帰ってきたらまずお説教かな、外出する時は鍵をかけなさいってちゃんと教わってなかったのかな?

脱いだ靴をきちんと揃えてお台所へ、かって知ったる人の家とはよく云ったもんだ。
持ってきた食材を全部台所に置き、とりあえず居間でのんびりさせてもらおう。

【仁科】
「……あ、クズ君」

てっきりいないと思っていたけど、クズ君はちゃんといた。
いつものように居間で将棋を指していたみたいだけど、体はだらんと横に倒れている。

【仁科】
「クズ君? お〜い、私の声聞こえるかなー?」

たぶん聞こえていないだろう、あえて少し小声で云ったというのもあるけど、そうでなくてもきっと聞こえていない。
だってクズ君、口から少し涎が垂れているもの、それに、すっごく気持ち良さそうな顔。

【葛深】
「グゥ……」

【仁科】
「お休み中なんだ、ふふ、気持ち良さそうな顔」

ちょっとだらしない顔だけどなんとも可愛い顔、昔からこの顔はちっとも変わっていない。
だけどもう結構な時間だ、そろそろ起こさないと明日にも響くよね、ちょっと残念だけど起こしてあげよう。

【仁科】
「どうやって起こそう?」

水をかけてみようか? それとも定番のフライパンで頭を叩く? 駄目駄目、それじゃあ怪我しちゃうよ。
フライパンみたいに硬い物じゃなくて、もっと柔らかめで怪我にならないような物は……あ、あれがあるよ。

私は良い物があることを思い出し、急いでお台所に戻った。
くすくす、クズ君びっくりするぞー。

……

【?】
「…君」

【?】
「ク……君」

【?】
「クズ…君」

俺を呼ぶ声が聞こえる、上からするもんだからもしや天の迎えかと思ったけど、そんな莫迦らしい話があるわけもない。
クズ君と云っている時点で天の声などではなく、仁科先輩であることは明確だ。
ぼんやりとする意識の中、俺はゆっくりと頭を覚醒に近づけていき……

【仁科】
「せぇっのぉ、やあぁ!」

ゴベン!!

【葛深】
「ふぎ!」

なんだ何が起こったんだ、突然頭に走るこの衝撃と鈍い痛みは。
何かが覚醒を始めた俺の頭にぶつかってきた、鈍痛が活性剤にでもなったのか頭はすぐに冴え渡ってきた。
それと同時に鈍痛は激痛へと変化を遂げ、俺は床を七転八倒して転げ回るはめに。

【葛深】
「ひぎぃぃ……」

頭を抱えて右や左にごろごろ、少しでも痛みが放出されれば良いんだけどそんな都合よく体は出来ていない。
しばらく行ったり来たりしているとようやく痛みは抜け始め、なんとかごろごろしなくても良いくらいにはなった。

【葛深】
「あたたたた……」

後ろ頭を擦りながら床にへばっていると、俺の視線に少しでも合わせようと膝をかがめた先輩の笑顔が見えた。

【仁科】
「クズ君、お目覚めかな?」

【葛深】
「せん…ぱい……なんかしたろ?」

【仁科】
「うん、したよ」

全く悪びれる様子もなく、キャハハっと楽しげに笑った。

【葛深】
「一体何で殴ったんだよ……」

【仁科】
「ふひひ、これだよー」

先輩は後ろに隠してあった者を俺の眼の前に出す……ええっと、なんだこれは?
圧縮された茶褐色の塊に、紐と棒が括りつけられたどう見ても即席の鈍器、あの先についているものは…

【葛深】
「村松食品……?」

茶褐色の塊にはそうラベルが貼られていた、ということはあれは食べ物なのか?

【仁科】
「当たり、村松食品特製のハムなのでしたー、『仁科八芽さんのハムハンマ〜』」

【葛深】
「ハム…なんでまたそんなもので人の頭を」

【仁科】
「ハムなら当たっても痛くないかと思ったんだけど……痛い?」

【葛深】
「それはもう床を転げまわるほどに」

【仁科】
「やっぱり痛かったんだ、大袈裟だから演技だと思ったのに」

俺は文芸部(仮)だ、演劇部じゃない、痛がる演技なんて出来るか。
それ以前にあの痛さじゃあ演技どころの騒ぎじゃないよ。

【葛深】
「せんぱい……飛び掛りますよ」

【仁科】
「わ、ケダモノ発言だよ、全力で防戦するよ」

慌てて立ち上がった先輩が鈍器…じゃなかった、『仁科八芽さんのハムハンマ〜』を構えてジリジリ後ろに下がる。
ちょっぴり腰が引けているように見えるのは演技なのか、それとも警戒しているのだろうか?

【葛深】
「……やー」

折角なので飛び掛ってみた、掛け声からもわかるように全くやる気なし、先輩も楽々避けれるよな。

【仁科】
「あ、きゃー!」

ベギィ!

【葛深】
「ぎゃふ!」

そんな、そんなのってないよ。
俺は軽くお遊びで飛び掛っただけなのに、先輩ったら本気で俺の頭を殴打しやがったよ。
『仁科八芽さんのハムハンマ〜』、名前はどこかメルヘンチックなのに、下手をしたら人が逝きかねない劣悪な破壊力を持っていた。

……

【葛深】
「あぁー、首が痛い……」

首を左右に捻るたびに鈍く痛む、二度の殴打は首に結構なダメージを残してしまったようだ。

【仁科】
「クズ君、女の子にいきなり飛び掛ったりしたら駄目なんだからね、めっ」

何故だか俺は先輩の前で正座をし、先輩にやんわりと怒られている。
どうして俺が怒られているんだ? 鈍器で叩いたのは先輩じゃないのか? 俺って被害者じゃないの?

【仁科】
「私だから大事にならなかったものの、他の人だったらクズ君鉄格子の中だよ」

【葛深】
「先輩以外の人はハムで人を殴ったりはしないと思う」

【仁科】
「それは私が気を使ったからだよ、フライパンだったらクズ君怪我するから」

世の女性はハムはおろか、フライパンでも人は殴らないと思う。
大体寝てたんなら普通に起こしてくれれば良いのに、何もハムで頭を叩いて無理矢理起こすことないじゃないか。

【仁科】
「とにかく、今回のことはもうなかったことにするとして、今度から急に飛びついたりしちゃ駄目だよ」

【葛深】
「最初から飛び掛る気なんてなかったのに……」

あのやる気ない声先輩だって聞いただろ、それなのに本気で叩くなんて……
やんわり怒る先輩、理不尽さに納得していない俺、昔からこの構図は何も変わっていないな。

クウゥ……

先輩の声がピタリと止まり、俺の視線は先輩の顔を真正面に捉える。
今の音、あれはどう考えても腹が空腹を訴えて鳴った音だ。
先輩の口がぽっかりと開いたまま止まり、俺はそんな先輩の顔をジッと見ていた。

【仁科】
「……クズ君、お腹空いた?」

【葛深】
「それなりには、もっとも、今鳴ったのは先輩の腹だけど」

【仁科】
「ば、バレてるんだ……」

顔をほんのりと紅潮させ、先輩はたははと頬を恥ずかしげにぽりぽりとかいた。
いや、ばれるも何も、俺と先輩しかいない状況で俺じゃなかったら自動的に先輩になるんだけど。

【仁科】
「よし、それじゃあお夕飯にしよっか」

先輩はいそいそと台所に行き、ガサゴソとビニールを漁る音が台所から聞こえてきた。

……

【仁科】
「クズく〜ん、お待たせー」

先輩からお声がかかったので、俺も台所へと向かう。

【葛深】
「おぉ」

テーブルの上には中央が盛り上がった鉄板が置かれ、周りには肉やら野菜やらが色々と並べられていた。
鉄板の上ではすでに肉や野菜が焼かれており、ふだんとは違う少し変わった香りが鼻を掠めた。
前に一度テレビで見たことがあるな、確か北海道料理でこんなのがあったはずだ。

【仁科】
「今日はジンギスカンだよ、まだ時期が早かったのか売れ残っちゃって」

ああそうそうそれそれ、ジンギスカンとかいう鍋料理だったな。

先輩の家は肉屋、食品を扱う店は大抵売れ残りという物が出る。
通常は店側で処分するんだけど、先輩は売れ残ったものを俺の家に持ってきてくれる、しかもその後調理までしてくれる。
さらには売れ残りだからお金は一切要らないという、親父と先輩の親父さんが幼馴染だから出来ることだよな

【葛深】
「いつも同じこと云うけど、美味そうだな」

【仁科】
「そうなんじゃなくて、美味しいんだよ、食べて食べて」

さあさあと手でジェスチャーするので、早速俺は肉と野菜を皿にとって1口。
柔らかい肉と野菜の歯ざわりがとても良い調和を生み出している、だけどこの肉、あまり食べなれない感じの味だな。

【葛深】
「先輩、この肉って何だっけ?」

【仁科】
「羊だよ、ジンギスカンは北海道の羊料理、ちょっとクセがあるけど癖になるとたまらないらしいよ
今日は羊の他にも牛とか豚とか色々あるからいっぱい食べてね」

【葛深】
「いつもいつも悪いな、先輩」

【仁科】
「もぉ、それは云いっこなしだって夕方云ったばっかりだよ?」

【葛深】
「それもそうだったな、先輩も食べたら、俺よりも先輩の方が腹空いてるんだし」

【仁科】
「ぐ、クズ君、否定は出来ないけど女の子に向かってそういうこと云っちゃ駄目」

否定出来ないと云っているためか反論はとても弱く、それ以上は何もなく先輩も夕飯を食べ始めた。

【仁科】
「あ、結構良い味、初めて作ったわりには上手くいってるよ」

【葛深】
「初めてなんだ、初めてでこれだけの味が出せるってやっぱり先輩料理上手いな」

【仁科】
「いやぁ、それほどでもないよ〜」

とは云うものの顔はどう見たって喜んでる、確かに料理は上手いんだよな。

【葛深】
「あぐ……あ、これは豚かな、先輩、この肉の部位はどこ?」

【仁科】
「え…あ……う…」

喜んでいた顔は急に凍りつき、声は単語どころか全て一語で終ってしまっている。

【仁科】
「えぇっと……た、食べられる美味しい場所だよ」

不自然な作り笑い、先輩の口元が微妙にひくひくしている。
まだ駄目なんだ、もうすぐ働き出して一年だっていうのにな。

先輩は肉屋の一人娘でもう一年も働いているのに、いまだに肉の部位というものが一切わかっていない。
素人でもバラ肉だモモ肉だ胸肉だとわかるものなのに、先輩はどうしてなのか区別がつかないらしい。
肉とモツの違いはわかるらしい、だけどそれだけ、鳥・豚・牛のモツを並べても1つも当たらなかったしな。

【葛深】
「先輩、実家の仕事は何だっけ?」

【仁科】
「お、お肉屋さん……」

【葛深】
「先輩はそこの何?」

【仁科】
「一人娘けん跡取り」

【葛深】
「だよね、だけど肉の見分けは?」

【仁科】
「出来ないよぉ……」

先輩は泣きそうな顔でしゅんと肩を落とす、色々と勉強したらしいのだがどうしてもわからないらしい。
しかしこれは親父さんにとって深刻な問題だな、跡取りの一人娘が肉の見分けが全く出来ないなんて。

【葛深】
「先輩、大変だな……」

【仁科】
「クズ君も助けてよぉ」

【葛深】
「助けるにも俺は肉屋じゃないんだから肉の見分けなんて出来ないって、先輩よりは出来るけど」

【仁科】
「私のプライドずたずた〜……」

【葛深】
「まあまあそんなに落ち込まないで、とりあえず晩飯食っちゃいましょう」

【仁科】
「はぁい…」

先輩ショック受け過ぎだって、毎日やってるんだからそろそろ慣れようよ……

……

【仁科】
「それじゃまた明日ね〜」

後片付けを終え、ちょっとした世間話をして先輩は家へと戻っていった。
食事の後は少し落ち込んでいたけど、料理が上手ければ肉くらい見分けられなくてもと、俺が一言云ったら途端に元気になった。
あれじゃあいつまでたっても肉のことなんて覚えられないだろうな……

【葛深】
「うぅ〜ん、あぁ……」

背筋をぐいーっと伸ばして軽く首を捻る、先輩に叩かれた首がまだ痛い。
台所の隅では俺の首に大打撃を与えた『仁科八芽の』…面倒だからハムハンマーで良いや、あれが置いてある。

【葛深】
「全く、先輩はどこからこういうことを閃くんだろう?」

食べ物で遊んじゃいけませんって子供の頃に習わなかったのか? 食べ物だって立派に人を逝かせる武器なんだぞ。
凍ったヤリイカとか、凍った豚のブロック肉とか……凍ってなかったら別に大丈夫だな。

【葛深】
「明日は俺が先輩にお説教でもしてやろう」

今日は理不尽に怒られたから、明日は俺が正当な手段でお説教してやる、みてろよ先輩。
……はぁ、俺はハムなんか握り締めて何下らんことを考えているんだ。

【葛深】
「風呂入って寝よう……」

何か忘れているようなことがあった気がするけど、今日はもう疲れてるんだ、急ぐ用でもないし明日で良いよね。
さてさて風呂風呂っと……

……

【時搭】
「さてそれでは、昨日途中で止まってしまった論議の続きをしようではないか」

【縁】
「望むところよ」

テーブルを挟み、2人は早くも臨戦態勢にはいっていた、今日は2人で上手くまとめてくれよ。

【時搭】
「私の調べた結果、わが学友の8割は宇宙規模の戦闘物に興味があるという結果が出ている。
後の2割はミステリーやサスペンスなど様々、この結果からもわかるように次回は私の案を通すべきだろう」

胸ポケットから趣味の悪い手帳をだし、目的のページを俺たちに提示する。
確かに宇宙物・戦闘物にはたくさんの正の字が書かれている、サスペンスやミステリーは正の字1つも満たしてはいなかった。

【時搭】
「いかがかね、縁君?」

【縁】
「ちょっと質問、その調査で当たった男女の比率はどのくらいなの?
まさかとは思うけど10割男子って事はないでしょうね?」

【時搭】
「ふむ、駄目か」

調査結果が効力を持たないことがわかると、手にした手帳をぽいっと後ろに投げ捨てた。
つまり縁の云っていたことが図星だったってことだろう。

【縁】
「そんなことじゃないかと思ったけど、本当にそんな手でくるなんてね、セッコーい」

【時搭】
「なんとでも云いたまえ、私にはもう時間が残されていないんだ、この案を通すためならイカサマも厭わない。
私はもうここに居られる時間があまり長くないのだよ……ゲホッゲホッ」

口元に手を当て、ごほごほと変な咳をする。

【縁】
「クラス一の健康体が下手な嘘つくんじゃないの、それにあんまり長くいられないのは私だって同じこと。
私たち3人とも後少しで卒業じゃない」

【時搭】
「この手も駄目か」

わざとらしく背中を丸めて咳をしていたくせに、ばれるとすぐに背筋をスッと伸ばした。

【縁】
「今の時期から考えて、私たちが作れるのはせいぜい後1つ、云ってみれば集大成な訳だ。
それに自分の案を通したいのもわかるけどさ、もう少しプライドみたいなもの持とうよ」

【時搭】
「プライドなど生きる上で何の得も生まんよ、プライドなど当の昔に捨て去り、益だけを私は求めてきた。
君の方こそプライドなどという足枷は捨てた方が良いのではないかね、この私のように」

【縁】
「プライド捨てたら待ってるのは会社の犬だけだよ?」

【時搭】
「云ってくれるじゃないか、この私が会社の犬とはね」

【縁】
「今の地位がいつまでも続くなんて思わないことよ」

ああぁぁ……昨日以上に展開がおかしくなってきてるよ、そんな自分の信念やら将来のことなんてどうでも良いから。
決めなきいけないことを早く決めようって、どうして最初はそういう話なのにすぐにずれるんだ。

【葛深】
「あのさ、そろそろ話の流れを……」

【2人】
「君は/あんたは だまってなさい!」

うあぁ、ステレオ効果で怒られた、俺今正しいことを云ったんじゃないのか?
どうして俺はいつもいつも理不尽に怒られないといけないんだ。

ピンポンパンポン

時間の区切りにうたれるチャイムとは違う短めのチャイムが鳴る、これは人の呼び出しのときに用いられるチャイムだ。

【放送】
「葛深重蔵君、葛深重蔵君、至急教務室『鎌田』の所までお越しください、繰り返します」

……は? 俺?

確かに今の放送は俺の名前を呼んでいた、教務室に放送で呼ばれるなんて初めてのことだぞ。
俺何か悪いことでもしたかな? ……昼に屋上の上から紙飛行機飛ばしたのまずかったかな?

考えてもやってしまった後だからもうどうしようもない、大人しく教務室に行ってちゃんと謝ろう。
部室から出て行く際に、『自宅謹慎になったら慰めに行ってやる』と時搭に云われてしまった。
いや、まだそうと決まったわけじゃないんだから勝手に決めないでくれよ。

……

【葛深】
「失礼します」

2回ノックをしてから教務室に入る、俺を呼び出した鎌田というのは俺の担任だ。

【鎌田】
「葛深君、急に呼び出して悪かったね」

【葛深】
「あの、俺なんか悪いことしましたっけ?」

さっきちゃんと謝るって云ったのに、早速しらをきってしまった。

【鎌田】
「おいおい何か勘違いしているようだね、そういった話じゃなくて、あれは書いてきたかい?」

先生は指で四角をなぞり、何かの形を表現する。
……あ、昨日何か忘れていると思っていたのはあれのことだったか。

【葛深】
「まだ、書いてないですね……」

【鎌田】
「そうか、少し場所を移そうか」

……

先生に連れてこられたのは小さな個室、他の人は誰もいない俺と先生の2人だけだ。

【鎌田】
「さて葛深君、いきなり本題に入ってしまって悪いんだけど、君は卒業後どうしたいんだい?」

【葛深】
「……そうですね」

俺はもう卒業年次、卒業したら就職か進学どちらかの道を進むわけだが……俺はいまだに何の結論も出していない。
学校に行くにしても就職するにしても、なんだか俺にはどっちを選んでどうしたら良いのか良くわからない。
云ってしまえばやりたいことが見つかっていない、今の俺にはまず夢がないんだ。

【鎌田】
「進学にしても就職にしても、そろそろ何らかの結論を出さないと、このままずるずるいってしまうよ。
もうここの生活も長くはないんだ、そのことについて焦りはあるかい?」

【葛深】
「どうなんでしょう…」

【鎌田】
「親御さんは、なんて云ってるんだい?」

【葛深】
「好きなようにやれと、それだけです」

【鎌田】
「そ、そうなんだ……」

その後しばしの沈黙、俺から話すことはないので先生が話さない限りずっと無言は続いてしまう。

【鎌田】
「進学にしてもそろそろ受けられる場所も少なくなってきている、後になれば不利になるだけだよ」

【葛深】
「そうですよね」

【鎌田】
「まあまだ余裕はある、だけどのんびりはしていられないってことだけは覚えておいてくれるかい。
私が云いたいのはそれだけだ、何か決まったら教えてくれ」

【葛深】
「わかりました、失礼しました」

はぁ……進路か。

……

部室に戻ったらあいつらにまた何か云われるのがわかりきっているので、メールで『お先』とだけ打って帰って……逃げてきた。
道の真ん中を歩く俺の影が夕日に照らされて後ろに長くのびていた、その後姿はとても学生の背中とは思えないんだろうな。

【葛深】
「はぁ……」

さっきから溜め息ばっかりだ、原因は考えるまでもなく進路のことだ。
もう周りのやつはみんな進学だ受験だと躍起になっているのに、俺は1人そんなレールから外れていた。
過去何度か行われた進路希望、それがあるたびに俺は用紙に何も書かずに提出していた。

進学するからには何かしたいことがあるから行くんだ、就職するには金銭を稼ぎたいから就職をするんだ。
どちらにしても何かしらの目的があってそれに進んでいく、しかし俺にはそれが無い。

何も無い、何も無いから何も決まらない、何も決まっていないからいつまでも取り残されている。
時搭にしたって縁にしたって2人とも進学希望で、縁の方はもう進路の方も決まったらしい。

あの2人に比べて、俺は何をしているんだ、まったく……

足元に合った小石を軽く蹴った、カンと小さな音がして小石がアスファルトを舞った。
こんなことをしているとますます惨めな気持ちになってくる。

【葛深】
「はぁ……」

【仁科】
「おーい、やっほ〜」

先輩が店のカウンターから手を振っていた、ぼんやりとしている間にもうこんな所まで来ていたんだな。

【仁科】
「クズ君元気ないよ、背中が中年のおじさんみたいに丸くなっちゃってるよ」

【葛深】
「はは…まぁ色々ありまして」

【仁科】
「大丈夫? 私にはすっごく落ち込んでいるように見えるんだけど」

【葛深】
「どうなんでしょうね……」

無理矢理作った苦笑い、自分では見えないけど、どう考えたって無理に笑っているのはばれてしまっているだろう。

【仁科】
「クズ君……」

【葛深】
「どうか、しましたか?」

【仁科】
「うぅん、なんでもないよ……今日も、いつもの時間で良いのかな?」

【葛深】
「お願いします」

先輩はにっこりと微笑み、うんと頷いてくれた。
はぁ、気を使わせてしまったかもしれないな……

……

ぱちん、ぱちん。

【葛深】
「……」

将棋を指す音が酷く耳にうるさい、いつもなら特別気にもならないのに今日はどうしてだかとても耳障りだ。
気持ちが将棋に入りきれていない、余計なことばかり考えているために将棋の音が耳に障るのだろう。

【葛深】
「あ……」

ぱきん、かしゃん…

指からこぼれた駒が盤に当たり、跳ね返った駒が他の駒にぶつかった。
前を向いているはずの駒が少し斜めを向く、落ちた駒も横を向いて、将棋の対戦では絶対に見られない状態になっている。

【葛深】
「……」

棋譜を投げ捨て、そのまま仰向けにゴロンと寝転がる。
見えるのは家の天井だけ、何の変化も無く見ていて面白い物じゃない、だけど俺はずっと天上を見つめていた。

この静かな家、忙しなく飛び交う声の無いこの家はまるで生活が止まっているかのような錯覚を覚える。
今の俺は、この家と同じような状態にいるわけだ……

動くことが出来ず、周りから取り残されてしまった静かな世界。
まるで俺の悩みそのものじゃないか……

投げ出してあった鞄を手元に手繰り寄せ、中から一枚の紙を取り出した。
昨日貰って少しでも良いから書いてくれと先生に云われたけど、まったく書かずに出しもしなかったその紙。
一番上の見出しには『進路希望意識調査』と大きくワープロの字が打ち込まれていた。

【葛深】
「……」

しばらく眺めていたけど、眺めているだけじゃ何も変わるわけが無い。
俺はもう一度溜め息を吐き、紙をワシャワシャと丸めてゴミ箱向かって放り投げた。
とても綺麗とは云えない放物線を描いた紙は、ゴミ箱の淵に当たって入室を拒否されてしまった。

……

【仁科】
「こんばんわ〜、クズく〜ん」

【葛深】
「いらっしゃい、先輩」

【仁科】
「あ、今日はお昼寝してないんだね」

【葛深】
「昨日みたいにまたハムで叩かれたら敵いませんから、まだ首痛いですし」

本当はもう痛くないんだけど、ちょっとした意地悪心で痛そうなフリをしてみた。

【仁科】
「あ、えっと、その、あはは……ごめんね」

手を顔の前に出し、申し訳ないという感じに舌を出した。

【仁科】
「後でマッサージしてあげるからそれで勘弁してよ」

【葛深】
「そうですか、まあ先輩がそう云ってくれるなら、後でお願いします」

先輩がマッサージか、これはちょっと得したかもしれないな。

【仁科】
「もうお夕飯の準備しちゃっても良いかな?」

【葛深】
「ええ、お願いします」

……

【葛深】
「ごちそうさんです、今日も美味かったですよ」

【仁科】
「ふふ、お粗末様」

今日先輩が作ってくれたのは肉じゃがとジャガイモのサラダだった。
使った肉は豚肉、勿論先輩は今日もその肉がどこの部位だか答えられなかった、あれはどう見たってバラ肉だとわかるはずなのにな。

【仁科】
「先に後片付けしちゃうから、マッサージはその後まで待っててね」

【葛深】
「はいはい」

小さくウィンクをして、先輩は空いた食器を台所へと持っていった。
さっき見せたウィンク、まるで小悪魔的な笑みのようにも見えたのだが、たぶん気のせいだろう。
うん、先輩だもんな、期待しても何も出ないよな………俺は何を期待しているんだ?

……

【仁科】
「ぇ、のぉ!」

【葛深】
「ひぎいぃ!」

首と背中に激痛が走る、弓なりにそらされた体は本来曲がる方向ではないのでそのことを痛みで教えてくれる。
しかしこれには欠点があり、やられている方はわかっても、やっている方はまったくわからないということ。
つまりは加減がまったくきかないということだ……

【仁科】
「ううぅん!」

【葛深】
「あぐうぅぅ!」

俺の背中に乗っている先輩は俺の首に抱きつくように腕を回し、思いっきり後ろに体重をかけている。
そのために俺の体は弓なり、本来曲がらない方向へと曲がってしまっている。

マッサージをしてくれるということだったのに、どこをどう間違えたらプロレスごっこになるんですか?
教えて神様、教えて仏様、教えて仁科先輩。

パッと先輩の腕が解かれ、支えを失った俺の頭は重力で一気に床へと戻される。

【葛深】
「はぁ、はぁ、はぁ……」

一時の休息、継続して与えられた痛みは治まり、今は余波が体を走り回っている。
これは決してマッサージではない、もし先輩がこれをマッサージだと云い張るなら、今度は俺が先輩に色々としてやらないと気が済まない。

引き始めた痛みに安堵していると、再び先輩の腕が俺の首にまわされた。
これはもしかしてと思うけどさ……

【仁科】
「クーズ君、2セット目行くよ〜」

【葛深】
「はぁ!? せんぱ、ちょっと、ま……いぎいぃぃ!」

そして痛みは繰り返される、この後3回も……

【葛深】
「ぜぇ、はぁ、ぜぇ、はぁ……」

もうこれ以上は止めて、これ以上やられたら弓が折れてしまいかねませんから。
やっぱり嘘はいけないな、ちょっとした悪戯心は己の人生を終らせかねないことを身を持って知った。

【仁科】
「どうかな、少しは首痛いの治ったかな?」

【葛深】
「そ、それはもう……痛みさえもう感じることが出来ませんから」

痛みを感じなくなってくるとこの先に待っているのは『眠い』という身体の訴え。
冷水の中を考えるととてもわかりやすい、最初は冷たいから始まり、冷たいは痛いへ、そして痛いは眠いへと変わっていく。
よく雪山で遭難した人が眠いというのをテレビやドラマで見る、眠いは終わりへのシグナルと云って良いのではないだろうか。

【仁科】
「そっか、痛くなくなったのなら良かった良かった」

先輩はいまだ俺の背中の上にペタンと腰を下ろし、楽しげに笑っているのが薄っすらとだけど確認できた。

【葛深】
「終ったらもう降りてくれませんか」

【仁科】
「あら、私そんなに重いかな?」

【葛深】
「重くはない、むしろ軽い方だけど、この体勢はあまり良い物じゃ……」

上に乗られているというのは、まるで女王と下々という感じがして良い図柄とは云えない。

【仁科】
「うふふ、どうよくないのかな〜♪」

悪戯っ子のように試す声を上げ、先輩は俺の体に覆い被さるように体を倒してきた。
抵抗する力も無い俺はなすがまま、先輩に覆い被さられて頭を両腕で挟み込まれた。

【葛深】
「せ、先輩、何するんですか……」

【仁科】
「なんだかこうやってると、小学生とかそのくらいに戻った気分だね」

【葛深】
「あぁ、俺はいつもやられる側でしたね」

幼馴染ということもあり、俺と先輩は一緒に遊ぶ、もとい俺が遊ばれることが多かった。
先輩に乗られることなんて日常茶飯事だった、さすがにこの歳になると2人ともそんなことはしなかったわけだけど。

【仁科】
「ねえクズ君、怒っちゃうかもしれないけど怒らないで聞いてね」

【葛深】
「なんすか、急に?」

【仁科】
「何か悩み事あるのかな? 今日のクズ君なんだか凄く寂しそうだったよ」

【葛深】
「……」

【仁科】
「ごめんね、怒らせちゃったね」

俺が無言だったのを怒ってしまったと勘違いする、俺は訂正するように小さく苦笑をしてみた。

【葛深】
「怒ってはいないよ、ただ、ね……先輩はさ、どうして実家を継ごうと思ったの?」

【仁科】
「私? ううぅーんと、そうだなぁ……」

俺の頭の上に腕を置き、しばし考えるような仕草を見せる……見せているかもしれない。

【仁科】
「この街から離れたくなかったから、かな」

【葛深】
「この街から? なんでまた」

【仁科】
「それは勿論この街が好きだから、産まれてからずっと私はこの街で過ごしてきた、楽しいことも辛いことも全部ここで体験してきた。
新しい所に行くのも良いのかもしれないけど、なんていうのかな、他の所には私がいた証が無いから」

【葛深】
「想い出ってことですか?」

【仁科】
「それに近いかな、色んなことがあったけど、体験した場所はどこでもない全部この街なんだから。
わたしの全てはこの街にある、そう考えたらどうしても外に出る気にはなれなかったんだ」

【葛深】
「なるほど、それで先輩、今に満足していますか?」

【仁科】
「…うん、私は何の後悔もしていないし、何の不満も無い。
家の仕事はまだちょっとなれないし大変だけど、これから少しずつお仕事できるようになっていければ、私は最高に幸せだと思う」

再び俺の頭を挟みこむように腕を回し、先輩はとても優しい声色で続けた。

【仁科】
「それにね、この街には……」

最後の方ははっきりと聞き取れなかったけど、先輩の優しい声を聞いていると、本当にここの街が好きなんだって思えてしまう。
この街が好き、か……確かに俺もこの街は嫌いじゃない、立て続けに俺ばかりトラブルが起こるけどそれなりに楽しめていると思う。
だけどこの街に残るとしても、俺はここで一体何をやりたいんだろうか?

【葛深】
「……」

【仁科】
「焦る必要は無いんだよ、クズ君」

頭を挟みこんでいた腕が、今度は首に巻きついてきた。
先輩の着ているセーターの糸がチクチクと首にこそばゆさを残す、だけど、それはとても暖かかった。

【仁科】
「周りがいくら早くても、周りにいくら置いていかれようとも、そんなこと気にする必要なんか無い。
他の誰かに決定を急かす自由なんて無い、ゆっくりと自分なりに、決めるのはクズ君なんだから」

そうか、どうやら先輩にはどうして俺がいつもとは違って見えるのか気付いてしまったのだろう。
だからこんなにも優しい声で、俺の頭を包み込むようにして語りかけてくれるんだ……

【葛深】
「先輩……ありがとう、ガキのころからそうだけど、いっつも影で迷惑かけてたな」

【仁科】
「何も気にしなくて良いんだよ、だって私はクズ君のお姉さんなんだから」

クリクリと指で頭をいじられた、少し上のお姉さんが弟をからかうような、そんなほがらかな空気が俺と先輩の間に流れていた。

……

【仁科】
「それじゃあそろそろ失礼するね」

【葛深】
「あ、待って、今日は送っていきますよ」

【仁科】
「おぉ〜、クズ君からそんな台詞が飛び出すとは、お姉さん嬉しいよ。
あ、だけど送りオオカミとかならない?」

【葛深】
「俺がそんなタイプの人間に見えますか? それに先輩に飛び掛ったらまた痛い目に合わされそうで怖いですから」

見たところあのハムハンマ〜は持っていないみたいだけど、もしかしたらどこかに隠しているのかもしれない。
あれが暗器でないと誰が確認した、今だってスカートの裏側にスッと忍び込ませてあるのかもしれない。

………ないない、絶対無い、あったらもう先輩を先輩として見れなくなるよ。

【仁科】
「ムゥ、私はそんなに暴力的な女の子じゃないんだけど」

少しだけツンと顔を逸らし、納得いかないといった顔をする。
さっきはお姉さんっぽいって思ったけど、先輩はまだお姉さんと呼ぶには子供っぽさが残っているみたいだった。

【葛深】
「怒りました?」

【仁科】
「怒りました」

【葛深】
「そうですか、ははは」

【仁科】
「ちょ、ちょっと〜、何が面白いの、私は少しも面白く無いんだけど」

先輩はぽかぽかと俺の頭を叩くけど、まったく力が込められていないために少しも痛みは感じない。
じゃれあっている、といった表現が1番適切なんじゃないかな。

……

【仁科】
「わざわざ送ってくれてありがとね、それじゃあまたね」

【葛深】
「はい、また明日」

【仁科】
「お休みなさい、夜更かしとかしちゃ駄目だよ〜」

笑顔で軽く手を振りながら、先輩は自宅の中へと消えてしまった。
先輩も送り届けたことだし、俺も家に戻って風呂にでも入ろうかな。

【葛深】
「ふぅ……ありがとう、先輩」

今まで俺の眼の前には何も無い『無』が広がっているだけだった。
だけど、さっきの先輩の言葉で、この『無』の空間に薄っすらと霧がかかったような不思議な感じがする。

何があるのかさえもわからないけど、何も無い『無』に比べて、『可能性』というものが生まれたような気がする。

【葛深】
「他に俺の決定を急かす自由なんて無い、か……」

俺にとってその言葉は、救いの言葉と云っても過言ではなかった……

……

【時搭】
「ほいよ、任されてた2章第一部完成だ、後はじゅーぞー君のお仕事だな。
縁君、第二部は後どのくらいかかりそうかね?」

【縁】
「今日はちょっと無理かな、家でやってくるから明日の朝にはもう終っていると思う」

【時搭】
「そうか、その辺りの繋がりは縁君に任せるとして、私は3章に取り掛からせてもらおうかな」

あれからもう1月半、俺たちは卒業までにできる最後の作品に取り掛かっていた。
結局主題は2人の意見を考慮して、生命体に捕らわれたヒロインを主人公が助けるという話になったらしい。
戦闘シーンは時搭が、恋愛シーンは縁が担当するということで丸く収まった。
最初から2人とも歩み寄ってくれれば良かったのに、お互いに強情なんだからなぁ…

【時搭】
「じゅーぞー君、何をボケーっと遠くを見ているのだね?」

【葛深】
「いやなに、あれだけ意見が衝突していたくせに、いざ書き出したら息良いなと思ってさ」

【時搭】
「ふふ、人には自分の信念を押し留めて譲らねばならない時があるのだよ。
しかし私のスケールの大きな宇宙規模の話の中に、縁君がどれだけ壮大な恋愛を書くことができるのか、少し試してみたくてね」

【縁】
「時搭には悪いけど、お話の核は私の恋愛が頂かせてもらうわ。
宇宙のお話は恋愛を盛り上げるための一要素として利用させてもらうから、そのつもりでいなさい」

【時搭】
「やれやれ、君はまだ私の真の力を知らないようだね、まあお見せしていないのだから知らなくても無理は無いが。
今回は私も全枷を外して挑ませてもらおう、縁君、利用されるのは君の方だよ」

【縁】
「望むところ!」

何だかんだ云ってるけど、結局相乗効果でより良い物が出来上がるのが2人の凄い所。

しかし2人の文章、いささか専門的な用語が多いんだよな。
それに中略や索引を作るのが今回の俺の仕事、2人に比べて一般人の知識しかない俺にはちょうど良い仕事らしい。
2人が書き上げた文章を一度読んで、わかりづらい言葉を図書室から借りてきた本で詳しく説明して後ろに載せていく。
地味な仕事かもしれないが、これをしないと読んでいる人は絶対に置いて行かれる、確実にだろうな。

【時搭】
「じゅーぞー君、月の満ち欠けに関する書簡がそこにあるだろう、貸してくれたまへ」

【葛深】
「はいよ」

【縁】
「重蔵! 図書室から誰でも出来るプラスチック爆弾の本借りてきて!」

【葛深】
「そんな物騒な本ねえよ!」

待て待て、縁は恋愛シーン担当だろ、恋愛に何故プラスチック爆弾なんて用いるんだ?

……

【ヒロイン】
「私の愛は爆弾のようにはじけているの、私の愛を解体して私を救ってみなさい」

【主人公】
「その愛の爆弾を解体できるのはボクだけなのか、よーし、ボクに任せろ!」

……

………駄目だ想像できない、こんなバカな話に持っていくのだけはやめてくれ。

【葛深】
「おおぉぉぉ……」

【縁】
「ど、どうしたの変な声出して…?」

【時搭】
「腹から虫でも湧いてくるのではないのかね……おぉ、このネタは使えるぞ、じゅーぞー君でかした!」

【縁】
「あんまり恋愛にいけないほど無茶するのだけは止めてよ、私グロテスク系は書けないんだから」

【葛深】
「愛の爆弾、はは、ははははは……」

【縁】
「うわ、とうとう壊れたよ」

あぁ、なんだかお話がとてもカオスになるような気がするのは俺だけなのでしょうか……

……

【時搭】
「ではさらばだ、じゅーぞー君、縁君」

校門の前で時搭と別れる、長いロングコートが風になびき、その後姿はさながら映画に出てくる怪人のように見えた。

【縁】
「まるでフランス座の怪人ね、あれは」

【葛深】
「意図的にそう見せているんじゃないだろうな?」

【縁】
「どうだろうね、可能性はたぶんゼロじゃないんじゃない? まあそんなことはどうでも良いとして、重蔵これから暇?」

【葛深】
「これといって忙しくはないけど?」

【縁】
「そう、それじゃあちょっと時間貸してもらうわよ」

そう云うと縁は俺の腕を掴み、俺の意思など無関係にどんどん歩き出してしまった。
いきなり引っ張られたせいで前につんのめりそうになったけど、何とか体勢を立て直して縁に引きずられていく。

……俺はNOと云えない日本人なんだなぁ。

……

【店員】
「ありがとうございました」

後ろに店員の声を聞き、俺たちは店を後にする。
縁に連れてこられたのは本屋だった、前に一度来た時、上にある本が届かないために今日俺は呼ばれたらしい。
そんなこと俺じゃなくて店員に頼めば済むと思うのに、わざわざ俺にさせるなよ。

【縁】
「ふむ、まぁこんな所で大丈夫かな」

【葛深】
「随分とたくさん買ってたけど、なんで今頃そんなに買うんだよ?」

【縁】
「そんなの決まってるでしょ、私の夢のためだよ」

夢、か……そうだよな、縁は自分のやりたい道に行くために進学するんだもんな。
今日しこたま買った本も、俺にはさっぱりわからない意味の無い本だけど、きっと縁にとっては重要な本なのだろう。

【縁】
「私よりも、重蔵の方はどうなのさ? 進学するのか就職するのか、そろそろ決心はついたの?」

【葛深】
「……まぁ、何とかなるんじゃないか、明日は明日の風がなんとやらって云うだろ」

流れるまま流されるままな発言に、縁は呆れたように小さく口を開けていた。

【縁】
「重蔵、あんた大物になるわね」

【葛深】
「それはどうも」

【仁科】
「お〜い、お2人さ〜ん」

先輩の家の前を通りかかると予想通り声をかけられた。

【縁】
「お久しぶりです、仁科先輩」

【仁科】
「縁ちゃんお久しぶり〜、クズ君と一緒の所を見ると……」 

【縁】
「重蔵に脅されて無理矢理つき合わされました」

【葛深】
「はぁあ!?」

いきなり何を云い出すんだこいつは、無理矢理つき合わされたのは俺の方だろ。

【縁】
「私は嫌だって云ったのに、重蔵のやつ……」

【仁科】
「…とぁあ!」

バコン!!

【葛深】
「あぎぃ!!」

完全な不意打ち、さっきまで何も持っていなかったはずの先輩の手には、ご存知『仁科八芽さんのハムハンマ〜』が握られていた。
というか先輩、家でまでその鈍器作って持ってるのかよ……

【仁科】
「クズ君、強引な男の子は嫌われるよ、めっ」

【葛深】
「俺は何も悪くないのに……」

【縁】
「おぉ、それが噂の先輩お手製の武器ですか」

【仁科】
「今日のは改良版だよ、前回のハムよりも内容量が少なくて振りやすいの。
題して『仁科八芽さんの終わり無きハムハンマ〜・ツヴァイ』だよ」

先輩のやつ、肉見分ける勉強もしないで、そういうどうでも良いところにばっかり頭働かせやがって。
前が一号だったら単純に二号にすれば良いのに、なんで名前に凝ろうとするかな?

【仁科】
「クズ君、痛い?」

【葛深】
「えぇそれはもう……」

ちょっとだけ笑ってみせる、勿論口元だけで眼は怒り心頭なんだけど。

【仁科】
「あ、クズ君怒ってるよ、また飛び掛るの?」

前みたいにハムハンマ〜・ツヴァイを少し腰が引けたように構える。
ここで俺が飛び掛ると力いっぱい殴り返されるんだよな、もうそんなへまはしないさ。

【縁】
「やあ」

ポン

【葛深】
「ちょ!」

縁が俺の背中を押した、そのせいで飛び掛るつもりなんてまったく無いのに俺の体は先輩の方へ……

【仁科】
「きゃぁー!」

あ、フルスイング……

……

【葛深】
「おぉう、頭がくらくらするデース」

【縁】
「日本語おかしくなってるよ、日本かぶれの外国人みたい」

軽量型のツヴァイで良かった、前回のハンマ〜なら確実に戻ってこれない所まで行くところだった。
ツヴァイのおかげで戻っては来れたけど、俺の日本語機能が少し逝ってしまったようだ……

【仁科】
「効果はグンバツだね、あ、いけない、私お使いあったんだった」

【縁】
「お使いですか、良かったら私付き合いますよ」

【仁科】
「そうね、お願いしようかな、久しぶりに縁ちゃんに会ったんだし、少しお話でもしましょうか」

【縁】
「私でよければ喜んで」

先輩はかけていたエプロンをとり、買い物に行く準備を始めた。

【葛深】
「あ、先輩、今親父さんいるかな?」

【仁科】
「お店の奥にいるよ、呼ぼうか?」

【葛深】
「お願いします」

【仁科】
「お父さ〜ん、少し出て来てくださ〜い」

先輩の呼びかけの後、店の奥からとても渋い先輩の親父さんが現れた。

【仁科】
「お母さんに頼まれたお使いに行ってきますから、少しの間だけお店番お願いします」

【親父】
「はいよ、おや、重蔵君」

【葛深】
「どうも」

【仁科】
「それずあ、行ってきますね」

先輩と縁は2人揃って商店街の雑踏へと消えていった、これはちょっと好都合だったな。

……

【仁科】
「ただいま戻りました〜」

俺と親父さんの話がちょうど終わるころ、先輩も大きな紙袋を抱えてお使いから戻ってきた。

【親父】
「私は奥に戻るぞ、では重蔵君、続きはまた今度だな」

【葛深】
「楽しみにしてますよ、親父さんの腕前」

【仁科】
「2人で何話してたの?」

【葛深】
「将棋の話、なんでも親父さん元は棋士だったとか」

【仁科】
「ああ確かそんな時期もあったね、だけど一年足らずで辞めちゃったよ、結構ストレス溜まるんだって」

そうなのか、でも考えてみれば相手の手を考えてさらに自分の手も考えなきゃいけないんだもんな、そりゃあストレスも溜まるか。

【縁】
「私はこれで、先輩、頑張ってくださいね」

【仁科】
「縁ちゃん、しーっ、しーっ!」

クスクスと薄く笑みを浮かべながら、縁は店を後にした。
先輩に頑張れって云うとすれば、当然肉の見分けだよな、先輩縁にまで頼ろうとしたのか。

【葛深】
「俺もそろそろおいとまします、今日もよろしくお願いします」

【仁科】
「任せておいて、腕振るっちゃうよー」

ブンブンと店の中で腕を回す、ちょっと意味的には違うし、店の中で振り回したら危ないですよ先輩。

……

【仁科】
「ごちそうさまでした〜」

【葛深】
「けふ……なんか今日は気合いはいりすぎじゃないですか?」

今日先輩が作ってくれたのは、トンカツとビフカツとチキンカツのカツ三点セットだった。
普通これだけ肉ばっかり食べればもたれるはずなんだけど、それほど胃に圧迫感を感じない。
なんでも油やパン粉にこだわってるから、胃にもたれず胸焼けしないカツになっているんだそうだ。

【仁科】
「ちゃっちゃと後片付けしちゃうね、終ったら一緒にお茶飲もうね」

台所からカチャカチャと洗物をする音が聞こえる、先輩が料理をしてくれた後は絶対に後片付けを手伝わせてはくれない。
最初の頃は俺がやるって散々云ったんだけど、いつも実力行使で阻止されてしまったので今はもう台所に近寄れもしなくなってしまった。
俺にとって、先輩という存在は大きすぎる、俺が一生頭の上がらない人物の1人であろう。

散々世話になってるんだし、恩返しの1つでもしないといけないな。
さて、一体どんな恩返しにしたものか……

【仁科】
「お待たせ〜、あ、クズ君横になってる」

【葛深】
「食べてすぐ寝ると牛に、とか云い出すんじゃないだろうな?」

【仁科】
「うぅん、食べてから横になると消化が良いんだって。
だから大食い大会に出たら頻繁に横になった方が良いよ、八芽さんの得々情報〜♪」

うん、大食い大会に出る気も無い俺にはまったく得にならない情報ですね。
だけど、消化が良いからまたすぐに食べられる → 寝る → 食べる → 寝る
それがエンドレス……なるほど、そこから牛になるって昔の人は表現したのか、中々良い感性しているじゃないか。

【仁科】
「? クズ君なんか口元笑ってるよ? 今は亡き可愛い妹のことでも思い出したの?」

【葛深】
「勝手に妄想癖にするのやめてください……って俺妹なんていませんが?」

【仁科】
「知ってる、もしそんなこと考えてたらクズ君イタイ子だなーって思っただけ」

【葛深】
「あ、あのさあ……」

先輩の頭の中で、俺は一体どんな癖の持ち主とされているのだろうか?
今の時点で考えられるのは妄想癖と、云いたくはないが……ロ……妹属性と云っておこうか。

……云いなおしたものの、どっちも駄目デスね。

ピンポーン

【仁科】
「あ、お客さんみたいだよ、は〜い」

なんで先輩が出るんだ? ここは俺ん家だぞ? 来客だとすれば100%俺に用があるよな。

【葛深】
「……先輩、変な誤解される前に戻って!」

よりによって先輩エプロンしたままなんだよ、ご近所さんにあらぬ疑惑が持ち上がる可能性がある。
ご近所の噂という物は、噂に様々な物がついて最終的にはまったく別次元の話になる可能性がとても高いんだ!

以前時搭の噂で、最初は時搭が干し柿を作るというどうでも良いものだったのに対し。
最終的には、時搭が牡蠣を養殖して海外に横流しする計画があるというなんとも犯罪の匂いがきつい噂になっていたっけ

俺と先輩がどうなるのかはわからないけど、とりあえず俺はまだ務所暮らしはごめんです。

【仁科】
「クズ君」

【葛深】
「……遅かったか」

【仁科】
「お客さんだよ、なんでも今日約束してたんだって」

【葛深】
「約束?」

今日の約束? 俺先輩意外と何か約束なんかしたっけ?

【親父】
「や、重蔵君、今晩は」

先輩の後ろから顔を覗かせたのは先輩の親父さんだった。

【親父】
「将棋、相手がいなくて困っているんだろう、私でよければお相手仕るよ」

【葛深】
「わざわざ来てくれたんですか、ありがとうございます」

まさか今日話して今日来てくれるとは思っていなかった、先輩の親父さんだけあって行動派だな。

【仁科】
「それじゃあお父さんの分もお茶淹れてくるね」

【親父】
「八芽、すまないが今日はこれで席を外してくれるか、あいつ1人で店が回せるとはちょっと思えなくてね」

【仁科】
「え、もしかしてお父さん、お母さん1人に任せてきちゃったの?」

【親父】
「ああ、というわけでたまにはお前がサポートに回ってやってくれ、肉の勉強もかねてな」

【仁科】
「どうしてお店終ってないのに出てくるかな……クズ君の家に私が行くって知ってるくせに
じゃあクズ君今日はこれでごめんね、それからお父さん、今日だけだからね」

靴のつま先を床にコツコツと当て、靴を履き終えた先輩は最後に軽く手を振って家を後にした。

【葛深】
「良かったんですか、店ほっぽりだしてきちゃって?」

【親父】
「あれは嘘だよ、店は今日早終いしてね、ああでも云わないとあいつが帰ってくれないと思ってね」

【葛深】
「なるほど、そういうことだったんですか……どうぞ、お相手、お願いします」

【親父】
「仕りましょう」

……

パチン

【親父】
「それで、重蔵君……君は本当にそれで構わないのかい?」

パチン

【葛深】
「ええ、だけど最終的な決定権は俺には無いですから」

パチン

【親父】
「そうか、……重蔵君、一言だけ云っておくが、それほど思い通りには行かないものだよ。
もうそろそろ1年だというのに、いまだに基礎も覚え切れていないやつもいる……まぁ、あいつが特別悪いというのが原因だろうけどね」

パチン

【葛深】
「大変なのはわかっているつもりです、ですが……」

パチン

【親父】
「皆まで云う必要は無いよ、こう見えても私も一度は目指して止めてしまった人間だ。
難しさもしっていれば、ちょっとした面白みも知っている……ただ、酷く地味だがね」

パチン

【葛深】
「その地味さを楽しめるようになれば、俺でも大丈夫なんでしょうか?」

パチン

【親父】
「大丈夫だよ、なんせあいつが今の今までやれているくらいなんだから。
だけど、君ならすぐに追い抜けると思うよ、あいつの出来の悪さは少々規格外だからね……これで、王手だね」

パチン

【葛深】
「……恐れ入りました」

僅か32手、俺の王はどこにも逃げることが出来ず、完全に詰まれてしまっていた。

【親父】
「久しぶりとなるといささか勘も鈍るね、しかし、重蔵君の運びはとても斬新で先が読めないね」

【葛深】
「いえいえ、親父さんの舞台で踊らされっぱなしでしたよ」

【親父】
「さすがにキャリアの差、というやつだね、だけど、これから毎日のように指すようになれば
センスの良い君のことだ、すぐにでも私に追いつき追い越すと思うよ。
君が私を追い越すまで、まずはそれからだね……」

そう云う親父さんの口元が僅かに笑っていた。

【親父】
「これからも、よろしく頼むよ」

【葛深】
「…はい!」

親父さんが差し出した手を、俺は力強く握り返した。

……

雪が舞い降りる季節は駆け足で過ぎ去り、今はもう桜の花もちらほらと咲き始める春の日差しに変わっていた。
暦はもう3月、この数ヶ月間、自分でも驚くほどに最後の時間が過ぎ去っていくのは早かった。
3月といえば別れの季節、それはここも例外ではなく、今日は学園生活の総仕上げ、卒業式であった……

泣く者、笑う者、卒業式の主役である俺たちの顔は1人1人様々であった。
時搭はニヒルに笑い、縁は女友達と一緒に泣き、俺は……校長の話の間寝ていた。

式は滞りなく終わり、皆は別れる前の最後の交流をしていることだろう。
そんな中、俺と時搭と縁、件の3人は皆部室に集まっていた。

【時搭】
「さて、これで最後の集会も終わりだ、今までご苦労であった」

これでもうこの部屋も使わなくなるということで、皆で部屋の掃除を行っていた。

【縁】
「はぁ、結局サークルになれなかったね」

【時搭】
「仕方がなかろう、我々は若手の勧誘も行わなければ、ほぼゲリラ的に活動を行っていたんだ
君たちには伝えていなかったが、ここは同好会としてさえも認められてはいないのだよ」

【葛深】
「はぃ? どういうことだよ?」

【時搭】
「生徒会に進言していないのだよ、上から部費がどうのこうのと面倒な話をされるのは嫌いなのでね」

はは、なんだよそれ、よくそれで今の今まで3年間もやってこれたな。

【縁】
「あんたに会長任せたのは間違いだったわね……」

【時搭】
「はっはっは、まあ良いではないか、今日でその3年間のゲリラ活動も終わりなのだ
いつの日か我々の意思を継ぐ者が現れるまで、この会は封印だな」

荷造りしたダンボールをロッカーの奥深くに押し込み、これで活動していた時の面影は全てなくなってしまった。
何もない、まさに『幽霊部屋』と呼ばれていた時と同じになっていた。

【時搭】
「よし、こんなものだろう……今まで世話になった君たちにちょっとした餞別だ」

そういって時搭が渡したのは一冊の本、というにはちょっと薄めの小冊子だった。
このくらいの量だとライトノベルとか云うんだったかな?

【葛深】
「これは?」

【時搭】
「我々の最後の共同作品だ、折角最後なのだからただのプリントアウトでは味気なかろう」

【縁】
「おぉー、凝ってるぅ」

自費出版ってやつだな、カバーもちゃんとしてるし本屋に置いてあったも違和感の無い出来だぞ、これは。

【時搭】
「それでは、これで本当にこの会も終焉だな、僅か3年間だったが楽しませてもらったよ」

【縁】
「私も、楽しかったよ」

【葛深】
「俺はお前達に振り回されて疲れたよ……でもまぁ退屈ではなかったな」

3人揃って笑みがもれる、何だかんだで衝突もあったけど、3年間も一緒にいれば気心も知れてくるというものだ。
性格が全く違う3人だったけど、だからこそうまい具合にバランスが取れたのかもしれないな。

【時搭】
「機会があれば、いつか再会でもしたいものですね」

【縁】
「うん」

【葛深】
「あぁ」

俺たちは順々に握手を交わし、3年間世話になったこの部室と学園に別れを告げる。
これで俺の学生時代は終わり、3年間という長くもなく短くもない時代の1ページは静かに幕を下ろした。

……

卒業生で賑わう校門で時搭と別れ、俺は家へ、縁は仁科先輩と約束があるらしいので先輩の家に行くようだ。

【縁】
「ねえねえ重蔵、ちょっと前から気なってたんだけど良い?」

【葛深】
「好きとか云われても俺は何も云えないぞ?」

【縁】
「アホかあんたは!」

パコーン!

卒業証書入れで力いっぱい頭を叩かれた、とても良い音が一瞬だけ鳴り響く。

【葛深】
「いたた…冗談なのに」

【縁】
「最後の最後でくだらない冗談云わない、そうじゃなくてさ、重蔵はこれからどうするの?
年明け前からずっと悩んでたみたいだけど、進学か就職なのかって決まったの?」

【葛深】
「あぁ、その話か、まぁ一応はな」

【縁】
「え、そうなの? 何々、どうなったの」

【葛深】
「これからしばらくは勉強、かな……」

勉強という単語を聞いて縁の眼が少し大きくなった、なんだよそこまで驚くことかよ?

【縁】
「そう、なんだ……ふーん、良かったじゃん」

なんだか歯切れが悪い、俺何か変なこと云ったのかな?

【縁】
「それじゃあさあ、これからって……」

【仁科】
「クズく〜ん、縁ちゃーん」

先輩の店の前まで来ると、いつもと同じようにカウンター越しに手を振る先輩の姿があった。

【仁科】
「2人ともおめでと〜、お日様も出て絶好の卒業式日和だね」

【葛深】
「先輩の時は確か、風が吹いてましたね」

【仁科】
「そうだったよね、そのせいで女の子皆スカートの端ばっかり押さえちゃって、男子にサービスしすぎだったね」

そういえば去年の卒業式、先輩もスカートの端押さえてたっけ。
その際首に巻かれていたリボンが解けて風に飛ばされて、俺と先輩2人でわざわざ探しにまで行ったんだよな。

【葛深】
「縁は先輩と約束があるらしいけど俺は準備があるんでこれで、あ、先輩、今日は晩飯来てもらわなくても大丈夫ですから」

【仁科】
「え、えぇ? どうして?」

【葛深】
「色々と荷造りしないと間に合わないんですよ、それじゃあ失礼します」

いつもは先輩の仕草なんだけど、今日は俺が軽く手を振って小走りに駆け出した。

【仁科】
「荷造りって、あ、クズ君……」

【縁】
「先輩、ちょっと良いですか?」

……

ジリジリとやかましく時間を告げる目覚ましのてっぺんを軽く叩く。

【仁科】
「うぅーん……」

上体を起こして軽く眼をクシクシと擦る、ちょっとだけ目頭が熱くなってすぐに熱は消えた。
目覚めがとても悪い、いつも良いとは云えないけど、今日はいつも以上に悪い。

上体を起こすもそのまま布団から抜け出そうとはせず、ぼんやりと虚ろな瞳を漂わせていた。
5分ほどそうしていただろうか、ようやく私の頭も上手く働くようになり、もそもそと布団から抜け出した。

【仁科】
「凄い隈……」

鏡を見ると、目の下にとても健康的とはいえない黒っぽい膜が張っているみたいだった。
昨日はほとんど眠れなかったから、こうなるのも仕方が無いんだけどね……

【仁科】
「がんばろぉ……」

言葉にはとても力が無い、こんなのでこれから大丈夫なんだろうか?

いつもよりゆっくりと着替え、いつもよりもゆっくりと朝ご飯を食べ、いつもよりもゆっくりとお仕事を始めた。

【仁科】
「……」

お店の前で箒をかけていると、気が付くと手が止まっていた。
そして私の視線は空へ、自分の道をようやく見つけられた人へと想いを向けていた。

【仁科】
「クズ君……」

……

【仁科】
「そうなんだ、クズ君進路決まったんだ、良かったよー」

【縁】
「進学、みたいですよ、勉強がどうとか云ってましたから」

【仁科】
「そっかそっか、クズ君も決まったのなら教えてくれれば良かったのに、お姉さんいっぱいご褒美上げたのに」

【縁】
「ご褒美ですか、だけど良いんですか? もしかするとあいつ……」

【仁科】
「うん、わかってる……だけど、それがクズ君の決めたことなんだもの、仕方が無いよ」

……

口はそうは云うものの、私の頭の中は当然違う。

昨日縁ちゃんに教えてもらったこと、どうやらクズ君は進学して勉強を続けて行くらしいということ。
そして昨日クズ君の口から聞いた荷造りという言葉、きっとクズ君はこの街を出て行くんだ……、

決まったのなら教えてくれれば良かったのに、おめでとうって云ってあげたのに。
昨日だってそう、前々からわかってたら、頑張ってねぐらい云ってあげられたのに。

【仁科】
「黙って出て行くのは、ルール違反だよ…まだ云ってないことだっていっぱいあるのに」

出て行くなら一言くらい声をかけるのが普通だよ、それなのに、それなのにクズ君ってば……

【仁科】
「…………クズ君の莫迦」

ボソリと呟いてみた、どうせ誰も聞いていない、たまには愚痴の1つくらい云っても良いよね。

……そう思っていたのに。

【葛深】
「誰が莫迦ですか、誰が」

【仁科】
「え……」

……

【仁科】
「く、クズ君!」

先輩は俺の顔を確認すると、何故だか体を一歩を引いた。
あれ、俺嫌われてるのか? それとも今もっている箒でまた殴ろうとでもいうのだろうか?

【葛深】
「そうなんべんも叩かれませんよ」

【仁科】
「え、え? なんで、どうして、どうしてクズ君ここにいるの?」

【葛深】
「なんでって、仕事があるからですよ」

【仁科】
「お仕事、なんで? 進学してお勉強するんじゃないの、縁ちゃんが云ってたよ」

あいつまた余計なことを、しかも誤解しやがって。

【葛深】
「確かに勉強するとは云いましたけど、誰も進学するとは云ってませんよ?
って云うか先輩、もしかして何も聞いてないんですか?」

【仁科】
「聞いていない、何を?」

【親父】
「やあやあ重蔵君、お待たせお待たせ」

【葛深】
「親父さん、今日からお世話になります……先輩には何も云ってなかったんですか?」

【親父】
「まあね、そっちの方が驚きも増して面白いだろう?」

俺と親父さんのやりとりに、先輩はキョトンといった感じで会話に置いてかれていた。

【親父】
「八芽、今日から重蔵君は家で働くことになった、一応は先輩として色々と教えてやってくれ」

【仁科】
「は、え……?」

【葛深】
「よろしくお願いしますね、先輩」

【仁科】
「え、うぅんと、うん……………って、え、ええぇぇ!!」

頷いた後に随分と溜めてから驚いたな、だけど驚いたってことは全部理解出来たってことだろう。

【仁科】
「え、うそ、クズ君ここで働くの」

【葛深】
「そうなりますね、2月ほど前に親父さんに許可貰ったんだけど、聞いてなかったんですか?」

【仁科】
「私は何も……お父さん!!」

【親父】
「はっはっは、まあそういうことだわ、それじゃあ仕事があるから後はよろしく
あ、八芽は今日早めに切り上げて荷造りをしておけよ、今日からでも重蔵君の家で一緒に勉強するんだぞ」

【仁科】
「荷造りって、私が? それにクズ君の家って、え、え?」

またしても先輩が会話に置いていかれる、本当に何にも話していないんだな。

【葛深】
「ええとなんだ、なんか先輩はこれから俺の家で生活するみたいですよ
一緒に肉の勉強して早く一人前になってくれ、だそうです」

【仁科】
「それっとつまり、クズ君の家で同棲ってこと?」

【葛深】
「まぁ、そういうことになりますか……一応公認ですけど、先輩が嫌だったら別に大丈夫ですよ」

【仁科】
「……………わーい!」

箒を捨てて先輩は俺に抱きついた、いきなりのことで少し体が後ろに倒れたけど、すぐに体勢を立て直した。

【仁科】
「公認だよ公認、これからクズ君と一つ屋根の下だよ」

【葛深】
「そんな良いもんじゃないと思いますよ」

【仁科】
「今はそう思っても、すぐに良かったなって思うようになるよ」

俺に抱きついた先輩は本当に楽しそうな笑顔を見せていた。
先輩がどう思っているのかはわからないけど、俺はようやく自分のやりたいことを見つけることが出来た。

俺がやりたいこと、それは………

【仁科】
「クズ君、これからもどうぞよろしくね」

【葛深】
「……あぁ」

これからも幼馴染である先輩と過ごしていきたい、それだけなんだから……


FIN





〜 B A C K 〜

〜 T O P 〜